十話
鈴子は東宮に返事を送った。
そして、一度は桜梅の宮に相談しようと伊勢の君に言って取り次ぎ役を頼んだ。すぐに伊勢の君が戻ってきて「良いですよ」との口頭での返事を伝えてきた。
鈴子は着替えとお化粧をすぐに控えていた周防たちに言いつけた。鈴子は身支度ができると桜梅の宮のおられる主殿に急いだのだった。
そうして、桜梅の宮のお出ましを待っていた。小半刻ほどして桜梅の宮が奥から出てこられたらしい。仄かな香の薫りと人の気配が御簾の向こうからした。
朗らかな宮の声が掛かる。
「…あら、姫ではありませんか。つい先ほどにお返事を伝えたところなのに。もう、いらしてるとは。何かあったのですか?」
宮は驚いた風に言った。鈴子は扇で顔を隠しながらも答える。
「あの。宮様、お人払いをお願いできますか?」
それだけを言うと宮は鈴子が何をいわんとしているのか気づいたらしい。扇を閉じる音をさせて庇の間に控えていた女房たちに合図をされた。「皆、二条の君と伊勢の君だけを残して退がりなさい」
手短に命じると女房たちは静かに鈴子と伊勢の君だけを残して退出した。鈴子は扇を閉じて居住まいを正した。
「あの。宮様。今朝方の事なのですけど。春の縁の方からお文が届きまして。わたくしもお返事は送ったのです。けど、その方が本気にされたらどうしようと思っているのです。そこで宮様にご相談してみようとこちらにお伺いしたのですけど」
あえて、東宮とは言わずに春の縁とごまかしておいた。まあ、宮はすぐに勘づかれるだろうが。
「…まあ、そうだったの。春の縁の方ね。もしや、梨壷の方かしら?」
鈴子は頷いた。すると、宮はふうとため息をつく。
「なるほど。また、厄介な方に気に入られたものね。姫。御簾の中に入ってくださいな。伊勢の君を見張りに立てますから。二人で話し合いましょう」
宮はご自分で御簾を上げると鈴子に中へ入るように勧める。言われた通りに鈴子は奥に入った。
その後、鈴子は桜梅の宮のおられた主殿から戻った。伊勢の君や周防たちが心配そうにしている。鈴子はやりきれない気持ちながらも正装から小袿姿に着替えた。
「…二条の君様。お話はどうでしたか?」
おずおずと尋ねてきたのは周防だった。伊勢の君たちは気にしながらも自身のお局に戻っていく。鈴子のお局には周防だけが残った。
「周防。お話って何の事?」
本当にわからずに鈴子は聞き返した。周防は意を決したらしく鈴子の目を見てはっきりと言った。
「その。今朝方に届いたお文の事です。差出主はどなただったのか気になっていまして」
「ああ。その事だったのね。差出主はその。春の縁の方だったわ。梨壷と言ったらわかるかしらね」
梨壷と言った途端、周防は固まってしまった。しばししてから尋ねてくる。
「…な、梨壷ですか。もしや、春の縁の方というのは。東宮様なのでしょうか。それとも違う方では…」
「いいえ。それはないわ。確かにお文の差出主は東宮様よ」
きっぱり言うと周防は声を出しそうになって手で口を押さえた。
「そんな。姫様に東宮様がお文をお送りになるなんて。わたし、てっきりどちらかの公達かと思っていました」
「それはわたくしも思うわ。最初はどなたかわからなかったけど」
鈴子は苦笑いした。周防はまた黙り込んでしまった。思ったよりも高貴なお方の登場に思考が追い付いていないらしい。鈴子はふうと小さくため息をついたのだった。
周防と話し終えて鈴子は彼女にも退出するように命じた。渋々、周防は隣にある自身のお局に戻っていく。鈴子は一人になると畳の上に寝転がる。誰もいないからはしたない姿でいても怒られない。
鈴子は扇を側に置くと体から力を抜いた。今は昼間だから室内は薄ぼんやりとしている。蔀戸は開けられていて御簾と几帳が置かれているだけだ。それでも、後宮は閉ざされた密室と同じで何かあっても外へは洩れない。それを思い出すと鈴子は憂鬱な気分になった。(ああ、ここには強力な結界が張ってあるわ。それに桜花みたいな精霊もいない。寂しいわ)
早く大炊の宮に帰りたくなった。何故、桜梅の宮は参内なさったのか。それは鈴子にもわからなかった。梅壷と呼ばれているのにここには梅の木はない。
鈴子は複雑になりながらも起き上がった。ちょうどお腹が空いたところだ。引き戸を開けに行こうと立ち上がる。
引き戸を開けて誰かいないかと首を右左にと動かした。向こうから女童(めのわらわ)がやってくる。
鈴子はその女童に声をかけた。
「…ねえ。そこのあなた。昼餉をお願いできるかしら?」
女童は立ち止まると驚いたように鈴子を見る。だが、言われた事は聞こえていたのか頷いた。
「…はあ。昼餉でございますね。しばしお待ちください」
「ええ。呼び止めてしまってごめんなさいね。わたくしの分だけでいいわ」
「お方様の分だけで良いのですね。では、台盤所に伝えてきます」
そう言って女童は小走りで行ってしまった。
鈴子は昼餉が来るまで待ったのだった。
昼餉を先ほどの女童が持ってきてくれた。お膳を礼を言いながら受け取ると女童は失礼しますと言って仕事に戻っていった。鈴子は自分で御座の辺りまでお膳を持って行くと座って銀製のお箸を手に取った。湯漬けのご飯と山菜の汁物、大根のにらぎ、魚の塩漬けと唐菓子が昼餉の内容だ。鈴子はそれらを口に運んだ。
三半刻ほどかけて全部食べてしまう。お膳を下げさせるために待つべきかいなか鈴子は考える。だが、先ほどの女童はもう来ないだろう。としたら、隣にいる周防を呼ぶしかない。
鈴子は立ち上がり、お局を出た。簀子縁におりて周防のお局の前まで行く。引き戸をほとほと叩いたら少しして周防が出てきて開けてくれた。
「…周防。悪いわね、ちょっといいかしら?」
鈴子が言うと周防は驚いたらしく目を見開いた。
「どうなさいました?」
「あの。昼餉を食べたのは良いのだけど。お膳をさげなければいけないのを忘れていて。周防、頼めるかしら?」
「まあまあ。昼餉を召し上がられたのですね。お膳をさげたいのでしたらわたしが致しますから」
「ありがとう。助かるわ」
鈴子が礼を言うと気にしないでくださいと周防は笑った。
周防は鈴子の部屋に行き、お膳をさげたのだった。鈴子はこんなちょっとした事でも自分で出来ないのが歯がゆく思った。
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