第2話 ♫ 梨(PEAR)の花とクラヴィコード-中央ハ音はみくまりの老木-

――暦を司る神さまを時神ときがみとしてあがめる人たちがいる。その使者として時を旅する者たちは暦人こよみびとやカレンダーガールと呼ばれている。その時間移動には太陽と月の光、そしてそれらを祀る場所に開く「時の扉」が使われる。いにしえより続く、限られた人たちだけが、その役目のために隠密行動で時を超える。そして彼らの原動力は、いつの時代も人の世のやさしさ――


二次会場


「さて織姫大神宮おりひめだいじんぐうにて挙式してきたご両人をお迎えして、友人の皆さまが中心のざっくばらんな二次会のスタートですよ」


 神代持彦しんだいもちひこがマイクヘッドフォンで会場を仕切っている。司会進行役である。晴れの日の今日のために、遠方の伊勢地方に住む彼は、時間の制約のある中で、司会の猛特訓をしてここに臨む。


 会場となった足利シティズンプラザのホールには、東京・浜松町のカフェ洋菓子店「モントル」特製のウェディングケーキがワゴンで運ばれる。この店は時空御厨の一つ、飯倉御厨いいくらのみくりやの講元宿を兼ねた店舗だ。二次会であるこの場所にお目見えのケーキ、すなわち本日二回目のウエディングケーキというわけだ。


 やがて舞台横の扉から新婚の二人、八雲半太郎やぐもはんたろう思川乙女おもいがわおとめのご両人が現れる。足利、梁田御厨やなだのみくりやの御師と栃木市の寒河さんかわ御厨の御師であり、幼なじみだった二人だ。

 二次会らしく二人とも洋装のライトフォーマルに着替えて、八雲はネクタイに紺ブレザー、乙女は薄紫のパーティドレスとレースのショール姿。その横で、嬉しそうに拍手している和服の女性。それを見て、夏夫と晴海は驚いた。


「あれ? ハルちゃん。乙女さんがいるのに、長慶子ちょうげいし時巫女ときみこがいるよ」


 夏夫の言葉に、

「ほんとだ! どういうこと?」と眉をひそめながら、合点のいかない光景に首を傾げた晴海。


 確かに花小袖とも、訪問着とも見える美しい花のデザインが描かれた淡い水色地の着物で、新婦の乙女の横に並んで記念写真なども撮っている。無邪気にVサインなどして。


 腕組みしてしかめ面の夏夫と晴海。


 合点のいかない二人の思い。それは、彼らの認識では、長慶子の時巫女と思川乙女は表裏一体、一心同体で、七変化を遂げる同一人物なのである。つまり長慶子の時巫女と乙女が分身して、互いに単体でいることはあり得ないという考えから来る。ウルトラセブンとモロボシ・ダン、仮面ライダーと本郷猛が一緒にいるようなものだ。


「何を想像しているんだ?」

 夏夫と晴海、二人の肩に手を置いて、背後中央から声を放つ夏見。

「あっ、夏見さん。乙女さんと時巫女が……」

 夏夫の言葉に頷く夏見。彼はこの件の真相を知っているようだ。

「うん。結婚を機に、長慶子の時巫女さん、乙女ちゃんへのヤドカリ状態は『お役御免』ってことだよ」


 そう言うと、「はい」と一枚の紙を二人に手渡す夏見。全てを把握しきった顔の夏見は、

「今回は大変だったよ。託宣解読」と苦笑いして、片手をかざすと、妻である栄華の横にある自分の席へと戻って行った。


 夏見の手渡したその紙は『こころあまねくPEARがあれば、ここぞの新たなPAIRが生まる』と印字された託宣らしき紙だった。PEARの上には赤ペンで「梨」と夏見の筆跡で書かれ、同じくPAIRの上には「夫婦」と書かれている。解釈の痕跡が窺える。


「この託宣、ダジャレ?」と晴海。あきれたような、不思議そうな顔である。

「たまにあるよ。韻を踏むというか、ダジャレというか……」と夏夫。

「文学の神様が降臨? 時神さまじゃないの?」

「まあ、まあ」

 いつもの晴海の宥め役、夏夫も未だ健在と言ったところだ。


 会場ホールの一画には疲労感の吹きだまりのような場所もあった。それがこの物語の中心メンバーの現在、なれの果てである。

 皆に祝福された二人を、少し離れたテーブルから、遠目で精根尽き果てた覇気の無い顔で見つめているのが、勘解由小路歌恋かげゆこうじかれん、三井みずほ、朱藤富久あかふじふくの三人だった。完全に疲れ切って、椅子にもたれたり、並べた椅子に横になったり、頭をたれて項垂れてたりしている。哀愁と言うよりも、へとへとになって疲労困憊というイメージだ。今回の功労者は、夏見と栄華というよりも、行動力を持つこの三人である。聞きしに勝る大活躍なのだ。


 ひとつ残念なのは、晴海と違って、この三人、当分お輿入れの予定が全くないことである。それどころか富久を除けば、歌恋もみずほも、恋のお相手すらいない有様だ。

「ほっとけ!」と項垂れる二人の負け惜しみが聞こえてきそうである。



数日前のオラクル


 では本筋、時計の針を戻して物語を始めよう。時は結婚式当日。まさに夕方から式という直前の午前中。慌ただしい時だ。早々とランチにもならない時間に新郎新婦の知人である暦人たちがとある飲食店に集まっている。

 場所は北関東の小江戸と呼ばれる古い蔵造りの町並みが残る栃木市。町のメインストリートである例幣使街道沿いの造り酒屋の販売店舗部分の片隅だ。


 栃木市から野木町にかけての巴波川から思川沿いの地域に位置する寒河御厨さんかわみくりや。その時空講元宿を兼ねている「うづま酒造食堂部」の店内。ここに暦人たちが顔を揃えているというわけだ。


 この店のオーナーは冒頭でご紹介した新婦、思川乙女だ。結婚を数時間後、間近に控えた彼女は、夫となる恋人、八雲半太郎と一緒に、テーブルに着席していた。披露宴式次第や会場整理などの打ち合わせをいつもの暦人仲間が皆総出で手伝っている最中だ。昨日から泊まりがけの大作業だ。


「よし一息しよう」と八雲。


「さって、マンガでも読もうかな?」

 食堂の書棚に並ぶマンガを一冊手に取る朱藤富久あかふじふく。彼女は三重県伊勢地方六ヶ所村、土の御厨御師の見習いである。そして暦人御師の「西の峰」と呼ばれる松阪の小宅家経営の時計工房の社長秘書をしている。


 相変わらず大きなリボンをして、不思議な貫頭衣かんとういファッションのままである。原始人? と疑いたくもなる見てくれだ。


「なんだ、キミトド世代か?」と三井みずほ。富久の手にしたマンガを見ての台詞だ。暦人きっての頭脳と判断力を有する、少々口の減らない二十代半ばをとっくに過ぎた女性だ。アップの髪に黒づくめのカフェ・スタイルのファッションはこの物語では、ほぼおなじみとなった。


 彼女の講元宿は榛谷御厨はんがやみくりや、横浜保土ケ谷にある「ワンダーランド」と称する喫茶店。


「うん、中高生の時クラスで流行った。おねえさんは?」

「アタイも風早かぜはやくん、好きだよ」と笑う。そして悪戯顔で夏見に、

「知らないだろう、おじさん!」と得意満面な笑みを浮かべた。

 明らかに流行の少女マンガなど知らなそうな夏見に、自らの若さのアピールをするようになった時点で既に、彼女自身もおばさんの入り口である。


 面倒そうに、小上がりで横になっている夏見は、

「オレのマンガは、紅緒べにおさんと竜崎麗華りゅうざきれいか、ラムちゃんで終わっている」と答える。

 そこに嬉しそうに栄華が加わり、

「私は白鳥麗子もだわ。お赤飯炊いても、ってね」と語りたそうだ。栄華の頭脳は、おおよそ五線譜と鍵盤と少女マンガで出来ている。


 そんな世代を超えたマンガ談義が始まりかけたとき、ふと、青砥美和あおとみわが、自前のノートPCを開帳すると何か挟まっていたことに気付く。葛西御厨御師、青砥一色あおといしきの妹である。

「何これ?」

 一枚のペラ紙。そこにプリンタのフォントで印字されている文章。


 つまみ上げてみれば、

『こころあまねくPEARがあれば、ここぞの新たなPAIRが生まる』とプリントされている。二次会の会場で夏見が夏夫に渡した託宣の紙である。


 栄華はいち早く美和のいる円卓に移動すると、彼女の横に座る。

「PEARは果物の梨で、PAIRは二組一対って感じの意味だわ。恋人や夫婦、靴下に狛犬、手袋なんかは皆PAIRね」

「うん」とベレー帽をただしながら美和は頷く。


 横に駆けつけた夏見は、

「そういうことは忘れないうちに書いておかないと」と言って、赤ペンで単語の意味をサラサラと書き記す。


「自分の家から入っていたのかしら?」と美和。


 彼女の家は京葉線沿い。旧江戸川の近く臨海公園の見える高層マンションだ。

「葛西のか?」と夏見。ゆっくりと起き上がる。

「そうだとすると御厨内の出来事なので、勝鹿かつしか(葛飾)郡の案件。……なので、多霧たぎりの時巫女が絡んでいる、ってことになるな」と八雲。


 新郎は結婚式を目前にも関わらず、この託宣に興味津々である。託宣馬鹿もいいところだ。

「ハム太郎は、こんな事にかまわず式と披露宴の準備に集中した方が良い。もう時間が無いぞ」と夏見。

「そうか……。」と言いかけて、一間置いた後、気付いたように、

「夏見君、僕の名前はそんなネズミのマンガと一緒ではない、コホン」と咳払いのおまけを付けて、いつも通りのお約束で訂正を入れた。


「キーワードは梨か」と栄華。

「この辺り、両毛線沿線はどこも梨の産地だ。なのでこの周辺と言うことも考えられる」と夏見。

「そうなの?」

 問い返す栄華に夏見は、

「もともとは大平下の葡萄が有名だったけど、その後、佐野や足利も含めて、桃や梨、柿も生産数が増加している」と説明。

「へえ」と納得する一同。


 二人の会話を余所に美和はPCの電源を入れる。するとメールの受信音がけたたましく鳴る。何通かの電子メールが次々に表示されていく。中から関係のありそうな用件を探す美和。


『Oracle』と書かれたタイトルのメールがある。美和はそのメールを開き不思議な顔をする。

「託宣のおかわりかしら? 不思議なメールが送られてきたわ。アドレスは多霧の時巫女さんなんだけど」と首を傾げて疑問視している。


 富久にも負けず劣らずの奇妙キテレツのファッションをする女性の美和。また相変わらずのベレー帽に枯れ草色のスカートである。富久に負けないくらい不思議な格好である。普段はミニFM放送局でパーソナリティの仕事をしながら、流山にある三輪神社のヴァーチャル・ゲートの使用方法の習得に日々精を出している。


「メールアドレスは?」と八雲。

「#tagiri21@tokimiko.jp、ってなっています」

 美和の言葉に夏見が応える。

「本当だ。多霧たぎりの時巫女からか。あのおばさん、なんで直接言ってこないんだ」

 不可解さを皆が感じた。


「分からない」と難しい顔の八雲。そして「とりあえず、メッセージの画像を見よう」と続ける。

「ええ」


 そう言って、サムネイル画像をクリックする美和。


 そのお披露目された貼付画像、一つの大きな箱形鍵盤楽器が写されていた。その上には桜に似た、やや大きな白い花が一つ置かれていた。


 本棚からテーブルに戻って、「オルガンかな?」と言うみずほ。


「あらぁ。でもふいごもないし、足踏みペタルも無いわよ、よく見て。開いてる天板と本体の隙間から張ってある弦が見えるわ。チェンバロのようにも見えるけど……。弦の位置だけ見ると日本のお琴みたい」とゆっくりの口調で、眉をひそめたのが勘解由小路歌恋かげゆこうじかれん


 サードシーズンでおなじみの、みずほの幼なじみである。カレンダーガール兼時魔女ときまじょだ。ゆるふわ縦巻き髪とロングスカート、今男の子に大人気のおっとりまったりおねえさん系の女性である。でもなぜかその美貌に反して、いつまでたってもお一人様だ。


「いいえ」と否定したのは、スタンダードな登場人物、現役のピアニスト夏見栄華、ステージネームは旧姓の角川かどかわのままだ。彼女は横浜の桜ヶ丘御師を夫の夏見粟斗なつみあわとと務めている。セミロングの栗毛のウエーブヘアに、最近はお気に入りのオレンジ色のワンピースを着ることが多い。


「これはクラヴィコードという中世ヨーロッパで流行った鍵盤楽器。改良を重ねながら、十八世紀頃まで使われていたわ。チェンバロは弦を引っかけて発音するけど、この楽器は鍵盤の奥にあるタンジェントっていう金属片が弦を叩いて発音するの。原理はピアノに近いわ。ただしピアノのハンマーほどの強力な物ではないからほとんど音は出ない。わずか数メートル離れただけで音は届かなくなる。演奏会向けの楽器ではないの。巷では進化という面で完成された楽器ではない、と言う人も多いのよ。でもJ・S・バッハといった著名な音楽家の何人かは好んでいた。原理や仕組みとしてはチェンバロとピアノの中間と位置づけている人も多いわ」


「さすが音大出だ。まともなこと言っているように聞こえる」とみずほ。

「OK、じゃあクラヴィコードということでいいです。花はとりあえず置いておきましょう」

 笑顔で真新しい耳学問に嬉しそうな朱藤富久がまとめる。富久は栄華が大好きだ。

 

「あっ、次が送られてきた」

「ピコン」という受信音がそれを知らせる。やはりタイトルには『Oracle2』と書かれている。

「これが添付画像」

 同じように美和は五線譜の添付書類の画像を見せる。上段にト音記号、下段にヘ音記号がついたおなじみピアノ譜でよく見る譜面だ。よく見れば、上段には下の欄外、下段は上の欄外に音階を教えるオタマジャクシが付いていた。


 それを見て、栄華と一緒に呟いたのが谷島屋春華やじまやはるかである。

「真ん中のド!」


 春華は笑いながら、

「お稽古で教わる最初の鍵盤目標。そして男性のファルセットを使わずに出せる最高音がこの辺の音と言われているわね」と説明を入れる。

 和服姿で、微笑みが柔らかな女性である。紬を着た彼女の和服は派手な物ではないが品がある。浜松に近い、磐田市で譜面専門の書店を営む。


 彼女の存在紹介で本日の登場人物は揃った。思川乙女、三井みずほ、勘解由小路歌恋、朱藤富久、青砥美和、谷島屋春華、そして夏見栄華の七人の女性である。


 ただしここで乙女は席を外すようだ。披露宴の主役は忙しい。

「ごめんなさい。私、今日は式場でのお衣装の打ちあわせで、この後足利に行かなくちゃいけないのよ。一旦ここで失礼するわ。皆さんでここ、店のホールは自由に使っていいわ。親戚の湊ちゃんが最後鍵を閉めてくれると言っているから、午後になったら来てくれることになっているわ」

 そう言って、前掛けを外すと奥の部屋へと去って行く。

「行ってらっしゃい」と皆が口を揃える。


 その他にやる気の無いエキストラもいる。先ほどチラリと会話に参加しかけた男。店の小上がりにゴロンと横になっている黒いジャケット、栄華の亭主である夏見粟斗。その横には古文書を読み込んでいる乙女の亭主になる男性、つまり新郎もいる。銀縁眼鏡の八雲半太郎だ。彼らは興味なさそうに、いや無関心なまま自分の世界に浸っていた。

「ちょっと粟斗さん! 沢山の託宣、メッセージよ」と体を椅子ごと彼の方に向けて、彼の肩を掴むと揺り動かす栄華。

「優秀なみずほがいるだろう」と反対側に寝返ってしまう粟斗。関わる気ゼロである。


「もう! 肝心なときに知らんぷりする、そのひねくれた性格はどうにかならないものかしらね」

 おなじみのオレンジ色のワンピースのスカートよれを直しながら、しかめっ面で向きを戻す彼女。

 同じように、洋装に着替えて戻ってきた乙女も一応、八雲に気を遣って、話しかける。正装に近い黒の上下に薄いピンクのブラウスだ。

「八雲さん。皆さんに協力しなくて良いんですか? 私、このまま式場に行ってしまいますけど……」


 八雲はページの端を栞代わりに折ると、一旦読むのをやめて顔を上げた。

「僕が口を挟むと、また変な道具出しかねないのでご遠慮します」

 己の役割を心得た台詞だ。

 男性二人は今回の件に興味が無いと受け取った彼女たちは解読作業に戻ることにした。女性パワー炸裂の日になりそうだ。


『ピコン』と再び着信音が鳴る。

「また来たの?」と怪訝な顔の栄華。流石にこう、何度も送られてくると少々うざい気分になるようだ。


 その少し辛口な栄華の言葉に答えたのは富久だ。美和のPCをのぞき込んで『Oracle3』というメールに目をやる。

「今度は『みくまり 雨の三叉路』とだけ書かれています」

 添付書類を開けてみると、大きなフォントが横書きで並ぶ。


「なにか歌謡曲のタイトルかしら?」

 栄華の言葉に、夏見が「ぶっ」と壁に向かって吹き出した。

 彼女は『ジロリ』と上目遣いにさげすんだ目線を夏見に向ける。既に何度も送られてくるメールのせいで、少々不機嫌さを臭わす栄華。夏見のこの態度はヤブヘビである。

「なんか、馬鹿にしてます?」と軽いご立腹の声色をあげた。


 罰悪そうに夏見は、

「ごめんなさい」とだけ言って黙ってしまう。『触らぬ神に祟りなし』と思ったに違いない。不機嫌なときの妻から、自分の身を守る能力には長けている彼だ。


 さらにPCの着信音が続く。

「何かしら? 今度は」と春華。「また!」といい加減全員が揃って声を上げた。

 美和からPCとマウスを任された春華は、彼女の座っていた椅子に座ると『Oracle4』というメールをクリックした。


「大和時代の銅剣のレプリカ。あとは本ね。万葉集の文庫本、なぜか『きぬ』と書かれた列車名の表示板がある特急電車の写っている表紙、東武鉄道の昔の時刻表。そして千葉県東京湾湾岸部の地図帳の三冊が写ってます」と富久。画面をのぞき込んで皆に伝える。


 どうやらこれが最後のメールとなった。暫く待ってみたが、その後はうんともすんとも言わない。一段落が付いたようだ。それにしても大きな託宣、メッセージが送られてきていることには違いない。

 


「うーん。整理しましょう」と栄華。いくつかの貼付画像を見ながら真剣である。

『梨と夫婦』、『クラヴィコード』、『真ん中のドの五線譜』、『みくまり 雨の三叉路』、『古典文学と時刻表、地図』というバラバラな託宣項目オラクル・パラメータである。関連性を探して結びつけるのは難航しそうだ。


 彼女のその言葉を聞いた夏見と八雲は目を合わせて、店の奥で『小上がり同盟』を結成したかのように不敵なえみを浮かべていた。どうやら託宣解釈のおおよその見当は付いているようだが、皆の邪魔をしないように沈黙を貫く。

 そして夏見と八雲は、互いに小声で、

「千葉県鎌ヶ台市」と答えのすりあわせをするように頷いていた。


 そんなことを露も知らない栄華は、その答えにまだ至っておらず、時刻表の出てきた時点で、トラベルミステリー小説を頭に浮かべていた。この時点でかなりの見当違いである。


 鎌ヶ台市の高台にある梨農園を持つ旧家、そこに眠るクラヴィコードの付喪神が、時神の命を受けて、彼らを待っていることは、また予想だにしていなかった。結婚式を目前に控えての『神の祝福』、これらは即ちそこで乙女と長慶子の時巫女が分離されるアイテムを手に入れるための暗示だった。



出発


 重ねての説明になるが、現在、彼らのいる場所は首都圏の外れである。栃木市、小山市、野木町の思川沿いにはかつて寒河御厨さんかわみくりやという御厨があり、その上流部には大神神社、通称『室の八島』と呼ばれる古社と国府跡が存在する。世が世なら政治の中心地だった場所である。


 その御厨のタイムゲートを守るのが思川家である。現在は先ほど外出した乙女がその重責を担っているが、彼女が婚姻を控えているため、又従姉妹にあたるみなとに引き継がれる予定である。先ほどのうづま酒造を引き継ぐ予定でも彼女である。彼女もまた思川乙女同様、美人女将として、ご近所のおじさんたちを虜にしてくれることだろう。


 本日は足利の織姫大神宮での八雲と乙女の挙式を前に、仲の良いメンバー同士での事前準備、と言ったところだのだが、そこに次々と時神、あるいは時巫女からの託宣が次々と届き始めて、結果的にこの場所での暦人の任務遂行という事態になったのであった。


「どうする?」

 ひそひそ話で八雲は夏見に耳打ちする。平静を装いながらも、託宣の進行具合を危惧する八雲。

「やらせておけば?」

 相変わらず、店内の畳敷き、小上がりに寝っ転がったままで、夏見は八雲に返す。

「手伝わないのか?」

 少し心配そうな表情の八雲。

「だって頼まれてないし、要求が無い限り、余計なことはしない主義でね」

 あくび混じりで返す夏見。

「君らしいな。それもそうだな」

 八雲も納得した。

 二人は当座のところお手並み拝見で、高みの見物という立場に身を置くようだ。


「とりあえず『真ん中のド』。これは置いておくとして、他のメッセージでこれは自信あるって、いう人いる?」と言う栄華の言葉に、

「アタイは『みくまり』って言葉に覚えがある」と返すみずほ。

「山歩きをしていると出くわす分水界の事だ」と加える。

「ぶんすいかい?」

「地上に降った雨がどっちの河川に流れるかという事を決める稜線のことだ。それによって河川流域の生態系も変わるし、古代の国は、その河川の分水界で国境を決めていた地域もある」


 密かに心中『いいぞ、みずほ』と応援する夏見、


「へえ」と頷く美和。その横で、「そうなの? 環境ライターさん」と夏見に確認する栄華。

 夏見はとってつけたように、

「そうそう。分水界のことをみくまりっていうね。漢字だと水分すいぶんって書くこともある。水を分ける場所だ」と頷く。


 栄華は安心した顔で、

「ありがとう」と頷く。

 そして「ここにある東京湾岸の地図は、なぜ千葉側だけなのかな?」と富久。

「千葉周辺の土地で、万葉集と銅剣に関係ある場所があるんじゃないかな?」とみずほ。

 富久は、

「そっか。さすがおねえさん!」とみずほを褒める。

 褒められることになれていないみずほは少し恥じらいを隠すように、俯きながら、

「まあね」と、はにかんだ。


 ふと見ると、むずむず感を隠せない八雲が、肩をふるわせている。

「夏見君、もう我慢できない、僕、教えても良いかな?」

 夏見はその様子がおかしかったようで、楽しそうに、

「どうぞどうぞ!」と掌を上に向けている。


『古典歴史馬鹿は、我慢の限界だったね』と夏見は独りごちるとほくそ笑んだ。

 職業病とでも言うべきか、歴史現象と詩歌の知識を正確に伝えたいという衝動に駆られた八雲のじれた姿が夏見には面白かった。

「研究者の性だねえ」と夏見は笑った。


「もう、どうして、君たちはそうなんだ。その剣は天叢雲剣あめのむらくものつるぎ、すなわち草薙剣くさなぎのつるぎで、日本武尊やまとたけるのみことをイメージさせている。横の万葉集は東歌の項目にある奈良時代の絶世の美女、『葛飾かつしかの農民姫、真間まま手児奈てごな』だって! 山部赤人やまべのあかひとたちが詠んだ歌じゃないか。万葉集の巻三・四三一には手児奈のことを出した歌がある」と、じれったさを隠せない口調で言う。


 相変わらず寝そべった体勢のまま、彼の横で夏見は再度ほくそ笑むと、「ぷっ、古典馬鹿」と軽く吹いた。


「古に ありけむ人の 倭文幡しつはた織りの 帯解き交へて 臥屋がや建て 妻問しけむ

 勝鹿かつしかの 真間まま手兒名てこなが 奥津城おきつきを こことは聞けど

 真木の葉や 茂みたるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも我は 忘ら えなくに」


 暗唱し始めた八雲に、皆が仰天した。

「昔いた人が 倭文機織しずはたおりの帯を解き合って、妻の屋敷で愛し合った かの有名な葛飾の真間の手児奈が眠る場所はここだったと聞く。でも真木の葉が生い茂って、松の根のように奥深く、遠い昔の出来事ではあるけど、名前だけは覚えてくよ、って内容だ」


 一気に解説した八雲。一同は唖然として、ぽかんと口を開けたままである。とりわけみずほは、降参という表情だ。


「やっぱり伊達じゃないわ。准教授だわ、流石ね」と春華。

「葛飾なら東京でしょう? 私の家は葛飾区」と美和。


 その言葉にきらりと眼鏡を光らせる八雲。

「古代の葛飾郡は現在の東京都、千葉県、埼玉県に分かれている。一般には江戸川を挟んで葛西と葛東に分かれる。葛西を武蔵葛飾、葛東を下総葛飾と言うんだ」

「そうなの?」

「国郡里制をしっかりと勉強しておかないと、この問題は対処できない」

「はい!」とみんな。ひとり相変わらずみずほだけが、面倒くさいと言う顔だ。


 なぜか造り酒屋の食堂が学問の場と化していた。その出前ゼミナールが馬鹿馬鹿しく見えて、夏見は陰に隠れながらも腹を抱えて大笑いである。そんな夏見の茶化しも分かるのだが、現実には八雲の古代史講義が暦人の知識に役立つのは確かである。


「みんな、馬鹿みたい」

 夏見は笑いながら、ピーナツをポンと上に放り投げて、口でキャッチしながら食べていた。


 その光景を見ていた富久が、講座中の輪の中から抜け出て、小上がりの方にやって来る。

 そして「夏見さんはいつも外側の人なんですね」と笑う。

 ピーナツをかみ砕きながら、

「必要とされたときだけ、一生懸命になれば良い。じゃないと、疲れちゃうでしょう。ハム太郎はただ古典と古代史に携わりたいだけだよ。個人的欲求に支配されたに過ぎない」と夏見らしい返しだ。

「なんかこっちはこっちで哲学者みたい」と笑う富久。

 富久は小上がりの端に、椅子代わりにして腰掛けた格好でいると、自然とそこに歌恋も加わる。


 富久の横に腰掛けながらの歌恋。

「ほーんと、ぐーたらな素振りをして人知れず、いつでもサポートには入れるように準備をしているんですねえ。用意周到、準備万端ですものねえ。素直じゃないお馬鹿さんねえ」と夏見を軽く罵る歌恋。薄めを開けて、蔑んだ表情だ。


 夏見は苦手意識のある歌恋に少したじろぎながら、

「歌恋ちゃんはいつもオレにだけ辛口だけど、何か恨みでもあるの?」と冗談めかす。いつものへらへら顔だ。


 すると縦巻きカールの髪をかき上げながら、

「ええ、沢山ありますよ。でもそちらに覚えがないんじゃ、仕方ないですよねえ」と爽やかな笑顔を夏見に向けた。その明るさと爽やかさはいっそうの恐怖感となり、夏見の背筋を凍えさせた。自分の両肩を抱きながらぶるぶると震え、ピーナツを食べる口が止まった。

『何者?』と夏見。心中で記憶を辿っている。


 ぴーんと張り詰めた緊張の糸。冷や汗よりも重い、相変わらず凍えるような戦慄が走る夏見。身の毛も弥立つ思いとはこのことである。

「オレに?」

 夏見の問いかけに、突然緩やかな顔に戻ると、

歌恋は「嫌ですね。冗談ですよ」と雰囲気ごと一蹴した。


 夏見は富久の耳元で、

「今の冗談に見えた?」と自信なさげに訊く。

 勿論富久の立場も微妙だ。過去に歌恋の笑顔の秘密を知ってしまった立場上、歌恋には同調するほか無い。

「あ、ええ。多分、冗談ですよ」

 冷や汗ものの返答で誤魔化す。富久にしてみれば、成り行きとは言え、歌恋にやっかいな情報を共有させられた感じだ。

 いつものように夏見に意地悪を完了した歌恋は、鼻歌交じりで、皆の元に戻っていった。もちろん可愛い意地悪と思っているのは歌恋本人だけである。


 結局、蓋を開ければ、テーブルの中央で八雲は、託宣解釈オラクルズ・インタープリテーションの陣頭指揮を執っていた。

 富久とその光景を見ながら、夏見は、

「ほんと古代史馬鹿」と軽く呟いた。

 富久もその光景を見て、頭を掻きながら、

「まあ、言いたいことは分かります」と微笑んでいた。

 その言葉に頷くと、

「じゃあ、そろそろ我々も加わりますか。託宣解釈に」と富久の肩を押す。

「はい」

 富久も嬉しそうな顔で、夏見について皆のテーブルに加わった。



   七割の解釈

「どこまで進んだ」

 テーブルに並んだPC画面をのぞき込んで、会話に加わる夏見。

「分水嶺と葛飾の奈良時代の民話、真ん中のド、クラヴィコードが繋がりません」と栄華が不安そうだ。

「まあ、ハム太郎は知識は十分にあるんだけど、深く入りしすぎる。もうちょっと浅めに攻めよう」と栄華に返す夏見。

「どうやって?」と八雲。真剣な眼差しの夏見に、『ハム太郎』と呼ばれた八雲はいつもの返答である『ねずみの漫画』の決め台詞を今は止めた。夏見の真剣モードを知っている旧友ならではの振る舞いだ。


「こいつは結構難攻不落だ。逆に言うと、この件は凄く大きな幸福や報酬がかかっているのかも知れない」

 託宣の難易度でおおよそ、その見返りや代償の大きさが計れる。

「クラヴィコードの真ん中のドを弾け、というメッセージ?」

 美和が言う。

「そんな簡単な連鎖性では収まらない解釈だと思うよ、おそらくね」と夏見。


 そして「そもそもクラヴィコードって楽器が、どこにあるのかも分からない」と続けた。


「そっか」

 美和は頷く。


「八雲、この剣は?」

「さっきも言ったけどおそらく天叢雲剣。まあヤマトタケルが火の粉を払った時点で、草薙剣と名称を変えるんだけどね」

「そうだったね」と頷く夏見。

 そして「すると熱田神宮、八岐大蛇、スサノオノミコト、ヤマトタケルノミコト、三種の神器といったところが鍵言葉、鍵概念、あるいはヒントになるね」


「ああ」という八雲に対して、残りの皆は「何で?」と首を傾げた。相変わらず夏見と八雲の二人だけの共有事項のままだ。


「天叢雲剣は、後に草薙剣と呼ぶ。スサノオノミコトが櫛稲田姫を助けて八岐大蛇を退治したしっぽから出てきた剣だ。そしてそれは熱田神宮のご神体である。ヤマトタケルの遠征でも活躍した名剣なんだ」と再度丁寧な説明を入れる八雲。

「へえ」と皆。


「これらのパラメーターで葛飾に関係するのは、東方遠征のヤマトタケルノミコト、東京の皇居、あとは御霊分けをされた地元の八坂神社かな?」とパラメーターをふるいに掛けた解釈で、考察を続ける夏見。


「ヤマトタケルノミコトが鍵かな?」と八雲。

「オレもそう思う」

「何か見当がありそうな顔だな」と長年のつきあいで八雲は夏見に問いかける。

「船橋の地名を入れれば、この一枚の被写体はすべて繋がる」

 結構自信ありげな夏見だ。

「ほう、どんな? 船橋は、もともとお前さんのゆかりの地のひとつだ。僕より詳しかろう」と八雲。

「聞きたいようだね」

「勿論」

 大きく頷く八雲に向かって、夏見は話し始めた。皆は固唾を飲んで見守る。


「簡単な方から説明を入れると、船橋の地名は一説に、海老川という川を渡る際に、ヤマトタケルノミコトが小舟を浮かべて、浮き橋を作り、そこを渡ったという話が伝わる。由来の一つだ。そしてその上流域に真間という地名も残る。さっきの歌にある真間の手児奈の真間だ。手児奈自体は固有名詞のように歌では扱われているが、元来一般名詞でもあり、主に機織り娘を指す名詞のことだ。足利のお蚕文化とも繋がるね」

「うん」

「諸説あるが、手児奈は勝鹿の国造の娘とも言われ、美貌の持ち主だ。和歌の中にも既に二通りの物語が推測できて、一つは今の歌のように幸せに暮らしたという説。もう一つは実家の国府と嫁ぎ先の争いで、真間に出戻って、言い寄る数多くの男性たちに愛想尽きて自ら入水してしまったという悲恋物語も残っている。前者は山部赤人、後者は高橋連虫麿たかはしのむしまろの歌として伝わる。この伝説は真間川という江戸川・大柏川水系のお話だ。最後に時刻表の写真。鬼怒川温泉行きの昔のDRC(デラックス・ロマンスカー)特急列車『きぬ』は、この地域を走る東武野田線には入ってこなかった筈。なので単純に鬼怒川という川がキーワードと見て差し支えない。かつてのシルクと書いていた頃の絹川だ。ここまで言えば、八雲なら分かるだろう」


 大きく頷くと八雲は自信ありげに解釈の続きを受け継いだ。

「赤堀川掘削以前の律令時代から続いた水系だね。利根川と渡良瀬川が東京湾に注ぎ、鬼怒川が霞の海を経て銚子に注いでいた本来の水系にまつわる区分け。つまり分水界、みずほちゃんの言う『みくまり』にも繋がるか」

「正解。そして境目を表す鍵盤は地点や町を表す。男性声域の境目、『真ん中のド』の役割の分水界に見立てている町を意味する。すると残りのメッセージにも繋がってくる」


「流石だな、夏見。相変わらず素晴らしい解釈論、推理力だ」

「お褒めにあずかり光栄だね」

 横で自分の両頬を押さえながら、

「もう私の旦那様、素敵!」と栄華。

 あきれ顔のみずほは、

「けっ、馬鹿夫婦」と悪態をつく。

 意外にもおっとり、まったりおねえさんの歌恋も復唱して、

「馬鹿夫婦」と続ける。たまにゆるふわ路線から脱線して、いけずな面を見せる歌恋の態度は意味深だ。そして理由は分からないままで、必要以上におかしな悪意を感じている夏見。


「それが鎌ケ台市だな」と八雲。あっさりと答えを出す。

「うん。正解。古代水系の分水嶺である『中央ハ音』の町が鎌ヶ台市で間違いない。さっきの小上がりで寝そべって二人で出した結論だね。江戸川の旧名である太日川ふといがわ水系、東京湾方面の海老川水系、旧絹川きぬがわ水系だった手賀沼てがぬま、霞の海方面の三方向に雨水が流れる出す町だ。分水界の境界跡も残る町、鎌ヶ台」


「行くか?」と八雲。

「行かないと梨の実とクラヴィコードの意味が分からないだろう。まだ七割程度の解釈だ」

 夏見の言葉に、

「千葉の船橋や鎌ヶ台のあたりは梨の産地だな」と頷く八雲。


 ふと思い出したように夏見は話の途中で気付く。

「ただな、オレはかまわんのだが、お前さん、新郎だろう。こんなことしている場合か?」と心配する夏見。


「いや、僕を呼んでいる気がするんだ」


 八雲の真剣な眼差しに、

「なら好きにすれば良い」と託す夏見。


 そして乗り気の八雲に続き、夏見は自分の荷物を手にして、栃木駅へと向かう準備に入っていた。

「今回は私は栃木に残るわね。留守番がいないと、このお店も大変でしょうから」と春華は場所移動の辞退を申し出た。

 すると美和も、

「私も室の八島とタイムゲートの習得があるからここに残るわ。連絡係も必要でしょうから。それにまた地元葛飾に戻っても仕方ないし」と続く。

「了解、じゃあオレたちで託宣を解いてくるよ」

 夏見は偏光グラスをポケットから出して頷いた。



   鎌ヶ台

新興住宅地で、JR線と東武線が交差する町、鎌が台。駅を降りて町を中を歩くとすぐに出くわす公園。桜の名所である鎌ヶ台貝塚公園。

 皆がその公園にさしかかった辺りだった。公園の入り口のところで、小柄で褐色の薄手のセーター、黒地に白のストライブの入ったプリーツスカートの女性が、彼らを待ち受けるように待っていた。そのデザインは、大昔の白黒が逆転した時代の鍵盤楽器のキー配列の色のようだ。

付喪神つくもがみだね」

 夏見の言葉に、

「ああ」と頷く八雲。二人はすぐに見抜く。


 彼女は軽い会釈をすると、夏見たちを待っていたかのように微笑んだ。

「お待ちしていました。儀式へようこそ。私は梨花りかといいます」

「皆にメールを送ってくれたのは、君ですか?」

 八雲の問いかけに、

「時神さまに替わって、時巫女さんのアドレスをお借りしてお送りしました。もう私が付喪神であることはお見通しのようですね」と答える付喪神。そして「なら説明は無用。ご主人さまがお待ちです。どうぞこちらへ」と一行を案内して、先頭に立った。

 辺りは緑の覆われた梨園である。

「この辺りから船橋にかけては、梨農家が多いよな」と夏見。



 果樹園の生け垣にそって半周ほどすると、五十代後半の女性が付喪神を待ち受けるように門扉の前に立っていた。その表札には『印旛いんば』と書かれていた。

「今回はお呼びだてして済みません」

 女性は一行が物言う前に詫びを入れた。彼女が言葉を発すると、あの付喪神は姿を消した。


「初めまして」と八雲。

「初めまして、私はもと思川家の人間で、印旛家に嫁いだ印旛霞いんばかすみと申します」

 頭を深々と下げる霞に、今回の思惑が少しだけ見え始めた夏見。

「直接面識のない皆様がたにここに来ていただくには、こういった時神さまの託宣を使わせていただくしかありませんでした。時巫女に相談したところ、事態が事態なのでということでご了承いただけたようです」と続ける霞。


「印旛家」と声を揃える夏見と八雲。

「ご存じですか?」

 夏見はニヤリと八雲を見て、「お前さんが言えば? 新郎さん」と譲る。少々後ずさりも始める夏見。相変わらずやっかい事には鼻のきく夏見だ。

「あなたが……」と八雲を見て、一旦言葉を留める霞。なにか含むものがある様子だ。


「印旛家と言えば、相馬御厨そうまのみくりやの御師の家系。……ですよね」

「はい。やはりご存じでしたか」と頷く霞。

「相馬御厨って?」と栄華は夏見の腕を肘で突く。

「相馬郡のほとんどが御厨だった東国最大の伊勢神宮の御厨。それにもまして、時空御師の役職において、印旛家と香澄流かすみながれ家の両家がそのタイムゲートと領有を主張して真っ向から対立している御厨だ。時巫女や時の勘解由使たちも頭を痛めている時空御厨。暦人御師後継者の未解決問題を抱えて時空世界で未だ解決しない悩み種の一つなんだ」


 小声でそっと栄華に伝える夏見。首を突っ込みたくないという夏見のいつもの性分が既に体に表れている。一歩また一歩と後ずさりを始めている。

『もう、さっきの格好良さはどこに行ったのかしら?』

 あごを拳で支える姿勢で、クスリと笑う栄華。彼女は夏見のこういう情けないところも結構気に入っている。たで食う虫も何とかだ。


「本日お呼びだてしたのは、長慶子の時巫女と乙女ちゃんを分離させるための儀式とアイテムを差し上げるためです。それらの伝承事項も含めて。だから相馬御厨の時空御師問題とは無関係なのでご安心ください。特に夏見さん」

 眺めるように首を出して、後ずさりで後方に姿を隠した夏見を見つける霞。既に夏見の本心を見抜いていた。

 頭を掻きながら、「ははは」と誤魔化す夏見。


「夏見さんはお忘れのようだけど、あなたが船橋の時空御師を務められていた時代に何度もお会いしているんですよ」と笑う霞。


 さて全く覚えの無い夏見。頭をひねる。

「いつ?」

「まだ船橋に南部百貨店があった頃に、そこのレコード店のパートレジ係で」と笑う霞。


 暫く間を置いて、記憶が繋がった夏見は、

「ああ、レコード屋にいた洋楽に詳しいおねえさん!」と驚く。行きつけのレコード屋の店員だ。

「はい」

 霞は改めて深くお辞儀をした。


 霞は皆を家の離れへと案内する。梨の白い花がここかしこに咲き乱れている。品種によっては、既に梨が実っているものもある。

「これ添付画像の写真にあった花ですね」と富久。

「桜の花を大きくしたような花なのね」と歌恋。

「ほんとだ。意外に綺麗な花で、乙女チックだ」とみずほ。


「似合わない言葉言うな!」と口にするやいなや、みずほにすぐさま雑誌で頭を軽く叩かれる夏見。

「一言余計だ。アタイは花も恥じらう乙女だ! ピッタリな表現だ」


 門扉と小屋が一体化したトンネルのような農家特有の離れの建物が奥にもう一棟あり、その左右にそれぞれ部屋が設けてある。コの字型を縦にした作りなので、二階で両者は繋がっている。その右側の部屋に霞が入る。

 そこにはピカピカに磨かれたあの楽器が置かれている。

「クラヴィコード!」と春華の声。

「ついにお出ましだ」と八雲。



 そこには写真にあったクラヴィコードの実物がある。その配色で夏見は、

「さっきの案内役の女性はこれの付喪神?」と問いかける。着ていた服装の配色そのものだ。

「はい。彼女はこのクラヴィコードの付喪神で、梨花りかと言います。梨の花と書きます。私がこの家に嫁いだのも、彼女の導きからです」

「なるほど」と八雲。

「そして今日来ていただきたかった一番の本人は、八雲さん、あなたです。あともうひとり、栄華さんもです」と名指しされる二人。

「お二人には、伝承のため、後世のために今日の日のことをしっかりと覚えて置いてほしいのです」


 離れの窓からは、大きな梨の大木が見える。その木に夏見はなぜか時間の流れを感じていた。暦人を長くやっていると分かる感覚だ。霞の話の途中ではあったが、彼は皆から離れて建物を出て窓から見えた大木の方へと回る。


 木の根元周りは五メートル以上はある。その両脇にはかなり古い時代のものと思われる、二体の神像が刻まれた石が置かれている。お雛様のような装束で彫られた石像だ。

「道祖神か。塞神さいのかみであり、猿田彦とアメノウズメの分身とも言う」と独りごちる夏見。


 そして大木の根元には境界線を示す石で出来た目印の杭が打ち込んである。通常は街道に置かれる道中の道しるべとして使うような直方体の石である。

『これより 右 江戸海えどのうみ海老川 左 渡良瀬太日川 後ろ 絹川香澄流海かすみながれのうみ』と刻まれている。


「みくまりの目印塚に植えられた大木。『中央ハ音』だな……」

 夏見は納得したように、一人呟いて頷く。ただじっと、しばらくその姿を眺めていた。


 するといつの間にか隣に並ぶように梨花がいた。

「お気づきなのですね」

「この木は何の木?」

「梨の老木です」

「梨」

「『水分みくまりの梨』と呼ばれています」

「どういうこと?」

「分水界に生えるこの梨の果実を食べると、時巫女と思川家の女性を分離させることが出来るのです」

「なるほど、そういう仕掛けになっているのか」

「ですから長慶子の時巫女さんが現在憑依している乙女さんの肉体から分離させるアミュレットの類いです」


「結婚するということで、彼女の体内にいられなくなるからか」

「はい」

「そして新たな憑依先へと導くと言うことね」

「はい。代々思川家はそうして時空御師の家を継承してきました」

「だからあの家はいつも時空御師が女性なんだね」

「はい。例外もありますが、長慶子さんが憑依している方を時空御師にすることを、時の勘解由使も承諾しています」

「逆に憑依先は思川家の女性なら誰でも良いのかい?」

「いえ、楽器または機織り機が操れる女性が条件になります。なので今回は湊さんが選ばれました。これから二十年ほどは、湊さまと同居してお過ごしになると思います」

「なるほど」


 幼少期の乙女を知っている夏見は不思議な気持ちで聞いていた。

「それで湊さんはすでに憑依した長慶子の時巫女を迎え入れを承諾したのかい?」

「はい。今十六歳になったところで、ちょうど頃合いもよく」と梨花は微笑む。

「そうか、じゃああとは分離だけか」

 腕組みをして感無量の気分に浸る夏見。


「お邪魔しても良いかしら?」と声がする。

 霞が夏見たちの背後から声をかける。

 振り返ると、他の皆も部屋を後にして、出てきたようだ。みくまりの老木に目線を向けていた。

「その昔、太日川は渡良瀬川でした。渡良瀬川の支流であった思川を遡れば、寒河御厨や室の八島へと行くことが出来ました。河道の変更がなされた十七世紀以前の話です」

「利根川が荒川などと合流していた時代の話ですね」

「はい」

 霞は頷いた後も続ける。


「その頃は果物の輸送にも便利だったでしょうね」

 彼女は『ぽきっ』と梨を一つもいで、タオルで丁寧に拭く。続くように歌恋とみずほも梨をもいだ。


「江戸期以前の大昔は機織り機の音、その後和琴で奏でて聴かせていた時代もあると聴きますが、明治以後、今はあの離れのクラヴィコードを使って聴かせます」

「今日はありがたいことに、暦人御師の中でも著名なピアニストさんがいらっしゃっているので、お願いできますか?」と微笑む霞。

 その笑顔に応じるように、栄華は、「勿論、OKですよ」と頷く。そして「ただあの鍵盤楽器は独特のタッチと鍵盤数の少なさから、弾くことが出来る曲目は限られますね」と加えた。

「唱歌や童謡のような素朴な曲を、中央ハ音付近で弾いていただけると助かります。この梨を祭壇にセットした後、一回だけの演奏で結構です」

「はい」

「今回はこの家に私が嫁いでいたので、クラヴィコードとみくまりの梨を同時に入手出来ましたが、二十年後の次回は、この梨をここから持って行って、足利の乙女ちゃんのところで誰かが弾かないといけません。これだけの人数がいるので、誰かしらが覚えていてくれることと思います。ちょうど伊勢神宮の式年遷宮と同じ二〇年です。覚えていてくださいね。今日の日のこと。湊ちゃんは今、十六歳。三十六歳の婚礼の時期まで、この儀式を記憶にとどめて、この梨の実とクラヴィコードをセットで覚えておいてほしいのです」


 そして彼女は一息ついてから、

「この梨に音楽を聴かせてから、大宮の氷川神社の手水舎の水で洗ってきてほしいのです」と言う。

「大宮? さいたま市の?」

「はい」

「野田線の両端の終点駅じゃん。どんな乗り鉄だよ」と畏まるみずほ。


「これは元気なキミトド世代の君たちしかいないね。オレはもうおじさんだから」と笑う夏見。さっきおじさん扱いした軽いお返しである。

「栃木から千葉に来て、埼玉って、ほぼ関東半周しているわ」

 富久も少々扱いの雑な自分の立場に気付き、をあげつつある。

大國主おおくにぬしからの祝言、祝福もこの果実には必要なのです」

「分かった。じゃあ、あたいたちががんばるから、早々に音の奏儀終わらせてしまおう」とみずほ。

「はい」

 霞と梨花、みずほは笑顔で、もいだ梨の実を三つ持って、さっきの離れの建物に皆とともに戻った。



 クラヴィコードの前にはなぜか神棚。それも剣が飾ってある。

「これって?」

「我が家に代々伝わる天叢雲剣のレプリカです」

「レプリカ?」

「言い伝えでは、ヤマトタケルノミコトが東国遠征に来た際に、船橋から宿を求めてさまよい歩き、この地に辿り着いたといいます。一宿の恩義から自身の剣に似たものをこの付近の村の鍛冶屋に作らせて、そこに霊異を込めたといいます。人の縁や災いも断ち切ることから、みくまりのつるぎと我が家では呼んでおります」

「なるほど。それで表裏一体、憑依した乙女と長慶子の時巫女を分かつ霊威を音楽とともに宿すというわけだ」


 八雲は感心しながら、霞の話に頷く。


「そうです。そこで完成ではなく、この別離わかれは、祝言というおめでたいお話ゆえの縁起物であることを、時神に奏するために、妙なる音楽と大社格の出雲系神社、氷川宮のメッセージが必要となります。なのでこの手順が必要なのです。氷川宮が大社格になる前は三島や香取、鹿島の方にいっていたと聞きますが、その時はまたやり方が違ったと言うことです。きっと祭神によって儀式の内容も変わるのでしょうね。でも私が知っているのは氷川宮のやり方だけです」


「なるほどね」と八雲。


「今日の五時からの式、それに間に合わすためには、儀式が午後二時までには終わらせないと、四時前に大宮の氷川さんに行かねばなりません。そのまま足利にいかれるのでしたら、そのまま久喜乗り換えが良いかと思いますが……」


 霞の言葉に「いや、今日は一旦栃木市に帰らねばならない。車も置いてあるし……」と八雲。


「すると経由地は小山か、栗橋、あるいは春日部ですね」

「春日部かな」と笑う八雲。


 会話をしながらも、霞は大きな梨の実を二つ、神棚とクラヴィコードの間に置かれた机上にある神器、お三方さんぽうへと載せる。梨は既に、霞の手によって水引の付いたのし紙に包まれていた。そしてその前には三嶋大社のキンモクセイの花も枝ごと置かれている。ちょうど秋の花期だ。



 栄華は霞の目線で、自分の出番だと悟る。四オクターブの鍵盤に似合う妙なる調べ。暗譜しているものの中で、ミスタッチのない完全に近いものを、あるいは即興でアドリブの効くものを考えた。


 その結果栄華は『他郷の月』を弾き始めた。いわゆる『冬の星座』と同じメロディで、かつての文部省唱歌曲である。

「『他郷の月』とはなんとマッチした選曲でしょう。飯倉御厨いいくらのみくりやのもと御師の資質が窺えるグッドチョイスですね」と霞は、栄華に託した演奏に満足する。

 やがて曲のクライマックスとともに、二つの梨が七色に輝き始める。何かを宿すように。

 そして演奏の終了とともに、その光は収まった。


 霞はこんどはみずほの方を見る。

「アタイたちの出番なんだね」

「お願いできますか?」

 霞の言葉に、「アタボーよ、ここでやらなきゃ、榛谷はんがや御厨御師の名が廃るってもんよ」と腕まくりを始めた。そしてチラリと自分の腕時計を見る。

「午後一時半か。微妙だな」


「野田線で、一時間半。東京周りでも同じ時間なら、コース選択の自由がきく、東京周りでいってみるか!」とみずほ。

「あたし千葉の方に来たことないので、おねえさんに付いていきます」と富久。

「まあ、わたしもつきあうのなら私の箒で……」と言いかけた歌恋に、

「あほか! こんな大都会の上空を箒で真っ昼間に空飛んだら大変なことになるだろう。それぐらい気付けよ。時魔女の学校で習ってないのか?」


 みずほの言葉に「あらあ、そうだったわ。習ったと思う。忘れてた」と歌恋の脳天気なお天気思考回路のスロットルが全開である。

『こいつ、わざとなのか?』とみずほ。うさんくさそうに歌恋を凝視する。


 梨を二つを鷲掴みにすると、みずほはそれを自分のリュックに入れた。歌恋もこっそりと残りのひとつを自分の鞄に入れる。


「まあ、みずほちゃん、胸に入れると思ったのに、違うのね」

 惚けるような歌恋の言葉に、丸めた新聞紙を頭上に振りかざし、構える。

「まるでアタイの胸が貧素だって言いたいみたいだな?」

 怒りに満ちた目で歌恋に言うみずほ。


「みずほちゃん。急がないと、もう三時間を切っているのよ。急いで!」

 誤魔化すように歌恋は自分の荷物を肩にかけると、玄関を出て行く。いつもの勝手に切り替える歌恋のマイペースさは健在である。置いてけぼりもみずほは勿論ストレスがたまる。

「お前、こんど十二時間の説教してやるからな」

 

「僕はどうしたらいい?」と八雲。

「先回りして、小山まで車を回しておいてくれ。そうすれば、最悪新幹線を使ってでも、間に合わせるから。後の段取りで、栃木にも足利にも出られる」

 そう言って歌恋に続くみずほ。その後ろをただ付いていく富久。

 慌ただしく三人はその場を後にした。


 残った栄華と夏見、八雲は霞とともに彼らを門扉の前で見送った。 


東京駅

「そっか、総武線快速って、地下ホームなんだ」

 当たり前の事のようだが、普段乗り慣れていない路線の知識などおおよそこんなもんである。

 みずほの言葉に、歌恋が返す。

「地上に出て、東海道線のホーム、上野東京ラインに乗り換えね」

 未来都市のように続く、長い長いエスカレーターを階段のように歩いている三人。そのまま乗っていたのでは、間に合わないと踏んだので必死だ。

 するといつの間にかもう一人列に加わっている人影があることに皆が気付く。

「梨花さん?」と富久。

「はい」と笑顔で返事する。

「いつの間に?」

 みずほの言葉に、ずっとさっきからいましたが、姿を消していました。付喪神は必要なときだけ姿を表すことが多い。

「どうしたんですか?」

 歌恋の言葉に、

「皆さんより先回りして、特急券を三枚、購入しておきました」と自由席特急券と書かれた新幹線の東京・大宮間の切符を差し出す。

「まあ、いいの?」

「もちろん。霞さんからサポートを言いつかっています。また何かの折には、姿を出しますね」

 そう言って切符を手渡すとまた姿を消した。

「ありがたい。これで十分は短縮できそうだ」

 みずほは安堵しながら、地上ホームの東北上越新幹線ホームへと向かった。


おおいなる宮居

 大宮駅に着いたのは午後三時頃だった。

 高架ホームである新幹線のホームを階段で駆け下りる三人。

「氷川宮ってどっちだ?」

 みずほの言葉に、

「東口よ。この辺は定期的にクレープを売りに売りに来るから覚えているわ。距離はあるけど、線路と平行した形でケヤキの参道があるの。それが正式な参道なんだけど、駅を中心とした今の参道は、東口からアメニティロードになって『一宮通り』という通りがあるわ。その道を行けば、お宮さんのある高鼻町に最短で着くわ」と返す歌恋。

「お前も役に立つじゃんか」と憎まれ口のみずほに笑う歌恋。

 カラフルに舗装されたアスファルトの道を歩くさんには、町の時計をチラリと気にしながら大きな交差点にさしかかる。横には公立図書館、前には郵便局。そしてなによりケヤキ並木の広い参道が重なる五叉路である。

「ここの郵便局は持っているわよ」と歌恋。

「ゲートか?」

「ええ」

「でもここ神明系ではないぞ」

「ここは特別なの。新しいゲートでね、新しい御師がいるわ」

「夏見みたいだな」

「ええ、ちょうど同じ時期に新設された御師よ」

「なるほど」

「これだけ歴史と規模を誇るお宮さんに御師がいないのは変だわ。東遊びの舞楽を催して、幣帛を贈られる、しかも祭礼の際に明治天皇が自ら陣頭指揮をお執りになった由緒正しきお社。明治神宮造営に多大な協力をしたお宮さんなの」

「なるほど、勘解由小路家はそういうのよく知っているよな」

「まあね。でも母がたのカレンダーガールを継いだ私にはあまり使わない知識になったけど」と笑う歌恋。

 指をくわえてなにも言えない富久は「お姉さんも、歌恋さんもすごいですね」と自分の知識のなさを痛感する。

「やっていくうちに、身についていくものよ」と歌恋。

「そうだ」と頷くみずほ。

「あ、お団子売っている」

 そんな二人の慰めを余所に、ケヤキ並木の参道の隙間に幟旗を見つける富久。こういうものにだけは目敏い。

「時間が合ったらな」とみずほ。

「はい」

「まずはお参りして、その後に手水舎の水で梨を洗わせていただこう」

 一行は鳥居を潜り、玉砂利を両脇に見ながら、朱塗りの橋を渡る。すると手水舎の向こうに立派な朱塗りの門扉が見えてきた。

「八坂神社みたいですね」と富久。

「うん」

 みずほたちは手と口を清めると、まずはお参りを試みる。

 きびすを返し、皆は門を出て手水舎に戻る。

 みずほは例の梨をトートバッグから取り出すと、柄杓で水をかけて洗い流す。水を梨にかける度に、梨は蛍光色の美しい紫色に光る。皆に目立たないように、手水舎の反対側に回って、やはりこっそりと歌恋も梨を洗いすぐに鞄にしまう。


「もうそれぐらいでいいわよ。みずほちゃん」と付喪神の梨花の声がする。彼女は各地の神社を同期させる媒体として声を送ることができるようだ。


 みずほと歌恋は顔を見合わせると頷く。

「行こう!」

 時計を見れば、もう三時半を回った。駅について四時は回る。

「長慶子の時巫女の時巫女を内在させたまま、祝言を挙げさせるわけにはいかない」

 みずほの使命感に満ちた言葉に歌恋も真面目な顔で再度頷く。

「行きましょう」

 そして思い出したように、

「富久ちゃん、お団子は今度私が大宮に来たときに、買っていってあげるから今日は我慢してね」と笑う。

「はい」

 後ろ髪を引かれる思いもありながら、優先されるは乙女の幸せ。お団子への断腸の思いで断ち切る富久。三人は足早に来た道を大宮駅へと戻っていった。



タイムリミットとテイクオフ

 四時を回った頃に大宮駅の中央コンコース入口階段に着く。新幹線改札は西口。東口広場にいる彼女らから見れば、巨大な大宮駅の構造上、その場所は遙か彼方だ。若者とは言え、三人とも相当な距離を早足で歩き続けている。結構な疲労感が皆を襲う。

「ちょうど良い新幹線があっても、間に合うかな……」

「式のスケジュール覚えている?」と歌恋がみずほに訊く。

「四時半スタート」

「無理ね。次の小山に止まる新幹線は、十六時三十七分大宮発、十六時五十七分小山着。そこから乗り換えて両毛線で足利よ。どう考えても間に合わないわ」と嘆く歌恋。

「なんとかトラベルミステリー作家さんの知恵を借りて、時刻表マジックが出来ないだろうか?」

 みずほらしからぬ、弱気な発言だ。

「そこまで私たちに都合良く電車のダイヤグラムは組まれていないわ」と鼻で笑う歌恋。

「笑ってないで、お前も考えろ!」

 いつものみずほ節が炸裂。歌恋は「ふふふ」と謎の笑いをして誤魔化した。彼女は駅のコンコースの窓から表を見ている。


「もし乙女さんと時巫女が分離出来ないとどうなるんですか?」

「結婚できないわ」

 富久の言葉に無情に聞こえる歌恋の台詞。事実を言っているだけだが酷に思えるところが悲しい。


「チャンスも失うしな」と加えるみずほ。

「どういうことですか?」

「今日の式には多くの時巫女や時の勘解由使などの結構な大物が駆けつけるから、三輪系御師である時空の御寮家ごりょうけのひとつである思川家としては、そこで恥をかくことになる。乙女と八雲にとっては暦人御師としては結構な痛手だ。信頼はお金じゃ買えない」

「なるほど」

「新幹線の発車まで三十分以上あるけど、一応ホームにいくか?」


 そう言いかけたみずほに歌恋は小首を傾げた。

「どした?」とみずほ。

「私たち全員が間に合う必要は無いわ。梨が間に合えばいいんだもの」と意味深な表情で歌恋は続けた。

「そりゃそうだけど、届けるのはあたいたちだ」

「あれ」と窓の外、前方を指さす歌恋。余裕のほくそ笑みが彼女の表情に出る。

「ん」と歌恋の指さす方向に目をやるみずほと富久。


 見れば、その指の先、商店街の片隅に竹箒が立てかけてある。

「箒?」

 察しの良いみずほはすぐにピンときたようだ。

「行ってみよう」

 彼女の言葉に皆が駅のロータリーに面した繁華街の入口に向かう。


 商店街の入口にある清掃用具置き場、数本の竹箒とちりとりが綺麗に並んでいる。竹箒に駆け寄ってみる。その用具置き場のすぐ横にある個人経営の店主が鉢植えに水をあげている。たばこ屋の老人だ。歌恋はすぐさま声をかける。

「ほんの十分ほど、この竹箒をお借りしても良いですか?」と歌恋。

「ああ、ボランティアの人かな? いいよ。商店街の持ち物だから、使い終わったらまたここに戻して置いて」と言うと、いつものことのように、特に気にすることも無く店主は奥へと去って行った。使用許可を取ってからの行動がいかにも歌恋らしい。


「出来るのか?」とみずほ。

「やってみるわ」

「何か手伝えるか?」

「大丈夫。相性だけなの」と笑う歌恋。そして眉間にしわを寄せると、歌恋は「撓り具合と、強度が問題。借り物を壊すわけにも行かないし」とその箒を手にとって、ぶつぶつ何か言い始めた。

「決めた!」

 富久とみずほは突然の歌恋の言葉に驚く。


 歌恋はみずほの鞄から梨を取り出し、自分の持っている風呂敷包みに包む。それを箒に幾重にも結び目を入れてくくりつける。箒の柄と穂の境目辺りにしっかりと固定する。グルグル巻きだ。どんな揺れが来ても落ちないように厳重に。さらにその風呂敷を歌恋がいつも使っている大きめのバンダナで覆うように縛った。

「これで良し。あとは用事を終えたら、この箒が自動的に自分でここの商店街の箒置き場に戻ってくるようにしたわ」

 歌恋は悪戯っぽく、富久を見つめる。嫌な予感だ。背中に戦慄を覚える。

「ちょっと、タンマ!」

 状況を察したみずほも、ウインクで「覚悟しとけ」と富久を笑う。

「まさか……」

 後ずさりのすり足で逃げる準備の富久。

『パチン!』

 歌恋は親指と中指をはじいて音を鳴らした。


 まるで命を吹き込まれたかのように、その竹箒は勢いを付けるとぐるりとその場で輪を描いてから、無理矢理富久を柄に載せて、日の暮れた薄明かりの大空に舞い上がった。

「やっぱり、あたしが行くのねえ。これ乗り心地悪すぎ!」

 雄叫びとともに星の彼方に消える箒に乗った富久。抱きしめた、いや、しがみついた状態で箒は飛び始めた。雲を蹴散らし、ものすごいスピードで。


「お前も強引だな。あれ乗り心地すこぶる悪いんだ。よかったよ、富久ちゃんに任せて、あたいはごめんだ」とみずほ。

「ううん。みずほちゃんの体重だと無理のような気がしたの」と笑いながら毒を履く歌恋。


 しばらくその台詞を暫く吟味していたが、自分が馬鹿にされたことに気付くと、「こらあ!」と叫ぶみずほ。

 だが既にみずほの目の前に歌恋はいない。逃げ足の速さは天下一品だ。もう彼女は駅のコンコースに続く階段を上り始めていた。

「みずほちゃん。新幹線に乗り遅れるわよ」と遠くから呼びかけた。

「あんのやろお」

 みずほはまた、いつもの歌恋お得意のマイペースさに『してやられた感』を覚えながら、とぼとぼと歌恋を追って、大宮駅のコンコースを歩き始めた。





最終行程


「栄華ちゃんと夏見さんは?」

 乙女は支度も整い、角隠しも文金高島田ぶんきんたかしまだの髷に巻いた姿だ。帯はおなじみ金襴緞子と言える、まばゆい絹織で作られたお値打ちのある美しいもの。そんな装いで式の時間を待っている新婦の待機する緊張の瞬間である。

「歌恋さんからメールが来ました。いま富久ちゃんがみくまりの梨を持ってこっちに向かったそうです。あと十分ほどで辿り着くようです」

 こちらとしては日常会話のような伝達劇だが、雲の上で竹箒に必死にしがみついて空を飛ぶ富久の身になれば、それは大変なことである。




 栃木市に残った留守番役の美和と合流すると、八雲はすぐに自分の自動車にキーを入れる。大宮に寄らずに一足先に戻って彼らを受け入れる役目を買った新郎。

「八雲さん、皆さん新幹線に乗ったそうです。春華さんは電車ですでに向かっています」

「了解」

 そろそろ夕焼けに染まる町並みを背にして、アイコンタクトをして助手席に入り込む美和が八雲に伝える。

 パーキングからドライブにシフトレバーを移すと、ゆっくりと八雲は車を動かした。

 四時に全員を小山駅前で拾って、一時間で足利に向かう手はずだ。出来なくは無い計画である。二手に分かれて、披露宴に出席しない途中参加組は両毛線で足利に向かうようである。


 そんなわけで、富久は足利に、残りのメンツは小山に向かったことが確認された。皆、しっかりとお役目を果たされたと言うことだ。そして受け入れる側もぬかりなく動き始めたようである。


 そんな二手に分かれた彼らのうちで、富久を待つのが、足利の結婚式場の前にいる持彦だ。

 広い駐車場の前に出ては空を見上げる。まさか天体観測以外で夜空を眺めることがあろうとは努努ゆめゆめ思うまい。


 そんな薄明かりが終わりを迎えそうな空できらりと光る物体が持彦の方に向かってやって来た。もちろん箒の柄の部分には黒い物体がしがみついている。間違いなく富久だ。

「ぎぃええええ!」

 鼻水がカベカベになった軌跡がほっぺに白い一本の筋を造りながら、急旋回のまま降りてきた。意志を持ったような箒がランドオンをすると、跨がっている彼女も両足を地面について、踵でブレーキを入れた。出来の悪い魔女の宅急便のようである。

『キキキー!』

 踵ブレーキが掛かり着地成功。


「もじゃあん(もっちゃん)! ごわがっだひょう(こわかったよう)」

 いつものごとく危険に身をさらしたときの富久の言語化失敗の言葉が出ている。

 持彦は優しく微笑むと、

「富久、ご苦労様」と頭を撫でる。

 鼻水の軌跡さえ無ければ画になるシーンだ。

 そして持彦は柄にくくりつけられている風呂敷をゆっくりと外すと、中から立派な梨の実を取り出す。彼はその梨の実を抱えると、嬉しそうに微笑んで走り出した。

「富久、届けたら戻るから待っててね!」


「うん」

 

 自由になった箒は、富久に一礼するとまた大空へと舞い上がった。大宮のもとの商店街の用具置き場へと戻って行った。


 持彦は梨を抱えて、絨毯の敷かれた式場ロビーを急ぐ。簡易調理室のような給湯室では果物ナイフを用意して、谷島屋春華が梨の到着を今か今かと待ち構えている。春華の方には乙女から梨の効能は伝えられている。とはいっても、ただ普通の梨と同じように皮をむいて食べれば良いだけだ。しかも別に思川家の人間で無ければ、特に食べてもなんの魔法効果も無い普通の梨である。


 春華は梨をむき終わると皿ごと抱えて、乙女の控え室に運ぶ。そして小皿に盛ったみずみずしい梨を三面鏡の前に座っている乙女に差し出す春華。

「届いたわよ。みくまりの梨」

 優しく微笑む春華。


 紅を気にしながら乙女は爪楊枝の刺さった一片を掴んで、小さくカリッと一口かじる。


「おいしい」


 彼女のその言葉と同時に彼女の姿の輪郭線が虹色に輝き始める。そして光輪に包まれると、藍染めの和服に身を包んだ時巫女の姿が、まるで分身の術で分裂するかのように乙女の身体から離れ始めた。分離した長慶子の時巫女は、うなじの後れ毛を軽く整えるような仕草をすると、乙女に微笑んだ。

「おとめちゃん、長い間ありがとう。これからは湊ちゃんの目を借りて時間を守っていくわね。式と披露宴には串灘の時巫女さんと多霧の時巫女さんが出席するので、私は勘弁ね。私も次の段階の準備があるので、このまま失礼するけど、二次会には素敵なお土産を持ってくるから待っていてね」

 そう言って、乙女にウインクすると、時巫女はスッとインターレースのように半透明になって、やがてその場から消えてしまった。


「楽しい共同生活。憑依生活も終わりか……」

 白無垢のまま乙女は、窓の外の紫雲の空を見ながらポツリと呟いた。





二次会場のプレゼント


 披露宴を終えて、結婚式場から車で駆けつけた新郎新婦。こざっぱりしたパーティ会場は多目的用途のレンタルルームだ。会議室や教室、会合などにも使う自由空間の貸部屋だ。

 八雲と乙女は、花束を受け取り、特設された壇上の席に着席。この二次会はすべて暦人たちや時の守り人たちなので、守秘の必要が無い、楽な集まりだ。一仕事を終えたように見える長慶子の時巫女は、二人の到着に気付くと、フランクに二人に近づく。


「長い間お世話になった乙女ちゃんには、私のとっておきの魔法をプレゼントするわ」と静かに微笑む。

「とっておき?」

 乙女は不思議な顔である。時巫女の胸元には一輪の花がある。鉢植えだ。


「このヤマユリは、時止めのヤマユリ。あなたの身の回りのピンチを救ってくれるヤマユリなの。外見は普通のヤマユリと変わらないけど、時止めの世界を作るときは黄金に輝くわ。おうちに一株、鉢植えで置いていてね。ちゃんと外界の環境でも根付くように調整してあるから」

 そう言って、時巫女は抱えていた小さな鉢、ビニルにラッピングされた植木鉢のユリを乙女に手渡した。


「ありがとう」

 乙女は何となくしか分かっていなかったが、その力は新郎の八雲の方がよく知っていた。


「これはたいそうなものを、ありがとうございます。暦人の仕事で有用性のあるアイテムで、とても助かります」

 価値相応のお礼を述べる八雲。

「そうなんだ」

 つられての乙女のお礼は、ちょっとぎこちなかった。それを見た長慶子は微笑む。


「乙女ちゃんとは、また湊ちゃんを通してお会いしましょう。でもその時はもう私はあなたでは無いから、時巫女と暦人御師の間柄ね。容赦はしないわ」

 悪戯っぽい笑顔を乙女に向ける時巫女。


 そして「それと今回の功労者。あそこの影で、椅子を並べて横になっている三人に声をかけてあげてね」と付け加えた。


 彼女の指さす方向には、ついたての影になった部屋の片隅、その一画で椅子を並べて項垂れる三人の姿が垣間見える。もちろん歌恋、みずほ、富久である。


 乙女と八雲は時巫女の言葉に無言で頷くと、席を立ち、横になっている三人の方へと向かった。


「富久ちゃん、空まで飛んで、ここまで梨を運んでくれてありがとう」

 乙女の声に、

「どういだじまじて。ふにゃふにゃでずいまじぇん」と横たわったまま返事をする富久。手を握って感謝を握力で返す乙女。

「ふふふ」と嬉しげな富久。だが彼女の脳内は思考停止の朦朧体もうろうたいであるのは否めない。


「みずほちゃん、託宣解釈とその回収作業、ありがとう」

 今度はみずほだ。

「どういたしまして。アタイも若ぶった前言撤回。歳には勝てないかも。乙女さん、いい男早く紹介して! でもあんまり勉強は出来なくていい。託宣解釈の度に学術理論かかまされても困る。言っていることが意味不明な男はパス。今日半日、乙女さんの旦那を隣で見てて思った」と笑う顔に力が無い。

「はいはい」と乙女。やれやれという表情で笑う。八雲は軽く苦笑いと言ったところだ。


「歌恋ちゃん、ありがとうね」

 手を握る乙女。

「あーしも、めっちゃがんばったしい……」とモゴモゴ返す歌恋。寝ぼけているようだ。

 ゆっくりまったりでも無く、優雅さの無い、普段とは違った歌恋のその口調に慌てて、乙女は彼女の耳元に口を寄せると、小声で「歌恋ちゃん、渋谷時代が出てるわよ」と笑う。


 ハッと我に返る歌恋。

「あらあ、ごめんあそばせ」

 持ち直したかのように、まったり歌恋は、いつものペースを取り戻すとはにかむ。


 三人の横には、あの老木の果実、大きな梨の実が置いてある。念のために彼女たちも一個別経路で持って帰ってきていた。歌恋がこっそり持ってきたあの一個だ。箒の富久になにかあるといけないので、歌恋は不測の事態も想定して、あらかじめ予備も用意していたのだ。時間を守る任務に関しては、みずほに引けを取らない仕事ぶりだ。


「乙女ちゃん、そこに梨があるけど、梨の花言葉、知ってるかしら?」と時巫女。その梨を指して言う。

「ううん」と横に首を振る乙女。


「じゃあ、教えてあげるわね。梨の花言葉は『和やかな愛情』なのよ」と冷笑なのに愛情に満ちた表情で時巫女は伝える。そこには祝福の思いが込められているのは容易に想像がついた。


 そして「お幸せに」と時巫女は付け足す。


「ありがとう。次は歌恋ちゃんだと良いわね」

 そう言って、乙女は式で使ったブーケを彼女に手渡した。

「あらあ、こっちがありがとうだわ」と歌恋の顔はみるみる笑顔満面の表情である。


 会場では栄華がピアノの前に座る。プログラム通りに進行して、二次会での彼女の出し物、『華麗なる大円舞曲』を盛大に弾き始めた。お祝いの曲だ。乙女と八雲は急いで、定位置の壇上の席に戻って、栄華にお辞儀をすると演奏に聴きいっていた。

                               了

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