十七話

 鈴子は厩に向かった。


 従者の一人が彼女に気づいてこちらへやってくる。

「…なっ。童がこんな所で何をしている?!」

「あの。わたくし、馬に乗りたくて。どうしても案朱に行きたいのです」

「案朱に?こんな夜中にか?」

「そうなんです。吉勝様がそちらに向かわれたようなので。様子を見に行きたいの!」

 鈴子が大きな声で言うと従者は驚いて目を見開いた。童だと思ったがどうも違うと彼は感づいたらしい。

「…そなた、吉勝様の行かれた場所に行きたいというが。何者だ?」

 訝しげな目で問われる。鈴子はどうしようと冷や汗が出そうになった。

「…待て。吉松(よしまつ)、そちらの女人を手荒に扱うでない。姫、こんな所にいたとはな」

「兄上」

 鈴子が後ろを振り向いて声をあげた。そこには兄の頭中将、昌義がいる。従者こと吉松は鈴子を凝視した。

「なっ。女人ですと?」

「そうだ。ちなみにわたしの妹だ。姫、こんな夜中にどこへ行くつもりか?」

「…兄上。吉勝様が案朱へ向かわれたようなんです。行く許可をくださいませ」

 そう頼み込んだが昌義は鈴子に近づいて首を横に振った。

「駄目だ。姫は邸にいなさい。こんな夜更けにしかも案朱は寂れた場所。行かせるわけにはいかぬ」

「兄上!」

「言うことを聞いておくれ。吉勝殿だったら大丈夫だよ。彼は優秀な陰陽師だし腕も立つ。むしろ、姫がいたら足手まといになる。さあ、戻りなさい」

「嫌です」

「姫!」

 昌義がきつい調子で言うも鈴子は厩の中にいる馬に近づいた。そして、鼻に繋がれた手綱をほどいて裸馬に乗ろうとする。仕方なく、昌義はため息をついてずり落ちてしまった鈴子の体を押し上げた。

「どうなっても知らぬぞ」

「兄上?」

「しっかり掴まっておれ!」

 昌義は鞍も何も着けていない馬に軽々と乗ると鈴子の腕を掴んで自身の前に引き上げた。手綱を握ると強く馬の腹を蹴る。

 馬はひひんと鳴くと厩から土煙をあがらせながら走り出した。吉松はそれを唖然として見送ったのだった。



 庭を駆け抜けて門を飛び出して道を駆ける。馬からずり落ちてしまわないように昌義は鈴子に鬣に掴まるように言っていた。鈴子は必死に鬣を掴み、膝に力を入れる。

 案朱まではかなり時間がかかるが。昌義はその道のりを疾風のごとく駆け抜けた。馬を走らせて三半刻ほど経つと洛東の清水寺辺りまで来た。

 昌義は馬を止めると通りがかった人に案朱までの詳しい道を訊く。そしてすぐに戻ってきた。

「…行くぞ」

 昌義はまた、馬を走らせた。南に向かうと蛍の光が見えてきた。

 どれくらいの時が経ったのか。やっと案朱にたどり着いたらしく、昌義は馬を止めた。蛍の光が飛び交う中で人影が見えた。

「吉勝様!!」

 大声で鈴子が呼ぶと人影は振り返った。表情までは見えないが人影はこちらに気づいたらしく近づいてくる。

 月明かりで吉勝だとわかった。白くぼうと彼の顔が浮かび上がる。

「なっ。頭中将様に鈴子姫ではないですか。何故、来たのですか?」

「何故と言われてもな。理由は妹に聞いてくれ」

「…では。姫、危険だとわかっていながらどうして来たのです。兄君まで巻き込んで」

 吉勝は静かに怒りながら言う。責められてはいても鈴子は怯まなかった。

「吉勝様が危険だと桜花に言われたのです。お一人にさせてはいけないと。わたくし一人だけでも狙われやすいとも彼女は言っていました。だから、来たんです」

「そうですか。だったら、姫はこのままお帰りください。あなた一人だけならまだしも。中将様も一緒だと守りきれません」

 吉勝は素っ気ない口調で言った。鈴子は唇を噛んだ。自分がいては足手まといになるというのは本当である。それでも、役に立ちたかった。

「…吉勝殿。そう言わずとも。わたしも付いている故。姫の事は兄として守るつもりだ」

 昌義が言うと吉勝はふうとため息をついた。

「勝手にしてください。何が起きてもわたしは知りませんよ」

「それは承知の上だ。では吉勝殿。我らにできることがあれば言ってくれ。助力くらいはする」

「…では、そちらにわたしが結界を張っておいたので。姫を安全な場所に」

 吉勝の指示に昌義は頷いた。素早く鈴子を彼が指し示した場所まで向かわせる。ふわりと暖かな空気が鈴子と昌義を包んだ。

「これは?!」

 昌義が驚いて言うと鈴子は説明した。

「結界の霊力がわたくしたちに反応したんです。吉勝様の言うようにこの中にいれば、妖といえども手出しはできません」

「ほう。霊力がわたしにはないからわからぬが。結界も便利なのだな」

 昌義が感心したらしく吉勝を見やる。鈴子はさてと考えた。

「兄上。とりあえず、気を抜かないでください。弓矢があれば魔除けくらいはできたのですけど」

 鈴子が告げると昌義はふうむと唸った。妹姫の方がさすがに場慣れしている。

 だが、そんな穏やかな時は唐突に終わった。「きしゃあ!」

 人のものではない声があがる。月明かりに浮かびあがったのは巨大な蝶だった。燐粉を辺りに撒き散らしながら羽で風を巻き起こす。吉勝は手早く結界を作り式神を札から出した。大きな狛犬が蝶に噛みついた。

「…ぎしゃあ!?」

 蝶の羽は食いちぎられてそこから赤い血が滴る。狛犬の口や歯も赤く染まった。それでも蝶と狛犬の戦いは終わらない。

「狛犬よ、蝶にとどめをさせ!」

 吉勝が大声で命じると狛犬は蝶の胴体を鋭い爪と牙で切り裂いた。断末魔の悲鳴があがる。燐粉を吸い込んだ狛犬だが平気なようで蝶にとどめとばかりに頭にも噛みつく。吉勝は手を横に薙ぐと狛犬が元の札に戻る。

「…妖を鎮め給え。清く浄しと申さむ」

 祝詞を唱えると蝶は白い光に変わった。辺りに満ちていた禍々しい気は清らかなものに変わっていく。吉勝は事は終わったとばかりに札を拾い上げて鈴子と昌義のいる木陰までやってきた。

「何とか終わりましたよ。姫、二条に戻りましょう」

「わかりました。兄上、馬に乗せてください」

 鈴子が兄の昌義に言った。昌義も頷いて馬を繋いでいる方へ歩こうとする。吉勝は付いていこうとした鈴子を呼び止めた。

「待ってください。何故、兄君の方へ行くのですか?」

「え。だってここまでは兄上が連れてきてくださったんです。だから、乗せていただくのも当たり前でしょう」

「姫。わたしが送りますよ。兄君はお一人でも大丈夫です」

「でも…」

「よいですね。姫?」

 念押しする吉勝に仕方なく鈴子は頷いた。そのまま、鈴子は吉勝と一緒に馬に乗って帰ったのだった。

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