第11話 された側の運命

 家に帰ってきた私は、家の鍵を閉めると同時に発作が起きてしまった。

 過呼吸が今までよりも辛く感じ、弘樹がいないことから普段は抑えている泣き声や、苦しさを少しでも紛らすために『あぁ……』といった声を思う存分出してやった。


 少しだけ落ち着いた頃、廊下で蹲っていた体に鞭を打ち、鞄から処方された抗不安剤を取り出した。意識が朦朧としながらも水で薬を飲むことが出来た私は、暫く動悸や何やらが収まるまで廊下で横になっていた。


 暫くして落ち着きを取り戻すことが出来た私だったけど、メイクを落とすことも、弘樹のご飯を作ることも、着替えることも何もかも出来なかった私だったけど、薬だけは棚に隠すようにちゃんとしまった。そして、抗不安剤を飲んだばかりだというのに抗うつ剤も飲み、真っ暗闇の中、テレビだけをつけて過ごしていた。


 テレビとの距離はそれほど遠くない。だから音量を5に設定しても普通の時は聞こえる。でも、今は何一つとして聞こえない。字幕を読んでいるというのに、その意味が皆無と言い切れてしまうほど頭に入ってこない。


 ここまで酷い副作用は初めてだ。

 多分、薬が合っていないんだろう。


 それも当然と言えば当然か。強い薬に変えられたのだから。


 言葉では表現の出来ない胃の痛みがずっと私を襲っているけれど、腹部を擦ることもなく、全身の力を抜いてソファの背もたれにもたれながら意味もなくテレビを見つめ続ける。そして、自分がうつ病になった時のことを思い出していた。



 私がうつ病になったのは2年前。

 今の職場に来てから。


 再就職をして1週間が経った頃、突然の無視が始まった。戸惑いながらもまだまだ教えてもらわないといけないことが沢山あった為、挫けずに上司たちに質問などをしたけれど、返ってくるのは毎回怒号。


 最初は当然、我慢した。家に帰れば私を笑顔にしてくれる弘樹の存在があったし、誤魔化しながら職場の辛いことを話したりして何とか保っていた。けれどパワハラ、モラハラが許容範囲を超えるようになり、耐えられなくなってしまった私は病院に行ってうつ病と診断された。


 そう診断されて、ショックなどはなかった。自分でもそう思っていたから。


 薬を飲めば不安やイライラが多少は薄まるし、変なことを考えなくてもよくなる。薬に頼りっぱなしだけど、ずっと憂鬱な気持ちを抱き続けながらも職場のいじめだけならまだ堪えられていた。でも、そこに弘樹が浮気をしていることが発覚してからは、不眠が更に酷くなったし、憂鬱な気持ちは意識がない間以外続いたり、胃が痛くなったりと色々酷くなった。


 私が2年もうつ病を長引かせているというのに、弘樹に言わないのには理由がある。 

 病気な彼女が可哀想だから傍に居る、という思いに変わってしまうのが嫌だったし怖かったから。その事に自分が万が一気づいてしまった時、立ち直れないくらいのショックを受けるって解っていたから。でも、今思えば言っておけばよかったとも思う。言っておけば、弘樹は浮気なんかしなかった……なんてまだ救いようのない考えをしてしまう自分がいる。


 ふっと笑った自分の声が、異常に大きく聞こえた。



 きっと、相手は可愛い人なんだろうな。

 私はそもそも職場がダメだからネイルなんて出来ないけど、きっと可愛らしいネイルをしていて。メイクもちゃんとしていて、髪もサラサラで、私なんかと違って薬を飲んでないから浮腫んでなくて、すらっとした体型なんだろうな。


 何もかもきちんとしていない私なんかと違って、きちんと自分磨きをしているのだろうから、そりゃあ浮気もされるか。


 浮気されてもおかしくない事を自覚すると、この上なく消えたい気持ちになる。



 いっそ、振ってくれたらいいのに。

 そんなことを半年も考えているけれど、私から振るなんて選択はそもそも生まれなかった。


  5年という年月は、決して短くないから。

 きっと、弘樹も同じなのだろう。だから私を見捨てる勇気もないし、変な使命感に駆られてプロポーズをした。


 緩くなってしまった婚約指輪を触りながらそう考える。

 

 この指輪を薬指にはめてくれた時はピッタリのサイズだったのに、いつからこんなにも緩くなってしまったのだろう?


 自分でも目に見えて痩せたと分かるのに、弘樹は気づかない。何一つと。

 どうして気づかないのか。それは簡単。私にではなく、浮気相手に時間を使っているから。

 

 分かり切ったことを改めて実感すると、沸々と腹の底から怒りが湧いてくるけれど、同時に悲しさも生まれてくるのがとても厄介だ。


 余裕でクルクルと回ってしまう指輪をしつこいくらい触りながら、あの日、弘樹は恥ずかしそうにプロポーズをしてくれて、「はい」と返事をした私は号泣で。そんな私を優しく包み込んでくれたことを鮮明に思い出せるというのに……今はそれが苦しい思い出になってしまっているのが悲しかった。


 もう弘樹は、あの時の幸福感を忘れてしまったのだろうか。いや……あの時から幸せもくそもないのか。



 どうしてこんな人生になってしまったのか。


 幸せになれるという確証がなかったとしても、幸せになるために生きることは間違いではなかったはずで。弘樹と一緒に幸せになりたいと思うことも間違いではなかったはずなのに。こんな辛い気持ちを抱えたまま、明日も生きないといけないって考えるだけで地獄で。それでも生きていかないといけない、と思って生きる人生は──果たして幸せなのだろうか。


 今日一日、何も食べていないというのにまた胃痛を覚え、腹部にも何だか違和感を覚えるし、吐き気もするし、寒気だってしてくる。何も食べないのがよくなかったのかな?



「弥生?」


 そんな声が聞こえて肩を揺らし、ハッとして目を大きく見開いて焦点を合わせると、目の前に膝をついて、私の手を握りしめながら心配そうに私の顔を覗き込んでいる弘樹と目が合う。


 夢か現実か区別がつかなかった私は何度も瞬きをして、姿勢を整えた時に自分の足が弘樹の膝に当たったことから〝これは現実〟ということに気づき、ひゅっと引いた息が喉に詰まった。


 ぼーっとし過ぎていたのもあったけど、色んなことを集中して考えていたせいで弘樹が帰ってきたことも、リビングの明かりがついていることにも気づくことが出来なかった。


「お、おかえり……」

「ただいま。大丈夫? 顔色悪いけど」

「うん……大丈夫」

「そっか。最近ぼーっとしてること多いね」

「…………そうかな?」


 へぇ……〝そこは〟気づくんだね。


 怒り、悲しみ、それらがいつものように同時に私を襲い、思わず自嘲した笑みがこぼれそうになった。


「何かあった?」


 弘樹が何を考えてそう訊いてきたのかは理解できないけど、簡単にさらっと私にそう訊けてしまう弘樹に、今にも負の感情が爆発しそうだった。


 あなたの言う通り、あったよ。

 むしろありまくりだよ。


 表情管理が出来なくなって眉間にしわを寄せる私を心配そうに見つめるその表情もどうせ嘘だと思ってしまうくらい、今のあなたからは甘いニオイがして嫌でも色んな想像をしてしまう。それによって胃液が這い上がってくる不快な感覚を覚えるけど、首を横に振りながら『ううん、何もないよ』と誤魔化すしかなかった。


 目を一度伏せてから時計へと目を向けると、時計の針は11時を指していた。普段は2時に帰ってくるから早いと思ってしまったけれど、19時には帰って来ていた時よりかは遥かに遅くて。いつまでも過去に囚われ続けている自分が、とても憐れで仕方がない。


「弥生」


 弘樹と話すのすら体が拒んでどうしていいのか分からないのに、弘樹は私の名前を呼びながら寝てる私にではなく、起きている私を抱きしめた。それによって、寝ている時と同じように至近距離で嫌いなニオイを嗅ぐことになり、私の眉間には自然としわが寄る。


「弘樹……離れて」

「朝は一瞬だったから」


 弘樹はそう言うと、1ミリも隙間が出来ないようにと更に私を自分の方に引き寄せた。

 朝とは違った大嫌いなあのニオイを纏いながら平気な顔をして私を抱きしめられる弘樹に私はどんどん眉が下がっていき、じわじわと侵食してくる負の感情が私の心を押し潰してくる。


「久しぶりに弥生の顔がちゃんと見れてる」


 いつもなら耐えられていた。きっと弘樹の背中に手を回して、自分の心が死のうが何だろうが必死に耐えていたと思う。

 でも今日は、ついに恐れていた我慢の限界というものに達して、私を抱きしめていた弘樹を思い切り突き飛ばした。


 やせ細った今の私にそんな力が出ること自体おかしいけど、今はそんなことを考える余裕なんてなかった。


「や、よい……?」


 突き飛ばされたことが信じられないとばかりの表情を浮かべる弘樹に、私は忌々しく顔を背けた。


「……近寄らないで」

「何でそんなこと言うの……? 普通に傷つくよ」

「逆に、どうしてそんなことが言えるの……?」


 私の言葉が心底理解できないのだろう。眉を下げて、状況が飲み込めていない表情を浮かべながらこちらを真っ直ぐ見ている弘樹に再び視線を向けた私は、口元も目元も怒りに歪んで、きっと見るに堪えないだろう。


「弘樹は、私が毎回どんな気持ちでいるとか考えたことあるの?」


 声にならない「え」という声が漏れた弘樹に、私は更に怒りを覚えた。


「弘樹の為に作ったご飯を冷蔵庫に入れる私の気持ちとか、深夜になっても帰りを待っている時とか、嘘をつかれてるって分かってるのに返信している時とか、知らない甘い香りを纏わせながら私を抱きしめたり、キスをしたり、私が起きてるって知らずに電話に出て「好き」って言ってたり……私がいつも、どんな気持ちでいるか少しでも考えたことあった!?」


 締め付けられるように胸が苦しくて、頭はガンガンと腹部はズキズキと痛んで、終いには鼻にツンとした痛みが走る。


 きっと、この問題は言わないと解決しない。

 ずっと我慢し続けて、見ざる聞かざる言わざるを貫いていたらお互いが辛いだけ。


 私から仕掛けたのなら、私から〝それ〟をちゃんと言葉にしないといけない。


 ガクガクと震えた唇で大きく息を吸い、喉の奥で一度詰まった言葉を無理やり出したせいか、思ったよりも声が揺れた。



「どうして、浮気なんてしてるの……?」



 多分、ずっと目に涙が浮かんでいたのだろう。

 最初の一粒が眦からこぼれ落ちると、涙は歯止めが利かなくなり、私の頬をこれでもかというくらい濡らす。


 一瞬にして涙でグチャグチャになった顔を手で覆うと、その手を弘樹は優しく包み込んだ。強さも、温もりも何もかも優しいというのに、この手は私以外に触れてきたのだと思うと吐き気を覚えた。


「ごめん弥生……」

「っ……」


 ごめんと言われる度、何かが減っていくような感覚がする。


「でも、俺が愛してるのは弥生だけだから。俺には弥生しか」

「それなら、何で浮気相手に〝好き〟だなんて言ったのよ!」


 目の前から息を呑む音が聞こえ、剣呑さが更に増す。


 心臓が信じられないくらい痛いし、喉からはひゅっという音が何度も聞こえてきて、過呼吸を起こす寸前だった。けれど、今ここで過呼吸を起こせば、弘樹の話が聞けなくなるどころか話し合う機会を失ってしまうかもしれない。そう思った私は少しでも対策するように弘樹の手を振り払い、口元を手で覆ってゆっくり深呼吸をする。そんな私の手に弘樹は自分の手を重ねると、私の肩に頭を寄せた。


「俺が好きなのも、愛してるのも、大事にしたいと思うのも弥生しかいないよ……これは嘘じゃない。だから信じて……」


 信じてという言葉が、こんなにも重苦しい言葉だなんて生まれて初めて知った。


「こうなった経緯を全部話すから、聞いてくれる……?」


 肩が軽くなったから閉じていた目をゆっくり開けると、今にも泣き出しそうな弘樹と目が合い、その瞬間じわりと視界が滲んで弘樹ではなく私が涙を流していた。


 涙は後から後からと溢れて止まらず、きっと弘樹の手も私の涙で濡れていて。でも弘樹はそんなこと気にもしていない様子というか、気づいていない様子で。眉を下げながら真っ直ぐこちらを見つめ続けているから、同じように私も瞬きをせずに見つめ返すけど、目からまた涙がこぼれ落ちて、涙が頬を濡らすと同時に私はコクリと頷いた。


「ありがとう」と呟いた弘樹は、私の手に重ねていた手を自分の膝の上に置いた。



「半年前……同じ職場の後輩から告白されたんだ」


 その言葉を皮切りに、弘樹はゆっくりと話し始めた。

 やっと聞くことが出来た真実だったけど、それは決していいものではなかった。


 弘樹に告白をしてきた子は、入社してすぐ弘樹のことを好きになってしまったという。所謂、一目惚れというやつ。


 定時で上がった弘樹の後を追いかけてきた後輩の子が、突然告白をしてきたみたいで、そんな雰囲気に一度もなかったみたいだったから、弘樹は凄く驚いたみたい。


 弘樹は当然その場で自分には婚約者がいると断ったが、女の子は大声で泣き出したらしい。泣くなんて思っていなかったため声をかけると同時にその子の肩に手を置くと、その子は弘樹に抱きついてきたという。その事実だけで目が回り、泣き喚きたい衝動に駆られたけど、私はグッとそれを飲み下した。


「自分はあと半年で死ぬから、半年だけでもいいから付き合ってほしいって……毎日死にたいって思ってたけど、俺と出会ったことで生きたいって思うようになったって言われて……」 

「それで一線を越えたの?」

「体の関係にはなってないよ! それに、これは浮気なんかじゃ」

「私からしたら同じことだよ! 一線を越えてなくても、キスをしなくても、弘樹から抱きしめてなかったとしても愛の言葉を相手に伝えて、長い間、同じ時間を過ごしているなら同じことだよ……病気のことを言われたからって浮気をしていい理由にはならない……」

「でも、そばにいてくれないと今すぐ死ぬって言うから」

「そうやって浮気を正当化しないでよ……!」

「……ごめん」


 声を荒げることが、こんなにも体力を使うだなんて初めて知った。


 病気を出しに使って無理矢理弘樹を奪い取った浮気相手にも、ごめんと謝る弘樹にも腹が立つ。


 どんな理由だろうと私に隠していたのだから普通の浮気と何も変わらないわけだし、そもそも何でその時に言ってくれなかったの? 何で自分だけで決めて、追い込まれてるの? 私に相談していたら、弘樹だって気持ち的に楽だっただろうに。


 こんな仕打ちをされたというのに弘樹の心配をしてしまう自分にも当然腹が立つし、何よりも悔しいという気持ちが心を埋め尽くす。


「私ならきっと理解してくれるって思ってたんでしょ……? 理解なんか出来ないよ。弘樹が味わってる何倍も私は辛いし、何よりも裏切られたんだから……」


 悔しい。本当に悔しい。何がここまで悔しいかというと、浮気相手が辛い時に弘樹は傍に居てあげたというのに、私が辛い時には傍に居てくれなかった。その事実が死ぬほど悔しい。


 これじゃ、どっちが浮気相手か分からない。


 ふっと自嘲の笑みがこぼれるほど、馬鹿馬鹿しかった。


 私だって、毎日死にたくて仕方がないよ。毎日毎日パワハラ、モラハラが繰り返されていて、それを必死に耐えて、終いにはうつ病になってさ。


 思ったんだけど、その子、本当に病気なの? 私と同じで、死ぬ勇気もないのに死にたいって言ってるだけなんじゃないの? 弘樹の傍に居たいから、嘘をついてるだけなんじゃないの?

 そんなこと考えてはいけないって分かってる。けれど、そうでもしないと……あまりにも私が憐れじゃない。


 変に同情されるのが嫌だった。だから今まで隠してた。吐き出したかったのを、必死になって我慢した。それなのに……こんな馬鹿みたいな事に巻き込まれるくらいなら、言っておけばよかった。


 目に溜まっていた涙が抑えきれなくて眦からこぼれ落ちて頬を濡らすと同時に、私は我慢していたことを口にした。



「私だって……私だって、病気なのに」



 言ってすぐに後悔すると思ってた。けれど実際はそうではなかった。


 あぁ……やっと。本当にやっと、自分が病気だということを弘樹に言うことが出来た。

 長年言わないでいた言葉を口にしたことによって、心が少しだけ軽くなった気がして何だか泣きそうな気分だった。


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