第10話 二月十四日

――二月十四日 夜



 春までまだ遠い冬空の下、沙織は彼女のバディと共に電車を待っていた。二人ともボランティア前なので、スーツに身を包んで、その上からコートを羽織っていた。


「はい、バレンタイン」


 唐突に思いついたように、ぶっきらぼうにそう言って、沙織はおもむろに鞄を漁ると、自分のバディにチョコレートを渡した。それは綺麗に包装してあり、ただならぬ気合が入っているように見えた。


「いや嬉しいんだけどさ、友チョコなのに凝り過ぎじゃね?」


 バディはボブカットの金髪が印象的な少女だった。名前は理香という名前で、数年の付き合いになる相手だった。彼女は困ったように髪を弄いつつ、それを受け取った。


「そう?」

「いやまあ、いいんだけどさ、本番に向けた準備って訳?」

「……?」


 沙織は全く理解ができないという風に首をかしげる。理香はそんな彼女を見てため息を吐いた。


「ごめん、あんたはそんなこと考えられる子じゃなかったね」


 恋人を作ったり、色恋を楽しんだりするのには、沙織はそこまで情緒が成長していない。というのが理香の見立てであり、実際それは正しかった。


「うん、ありがとう」

「褒めてはいないんだけどね……」


 機械的な反応を返す彼女に、理香は呆れて額を抑える。


 沙織は覚醒者だ。

 先進国人口の10%は覚醒者と言われているが、自覚的に能力を扱える人間はそう多くない。全世界的に起きたナノマシン散布事故は、北半球で発生し、成層圏を滞留して徐々に全世界へと散っている。今はG20が中心となって隠蔽しているが、発展途上国ではその隠蔽工作が間に合わなくなってきていた。


 情報統制にほころびが出てくると、覚醒者を目当てとした破壊工作、兵士としての洗脳をしようとする人間たちが増え始める。沙織はそう言う人間の被害者で、既に彼女以外の家族は、日本の非合法集団に殺害されていた。


「それじゃ、今夜はボランティアだけど、大丈夫?」

「うん」


 理香が彼女を気遣うように問いかけると、沙織は短く、表情を崩さずに答える。彼女の表面的な無機質さは、幼い頃に両親と死別したことによる反動だと、沙織の主治医は言っていた。


「はぁー……年頃の女の子があんな事をするのに、即答でOKするなんて……あたしゃ心配だよ」

「ごめん」


 表情にはほとんど出ないが、彼女は彼女で楽しみはするし、悲しむこともある。それは理香も知っていた。


「ま、あたしも同じことしてるんだから、とやかく言えないよね」


 そう言って彼女は肩を竦め、沙織と一緒に深河への快速電車へ乗り込んだ。


「それにしても、あんたがバレンタインを知ってるとはねえ」

「去年、理香が騒いでた」

「ん、去年……?」


 二人で隣り合った席に座り、理香は顎に指を当てて記憶を探る。去年の二月辺りに、何かあっただろうか。


「ほら、隆志く――」

「沙織、その話は止めましょう」


 沙織が名前を言おうとしたところで、理香は彼女の口を塞ぐ。


「そうだったね……去年のバレンタインにフラれてたね……」

「まだ立ち直れない?」

「うん……」


 去年のバレンタイン、理香は学校の先輩にチョコを渡して想いを告げようとしたところ、ばったりその先輩と彼女がいちゃついているところに出くわしてしまったのだった。


「いや、呼び出しとかしなかったあたしも悪いとは思うよ? でも彼女がいるならまだしも、まさか現場に居合わせるとは思わないじゃん」


 理香はがっくりと肩を落とす。なおその先輩は、卒業と同時にその彼女と籍を入れて、見事ゴールインしたらしいと、沙織は聞いていた。


「あーもー、嫌なこと思い出した!」

「でも、私はちょっとうれしい」


 電車に揺られつつ、沙織は自分の気持ちを確かめるようにつぶやいた。


「は? どういう事? 答えによっては許さないけど」

「あの、だって、理香に彼氏ができると、私と一緒にいてくれる時間が短くなっちゃうから」


 不機嫌な理香に、沙織は正直な気持ちを吐露する。彼女は毒気を抜かれてしまったようで、本日何度目かの溜息をついて、沙織の頭を撫でた。


「理香……?」

「はぁー、あんたは可愛いねえ、そうだよ、あたしには沙織がいる! 寂しくない!」


 理香はそう言って、拳を握る。


 そんな彼女の様子を見て、沙織は少しだけ頬を緩めるのだった。



「来たか、ブラン、アイ」

「はい、レオ先輩! コールサイン意識消失(ブランクアウト)、鬼目(デーモンアイ)と共に、ただいま到着しました!」

「アイ、到着しました」


 レオの呼びかけに、理香――ブランは意気揚々と返事をする。アイも続いてあいさつをするが、彼女はブランよりもかなり控えめだった。


「フフッ、若くて元気がいいって素晴らしいよねぇ」


 サンライトが入っている雑居ビルの二階、古びたデスクに腰掛けたロボが、彼女たちを揶揄するようにつぶやく。


「実績がついてくれば言う事はないんだけど」

「ぐっ……申し訳ないです」


 ロボの言う事はもっともで、二人は前回のボランティアで、レオ達の援護を受けなければならない状況に陥っていた。


「ボクたちが欲しいのは言葉じゃなくて行動、成果なんだけど? そもそもさあ――」

「ロボ」


 ねちねちとした説教が始まりそうになったのを、レオが制止する。ロボは肩を竦め、つまらなそうに「ただの先輩後輩のじゃれ合いじゃないか」と零した。


「今回の仕事は、深河繁華街の調査だ。未成年相手の売春斡旋の情報が我々の所に来ている。本拠地を割り出せればそのまま壊滅させてもいいが、無理はするな」

「ちょっ……あたし達でももっと危険度が高いボランティアできますよ!」


 ブランはボランティアの内容を聞いて、レオに噛みつく。覚醒者二人のバディは、基本的に破壊工作が主な任務となるはずで、調査や囮捜査は非覚醒者に任されている筈だった。


「ブラン――」

「前回失敗したからって、あんまりにも舐められ過ぎじゃないです?」


 レオがなだめようとするがブランは自分の言葉でヒートアップしていくように止まらず、ひたすらまくし立てていく。


「そんなつもりなら、あたしもアイも、今後ボランティアには――」

「落ち着け」


 レオは静かにそう口にして、ブランの言葉を一刀両断する。


「これはただの調査ではない」


 そう告げて、レオはボランティアの内容を詳しく説明し始める。


「まずは、ここ数年の深河市内での行方不明者件数だ」


 レオが見せた資料には、あるタイミングから十代~三十代前半の失踪者が跳ね上がっているというデータが載せられていた。


「正直なところ、夜の深河繫華街は十代が出歩くような場所ではない。だが、この統計にあるように、ある時から明らかに有意な増加をしている」


 そして、レオは続けて資料の束をブランに渡してそれに目を通させる。その資料は数か月単位の深河繁華街調査報告だった。


「非覚醒者を使って調べたが『何かが起きているが何が起きているか分からない』という状況だ。そこで、我々は君達を使う事にした」


 レオはそう言って、自分の口を右手で覆う。


「だが、このボランティアには危険が付きまとう。正直なところ、君達に任せるのは心苦しいが、油断なく臨んで欲しい」


 彼が口を覆って話す時は、決まって他のメンバーに無理を強いる時で、癖だった。ブランはそれを理解していたので、レオが自分を納得させるための方便として、この話をした訳ではないことを理解した。


「はいっ分かりました! 不詳ブラン・アイ両名はしっかりとボランティアさせていただきます!」



 深河繁華街の中に、サンライトの事務所はあるものの、非覚醒者の調査によって失踪者が連続している地域はそこからしばらく歩いたエリアだという事は分かっていた。


「うわぁ……眩しすぎ、目がチカチカしてきたかも」


 ブランは目を細めて周囲の建物を見回す。ハートマークや女性の脚を模した電飾、そして星や蝶ネクタイが描かれたパネル、そしてでかでかと載っているホストの顔写真――大量のキャバレーやクラブの看板が所狭しと建物の表面を埋め尽くしていた。


「アイは大丈夫なの? あたしもう空気だけで目が回りそうなんだけど」

「うん、看板をあんまり見ないようにして、道を歩いてる人を良く見るようにすると気になりにくいかも」


 ふらふらになっているブランとは対照的に、アイは落ち着いていた。


 彼女のアドバイスに従って、ブランは道を歩いている人へ視線を向ける。そうしてしばらくすると、確かに気分が落ち着いてくるのを感じた。


「大丈夫?」

「何とか……ありがとね、アイ」


 落ち着いたところで、二人は調査を開始する。


 未成年が夜の繁華街を歩くのは目立つし、警察官が辺りで目を光らせている。だが、二人はボランティア中なのでスーツを着ており、一見しただけでは未成年と分からないようになっていた。


「落ち着かない……」


 アイの隣を警察官がすれ違って、彼女は補導される心配から、身体を震わせる。


「アイは見た目だけは大人びてるんだから、堂々としてればいいのよ、むしろあたしは童顔だからなるべく顔合わせたくないわ」


 そう言って、ブランは自分のボブヘアーを顔に集めて表情を見えなくする。


「ブランの顔は可愛くていいと思う」

「はいはい、今は嫌味言わなくていいから」

「褒めたのに」


 彼女は童顔であることにコンプレックスを持っている。それは、バディであるアイだけが知っている情報だった。


「おっ、お姉ちゃんたちどこかお店決めてる?」


 対して、アイは女子としては長身で、誰もが振り返るような整った顔立ちをしていた。スーツの上にコートを羽織る姿は、辣腕の女社長のような雰囲気があった。


「……えと」


 だが、その中身は普通の女子高生――いや、情緒に関してはそれよりも幼かった。それが逆に「大人っぽい美人なのにどこか付け入る隙がありそう」と受け取られて、キャッチから声を掛けられることが多かった。


「いやさ、いいお店知ってるんだけど――」

「すいませーん、急いでるんでぇー」


 無遠慮で強引なキャッチと答えに窮しているアイの間にブランが割って入る。


「え、ちょっ――」

「ホントすいませんねぇー、また今度行かせてもらいますー」


 ブランはアイの手を引いてキャッチから離れて行く。


「ありがとう」

「はぁ、ホンットあんたはあたしがいないとダメなんだから」


 ブランは溜息をつくと、その手を掴んだまま、繁華街の奥――失踪者が入っていくのを見た。という証言が複数あるクラブへと足を進めていく。


 そこへ近づくにつれ、人ごみの質が変わる。仕事帰りのサラリーマンやホスト、客引きが大多数だった構成が、段々とゴシックロリータファッションやストリートパンクファッションの若者へと変質していき、ブランとアイのスーツ姿は、逆に浮き始めていた。


「おい、姉ちゃんたち」


 異質なものは、いくら堂々としていようと、警戒心を持たれてしまう。虚ろな目をしたスキンヘッドの男に呼び止められて、二人は立ち止まらざるを得なかった。


「ここはまともな奴の来る場所じゃねえよ、とっとと帰んな」

「そういう訳に行かない」


 アイはそう答えるとコートの下に隠している鉄棒に手を掛ける。突然の襲撃にも対応できるよう、鉄棒はいつでも抜き放てるようになっていた。


 彼女は、他人からの好意には弱いが、敵意にはめっぽう強く、拳を振り上げられた時点で、彼に鉄棒を食らわせる準備は出来ていた。


「チッ、命知らずの馬鹿が死のうと興味はねえけどよ、この先にはお前が求めているような事は何一つねえぞ」

「邪魔をするようなら――」

「ちょ―っと待った! アイ、ストップ! お兄さんも一旦落ち着いて!」


 一触即発の雰囲気になったところで、ブランが仲裁に入る。人づきあいに関して、何事もピーキーすぎるアイにとって、ブランはブレーキであり、潤滑剤であり、緩衝材だった。


「でも、ブラン……」

「でもじゃないでしょ!? 折角何か知ってそうな人なのに! いや、ホントうちの相方がすいません。できれば話を聞かせてほしいんですけど、可能ですかね?」

「お、おう……」


 ブランの勢いに、顔色の悪いスキンヘッドは毒気を抜かれたように頷いた。


「とりあえず、道のど真ん中で話すのもアレですし、ちょっと場所を移しましょっか!」


 相手の手が止まったら、そのまま押し込んでしまえ。それがブランの人生で得た対人スキルだった。


 状況を整理される前にスキンヘッドを路地裏へと押し込み、背の高いアイで大通り側、彼女自身が路地側を塞いで、逃げられない状況を作り出す。


「それで、ここには何があるの?」

「言えねえ、だけどあんたたちが求めてるような物じゃないぜ」


 男は二人からの威圧にものともせず、頑として詳細を話そうとしない。


「あ、そうなんだ。じゃあもう一回聞くね――この先には何があるの? くわしい場所も教えて?」


 ブランはもう一度同じ質問をする。男は当然ながら答えるつもりは無いようで首を横にふった。


「ここら辺を牛耳ってるボスの隠れ家――っ!? 場所はこの先の角を曲がってすぐ、見張りがいるから簡単に分かるはずだ――っ!!!」


 男の表情が、驚愕に見開かれる。話をするつもりは無く。とにかくこの二人を家に帰してしまいたい。そう考えていたはずだった。しかし口から出たのは、隠したい情報そのものだった。


「ふうん、ところで、この近辺で失踪事件が頻発しているようだけど」

「そりゃここが風俗とタコ部屋にトバすための仕分け所だからだよ」


 さらに続く質問に、男は正直に答えてしまう。そんな自分が信じられないとばかりに、彼は自分の口を必死に抑える。これ以上の情報は漏らすわけにはいかない。そう顔に書いてあった。


「へえ、何の罪もない子を」

「もがっ……いいや、ホストと嬢に入れこみすぎた奴らだよ、色使って金を出させて、絞れなくなったらタコ部屋にぶち込んで金を稼がせる。そういう所だ」


 口で抑えても意味がなかった。彼の脳内にある情報は、ひび割れたコップのように、簡単に溢れ出てしまう。


「なるほどね、ちなみにその組織の全貌は?」

「それは知らない。俺はここしか居場所が無いから人の出入りをよく見ているだけだ」

「そう、ありがと」


 ブランはお礼を言う。その途端男は弾かれたように喉元を抑えて荒々しく息をする。自分でも信じられないというように、男は恐怖の表情でブランの顔を見た


「はぁ、はぁ……っこのガキ……一体――?」

「覚醒能力:ヒュプノス」


 それは、対象の意識に空白を作るという能力で、彼女はそれを男の警戒心に使った。そうなると彼は秘密を守ることはできなくなり、正直に話すしかなくなる。


「大丈夫、安心してくださいよ、誰でもそうなるんですから。だから、お兄さんは何も悪くないです」


 ただ、勿論その能力には制限があり、対象は一人まで、そして、距離も離れるほど体力を消耗するという制限がある。限定的な能力ではあるが、尋問をする時にはこの上なく強力な物だった。


「さ、アイ、情報は得られたから先に行きましょ?」

「ブラン、でも調査の報告だけでもいいってレオは言ってたけど」

「なーにいってんの! このままだとあたしたち、舐められっぱなしだよ! レオさんにも、ロボにも!」


 ブランは拳を握って高らかに宣言する。その勢いは、アイに止められるものではなかった。



 男の言う通り、道の角を曲がると、その先には建物がいくつか並んでおり、そのうち一つのビルには常に男が一人立っていた。一定範囲を行ったり来たりして、時々腰掛けたりしており、服装も普通のストリートファッションで、違和感なく周囲に溶け込んでいる。


 だが、しきりに周囲を気にして、パーカーのポケットに手を突っ込んで中の物を弄っている様子を見て、二人は彼が見張りであるという事を見抜いた。


「ブラン、どうする?」


 アイはコートの下にある鉄棒を握りしめる。だが、ブランはそれを手で制した。


「それだと周りの人が騒いじゃうでしょ、あたしの能力で見張りを抜けて、そこからアイの『ヤスリ』を使おう」


 アイはその作戦を受け入れる意図でうなずき、鉄棒から手を離す。


 ブランが言う通り、アイの持っている鉄棒は、細かい棘がびっしりと生えており、巨大なヤスリとなっている。鬼目と呼ばれるこの形状が、彼女のコールサインである「デーモンアイ」の由来となっていた。


「じゃ、行きましょうかね」

「うん」


 アイが頷くのを確認すると、ブランは堂々と、まっすぐに目的の建物へと向かう。


「おい、嬢ちゃん達――」


 見張りの男が二人を止めようと立ちはだかるが、ブランの能力により、彼はそれ以上の反応を返す事はなくなってしまった。


「お仕事ご苦労様」

「……」


 反応の無い男に、ブランはねぎらいの言葉を掛けて、本拠地の中へと入っていく。


「っぶはぁ!! さすがに二人連続はキッツいわ……」


 ビルの入り口を通り、扉を閉めたところでブランが能力を解除する。内部は意外なほど静かで、見張り以外の人間はいないようだった。


「へぇ、本拠地にしてはこじんまりしてるじゃないの」


 深河繁華街は、そもそも大きな建物が存在しない。それはこの辺りが商業の中心として栄えた歴史がある。大きな土地は切り売りされ、それ以外の土地は早い者勝ちとばかりに多くの商人が権利を主張する。その結果出来上がったのが、あの街並みであり、そこで目立たないようにするには、ある程度以上大きい建物を作らないことだった。


「ブラン」


 アイがひっそりと彼女を呼び階段へと滑り込む。小規模ながらエレベーターが付いているこの建物は、階段を使う人間がほとんどいないため、潜入であればここを利用しない手はなかった。


「意外と楽に入ってこれた」

「そーね、内部構造の情報が無いからここから先は手探りだけど」


 アイの言葉に答えつつ、ブランはブドウ糖のタブレットを噛み砕く。長年の経験から、この能力を使った反動の疲労には、糖分の摂取が最も効果があるという事が分かっていた。


「とりあえず、馬鹿と煙は高いところが好きっていうし、一番上の階から探っていこうか」

「いいけど……その言い方だとブランが馬鹿って事にならない?」


 ブランはアイにチョップをかます。


「痛い……」

「ここで言う馬鹿は悪党の事だから、あたしの事じゃないから」


 アイのズレた解釈を訂正して、二人は慎重に階段を上っていく。その途中では、何度か人の気配はしたものの、階段を利用する気配は全く無かった。


「はぁ、あたし達は助かるけど、この感じじゃ、ここにいる人たち全員運動不足ね」

「……?」


 ジョークが伝わらなかったことで苦笑いしつつ、ブランとアイは最上階の扉まで到着した。


 この先の状況は分からないものの、間違いなく扉を開ければ敵の本拠地である。扉を開ければ間違いなく、すぐに戦闘になるはずだった。


「アイ」

「うん」


 アイは扉に張り付いて、中の様子を耳で感じ取ろうとする。しかし、扉が防音素材なのか、静かなのか、内部に様子は一切分からなかった。


 仕方なく、アイは鉄棒――ヤスリを抜いて握りしめ、ドアノブに手を掛ける。


「すぅ……っ!!」


 アイが扉を蹴り開けて、部屋の中に入る。彼女が周囲を殲滅し、安全になったところでブランが尋問をして、制圧する。そういう作戦のはずだった。


「ようやくか、待ちくたびれたぞ」


 しかし、そこには銃口をこちらへ向けた男たちが大勢集まっていた。アイの能力ならば、この場を無理やり切り抜けて殲滅することも可能だが、後ろにはブランが控えており、階段と部屋を隔てる鉄扉程度では、銃弾の盾になるかが怪しかった。


「ったく、覚醒者はちゃんと機械にまで気を配れよな。監視カメラにがっつり映ってんだよ」


 銃を構える男たちのさらに奥で、紫髪の男が椅子に座ったまま、葉巻の煙を吐く。


「っ……」


 やはり、一度戻って状況を立て直すべきだった。ブランはそう考えて、奥歯を噛みしめる。


「スコピオの兄貴、一階から下の階までは封鎖終わりました」


 下の階からは、革靴の足音が聞こえる。どうやら自分たちを挟み撃ちにするつもりのようだ。


「おう、御苦労……んじゃ、お前らはどうする? 俺としちゃどっちでもいいぜ、今殺すか後で殺すかの違いだけどな、ギャハハハハ!!」

「……」


 ブランが自分の早計な判断でこの状況になってしまったことを悔いていると、アイは静かに体を傾け、次の瞬間には手近な男二人を鉄棒で削り殺していた。


「ぐああっ!?」

「なっ!? あいつを止めろ!」


 状況が動いた瞬間、ブランは鉄扉を立てに閉じこもるわけでもなく、アイの後を追うように走り出していた。同士討ちを避けるため、銃弾はそう簡単には撃たれない。そう踏んでの行動だった。


 アイは行く手を切り開くように鉄棒を振ると、奥で腰掛けている男の脇を駆け抜けて、鉄棒を窓ガラスに力いっぱいぶつけた。


 強化防弾ガラスで出来ていた窓は、粉々にひび割れて、硝子のシャワーを外に降らせる。


「ブラン!」


 そしてアイは振り向いて、走り込んできていたブランを受け止め、そのまま窓から飛び降りた。


 アイの能力は身体の再生が異常に速い事であり、この高さから落下しても、頭さえ守れば即死はしない為、命は助かるはずだった。そしてブランの肉体は普通の人間と同じであるが、アイという人間のクッションがあることで、骨折程度で済ませることができるはずだった。


 追いかけてきていた男たちは、何とか始末しようと引き金を引く、アイの視点からは、何度も光る銃口が見えていた。


「ぐっ、あっ!!」


 何とか背中から落ちて、身体の再生を終えたアイは、落下の衝撃からか、血を流してぐったりしたブランを抱き上げて、その場から逃げるように走り出した。



「ブラン……!」


 追っ手を撒くようになんとか逃げ切り、レオ達に救援を依頼して、アイは町から身を隠すように路地裏に隠れつつ、ブランの応急処置をしようとした。


「はは、失敗しちゃった……ね」

「黙ってて、今――」


 彼女の怪我は四肢の骨折だと思っていた。だから鉄棒を椹木にして、固定さえすれば大丈夫だと思っていた。


 しかし、ブランは口から血を流し、腹部には背中ま貫通した銃創が出来ている。窓から飛び降りた際に一発だけ、命中していたのだ。


「結局……あたし達――いや、あたしは、駄目だったみたい……この仕事に向いてなかったんだね」

「黙って! 今から止血をするから!」


 うわ言のように喋る彼女の言葉を制して、アイは必死で銃創を抑える。しかし、その傷は内臓を貫通しており、抑えたところでどうにかなる出血ではなかった。


「アイ……ごめんね、どうにかしてあんたを……笑わせたかったけど――」


 言葉はそこで途切れる。身体からは力が抜けて、赤黒い血液のついたボブヘアーが、力なく垂れさがる。


「ブラン? ブ――」


 アイは、その血まみれの両手から、彼女の命がすり抜けてしまったことを直感する。そして、その時だけは、アンブラのエージェントではなく、桐谷沙織として、親友である理香への感情を爆発させた。


――私は貴女と一緒にいる時、笑わなかったけれど、とても楽しかった。

――貴女さえいれば、寂しさを忘れられた。

――いなくならないでほしい。ずっと私と一緒にいてくれれば、他に何もいらなかったのに。


 声も上げることはできなかった。ただただ涙があふれた。既に怪我が治って、健康体の自分が恨めしかった。


 彼女たちの悲劇を包むように、バレンタインデーの夜空からは、白くやわらかな雪が優しく降り始めていた。

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