猫と私とパーティードレス
ねむみ
猫と私とパーティードレス
私にはときどきびっくりするほど静かに泣くときがあって、今日がたまたまそれだった。表情が変わるでも喉奥でしゃくりあげるでもなく、どこにも焦点を置いていない瞳に温かな涙が溜まって、それらが外気に触れて冷たい粒となって頬を転がり落ちていく。顎の辺りで濡れたマフラーの感覚が少し気持ち悪いが、長く伸びた前髪とふかふかのマフラーが周囲から少しでもこの泣きっ面を覆い隠してくれるので有難い。人目を憚らず泣いているくせに、頭のどこか冷静な部分がちょっとだけ恥ずかしいと訴えている。
休日の昼前、がたがたと揺れ動く電車内は人が多く、私は奇跡的に座れた席に深く沈み込み、ふくらはぎを座席下の暖房で温めていた。チェックのスカートから伸びる脚は黒いタイツに包まれており、足元のスエードのおかげもあってとても暖かい。らくだ色のダッフルコートの下はほわほわと暖かく、首の赤いマフラーも熱を逃がさないように頑張っているが、今は涙のせいで部分的に冷たい。
こういうとき、誰かに見られていないか、怪訝な顔をされていないか、普通は気にするものだと思うが、慣れ過ぎた私はもはや周囲を見回すこともない。むしろ見回したほうが、涙で湿った視線が他人と絡んでしまう。わざわざ目を合わせに行くのはあまりにも気まずいし、相手の立場になって考えるとあまりにも居た堪れない。どうせ泣いていることなど多少知れているのだから、誰とも目を合わさずに、じっとマフラーに埋もれていればよい。
ゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じると、頬の上ですでに涙が乾き始めていた。人々は電車の中で知らない人が泣いていても次の瞬間には忘れている。
目的地である駅が近づき、無機質なアナウンスが車内に響いた。電車は左右に大きく揺れたのちにゆっくり減速し、やがて完全に停止した。膝の上に置いていた茶色いハンドバッグを手におもむろに立ち上がり、すみません通ります、と言いながら車両の出口を目指す。多数の路線が乗り入れている大きな駅のため、降りる人も多ければ乗ってくる人も多い。ぶつかり、ぶつかられ、ごめんなさいごめんなさいと謝りながらホームの柱の脇にいったん留まると、私はハンドバッグからスマートホンを取り出し、相手に「着きました」とメッセージを送った。程なくして既読が付き、相手がどこの改札で待っているかが送られてくる。すぐに視線を上げ、ホームの屋根に無数にぶら下がっている案内板から待ち合わせ場所を差しているものを探した。
「ふーちゃん」
待ち合わせ場所の改札で軽くつま先立ちになって遠くを見渡していると、思ったより近い場所から聞き慣れた声がした。灯台下暗しとはまさしくこのことで、私は踵を降ろして小さく俯く。お気に入りらしいグレーのジャケットを羽織った佐々倉さんが軽く手を振った。
「お待たせしてごめんなさい」
「なんかちょっと、あれみたいだったよ、ミーアキャット」
佐々倉さんが柔く微笑み、冷えた指先で私の頬を撫でた。一瞬、拭いもしなかった涙の痕が残っていないかと思って身構えたが、綺麗に乾いていたらしい。世の中には、泣くほど悲しいことがあるとすぐに恋人に相談するというカップルが多くいるというし、私自身も悲しければなんでも佐々倉さんには言うようにしていたが、こうしてときどき涙があふれるのだということだけは言えずにいた。佐々倉さんは頬を撫でていた指を離すと、身体の横に添わせたままだった私の手を取った。
「お昼どこで食べようか」
待ち合わせはちょうど正午だった。横を歩く佐々倉さんが長い体躯を折り曲げつつ尋ねるので、私は「ミートボールスパゲッティ」と小さく口に出した。へぇ、と佐々倉さんの目が面白そうに細められる。
「もしかして昨日の金曜ロードショー?」
「観てましたか」
「観てなかったけど、ふーちゃんは観てるかもって思ってたよ」
世紀の大怪盗が相棒とスパゲッティを貪るシーンが有名なあの映画は、昨夜テレビで放映されていた。行動を予測されていたことに若干の恥ずかしさを覚えつつ、「だから食べてみたくなったんです」と言い訳っぽく口にする。佐々倉さんはいいね、と笑うと、なんとなく進ませていた足に明確な意思を持たせて歩き出した。といっても急にスピードが速くなるとかではなく、私に合わせた歩幅で、でも力強く私を導こうとしているような歩き方だ。ひとりだと都会の波にうまく乗れずにふらふらしてしまう私も、この手に引っ張られているときはなんだかひどく安心する。ただ、それと同じ量のぼんやりとした不安を抱えているのも事実であり、釣り合いがとれた天秤のような揺れを私は心の中で感じていた。
駅直結のデパートは、年末商戦の影響で混み合っていた。人を掻き分けつつ上階の飲食店街に上がると、幾多に並ぶレストランに列ができているのが見えた。私たちはとあるイタリアンの店先でウェイティングリストに名前を書くと、ずらりと並べられた椅子に腰掛ける人々の最後尾に座った。
「今日はいくら持たされてきたの」
「えっと、四万円、一応もらってきました。これで髪飾りも含めて買ってきてねって」
「そっか。かわいいのを買おうね」
横並びに座っていると、立っているときに比べて顔が近くなるので恥ずかしい。佐々倉さんに顔を向けているのかいないのか曖昧な角度で返答していると、彼はまた私の頬を指先でするりと撫でた。驚いて背筋を伸ばすと、やや心配そうな表情の佐々倉さんと目が合う。やっとこちらを見たと言わんばかりの顔で私の頬をつまみ、「どうしたの」と目を覗き込まれる。優しげな垂れ目は柔らかな光を湛えていた。佐々倉さんの瞳は普通の黒色なのに、雰囲気のせいかどこか不思議な色身を帯びて見える。例えるなら夜の海のような、あるいは夜空のような、そういう深い色合いを持ってきらめいているような、そんな感じがする。
どうもしませんよと私が笑うと、佐々倉さんはわずかに口を尖らせて不満げに肩をすくめた。その仕草がちょっぴりアメリカンに映ったのでくすくす笑っていると、ちょうどレストランのウェイターが「二名様でお待ちのササクラ様ー」と待ち列のほうに向かって声を張り上げた。
とっさに「はい」と答えて立ち上がり、次いで佐々倉さんもゆっくりと腰を上げる。そのときの佐々倉さんの表情がやけに満足げだったので、今度はこちらから「どうしたんですか」と問うと、彼は囁くように「なんでもないよ」と答えて口元を緩ませた。
私のミートボールスパゲッティと佐々倉さんの頼んだマカロニグラタンが卓に届くと、私たちは軽く手を合わせてからカトラリーの入ったかごに手を伸ばした。
「どういうのを買うのか、自分の中でなんとなく決めてあるの?」
銀色のスプーンに乗せられたマカロニを冷ましながら佐々倉さんが訊く。私はフォークを置いてコップの水を口に含んだ。
「あんまり。ネットでパーティードレスって画像検索して、こういうもんかって把握してきただけです」
「そっか。女の子はいろいろ用意しなきゃいけなくて大変だな」
「その分、選ぶ楽しみもありますけどね」
「ふーちゃんならきっとかわいくて上品なのが似合うよ。楽しみだな」
顎の辺りに指を当てて佐々倉さんが笑う。彼が当たり前のようにそう言ってくれるのは背中の辺りがむずむずするくらい嬉しいのに、私はどことなく落ち着かないような気持ちにもなってしまう。曖昧に微笑み返してフォークを手に取った。泳ぎそうになる視線を皿の上に戻し、私はミートボールを軽く転がした。
お兄ちゃんが結婚だなんて嘘みたいだな。歌うように呟きながらフォーマルドレスの波間を行く。食事を済ませたイタリアンからふたつほど階を下ったところにあるドレスショップには、流行りの色から人と被らない色まで、色とりどりの服が花畑のような色合いで並べられていた。振り返ると花畑の中を歩いてくる佐々倉さんと目が合い、にこりと微笑まれる。柔和な印象の佐々倉さんには、パステルカラーがよく似合う。
「だってあいつ、フツーに意地悪でしたもん。とても結婚なんてできる人だとは思いませんでした」
「きょうだいってそういうものだよ。ふーちゃんだって、俺と接しているときほど兄ちゃんに対してかわいげがあるわけじゃないだろ」
「それはそうですけど……」
軽く口を尖らしつつ、そばにあったドレスになんとなく触れてみる。普段、職場ではお兄ちゃんのことを「谷」と呼ぶ佐々倉さんだが、私と話しているときだけは「兄ちゃん」と言う。
「と言っても、俺にはきょうだいがいないからわかんないんだけどね」
手に取ったドレスを一緒に覗き込む。目が覚めるような眩しい黄色のドレスは裾がふんわりしてシルエットが女の子らしく、ハイネックが慎ましやかさを演出している。腰の辺りに大きなリボンがあり、それがチャームポイントになっているらしかった。
「これかわいい」
私がこぼすより先に、佐々倉さんが肩越しに前のめってそう言った。近くにあったから適当に触れてみたものだが、なかなかいいものと巡り会えたのではないかと思う。それはくじで引きがよかったときの喜びとよく似ていた。
ハンガーラックからドレスを取り、しげしげと眺めてみる。見れば見るほどかわいいが、露出が少ないのでどことなく幼さを感じる。二十一というのは微妙な年齢で、きっとこういうドレスを着ていても許されるし、もう少し大人っぽい感じのドレスを着ても、きっと似合う。
私は店内中央のとあるマネキンが着せられていたドレスに目を向けると、ほぼほぼ即決で指を差した。大人っぽければなんでもよかったのかもしれない。
この黄色いドレスと、あれで試着がしてみたい。佐々倉さんはちょっとだけ意外そうに目を見開いたが、いいんじゃないかな、と微笑むだけだった。
マネキンが着せられていたドレスは、紺色のオフショルダーだった。後ろの裾は長めなのに前側は短めで、へその辺りできらきらと石が光っている。ただの白いマネキンをゴージャスでグラマラスに見せていたはずのそれは――私が着るとなぜか急に色褪せて見えた。
おかしいなあ、と鏡に向かってとりあえず訝ってみるが、理由はなんとなくわかっている。そもそも私は童顔だし、貧相な体型で肋骨が少しだけ浮いている。オフショルダーなんていうのは、デコルテがもっとたっぷりしている女子のものだったのだ。私のものではない。
大人っぽいドレスが大人にしてくれるわけではない。では、いったいなにが私を大人にしてくれるというのだろう。私は試着室のカーテンを開けることなくドレスを脱ぐと、黄色いドレスを手に取った。予想していた通り、違和感なく私の身体に馴染むし、結婚式という華やかな場によく合う色だ。ハイネックなので貧相な身体も目立たない。これなら、なにかと注目されがちな親族席にいても大丈夫だ。新郎の妹として役割を果たしにいくための服。不都合はないだろう。
「これにします」
そう口にしながらカーテンを開けると、かしゃ、と機械の音が私を出迎えた。思わず声を上げ、カーテンで身体を隠す。
「えー、隠すことないじゃん。似合ってるよ、かわいい」
スマホを構えた佐々倉さんがおかしそうに笑った。予告なしに撮るなんて、びっくりするじゃないか。不満を漏らしながら再びドレスをお披露目すると、佐々倉さんは嬉しそうにうんうんと頷き、もう片方はいいの? と首を傾げた。
「そっちも似合うと思ったのに」
試着室の奥の紺を見やる佐々倉さんは、きっと私があれを着てみせても褒めそやすだろう。基本的に否定的なことは言わない人だ。でも、きっとこの黄色いドレスを着ているときほど喜ばない。確証はないが、そう思った。
「別にいいかなあって思って。こっちが気に入っちゃいましたし」
曖昧に視線を漂わせながら嘯く。佐々倉さんはふーんとだけ小さく返すと、最後にもう一枚だけ、とスマホを構えた。
華やかな牡丹の髪飾りは黄色とよく合う白色で、これもわりとすぐに決めてしまったものだ。とはいえ、佐々倉さんのほうがあれもこれもと髪の毛に当ててきたので、私の買い物にしては時間がかかったほうだ。黄色や黄緑などドレスに合う色から、全然合わない青や赤まで、様々にかざしていく。
「ふーちゃんは何色でも似合うね」
「こういうのって誰でも似合うようにできてるんですよ」
真っ赤な薔薇の下で膨れる私を見て、佐々倉さんはいかにも楽しそうに微笑んだ。
「うん、でも、ふーちゃんは白が似合うかな」
私が最初から最後まで手放さなかった白牡丹の髪飾りをレジに通した後、佐々倉さんがぽつりとそう言った。ドレスの入った袋に髪飾りをしまっていた私が戸惑って顔を上げると、私を見下ろす佐々倉さんと目が合った。瞳は深い色を宿していた。夜の海。まるで深淵だ。
ときどき、この目を見ていると感情がこわばることがある。怖いのとも違うし、不安なのとも違う。きっとついていけば幸せになれると思うし、信頼に値する瞳だと思う。
ずっとついていけば大丈夫だ。ともに歩くって、そういうことなんじゃないのか。
将来について、考えていないということはない。でもそれは、自分の中であまりにも現実的でなくて、戸惑うことがある。とてもとても、戸惑うことがあるのだ。
「ただいま」
家の玄関をくぐると、真っ先にミィが出迎えてくれた。甘えるようににゃんにゃん言うので、よしよしかわいいね、と顔の辺りをむにむに撫でつつ、屈み込んでブーツの紐を解く。
「なんだ、早かったんだな。夕飯食ってきてないの?」
ミィを抱っこしながらリビングに入ると、テレビの前のソファからお兄ちゃんが振り返った。
「今日母さんいないからな、パスタでも茹でで食おうぜ。俺カルボナーラな」
「ごめん、お昼パスタだったんだ……」
苦笑しながらミィを床に放し、後ろからソファの背もたれに寄り掛かる。テレビではゴールデンタイムのバラエティーが放送されており、公開中の映画に出演している若手俳優が司会者に質問攻めにされていた。
「昨日から佐々倉の奴うきうきしててうざかったからさ、今日はそれこそもっと遅くまで帰ってこないのかなって。今夜はお楽しみでなかったと?」
「いや、うるさいよ……」
ぐるぐるとマフラーを外し、ぱさりとソファにかける。これは小学校時代からの悪い癖で、きちんと畳んで自室に持っていかないとお母さんがうるさいがどうしてもやってしまう。
というか、うきうきしていたのか。あまり想像できないが、目に見えるほど楽しみにしてくれていたらしい。そうか、と視線を落とす。
「佐々倉ってお前のことほんとに好きなのな」
心の中を読んだかのように、お兄ちゃんがテレビのほうを向きながら呟いた。特になにを意図しているわけでもなく、思ったことをそのまま喋っているだけらしい。昔から意地悪され慣れているので、悪意がある言は声音だけで判断できる。妹とはそういうものだ。
「結婚すんの?」
自分の結婚のことだけ考えていればいいものを。行儀悪く舌打ちしたくなる気持ちを押さえ、「そんなのわかんないよ」ととりあえず答えておく。「まだ大学生なんだよ、私」
「もう大学生だよ。それも二十代。適齢期ってのが来ちまうんだぜ」
もう、というところにアクセントを置きながらお兄ちゃんが振り返る。
「佐々倉いい奴だしさ、前もってよくよく考えてやってもいいと思うんだよお兄ちゃんはさ」
「余計なお世話だよ……」
お兄ちゃんは自分の将来のことだけ考えていればいいし、私の将来は私が考えればいい。げんなりしつつ冷蔵庫をあさり、適当な食材で夕飯を済ませようと準備する。餌やりと勘違いしたミィが足元に寄ってきた。餌やりは済ませてくれたのかとお兄ちゃんに訊くと済ませたぁと気の抜けた返事が聞こえてきたので、よしよしと撫でるに留めておく。にゃあんと甘えた声が返ってきた。かわいいね、ミィ。本当にかわいい。
「佐々倉さんって、私のどこが好きなのかな」
ふと口にした疑問に、お兄ちゃんが低い声で「えっ」と反応した。
「遠まわしな惚気、お兄ちゃん、つらい」
「もうすぐ結婚する人がなに言ってんの」
この世の幸せ全部つかみ取りましたみたいな顔してるくせに。でも純粋に羨ましい。そんな顔が自然とできることが。第三者から見ても盤石な愛情を手にしているというのに、なぜ私はこんなに曇った顔をしているのだろう。なぜ、電車の中で音もなく涙をこぼしたりするのだろう。
「そんなの佐々倉に直接訊けばいいだろ。なに、俺に訊けって? 職場で? 『俺の妹のどこがそんなに好きなんですかぁ?』ってか」
「そんなこと頼んでないじゃん……」
「だよな、焦ったわ」
大して焦ってもないくせにそういうことを言う。ふてくされてミィを抱き上げ、指先を暖かみに埋もれさせた。特に抵抗することもなく、ミィは大人しく丸まっていた。
「お兄ちゃんは弥生さんのどこが好きになったの?」
「きょうだいにのろける趣味は持ち合わせておりません」
ひらひらと手を振って質問を切り捨てる。事実上の黙秘。つまんないの、とぶうたれて私はミィと顔を見合わせた。
「じゃあ、どうしてそんなに若いのに結婚しようと思ったの?」
「若い……まあ、若いか。そうだな。まだ二十六だもんな、俺たち」
ちょうど番組が終わったのか、お兄ちゃんがテレビのチャンネルを変えた。特に面白そうなものもやっていなかったので、夜のニュースに切り替えておく。若者は老後のために二千万貯めておかなければいけないという内容が放送されていた。
「ほら、ふたりで暮らすっていうのは結局コスパがいいからな。でもただ単にふたり暮らしを始めちゃうと、結婚のタイミング逃すって会社の先輩に聞いてな。タイミング逃してグダる前に、いい機会だからと思って」
「そんなのロマンチックじゃない」
「いるのかロマンチックさって。結婚って、言ってしまえばただの社会的契約なんだから、そんなもんがなきゃいけないわけじゃない」
口をわざとらしく尖らせながらお兄ちゃんが振り返った。私も同じように口を尖らす。きょうだいで口を尖らせていたら、腕の中のミィがにゃあと鳴いて床に逃げた。そのままお兄ちゃんのところにするりと行ってしまったので、妙な敗北感に襲われる。お兄ちゃんはソファの上で身を屈めると、ミィを抱き上げてよしよしとかわいがった。
「ミィもそう思うかー? お前はいい子だな、お兄ちゃんがおやつをあげよう」
「やめて、健康に悪い」
「けち」
ミィの代わりに不満を垂れつつ、お兄ちゃんはそのまま立ち上がり、台所までやってきた。床にミィを放し、「コンロ使うわ」と言いながら手を洗う。カルボナーラに取り掛かるらしい。
私はふたりで入るには少し狭い台所から一歩外に出ると、遠目にお兄ちゃんの調理する様子をぼんやりと眺めた。
タオルで手を拭き、戸棚からパスタの袋を取り出す。次に深めのプライパンを手に取り、流しで水を張る。それをコンロで火にかけ、沸騰するのを待って麺を投入する。
「同じ鍋で同時にレトルトあっためてもいいと思うか?」
菜箸で麺を掻き混ぜながらお兄ちゃんが言った。いつもなら「勝手にすれば」と返すところだが、今日の私は少し意地の悪いことを言ってしまいたくなった。
「そんなずぼらだと、弥生さんに呆れられるよ」
お兄ちゃんは苦笑いすると、同じ戸棚からカルボナーラのレトルトパウチを取り出し、麺の入った鍋に放り込んだ。鍋の中で銀のパウチに麺がまとわりつく。果てしなくずぼら、しかし合理的な調理法。
「弥生もよくやってるからな」
「えぇ……意外」
「意外だろ。意外といろんなこと面倒がるからな。もちろん、抜いていいところしか手は抜かないんだけど」
私は以前会ったときの弥生さんを思い浮かべる。弥生さん。お兄ちゃんの奥さんになる人。私の義理のお姉さんになる人。麺とパウチを同じ鍋で茹でちゃったりする人。ふと視線をやると、パスタを掻き回すお兄ちゃんは妙に嬉しそうだった。弥生さんの話をしたからかもしれない。いいな。私は佐々倉さんの話をしたのにちっとも嬉しそうじゃない。どうしてなんだろう。また涙がこぼれそうだった。
こぼれてもいいや。ややうつむきながら二粒の涙を床に落とす。鍋に集中するお兄ちゃんは気が付かない。ミィが足元に寄ってきて水滴をすんすんと嗅いだ。なんだか慰められているみたいだった。
「今、なんだかんだ言いながらのろけたでしょ」
湿った目元を親指で拭い、無理やり口角を上げる。からかったつもりなのに、お兄ちゃんはコンロの火を弱めながら「そうかも」としか言わなかった。
ふと、弥生さんと出会った日のことを思い出した。
あれは夏に差し掛かったある日のことだった。日頃飄々としているお兄ちゃんがいつになく固い表情でネクタイを結んでいて、その横でお父さんもどことなく緊張した面持ちでソファに座っていた。お母さんだけはうきうきした様子で身支度を整えており、特に重要でない私は無難なワンピースに薄化粧でリビングの隅に立っている。大学生になってから、もしくは、なる以前から、家族が同じ用事のために同じ空間であくせく準備しているところなんて見たことがなかった。
お兄ちゃんが運転する車で銀座に向かい、ぐるりと回ってなるべく一番安い駐車場に車を停めた。連れだって歩き出すと、いつもなら家族のほうを振り返ってあれだこれだと喋り続けるお兄ちゃんが一言も発さないので驚いた。嘘でしょう、センター試験の前日だって「なるようにしか、ならないからなぁ」とか言いながら雑誌でも読むみたいに参考書をめくっていたお兄ちゃんが。
目的地の日本料亭の前に着くと、すでに相手家族が到着していた。ロマンスグレーのおじさまと、和装が素敵なおばさま、そして、お兄ちゃんの婚約者の弥生さん。弥生さんは一度、結婚の挨拶のためにうちに来たことがあるらしいが、私はそのとき「いてもなんだか息苦しいから」と言って佐々倉さんと遊びに行っていたため、会うのは初めてだ。
「溌溂としたお嬢さんだったわよ。キャスターにでもなれるんじゃないかと思った」
デートから帰ってきた後、弥生さんの印象を訊いたらお母さんがそう言った。それ以来、私の中で義理の姉となる人のイメージはテレビでよく見る局アナになっていたが、その日ようやく人物像のアップデートがなされたのだった。
強い意志を持った大きな目、私と十五センチは違うだろうかという身長、そして紅がはっきり引かれた少し大きめの口は、お母さんが「溌溂」と表現していたのを納得させてくれるような、そんな力強さと存在感を弥生さんに持たせていた。鼻は私が想像していたよりも少し大きく、若干鷲鼻っぽかったけれど、全体的にバランスが取れている顔立ちだと言えるだろう。
輪郭がくっきりしたその姿は、どこを取っても私とは違い過ぎる。私は少なからずびっくりして、思わず小さな子どものように後ずさり、気休め程度にお母さんの影に身を隠した。お母さんが訝るように私を見たが、お兄ちゃんの「こんにちは」という固い声に意識を引き戻されていった。
「今日は来てくださってありがとうございます。予約はしてありますので、とりあえず中に入りましょう」
私は知っている。これはお兄ちゃんが大勢の人前に立ったときに出す声だ。本人は滑らかに喋っているつもりだろうが、妙に明るい声、用意してきた台詞を読み上げている感じ、すべてがどことなく不自然で、見ていて心配になってくる。とはいえお兄ちゃんのほうこそ、私やお父さんたちが後ろでこんなことを考えているなんて当然気付いているだろうから、半ばやけくそみたいな気持ちになっていることだろう。よく知っている人たちの前でよそ行きの顔をすることほど、つらいものってないと思う。
「あなた、ふーちゃんでしょ」
お兄ちゃんが先陣切って店の人に「七名で予約している谷です」と言いに行き、双方の両親が「どうもどうも、谷です」「萩野です、この度は」と挨拶している間、弥生さんがこそっと私に話しかけてきた。私はいきなりあだ名で呼ばれたことにびっくりして――そもそも弥生さんが少し屈んで顔を近づけてきたことにびっくりして――えっ、と目を見開いた。控えめに香水をつけているのか、弥生さんはどことなく甘い匂いがした。
「職場でゆーちゃんと佐々倉くんがときどき話してるからね。佐々倉くんと付き合って長いんだっけ」
「あ、はい……お兄、あ、いや、兄の紹介で……」
言い淀んでいる間に、店の人が私たち一行を呼びに来た。二階にある個室に案内してくれるらしく、弥生さんは「あとでね」と笑ってご家族陣営に戻っていった。
お兄ちゃんの同僚である弥生さんは、当然佐々倉さんのことも知っている。逆もまた然りだ。お兄ちゃんが結婚することを報告したら佐々倉さんはすでに知っていたし、「尻に敷かれる未来が見えるなあ」と笑っていた。こんなに綺麗な人が近くにいたのに、佐々倉さんはくらくら来たりしなかったのだろうか。訊いたらきっと怒られるだろうが、気にならずにはいられなかった。
二階であてがわれた個室に入ると、卓上にはすでに前菜の料理が並んでいた。盛り付けられた五品はいずれも美しく、芋を甘辛く煮たものだったり、海老をからりと揚げたものだったり、箸を付けてみても感激するものばかりだった。学生の身分であり、特別なんの苦労もしておらず、また本日の主役でもない私がこんなものを食べていいのか、本気で疑問に思う。
「ふーちゃん、美味しそうに食べるね」
大人たちがどことなくぎこちない会話を続けている様子を横目に料理を食べ進めていた私は、唐突に話題の中心が自分に移ったことを自覚して固まった。斜向かいに座る弥生さんが目を細めてこちらを見ている。こういう表情は、佐々倉さんもよくやっている。きっと悪い感情ではない。どちらかというと好いもので、それでも私は戸惑うことがある。
「貧乏舌でな。美味いものの食わせ甲斐があって楽しい」
「あら、誰んちの子が貧乏ですって」
癖で茶化すお兄ちゃんを、お母さんがじとりと諫めた。束の間の笑いが起き、空間全体の緊張がほぐれる。なんとなく自分自身にどういう需要があってここに呼ばれたのか理解した。若い女の子ってすごい。置いておくととりあえず場が華やぐし、からかうとそれなりに面白い。他人事のようにそう思いながら、私は愛想笑いを浮かべた。
それは、顔合わせの最中にトイレに立ったときのことだった。
「ふーちゃん」
目線を落としながら私たちの個室に戻ろうとしていたからか、目の前に来るまでその存在に気が付かなかった。慌てて顔を上げると、そこには弥生さんが立っていた。私と同じで、トイレに立ったのだろうか。謝りながら道を開けようとすると、弥生さんが「いや、違うの」と手で制した。
「ごめんね、さっき」
「……さっき?」
「さっき、なんだか少し気まずそうな顔してたから」
してただろうか。さっと頭が冷えるのが分かった。もしかして自分が気付いていないだけで、周囲に気を遣わせていたのではないだろうか。そんな一瞬の焦燥を、弥生さんは敏感に感じ取ったようだった。
「いや、気のせいかな、とも思ったんだけどね。みんな気付いてなかったみたいだし……主役でもないのに、色々と気を遣わせてごめんね」
上背を少し屈めながら弥生さんが言う。私は恐縮して黙り込んだ。相手が話しかけてくれているのに無言だなんて、小学生じゃあるまいし。でもどう返していいのか、その時の私にはわからなかった。それでも弥生さんは私に対して怪訝な顔などは見せず、ゆるやかに微笑んだ。
「佐々倉くんがいつも『いい子だ』っていうからどんな子かと思ってたけど、想像してたよりもいい子だね、ふーちゃんは」
唐突に佐々倉さんの名前が出てきて、思わず弥生さんの顔をぱっと見上げる。軽やかな声に反して、少し困ったような顔だった。どうして彼女がそんな顔をするのか、私には皆目見当もつかなかった。
「佐々倉さんは、弥生さんにも私の話をしたことがあるんですか?」
「あるよ。っていうか前に訊いた。義理の妹になる子がどんな子か知りたかったからね。でも――」
弥生さんが言葉を切った。表情の作り方から、そんなにいい話ではないということを察知し、身体がこわばる。そんな心境を知ってか、弥生さんはまた口元にゆるやかな笑みを浮かべると、
「『いい子』に縛られてると、なんだか息苦しそうで」
と言って、やっぱり困ったような顔を見せた。
あの日は、その言葉の意味がよくわからなかった。
「どうしたよ」
実を言うと、今もよくわかっていない。ちゃぶ台の向かいでパスタを頬ばるお兄ちゃんがやけに心配そうに尋ねてきた。ん? と頬杖を外すと、「めちゃめちゃ遠い目をしてたから」と言われたので、言葉の選択にちょっと笑ってしまった。
「なに、遠い目って」
「そのまんまの意味だよ。そんな面白くねぇよ」
心配して損したと言わんばかりに、再びパスタをぐるぐると巻いて口に運ぶお兄ちゃん。ずぼら調理ではあったがカルボナーラは普通に美味しそうで、なんだか私の夕飯もパスタでいいような気がしてくる。ミートソースじゃないやつにしよう。決意したものの、私は再び頬杖をついてお兄ちゃんが食べている姿に見入った。いや、本当は食べている姿なんてどうでもいいのだけれど、目の前で呑気にパスタを食べているこの人に、なにか話したいことがあるような気がしたのだ。
気がするだけで、実際はないような気がする。きょうだいってそういうものじゃないだろうか。
「気が散るんだけど」
至極真っ当な文句。私だって同じことをされたら、一言一句違わず同じことを言う。
「――ドレス、見てよ」
会話に困った私が、苦し紛れに思いついた話題がそれだった。明らかに不自然な切り出し方にお兄ちゃんは胡乱げな表情を隠そうともしない。
とにかく見てくれ、と今日買ってきたドレスを袋から取り出す。黄色くてふんわりとしたドレス。佐々倉さん曰く、私に似合っているドレス。私自身もそう思うドレス。
「へぇ、かわいくていいんじゃない」
麺を食べ終え、皿に残ったソースをスプーンですくいながら雑に感想を投げるお兄ちゃん。私はとっさに返す。
「でも、子どもっぽくない?」
「いや、そういうのわかんないんだけど。母さんに訊け」
なんだこの使えない兄は。心の中で勝手に怒っていると、お兄ちゃんが「じゃあ」とドレスを指差した。
「お前自身、気に入ってないのにそのドレスを買ったの?」
「気に入ってないわけじゃないけど……」
「でも、『子どもっぽいなぁ』って思いながらレジに通したわけだ。そんなこと思うくらいなら、自分が本当にイケてると思うドレスを買えばよかったのに」
頭の中に、紺色のオフショルダーが思い起こされる。同時に自分のあばら骨も。簡単に言うな、と感情的になりそうになるのをぐっとこらえ、言葉を紡ぎ出す。
「……身の丈ってものがあるんだよ」
知らず、小さな声になる。非常に悔しい。こんなことを言っている自分がすごくかっこ悪くて、もはや泣きそうだった。お兄ちゃんは更に追撃してくるかと思ったが、暫しの沈黙のあと、「なるほど」とだけ言って、今度はカトラリーを皿に置き、真剣にドレスを見つめた。そして、
「よく似合ってるよ、お前に」
なんて言うものだから、空気の変化を察知したミィが慌ててリビングから逃げていった。
お兄ちゃんと弥生さんの結婚式は一月の末に執り行われた。あまりお金をかけ過ぎたくないから、というお兄ちゃんたちの意向でだいぶ安く抑えた結婚式らしいが、私から見れば充分立派な式だったと思う。
一番面白かったのは、バージンロードに弥生さんが姿を現した途端、お兄ちゃんがほろりと涙をこぼしたことだった。私も驚いたし、お兄ちゃんはもっと驚いていたと思う。あたふたと頬を拭うお兄ちゃんを、ゆっくりと牧師の前まで歩いてきた弥生さんが仕方なさそうに慰めていた。情けないなお兄ちゃん、これでは弥生さんが泣けないじゃないか。後ろの座席でさもおかしそうに笑っている会社の同僚たちからしばらく笑われたらいい。けれど、それすらもきっと幸せに思えるだろう。
弥生さんはとても綺麗だった。顔を覆う長いベールと、純白のオフショルダー。ドレスの裾はやや長めで、牧師の前までやってきてもバージンロードに少しかかっている。長い手袋に覆われた指先でお兄ちゃんの涙を拭うと、彼女は少しだけ顔をくしゃりとさせた。
弥生さんは、綺麗だった。お兄ちゃんはどうして泣いたのだろう。
無事に指輪の交換と愛の誓いを済ませたあと、披露宴が始まった。披露宴ではお兄ちゃんの友人たちが流行りの結婚ソングを余興で歌ったり、ふたりの人生を写真とともに幼少期から振り返るVTRが流されたり、先ほどの厳かな雰囲気を一掃するような盛り上がりを見せた。弥生さんのお色直しで暫しの歓談を許されたときには、お兄ちゃんが「なに泣いてんだよ新郎ー」と友人たちから一斉にからかわれていた。お兄ちゃんは「うるせー」とへらへら笑っていた。
私は飲んでいたシャンパンのグラスをテーブルに置くと、お母さんに「ちょっと出てくるね」と言って親族席を離れた。鞄などの小物類はすべて残していき、会場のすぐ外にあるテラスに出てため息を吐く。みんなで盛り上がっているせいか、会場内は少し暑かった。冬の夜の冷たい空気にドレス一枚で身を委ねているはずなのに、ひどく心地よい。
汗が引くのを感じた。テラスは目隠しの植え込みに囲われているが、注意深く耳を澄ますと向こうの大通りで車が行き来している音が聞こえてくる。足元には自分の影が落ちていた。室内の灯りに照らされてできたそれは、しばらくするともうひとつ現れて、私の隣に立った。
「ふーちゃん」
予感はしていた。親族席に私がいなければ、きっと佐々倉さんは周囲に目を走らせる。テラスにいると気付けば、きっと声をかけにきてくれる。会社の人たちと来ている佐々倉さんに声をかけられない私は、こういう姑息な手段を取るしかない。
「こんなところにいたら風邪ひいちゃうよ」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいわけじゃないさ」
佐々倉さんは着ていたジャケットを脱ぐと、それを私の肩にかけ、ついでに指先でするりと耳の下辺りを撫でた。いつもなら頬を撫でる佐々倉さんだが、今日はきちんと化粧している私に配慮してくれたらしい。
「汗かいてる。暑かったんだね」
「ちょっとだけ」
「飲みすぎてはいないね?」
「今日はそんなに」
ぽつりと「そっか」と落とした佐々倉さんは、たった今気が付いたかのように「そういえば」と私の顔にじっと見入った。
「お化粧も髪も、すごく凝ってるね。美容師さんにやってもらったの?」
「あ、えっと、はい。午前中にやってもらって、それ以降はもう触んないでってお母さんが口を酸っぱくして」
そういえばその言い方が、小さい子に向けて言うような感じだったことを思い出して、内心むくれていると「偉いね」と佐々倉さんは耳の下を撫でた。今日は頬の代わりにここを触ることにしたらしい。少しくすぐったくてむずむずする。
「兄ちゃんの結婚式、親族はなにかと気を遣うから疲れるでしょ。頑張ってるね」
頑張ってるね。はたして私は、頑張っているだろうか。それなりに見えるドレスを着て、化粧をして、髪を盛って、とりあえず見られる立場としての体裁を整えただけじゃないだろうか。小さな子でもできるそれは、別に頑張っているとは言わない。私は「ありがとう」と微笑む。
「でもびっくりしました。弥生さんより先にお兄ちゃんが泣いちゃうんですから。なんであそこで泣いちゃうかなぁ」
腕を組み、斜め下に曖昧に視線を落とす。影の中でジャケットの裾が揺れた。
「お兄ちゃん、全然泣き虫なタイプじゃないんですけどね。なにかで感極まって泣いてるところなんて見たことなかったし。やっぱり結婚って大きなイベントなんだなぁ」
「なにかを背負うってそういうことなんじゃないかな」
目を伏せて喋り続けていると、斜め上から声が降ってきた。いまいち感情が読み取れない声だった。冷たいのか暖かいのか、それすらもわからない声音を辿って顔を上げると、いつもの優しい瞳にぶつかって安心する。ガラスを隔てた向こうでは招待客による話し声やら笑い声やらで騒がしいのに、佐々倉さんの瞳は静かに凪いでいた。冷たいわけではない。でも、きっと真剣に言葉を発している。そんな感じがした。知らず、姿勢を正す。ジャケットの襟をぎゅっと握った。
「谷は覚悟を決めてるところだからね。先は長いんだ。行く道の遠さが見えてしまえば、ちょっと怖がったり、ためらったりすることもあるよ」
今の内緒ね、と佐々倉さんが笑う。私はそれよりも佐々倉さんがお兄ちゃんを「谷」と呼んだことに少し驚いていた。私越しにお兄ちゃんを見ているのではなく、同僚の谷祐輔として真っすぐ捉えている。
「すごいよ、谷は。萩野さんと向き合うことに真剣だ。きっとこれからなにが起こっても、谷は逃げない」
わっ、と会場内が沸き立った。振り向くと、真紅のドレスにお色直しを済ませた弥生さんが再登場しており、カメラを構えた招待客たちが撮りやすい位置に移動してパシャパシャとシャッターを切っている。
綺麗ですね。意識していなくてもぽつりと言葉が落ちた。お兄ちゃんが新郎の席から立ち上がって弥生さんを迎えに行く。羨ましい。とても。
「ふーちゃんもそのうちだよ」
会場から漏れる光に目を細めながら、なんでもないふうに佐々倉さんが言う。なんでもないふうに、とても大事な話をしている。
自分と佐々倉さんで想像してみた。赤いドレスにお色直しした私が披露宴会場に登場する。すると、きっと佐々倉さんはお兄ちゃんみたいに迎えに来てくれるだろう。でも、そこにいるのが今のままの私なら、私はきっと嬉しくない。
「佐々倉さんは」
思いついたままに言葉を発そうとして、口を噤む。佐々倉さんの視線がこちらに戻り、どうしたの? と目だけで問われる。優しいはずなのに、あまりにも真っすぐ捉えられるものだから、ある種の強制力が生まれているように感じた。
「佐々倉さんは――いつか私と結婚するつもりなんですか?」
覚悟したはずなのに「言ってしまった」と後悔する。後悔するということは、覚悟できていなかったのかもしれない。でも、見切り発車でもそうでなくても、現実世界では私がそう質問をしたという事実だけが残った。佐々倉さんは目を見開いて――そうだね、と指先で顎を撫でた。
「そう思ってるんだけど……ふーちゃんは違うのかな」
違わないです、と反射的に答えそうになって、口を噤む。佐々倉さんがどことなく傷ついたような顔をする。が、我慢しなければいけない。そう、我慢だ。いつだって佐々倉さんを肯定していたい。私は「いい子」だから。でも、我慢だ。我慢なのだ。
「私はまだ、若いので。結婚とかはまだちょっと現実味がないです」
「――そっか」
佐々倉さんの安堵した表情を見て、私もかすかに安堵を覚える。やはりどうあったって、この人を傷つけたくはない。傷つける道を避けて通れるなら。
「佐々倉さん、私のことを『いい子』って弥生さんに言ったそうですね」
視線を外し、足元の影を眺める。
「『いい子』だから私を好いてくれているんですか?」
思い切った質問だった。佐々倉さんの顔が見られない。横たわる沈黙が怖い。でも、訊かずにはいられなかった。確かに私は「いい子」というものに縛られているのかもしれない。でも、それに縛られない私には、なにが残されているんだろう。なにを頼りに立っていられるのだろう。私を絶対的に大人たらしめてくれるなにかを、はたして私は持っているのだろうか。
不意に、佐々倉さんが身を屈めた。心配そうに私の顔を覗き込み、しっかりと視線を合わせる。そして、
「どうしたの」
と低めの声で訊いた。質問の答えではなかった。しかし、佐々倉さんがこの状況で「そうだよ」と平然と答えるとは思えなかったので、答えてくれなくてもよかった。
「誰かになにか言われたの」
首を横に振る。
「本当に?」
今度は縦。佐々倉さんは「そっか」ととりあえず納得してくれたようで、またするりと耳の下を撫でた。その手が、今度はなんだかミィを撫でている自分の手と重なって見えた。身体が固くなる。嫌なのだろうか。この愛撫が。違う。嫌なのは、甘やかされて喜んでいる自分だ。子どもっぽい、でもこう振る舞うことしか知らない自分だ。
「ふーちゃん、怒ってるの?」
佐々倉さんが問う。俯いたまま黙り込んだ私に対して、不安を抱いたのかもしれない。「怒っていませんよ」とかすれた声で返した。怒っていない。本当に? 実は怒っているのかもしれない。理由はわからない。感情がぐちゃぐちゃだ。自己肯定感も。
「萩野さんにふーちゃんのことを説明したとき、そんなに深く考えてコメントしたわけじゃないんだ。ふーちゃんに『いい子』以外の長所がないって思ったわけじゃない」
「でも、実際私はなにも持っていませんよ」
「持ってるよ。とても素敵な女の子だ」
「どこが?」
食い気味に質問を被せた。声に苛立ちが混じっているのがわかる。「そんなの佐々倉に直接訊けばいいだろ」というお兄ちゃんの声が蘇った。軽々しく言うな、自分の心臓の音が聞こえるくらい緊張するのに。
佐々倉さんはなにか言葉を発そうとして息を吸い、わずかな逡巡ののち、「いや」と小さく息を吐き出した。
「今言っても、ふーちゃんは聞き入れてくれないような気がするよ。これじゃまるで、ふーちゃんの機嫌を取りたくて言葉を紡いでるみたいだ」
大正解だ。私は今、自分の心が頑なになっていくのを強く感じている。駄々をこねている状態なのだ。きっとなにを言われても――言われなくても気に食わない。
「でも、これだけは言わせてほしいんだけど」
長い体躯を折り曲げて、佐々倉さんが私の顔を覗き込んだ。思わず視線を落とすと「ふーちゃん」と強めに呼ばれる。それでもしかめ面でテラスの床板を睨みつけていると、佐々倉さんが「ふみの、聞いて」と私の肩をつかんだ。
「俺はきみのいろんなところがとても好きだし、それだけで充分だとも思ってる。きみが自分のことを足りない子だと思っていても、俺は絶対にそうは思わない」
夜の海には、珍しく炎が灯っていた。肩に添えられた手が力強くて温かい。心強いってこういうことで、泣きたくなるくらい安心してしまう。唇を強く引き結んで涙をこらえると、佐々倉さんの瞳が不意に凪いだ。肩に添えられた手が首の後ろに回る。抱きしめられている、ということに気が付いたとき、私は自分のとげとげしたところが徐々に丸まっていくのを感じた。
「ふーちゃんはふーちゃんでいい。もし不足に思うことがあるならば、俺が一番近くで支える。それじゃだめなのかな」
優しい声。優しい腕。見えないけれど、きっと瞳も優しい。無条件で信じてしまいたくなる。だけど、
「それじゃ、だめなんです」
私は私じゃ、だめなのだ。佐々倉さんの胸元を押し、身体をゆっくり離す。肩にかけられていたジャケットが落ちた。そのジャケットを跨ぎ、ゆっくりと後ずさる。視界が開けてきた。テラスと、ガラス越しの披露宴会場、佐々倉さんの戸惑った瞳。
だって、私が自分で立っていられないと、隣を行く人がもし倒れたときに、どうすればいいのかわからないじゃないか。
ただのいい子では、誰かとともに歩くこともできないじゃないか。
「……先に戻ってくれませんか」
俯きながら佐々倉さんを促す。披露宴会場の中では次のプログラムが始まっていた。マイクを渡された弥生さんがなにやら手紙らしきものを読み上げている。きっとご両親に向けてだろう。私も聞きたかったが、とても会場内に戻る気にはなれなかった。
予想通り、佐々倉さんは「置いていけないよ」と私の手を取ろうとしたが、また一歩後ずさり、拒絶する。
「今だけ、今だけひとりにしてもらえませんか」
細い声で懇願すると、佐々倉さんは押し黙った。自分で拒絶したくせに、やけに寒いなと腕をさする。佐々倉さんも寒いかな。しゃがみ込んで、ジャケットを拾い上げる。
「落としちゃってごめんなさい」
「……うん」
言葉少なに受け取ると、私がもうそれを肩にかけることはないと悟ったのか、佐々倉さんは軽く汚れを払い落としてジャケットを着込んだ。
「風邪ひいちゃうから、早く中に入るんだよ。いいね」
その言葉に頷くと、佐々倉さんはガラス扉を開けた。中の暖かい空気がわずかに肌に触れ、瞬く間に霧消していく。
「佐々倉さん」
後ろ姿に声をかけると、佐々倉さんは「うん?」と振り返った。遠ざかる背中に、なにか話したいことがあるような気がしたのだ。気がするというか、実際にある。ごめんなさいとか。好きですとか。でも、今私がそれらを口にするのは、絶対に違う。ならば私は、なにを言うべきなのだろう。
「ふーちゃん」
迷っているうちに、佐々倉さんが口を開いた。ドア枠に手をかけ、穏やかな笑みを浮かべる。なんだか迷子のように見えた。人は自分の鑑だからだろうか。
「諦めないよ」
一言、はっきりと口にする。会場内の喧騒に負けない声だった。私が目を大きく見開いてびっくりしていると、誰かが佐々倉さんを室内から呼んだ。「はーい」と佐々倉さんが振り返り、そのまま扉が閉ざされる。ガラス越しに佐々倉さんが手を振った。反射的に手を振り返す。それを見た佐々倉さんが安心したように息を吐き出し、自分の席に戻っていく。
ひとりになってしまった私は、一度深く息を吐き出し、足を動かし始めた。向かう先は会場内ではなく、テラスから庭へと降りるための出口だ。
庭の草を踏みしめつつ、寒いなと腕を組む。でもその寒さがやっぱり心地よくて、不思議な感覚がした。
諦めない、と佐々倉さんは言った。私を、かもしれないし、私を理解することを、かもしれない。後者ならば、こんなに有難い話はない。ならば私も諦めないべきだろう。なにを、と訊かれたら、まだはっきりと答えることはできないけれど、諦めないと言ってくれる人のために、そしてなにより自分自身のために、私は道を進もうと思う。それが例え、悲しい結末に繋がる道だとしても。
ふと、涙がこぼれて足を止める。当然だ。見定めた道は長く、そこを歩いていくのは怖くてしょうがない。いい子なだけではきっと歩いていけない道。でも、ひとりの人として生まれたからには、歩かなければならない道だと思う。向き合うってそういうことで、私はきっと向き合えている。背負おうとしている。
こぶしを握り締め、力任せに涙を拭う。そうして私は、再び歩き出した。
猫と私とパーティードレス ねむみ @sleepymiss
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