長蛇の列

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……やっと、ついたぁ……」


現在、先刻トーカさん達にボディチェックされた場所からやや進んだ地点に僕はいる。

何度思い出しても阿呆だけど、あの後家に帰り入浴を楽しんでいる最中に、肝心の漫画の新刊を買ってないことに気づいた僕は、急いで準備をして再びこの場所に戻ってきた。


いやもうほんと、我ながら馬鹿過ぎて笑えてくる。急いで来たせいで、息が絶え絶えだ。


「ふぅ、えと確か8階だったはず……」


ヘトヘトになりながらも、何とか本屋のある8階までエスカレーターで上がる。


途中、何人かがぎょっとしたような顔をしていたけど、そんなに血気迫るような顔してたのかな?


まぁでも、そこはいい───だって、ようやく漫画の新刊が買えるからね!!


「ふ、ふふふ、ふっふっふ……」


そして楽しみのあまり笑いを堪えきれずにいた僕は、意気揚々と8階へと足を踏み入れた!───はずだった。


「……何この人の数?」


8階へと上がった僕に待ち受けていたのは、見渡す限りの人の列。


それが僕が上がったエスカレーターの近くから、店の見えない奥の方までずらりと並んでいる。


そしてその人たちがみな一様にパンフレットを持って何かを待っているようにソワソワしていた。

あぁ、多分握手会かサイン会のどちらかなんだろうなぁ、なんて考えつつふと気になってパンフレットをのぞき込んで………自分の視界に入ってきた情報に、思わず言葉がこぼれる。


「……夜ノ帳サイン会?」


え、もしかしてこの列全部、夜ノ帳さんのファン!?

知ってる人少ないからマイナーだと思ってたのに、こんなにいるの!?

……い、いやでも確かにそうだ。


僕がこうして駅に本を買いに来て外に出たけど、その中で見た男の人は1人か2人。それもかなりご年配の方だ。


もちろんそんなのじゃ女性達は性欲が溜まる。そんな女性達の需要と供給を見事満たせたのが、夜ノ帳先生の《女が少ない世界で私は逆ハーレムを築く》だと考えれば、このファンの人数は理解出来る。


ま、でも僕には関係のない話だよなぁ。


こういう長い列で待って並ぶの苦手だし、さっさと買って家に帰ろう。


と、僕はその列から踵を返した。



──────三時間後。



「よしよし!あと三!あと三人で僕の番だ!」


僕は未だに、店の外に出れずにいた。

いや、長い長い列の最前列にいる、というべきだと思う。


───いや、違うんだよ?


別にサインが欲しかったわけじゃないんだけど、うん。まぁこういうのってやっぱり、並ばないといけないじゃん?いやほんと、別にサインが欲しかったってわけじゃないけどね?ほんとに。


ただ貰えるものは貰ったときたいし?


……僕はいったい誰に弁明してるんだろうか。


「次の人どうぞー」


「ふっふっふ……あと二人だッ!あともうちょい!あともうちょいで夜ノ帳さんと会える!」


ただそれでもやっぱり目の前に憧れの作者がいるんだから、興奮が冷めやらぬのは確かだ。


こういう時って何をすればいいんだっけ?


そ、そうだ!マスクを外して深呼吸しよう……ヒッヒッフー。ヒッヒッフー。


「はい、次の方どうぞー?」


ってやっぱむりむりむり!

深呼吸じゃリラックスできないよぉ!?


いや落ち着け落ち着け、こういう時は素数を数えるんだ……そう、三二一、だァーーーっ!!!


「はい、次の方どうぞ!」


「ヒッヒッフー、ヒッヒッフー………おぇっ…」


ヤバい、どうしよう。緊張で吐きそうだ。

けど、無駄だと思いつつも深呼吸に縋るしかない。出来るだけ視線を合わせないように、急いで買った漫画の新刊を机の上にポトリとおく。


願わくば、そのまま無言でサインを書いて欲しい。

じゃないと話しかけられた瞬間にそのままリバースしちゃうと思う。


「………産気づいてます?」


「……もしかして僕が今吐きそうなのってつわりだったんですか!?」


え?僕っていつの間に妊娠してたんだっけ……?


なんて疑問もすっとんで、思わず叫んでしまった。


元の世界とは異なる異世界だからね。

マジで男の僕が妊娠するみたいなことも有り得るかもしれないよ……ッ!でも僕まだ童貞なはずなんだけどなぁ。


なんて真剣に考えていたら、目の前のナマ夜ノ帳さんがふっ、と笑って───「いえ、冗談ですよ」───と、面白がるような視線を向けてきた。


……いや嘘なの!?素直に信じてどんな名前にしようか考えてた僕が馬鹿みたいじゃん!?軽くショックなんだけど……?


なのにその当の本人の顔は無表情……なんだろう。なんかちょっと、我が親友の雫に似てるような気がする。


まぁ、多分気のせいだとは思うけど。


「そんなにショックを受けたような顔しないでください。はい、これサインです」


「あっ、ありがとうございます?」


「いえ、気にしないでください……んん?」


そう言ってまるで何事もなかったように、サインを書いた本を手渡しでくれる夜ノ帳さん。


いやまぁ……素直に信じた僕も悪いけどね?


と、ちょっと心の中で反省しながらも、その本を受け取ろうとした瞬間───ガシッと、思い切り手を掴まれた。


その仕草に思わず、ドキンと胸が高なった。


え、え、なに?と事態を飲み込めずにいると、次第に掴んだ腕はまるで触診されているかのように、さわさわと撫でられている。


そしてその後、ジーッと僕の顔を凝視してくるのだ。


「へっ?」


「……貴女、いえ貴方はもしかして……」


なんだろうこの状況。

なんかちょっとデジャブなんだけど?


この手は離していいのかな?いやでも何か離せない雰囲気醸し出してるし……いやでもダメだよね。


僕の後ろにも待ってる人がつっかえてるし、これ以上時間を取らせる訳にはいかない。


少し名残惜しいけど、ぎゅっと握りしめた手を離した。


「えと、すみません。後ろがつっかえてるので」


「っ、あぁごめんなさい。大変失礼しました。それとすみません、最後に一つだけ質問があるんですけど……いいですか?」


質問?なんだろう……?

僕自身ちょっと気になるしなぁ。


まぁ、しつもんくらいならいいっか!


「大丈夫ですよ!」


「じゃあ……貴方はなぜ、列に割り込まずにきちんと並んだんですか?」


「……?えとそれって、当たり前のことじゃないんですか?僕だって他人に割り込まれたら嫌ですし、ならそれを他人にすべきじゃないと思ったんですけど……」


思ってた質問と違って拍子抜けしつつも、至極真っ当なことを答える。まぁそりゃそうだよね?誰だって皆が列に並んでたら割り込もうと思わないし、きっちり並ぶと思うんだけどなぁ。


なんてちょっと楽観視してたら、夜ノ帳さんを見れば、酷く驚いたように感極まっていた……え、なんでぇ?


この世界の常識がちょっと僕分からなくなりそうだよ……。


「そう、ですか───まさか、貴方のような人がいるなんて……私、これからも執筆頑張れそうです」


「えと……はい、頑張ってください!」


うーん、いまだに話の全容はよく分からないけど、つまり僕が夜ノ帳さんの活動のギアを引き上げたってこと大丈夫かな?


まぁ、そういうことなら力になれよかったと思う……何の力になったのかは分からないけど。


「それじゃ!」


「はい、それでは」


サインの入った漫画をエコバッグの中にしっかりと入れて、最後に大きく夜ノ帳さんに手を振った。


にしても、途中ジーッと僕の顔を凝視してきたけど、僕が男だって分かったのかな?……まぁ、考えすぎだよね。

今日はそれで痛い目にあってるし、深く考えるのはやめとこ。


そして今度こそ僕は、書店から踵を返し家へと戻ったのだった。

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