九話
東宮は鈴子の事を見据えながらも大きくため息をついた。
「…あなたは私に応えるつもりはないというのだね?」
いかにも残念そうな表情をする。鈴子は小さく申し訳ありませんと口にした。
東宮は苦笑いしながら、鈴子に近づいた。
「まあいいか。こうして、会えたのだし。姫、しばらくの間、語り合わないか?」
「…わたくしで良いのでしたら。お話させていただきます」
鈴子は頷いた。すると、東宮は彼女の頭をそっと撫でる。
「そう、脅えることはない。私はあなたをどうこうするつもりはないから」
「…本当ですか?」
鈴子が問うと東宮は頷いてあらかじめ、用意してあった御座に落ち着いた。鈴子に隣に来るように手招きをする。仕方なく、隣に座った。せめて、袴を履いていてよかったと鈴子は胸を撫で下ろした。東宮から借りた薄紫の単衣の袖を握りしめる。
「…姫。私の昔の二つ名を知っているのは母上かごく親しい人々だけだ。それを知っていたあなたは右の大臣(めのおとど)の大君。違うかな?」
確信を得た彼の言葉に鈴子はうつむきながらも答えた。
「…確かにその通りです、東宮様」
鈴子が頷くと東宮はふむと顎に手をやる。
「なるほどね。隠したりはしないということか。素直な事だ」
「…あの。どういう事でしょうか?」
「…いや。あなたが気にする事ではない。こちらの話だ」
訳がわからずに鈴子は首を傾げた。東宮はこほんと咳払いをする。何の事やらわからない。東宮は鈴子に言った。
「…それはそうと。姫、夜は長い。他の話をしようか。それとも、絵巻物でも見るかい?」
「…そうですね。絵巻物は興味があります」
「なら、今から取ってこようか。待っていてくれ」
東宮は立ち上がると自ら、絵巻物を取りに奥へと行ってしまった。それを見送る鈴子だった。
奥から本当に東宮は絵巻物を取ってきた。何でも、伊勢物語の一幕を描いたものだと彼は言う。
鈴子は好奇心に負けて見ると頷いた。
「…これには哀れな男の話が描かれている。確か、昔から付き合っていた恋人を亡くしてしまうという内容だったと思う」
「…まあ、そうなのですか」
鈴子が答えると東宮は手に持っていた絵巻物を床に置いて横に動かした。すると、絵巻物の鮮やかな絵、色彩が現れる。鈴子はそれに見とれてしまう。そんな彼女の様子を見て東宮は微笑んだ。鈴子は気づかない。
「ほんに、見事な絵ですこと。これはどなたからいただいたものなのですか?」
「…そうだな。姫は知らないだろうが。左の大臣(さのおとど)にいただいたのだよ」
「左の大臣様でございますか!」
鈴子は驚いてしまい、声をあげてしまう。左の大臣といえば、自分の父の右の大臣(めのおとど)とは政治的に対立している勢力の代表といえる方だ。鈴子は父が左の大臣の事を嫌っているのは兄から聞いていて知っていた。
「…どうかしたのか?姫」
東宮が不思議そうに尋ねてくる。鈴子は首を横に振った。
「な、何でもありません。ただ、驚いてしまって」顔を赤らめながらもごまかした。東宮はまだ不思議そうにしながらもそうかとだけ言った。
「…姫。とりあえず、こちらの絵巻もご覧になるか?」
「まあ。ありがとうございます」
礼を述べると東宮は気を良くしたようで絵巻物の説明を詳しくしてくれる。鈴子は驚いたり面白がったりしながらその話に聞き入っていたのだった。
その後、東宮の居所に女人がいると騒がれてはまずいからと鈴子がもともといた殿舍まで送ってもらった。東宮自らにだ。鈴子の居室に控えていた女房たちは皆、驚いていたが。東宮は鈴子と共にいた事を女房たちに口止めさせていた。そのおかげで問い詰められずにすんだが。
けど、いかがわしげな視線を送られて困ったと鈴子は頭を抱えた。眠りについた時には明け方に近い刻限になっていた。
翌日、鈴子が局でくつろいでいたらどなたからか文が届いた。桜梅の宮付きの伊勢の君が取り次ぎ役をしたらしかった。宛名は何も書いていない。
だが、芳しい香の薫りが焚き染めてあり、色も今の季節に合った薄紅色のご料紙なので鈴子は不思議に思う。細く折り畳み、花の形に結んである。それを丁寧にほどきながら内容を確かめた。
<闇の中 見るる花のや かむばせの 色は見えねど 香やは見えるか>
とだけ書かれていた。筆跡は優美だが男性らしくたくましさも感じられる。
「…恋歌ではないの」
鈴子はぽつりと呟いた。そう、中に書かれていたのは恋歌だった。
しかも、内容から察するに昨日会った東宮からではないか。歌自体は意味からするとこうだ。
「闇の中、ふと見えた花のかんばせだが。それの色ははっきりと見る事は叶わなかった。だが、香りは隠すことなく見ることができた」というものだが。裏の意味では「夜の闇の中で見たあなたの顔は残念ながらはっきりと見る事はできなかった。香の薫りはわかったのに。昼間に会えたら良いのだが」という風に受け取れる。要は夜だけでなく明るい内に会いたいと言っているらしい。
鈴子はそこまで考えて顔が熱くなるのを止められなかった。東宮には顔どころか小袖の寝間着姿まで見られている。上に単衣を羽織っていたからよかったものの、こんなことが父や母に桜梅の宮にばれたら大目玉だ。一気に恥ずかしさと後悔が込み上げてくる。
鈴子は突っ伏したくなったが返事を書かなくてはいけない。仕方なく待っていたらしい伊勢の君に文を書く準備を頼んだのであった。
<夜の闇は頼りなき心地こそすれど君の思ひはいかがなるらむ>
と綴ってみた。意味としては「夜の闇の中では頼りない心地がします。そう思いはしてもあなたの思いはどうなのでしょう。わたくしにはわかりかねます」というものだ。鈴子はやんわりと会う事を拒む内容にした。東宮に失礼ではあるが色好い返事をするのもかえってはしたない気がする。なので、「そちら様の目的はわかりかねますのでお会いするのはちょっと…」という風に濁しておいた。まあ、かの吉勝にも顔を晒してしまっているから今さら感はあるが。そんな事を考えながら東宮のいられる梨壷に届けるように言ったのだった。
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