六話
鈴子はそれから、昼近くになって目を覚ました。伊勢の君などが起こしに来なかったので、気を使ってくれたのかと思う。桜梅宮からも何も言ってこなかったので鈴子は何ともいえない気持ちになる。
御帳台から外に出てみた。部屋の中には誰もいない。仕方なく、廂の間にまで出てみた。そこには年かさの者やら若い女房が四人ほど控えていた。声をかけずとも足音で気づいたらしく、若い女房が一人近寄ってくる。
「…まあ、姫様。起きられたのですね。お体の調子はどうですか?」
心配そうに尋ねられた。鈴子は微笑みながら答える。
「…よく眠ったから大丈夫よ。ただ、喉が乾いているから。白湯を持ってきてもらえるかしら?」
「わかりました。少し、お待ちください」
若い女房は頷くと急いで台盤所に向かっていく。それを見送りながら、鈴子は改めて体が疲れているのを感じたのであった。
しばらくして、女房が白湯と柑子(こうじ)を持ってきた。お膳に乗せてあるのを受けとる。
床に置いて鈴子は白湯を自分で杯に入れようとした。が、女房から止められたので仕方なく、あきらめる。女房が杯に白湯を入れてくれたのでそれを手に取り、飲み干した。思ったより、喉が渇いていたのか白湯が甘く感じられた。次に柑子の皮を剥いて一房取り、口に運んだ。甘酸っぱさが口内に広がる。
食べやすく、食が進んだ。
「…姫様。思ったよりお元気そうでなによりです。朝になってもお目覚めにならなかったから、伊勢さんが心配していました」
若い女房が嬉しそうに言う。鈴子は柑子を食べる手を止める。
「…そうだったの。伊勢や皆が。桜梅の宮様も心配なさっていたのかしら」
「そうですね。宮様も心配なさっておいででした。でも、昨日の事を吉勝殿からお聞きになられて。姫様がたいそう、お疲れだろうからゆっくりお休みになられた方が良いと判断なさいました。なので、私共もお目覚めになるのを待っておりました」
女房の話を聞いて宮や吉勝にも迷惑をかけたなと鈴子は思った。女房は白湯をもう一杯、勧めてくれる。
それを杯で受け取る。また、飲むと喉の渇きはだいぶ、ましになった。
もう良いと言いながら鈴子は宮にお会いしようかと思い立つ。
「ねえ。これから、宮様にお会いしようと思うのだけど。身支度をしたいから。準備をお願いね」
女房に言うと驚いた顔をされる。
「…え。今からでございますか。お体は本当に大丈夫なのですか?」
「大丈夫だと思うわ。これを片付けたら、宮様にお会いしたい旨を伝えて」
「…わかりました」
渋々、頷くと女房は白湯と食べ終えた柑子を片付けて一旦、部屋を出て行った。
少し経って、女房が戻ってきた。他の者たちも角盥に水を汲みに行ったり、鈴子のこれから着る衣装の用意を始めた。一気に部屋が慌ただしくなる。
まず、顔を洗い、次に髪を櫛で梳かした。それらが終わると用意された正装に袖を通した。襲(かさね)は桜の襲である。鈴子の年を考えるといささか、派手ではあるが。
伊勢の君がこれがよいとしきりに勧めてきたので仕方なく袖を通すことにした。鈴子は着付けをされている間、吉勝の事を考えた。
(…昨日は随分と無理をしたわ。吉勝殿にはだいぶ、迷惑をかけてしまったし)
何せ、牛車に乗っている時など彼の膝の上に乗せられていたのだ。それを思い出して顔が熱くなる。
まさか、あんなはしたない事をしてしまうとは。
自分が恥ずかしくてたまらない。吉勝に次に会う時、どのような顔をすればよいのか。
悩む鈴子であった。
正装の着付けが終わるとお化粧に入る。水で解いた白粉を顔に塗り、眉墨で眉を描く。
目元に紅をさっと塗り、唇にもはく。上に粉状の白粉をはたき、頬紅も同様にする。
お化粧を終えて鏡で自身の顔を見た。そこには十八とは思えない子供っぽい娘が写りこんでいた。鈴子はぽってりとした唇が昔から嫌いだった。
何か、おしとやかな姫君の顔ではないと思えるからだ。それでも、我慢して鈴子は鏡から目を逸らした。
「…身支度はできたから、宮様の御前にあがるわ。伊勢の君、案内を」
短く用件を告げると伊勢の君は頷いて立ち上がった。鈴子も立ち上がると桜梅の宮の部屋へと急いだ。
宮のお部屋に着くと伊勢の君たちは一斉に退出する。残るは鈴子と桜梅の宮だけになった。御簾や几帳の隔てもなくあるのは互いが持つ扇のみであった。鈴子は口元を扇で隠しながらため息をつく。宮も心配そうにこちらを見る。
「…薄紅の姫君。今日は元気がないようですね。あなたが幼い頃は薄紅の君とお呼びしていたのが懐かしいですよ」
「…宮様?」
鈴子が首を傾げながら尋ねると宮は少し顔に笑みを浮かべた。
「いえね。姫がお昼になってもお目覚めにならなかったから。どうしたものかと手をこまねいていました。吉勝殿にも聞いたらあなたが怨霊退治に北山まで行ったというではありませんか。驚きましたよ」
「…ご心配をおかけしたようでごめんなさい」
「良いのですよ。姫がご無事であれば。でも、今度行かれる時は一言でもことわってからにしてください。私もその方が気が楽ですから」
「わかりました。宮様の仰せの通りにいたしますので」
鈴子が丁寧に言うと宮は首をゆるゆると横に振りながらにじりよってきた。そして、彼女の両手をそっと握る。
「そんなに恐縮することはないですよ。姫、吉勝殿はとても陰陽師としては優秀です。私は一緒に行く事はできませんから。その分、彼に教えてもらうとよいでしょう」
優しく手の甲を撫でながら宮は言う。鈴子はそれに頷いた。
「…わかりました。宮様、ありがとうございます」
礼を言うと宮はにこやかに笑った。二人して和やかに話をしたのであった。
夕方になり、鈴子は宮の御前を退出した。伊勢の君たちが部屋まで同行してくれる。それに有り難いと思いながらもゆっくりと歩いた。
「宮様と和やかにお話ができたようで。姫様、後で吉勝殿がおいでになります。よいでしょうか?」
「…え。吉勝殿が来られるの?」
「そうです。何でも姫様がお昼頃まで寝込んでおられると聞かれたようでして。お見舞いがてら、お会いしたいとの事です」
鈴子は心の臓がどくんと高鳴るのを感じた。顔が熱くなる。
「…そう。わかったわ、もうお待たせしているかしら?」
「そうですね。私どもでお迎えしたのが小半刻ほど前になります」
小半刻と聞いて鈴子は慌てた。
「あら、じゃあもういらしてるではないの。急がないと」
「…姫様。まだ、お体が本調子ではないのですから。あまり、興奮なさいますとよくありません」
女房に引き留められて仕方なく鈴子ははや歩きで部屋に戻った。後を女房たちが追いかける。
少しして、部屋にたどり着いた。中に入ると二人の女房が控えており、すぐに鈴子の御座(おまし)の用意を始めた。手早く、準備を終えると簀子縁に退がっていった。鈴子は上がった息を整えるために深く肺の府に空気を吸い込んだ。吐いて御座に落ち着いた。
御簾は下ろしてあり、その向こうには人が座っているらしい。よく見ると吉勝だった。今日は文官の冠に袍、指貫という出で立ちだ。
いわゆる衣冠の装束と呼ばれるものである。いつもであれば、白の狩衣に薄藍か何かの指貫、烏帽子といった格好が多い。
珍しい事もあるものだと思いながら扇で顔を隠した。
代わりに女房が挨拶をしてくれる。「…今日はお見舞いをしていただき、有り難く思っております。ですけど、今は気分が悪しく、ご挨拶をうまく言えませぬ事ご容赦くださいませ」
そういい終えると吉勝は快活に笑った。
「…いえ、ご丁寧な挨拶をありがとうございます。でも、気になさらないでください。姫の体調が悪くておられるのは既に聞いていますから」
「佐用でございますか。ご気分を害したわけではないのでしたら、ようございました」
女房が返事をすると吉勝はさらに笑みを深めたらしい。
「気分など害してはおりませんよ。むしろ、高貴な方に失礼を働いていやしないかとこちらが心配してしまいます」
「まあ、冗談がお上手ですね。宮様からきつくお叱りを受けたと聞いていますよ」
「…それを言われると耳が痛いな。確かに宮様からは叱られましたよ。姫君を勝手に外へ連れ出すなど何を考えているのかとお小言をいただきましたから」
そう言いながらふと、御簾の向こうにある鈴子に視線を送ってきた。どきりとした鈴子は扇で顔全体を隠した。
(ああ、吉勝殿の視線が痛い。わたくしがなかなか答えないから怒っていられるのかしら)
胸中で呟きながらも身を縮こませる。そうでもしないと恥ずかしかったからだ。穴があったら入りたかった。吉勝はしばらくこちらを見つめていたが女房に向き直った。鈴子の父の右大臣からもお小言を彼が頂戴したという話は宮から聞いてはいたが。鈴子はまた、ため息をついた。
「けど、姫君は体調がまだお悪いようですね。あなたに代わりに挨拶をさせたのだから」
「吉勝殿。姫様の御前ですのに。軽口は局でお願いします」
「おや、なかなか冷たい言い方ですね。あなたとはもう、懇ろな仲だと思っていましたが」
吉勝が冗談めいて言うと女房はくすりと妖艶に笑った。
「あら、そうだったかしら。懇ろだなどと吉勝殿は本気でそう思っていらしたのね。私、知らなかったわ」
彼女がそう言うと横から咳払いの音が聞こえた。鈴子の側に控えていた伊勢の君のものだった。
「…相模。姫様の御前ですよ。色恋めいたやりとりは後でもできるでしょう」
ぴしりとたしなめると相模と呼ばれた女房は顔を赤らめてうつむいてしまう。それを見ながら鈴子は吉勝に幻滅していた。普段は真面目ぶっているのにあの軟派な態度は何だ。自分は対象外だから良いとしてもあの相模を目の前にしてかき口説こうとするとは。
今までの吉勝に対しての好印象が崩れ去っていくようだった。
「…姫様が気にされる事ではありませんわ。私が代わりにおいとましていただけるように申し上げますので」
「…わかったわ、頼むわね」
鈴子が頷くと伊勢の君は御簾に近づいた。
「…では、吉勝殿。姫様はもうお疲れですから、これにて失礼させていただきます。よろしいですか?」
「…ああ、わかりました。もう、姫君は戻られるのですね。では、わたしはこれにて失礼します」
吉勝は深々と頭を下げてから立ち上がる。踵を返して部屋から去っていった。
鈴子はほうと息をつくと扇を膝の上におろした。伊勢の君は心配そうに顔を覗きこんだ。
「ああ、やはりお顔色が悪いですね。もう、お休みになられた方がよろしいですよ」
「…そうさせてもらうわ。でも、衣装は脱がないと」
「そうでございますね。では、参りましょうか」
伊勢の君が手を差しのべてきた。鈴子はそれに掴まりながら、立ち上がる。ゆっくりと歩きながら奥に戻った。
相模や他の女房たちも同じようにやってくる。鈴子が几帳の後ろまで来ると伊勢の君が膝だちになって唐衣を脱がせた。裳や他の衣装も手早く脱がせると袿を羽織らせた。
やっと、緊張が解けた鈴子であった。
正装から身軽な単衣袴姿になって鈴子は早めに休む事にした。思ったよりも疲れていることに今さらながらに気づいた。
(ふう。なかなかに疲れたわ。無理をするんじゃなかったかしら)
そう思ったが。答えてくれる人はいない。
初夏とはいえどまだ、夜は冷え込む。鈴子は御帳台に入った。横になると体が一気に重く感じられた。
あの桜の精とは三日前に話したきりだ。なかなかに綺麗な女人の姿をしていた。会いたいと思うが。吉勝がいないと出てきてくれないだろう。そう考え直しながら寝返りを打った。部屋は蔀戸や妻戸が閉めきってあるために女房の助けなしには出られない。
まんじりとしないまま、手を額にやる。涙がつうと頬を流れた。
相模に言い寄る吉勝を思い出すと胸がざわついた。それが何であるのかはまだ、この時はわからなかった。彼女が気づくのはもう少し後になる。それに大いに苦しめられる事になろうとは誰が予想できたであろうか。鈴子は涙を袖で拭いさる。泣いている場合ではない。今は宮や吉勝から巫術(ふじゅつ)や陰陽術を学ばなければならない。落ち込んでいる暇はないのだ。
そう、自分を律して鈴子は瞼を閉じた。起きていたら余計な事を考えてしまう。
恋情も何もかも抑え込んでしまわないといけない。感情を押し殺してでも修行に励もうとする鈴子を心配そうに桜の精はこっそりと見守っていた。大丈夫だろうかと思う。
だが、気づいてはくれない。桜の精はそっとため息をついてその場から姿を消した。後には桜の仄かな薫りだけが残っていた。
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