異界の地、天を喰らうまで
蛙手 落葉
1章:起ショウ
第1話:目覚め
——暗い。それに、とっても静かだ。
少年は目を覚ますと、腕を伸ばし、あたりを確認した。動かす腕は水の抵抗を受け、とても重たかった。
水? う……、く、苦しい!
少年は、自分が溺れていると知ったとたん、もがき苦しんだ。
誰か、助けてくれ!
少年の叫びは虚しく、水を泡立てるのみだった。少年が苦しむほど、体を激しく暴れさせた。
ふと彼の左手に何かが触れる。そこからわずかに光が漏れ出していた。少年は
「がはぁ!」
自らが置かれた状況など気にも留めず、それはもう空気をむさぼるように、少年は激しく呼吸した。
床下の青紫色に光る数々の円環が少年を照らしていた。
少年の視線の先には同じように倒れた人が映っていた。正義感にかられた男は這いつくばってその人のもとへ向かおうとした。
「おい、大丈夫か。意識はあるか」
少年の周りに人が集まる。倒れた人影は、人々の足によって覆われた。
——しかし少年は返事を返すことなく、再び眠りについた。
***
目を覚ますと、目の前には真っ白な天井が広がっていた。視線を自分の体に向けると、左腕にはいくつかの管が繋がっていた。
ここは、病院か? どうして俺は、こんな……
思考を張り巡らせようとした途端、頭痛によって阻まれた。助けを呼ぼうとしたが、かすれた声が出るばかりで、意味がないと悟った。
こういう時、なにかボタンみたいのがあるはず
体を動かしていると、節々が痛み出したが、かまわず手当たり次第にあたりのものを探った。
右側の棚の上に小さな四角いものを見つけ、それに向けて手を伸ばした。
「もう、ちょっと!」
目と鼻の先まで届きそうというところで、壁と見間違えるほどの白いドアが音もたてずに開き、二人の男と小さな子供が入ってきた。
「ぬわ⁉」
驚いた俺は、バランスを崩し、ベッドから転げ落ちた。
「目が覚めたのですね! って、大丈夫ですか⁉」
一人の男が慌てふためいた。
三人の男の助けもあり、俺はベッドに戻り、状況が落ち着いた。改めて三人の男を見ると、伸長も体格もバラバラで、医者か科学者か、全員が白衣に身を包んでいた。
「ありがとう」
いえいえと、先ほど慌てふためいていた、身長が真ん中の男が笑顔で答えた。
その男は一度深呼吸をして、少しだけ表情を固めた。
「目を覚ましてすぐに申し訳ありません。幾つか質問に答えてください」
俺はゆっくりと頷いた。
「まず、あなたのお名前を教えてください」
「俺は、……俺の名前は、えっと」
——俺の名前?思い出せない思い出せない思い出せない!
考えれば考えるほど、焦り、呼吸が乱れる。どうしようもなくなり、俺は頭を抱えて俯いた。
「お、落ち着いて! 大丈夫!大丈夫ですから」
「……す、すみません」
中背の男は俺の背中に手を置いた。
「でも何も思い出せないんです! ここはどこですか⁉ なんで俺はこんなところに居るんですか⁉」
俺は視線を彼らに戻し、叫んでいた。俺の問いに、彼らは答えることなく幾ばくかの静寂が続いた。
「私たちはあなたの診察だけ任されています。ですので、私たちから答えられることはありません」
男は少し申し訳なさそうに言った。その後ろで身長が最も高い、おおよそ医者には見えないたくましい体格の男が何かを書いていた。——カルテだろうか。
「今の受け答えを見る限り、記憶喪失でしょう。まだ混乱しているでしょうが、詳しいことは後で別の方がいらっしゃるので、その時に聞いてください」
中背の男はそう言って、大男と部屋を後にした。今の今まで、いつの間にか俺の左腕につながっていた管を片付けていた小さな子供は、ベッドで肘をつきながら自分をじっと見つめていた。
目が合ったと思えば、にっこりと笑って、同じく部屋を後にした。
あっけにとられ、俺はその場でじっとしていることしかできなかった。
間も無くして、一人の男がやってきた。堂々と開かれた胸元に、青く尖った頭髪。
先ほどの三人とは違って、何というか、控えめに言って派手な格好をしていた。
「よっ、俺はサンク。チーム『メルバ』のリーダーを務めてる。よろしく」
サンクと名乗った男は、その見た目の通り軽快な挨拶をした。そして俺の右手をつかみ無理やり握手をしてきた。
「……えっと、よろしくお願いします?」
戸惑う俺を前に、サンクはニッと笑って見せた。
「大丈夫。君のことは聞いている。悪いけど説明は移動しながら、な」
サンクは頭にかかっていたサングラスを格好よく装着した。
——隣に更衣室があるから、これに着替えてこい。そう言われて渡された衣装を手に、俺は病室を出る。
無機質な廊下。不自然なほど白く、明かりは天井に埋め込まれ、きれいな直方体に伸びた廊下をそれ以外に例えられようか。
幸い、右に振り向いたとき、「Changing Room」と書いてあるプレートを見つけ、その下の部屋へと入る。
自分の素性のみが思い出せない。自然に服を着替えることができるのに、自分の過去を、ましてや自分の名前を思い出そうとするたびに、頭の中が霧で隠されたような気分になる。
正直、不安しかない。なんで自分がこんな目に合わなければいけないのか。こういう時はその理不尽さにやけになったりもするのだろうが、不思議なことにこの状況を受け入れている自分がいる。
そんな無駄な思考もあり、あっという間に着替え終わった。部屋を出るドアに近づき、自動扉が開く。
僅かに聞こえる、シャーッという音が心地良い。
——そして、その音と重なるように、ドサッという音が聞こえた。
「えっ?」
目の前で人が倒れた。長く、桜色の髪が導線となって、床に視線が向く。
少女が顔を真っ青にして、苦しそうに呼吸をしている。
「おい! おい、大丈夫か!」
抱え上げて急いで隣の部屋へ連れて行った。彼女を俺がいたベッドに寝かし、棚にあったボタンをナースコール用と信じて押す。
まだか……?
居ても立っても居られない俺は、ベッドの周りをグルグル徘徊することしかできなかった。バタバタと足音が聞こる。そしてすぐに入り口のドアが開かれた。
「どうかしましたか! どこか痛いところでも⁉」
痩せこけた男が慌てた様子で、駆けつけてくれた。
「こ、この人を見てやってください! 顔が青いし、それに……」
倒れていた少女を診るように男に促す。その男は一目少女を見ると、あからさまに肩を落とした。
「あ、あぁ。別におかしなところは、無いんじゃないかな……」
「いやいや、そんなことないでしょ! ちゃんと見てくださいよ!」
男のよそよそしい態度に、苛立ちを覚える。
「……うるさいわね」
後ろで少女のものと思わしき声がする。思わず振り返ると、先ほどの様子が嘘のように少女は背筋を伸ばし、整然と立っていた。
「へ?」
「もういいかい? 私は戻らせてもらうよ」
俺が混乱していると、男は呆れながら部屋を後にした。目の前の少女はただこちらを睨むばかり。
俺が何をしたのだろうか。いわれのない不満をぶつけられているようで困惑する。
「おーい、準備できたか? ……って何やってんだお前ら」
張り詰めた空気を断ち切ってくれたのは、サンクだった。正直、助かった。ただただ敵意を向けられるというのは、誰だってつらいものだ。
「まあいい、そろそろ行くぞ」
俺と少女はサンクを追いかける。見栄えが変わらない通路を淡々と抜け、ようやく外に出た。
あまりの眩しさに、目を細める。
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