十三話
鈴子が大炊宮にやってきてから半年が過ぎていた。すでに季節は秋で九月になっている。とはいえ、残暑がまだきつい。鈴子は蝙蝠(かわほり)で顔を扇いだ。じめっとした空気は相変わらずで気持ちをうんざりとしたものにしてくれる。
「ねえ、周防。今年の夏も暑かったわね」
「ええ。暑かったですね。氷室の氷で頭を冷やしたのが懐かしいです」
「そうだったわね。けど、九月になってからも暑いだなんて。やってられないわ」
鈴子は蝙蝠でまた扇ぐ。周防も団扇で扇いだが。なかなか暑さは紛れない。
「姫様。そういえば、春の御方様からお文が届いていましたよ」
「え。本当に?」
「ええ。つい先ほどに」
周防が頷くと鈴子はふうとため息をついた。
「あの方も諦めが悪いわね。わたくしの事などお忘れになってもよいのに」
「それでもお返事は出された方がよいですよ。そうしないと父君様がお怒りになります」
「わかったわ。お返事は書きます。けど、入内(じゅだい)はないとわかっていただかないと面倒ね」
鈴子は気が乗らないと眉をしかめる。周防は脇に置いてあった文箱を手に取って鈴子の前に出した。
鈴子に手渡したら周防は立ち上がる。文を書く準備をするためだ。鈴子は文箱を開けて内容を確かめる。こう書いてあった。
<君恋うる 日々を指折り 数ふれば 久しき時こそ 経ちにけるかな>意味としては(あなたを恋しいと思う日々を指折り数えてみた。久しいほどに時は経っていて長い間、会っていないなと思う事だ)というものだ。
裏の意味としては(長い間、お会いしていませんね。少しはこちらの事も思い出してほしいものです)とも取れる。鈴子は頭を抱えたくなった。吉勝の面影が脳裏によぎる。
また、ため息をつきたくなった。返事をどうしたものかと考え込む。
「姫様。お文の準備ができました。いかがなさいますか?」
「…わかった。とりあえずは書くわ」
鈴子は仕方ないと膝立ちになって文机ににじり寄った。墨は擦ってあり筆先に染み込ませてご料紙に一首歌を書いた。
(幾久し 時は過ぎにける 君なれど その思ひとは いかなるらむや)意味としては(幾久しい時は確かに過ぎています。そんな風におっしゃるあなたですけど。恋しいと思うそのお気持ちはどれほどのものなのでしょうか)というものになる。
鈴子としては東宮の気持ちに偽りはないように思うが。けど、彼ほどの身分と立場となれば幾人もの妃を持っても許される。いずれは後宮に入っても飽きられるのが目に見えていた。
だから、本気になれないのだ。鈴子は自嘲した。今頃になって自分の気持ちがはっきりするとは。
吉勝の方にそれは傾き出している。周防にだけは打ち明けよう。そう決めたのだった。
翌日、鈴子は人払いをして周防と二人きりになった。周防にだけは言っておこう。そんな気持ちで決めた事だった。
「姫様。どうかなさいましたか?」
周防が心配そうに問いかけてくる。鈴子は深く息を吸ってから言った。
「あのね、周防。わたくし、最近になってやっと自分の気持ちに気がついたの。東宮様はいい方だけど。入内はできないわ」
「…姫様」
周防は驚いた様子で自分の主を見た。鈴子はまっすぐに彼女に視線を送る。
「わたくしは吉勝殿が好きみたい。東宮様には心が動かなかったの。父上や兄上は反対なさるだろうけど。吉勝殿に想いを告げてみるわ」
「姫様。わたしは宮様からはお聞きしていました。東宮様と吉勝殿の間で悩んでおられると。やっと、お決めになられたのですね。ようございました」
周防はほっとした顔で鈴子にそう言った。
「周防は知っていたのね。でも、吉勝殿はなかなかに女人には人気があるらしいから受け入れてくれるかわからないわ」
「それでもお二方共にお付き合いするよりはいいと思います。どちらかにお決めになった方が姫様のためにもなります」
周防が力強く断言した。鈴子はそうかしらと首を傾げる。その後、吉勝に文を送ったのだった。
翌日に桜梅宮の大炊宮に吉勝が訪れた。鈴子から文がきたからだ。吉勝は彼女の部屋に入る。が、中には周防といったか彼女付きの女房一人がいるだけだった。吉勝が首を傾げていると御簾の向こうからほのかな香の薫りと人の気配がする。鈴子が来たらしい。
「…吉勝殿。よくぞいらしてくださいました。姫様もお待ちかねです」
「はあ。姫からこちらにいらしてほしいとお文がありましたから。それで参ったのですが」
「こちらは人払いを致しました。姫様と存分にお話ください。わたしは簀子縁で待っております」
周防はてきぱきと言うと立ち上がる。吉勝が呼び止めようとしたら無視して簀子縁へ出ていってしまった。何だろうと思っていたら扇を鳴らす音が聞こえる。
「…吉勝殿。こちらへ近う(ちこう)来られませよ」
凛とした鈴子の声が聞こえた。吉勝は静かに膝を使ってにじり寄る。
「それで姫。わたしに何かご用でしょうか?」
吉勝は慎重に尋ねる。鈴子は少し間を置いてから告げた。
「ご用というほどの事はないのですけど。吉勝殿、わたくしは今日は申し上げたい事があってお呼びしました」
「申し上げたい事ですか?」
「ええ。以前から吉勝殿をお慕いしていました。わたくし、東宮様にお文をいただきながら身勝手ではありますけど。あなたが好きなのです」
「…え。わたしを好きだとは。姫、いきなり何を…」
吉勝は訳が分からずに聞き返した。鈴子は何を思ったかさらりと衣擦れの音をさせて御簾の中から出てきた。
少し薄い茶色の瞳は潤んでおり白い頬もうっすらと紅く上気している。なかなかに艶やかで美しくはあるが。吉勝は戸惑いながらも言う。
「姫。今は中にお入りください。誰が見ているかわかりません」
真面目に言うと鈴子はしゅんと項垂れてしまった。素っ気なく聞こえたらしい。
「ご、ごめんなさい。わたくし、ただ吉勝殿に気持ちを伝えたくて。はしたないですね」
「いえ。こちらこそすみません。まさか、高貴な姫君から想いを告げられるとは思わなかったものですから。そうですね、姫。わたしとあなたとでは身分が違いすぎるとおわかりでしょう?」
「それは存じております。あの、受け入れていただけるとは最初から思っていません。ただ、わかっていただきたかったのです。吉勝殿が嫌だとおっしゃるならわたくしは身を退きます。東宮様に入内をしようと思っていますし」
鈴子はなかなかに殊勝な事を口にした。吉勝はふうとため息をつく。
「姫。まだ、わたしは何も言っていませんよ。そうですね、あなたが好いていてくださった事については驚いています。けど、身分の低い中級の貴族のわたしでは父君や兄君が許さないでしょうね」
「吉勝殿…」
鈴子は泣きそうな表情になる。吉勝は困ったと思いながらも答えた。
「わかりました。あなたの想いは受け入れましょう。けど、世間からの風当たりは強くなるでしょう。わたしでは守りきれないかもしれない。それでもあなたはよいのですね?」
「気持ちは変わりません。吉勝殿が飽きるまでお側に置いてください」
鈴子は真剣な表情で頷いた。吉勝は立ち上がると彼女に近づいた。そっと華奢な鈴子の手を握る。
「姫、いえ。鈴子殿、わたしはあなたをできるだけ守りましょう。あなたの覚悟と決意を無駄にしないと約束します」
吉勝は爽やかな感じで笑う。鈴子もはにかむように笑ったのだった。
吉勝と想いを交わしあってから半月が過ぎた。鈴子は東宮に文で恋人ができたので今後はやり取りをするのはやめたいと伝えた。東宮からは仕方ない、けどあなたを諦められそうにないと返事があった。鈴子は複雑になりながらもこれで東宮とのお付き合いは終わったのだと思う事にした。宮にも吉勝と付き合う事にしたと告げると喜んでくれた。「よかった」と宮は言い、ほっとした顔になったのを鈴子は鮮明に覚えている。
そろそろ、二条邸に帰ろうかと思う。そのために周防にいって荷物を少しずつまとめていた。そうして、大炊宮での居候生活も終わりを告げようとしていたのだった。
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