五話
吉勝に手を引っ張られたが鈴子は足がすくんだ。邪気らしきものを感じたからだった。
「…姫。どうしましたか?」
吉勝が不思議そうな顔で問いかけてきた。鈴子はどういったものか悩む。
「…いえ。何と言いますか。邪な気といいましょうか。得体の知れぬ感じがして」
「…確かに。なかなか強い瘴気がここ一帯に広がっているようですね。姫も感じ取ったようだな」
ふむと言いながら吉勝は木々で覆い隠された空を仰ぐ。辺りは昼間だというのにどんよりと薄暗い。鈴子は怖じ気づきながらも歩こうと踏み出した。
「…姫。お待ちを。浄め給え、恵み給え。我らに加護を」
短く吉勝が祝詞を唱えると白銀のきらきらとした光の粉が二人に降り注いだ。
「吉勝殿。これは何ですか?」
「…これは軽い浄めの術です。後、神の加護を願っておきました。これから行く場所は物怪の本拠地ですから。これくらいは序の口ですよ」
「そうだったんですね。わかりました」
では行きましょうと言って吉勝が先に行き始めた。その後を付いて鈴子も歩き出したのであった。
しばらくして、辺りは鬱蒼と生い茂った森のかなり奥にまで進んだ。鈴子たちは枝などに足をとられ、袖や裾を引っかけながらも何とか、目的地を目指していた。
「…後もう少しでこの北山の頂上にたどり着きます。姫、心の準備をしておいてください」
「…いよいよ、敵の本拠地にたどり着くのですね」
「ええ。この地は霊気に満ちています。だからか、神や人ならざるものが集まる」
吉勝が言うと一陣の風が吹いた。鈴子や吉勝の髪や衣の裾を巻き上げる。
二人は顔を両腕で庇いながら、進んでいった。吉勝がいきなり止まったので鈴子は彼の背中にしたたか、鼻をぶつけた。
痛さに顔をしかめながらも吉勝の端正な顔を見上げた。
すると、彼はとっさに鈴子の腕を掴んで横へ飛びすさった。ぐいと体ごと引き寄せられて吉勝の腕に収まる。いきなりの事で混乱しているとひゅっと何かが飛んでくる音がした。
「…危なかった。もう少しで鎌鼬(かまいたち)の鎌にやられるところでした。姫、大丈夫ですか?」
「…だ、大丈夫です。ありがとうございます、吉勝殿」
「いえ。礼には及びません」
吉勝はそう言いながら、鈴子を放した。彼から距離を取り、やっとの事で北山に居着く妖しの姿を鈴子は目の当たりにした。渦を巻く風の中に巨大な二本の鎌を持った鼬が浮かんでいて表情は恐ろしく怖い。ごおと音を立てながら、こちらを見据えている。
「…あれが鎌鼬。わたくしに何かできる事はありますか?」
「…そうですね。では、姫には簡単な結界を作ってもらいましょう。できますか?」
「…わかりました。やってみます」
静かに答えると鈴子は昨日、吉勝に教えてもらった結界術の印の形に指を組んだ。そして、真言を唱える。足元にあった手頃な石に印を組んだ手を当てながら結界を作った。そして、もう一度固く印を組み直す。
「…初めてにしてはよい出来です。これで鎌鼬の調伏に集中できます」
吉勝は鈴子に笑みを見せると前に向き直った。そして、懐から折り畳み式の梓弓を取り出した。
だが、矢がない。どうするつもりなのかと鈴子が見つめていると吉勝は弦の張られた弓だけを構えた。ちょうど、射るときの姿勢を彼は取る。すると、ぼんやりと弦の部分や弓自体が白く輝き始めた。それは矢をつがえる格好の指先に集まり、真っ白な一本の矢の形になった。弦をぎりぎりまで引き絞り、吉勝はびいんと白い矢を放った。それは鎌鼬にまっすぐ飛んでいき、眉間に命中した。「…ぐっ、がああ!」
鎌鼬は断末魔の悲鳴をあげながら、霧のように消え去ってしまう。その様を見て鈴子はあまりの見事さに唖然としてしまった。
吉勝は涼しい顔で彼女を振り返る。「…ふう。やっぱり、魂込めの弓矢(たまごめのゆみや)を使うのは疲れるな。姫、もう妖し退治は終わりましたよ。帰りましょうか」
「…え、ええ。そうしましょうか」
鈴子はそれだけを言うのがやっとだった。吉勝は踵を返すと弓を懐にしまい、鈴子の手を再び取って下山したのであった。
下山をして、山の入り口まで戻ると従者たちが待ち構えていた。皆、心配そうにしている。
「…ああ、若君。お戻りになられてようございました。皆、大丈夫だとはわかってはいましたが。それでも、生きた心地はしませんでした」
一人の従者が言うと他の者たちも一斉にそうだなと頷く。吉勝は苦笑いをしながら答える。
「…心配を毎度かけて悪いとは思ってる。だが、今回も大丈夫だったろう?」
「まあ、それはそうですが。けど、今回は女人連れでしたから。気が気ではなかったですよ」
「…そうか。確かに高貴な姫君を連れていくには危険な場所であったのには違いない」
今度から気をつけてくださいと従者は忠告をしてくる。それにはさすがの吉勝も肩を竦めた。
「…では、姫。先に牛車に乗ってください。私は後で乗りますから」
「…ええ。では、吉勝殿。また後で」
そう言って鈴子は吉勝から離れて牛車の近くまで寄る。従者の一人が鈴子に衣の一枚を頭に被せてくれた。それに礼を言いながら鈴子は牛車に乗った。
そして、二人は北山から桜梅の宮邸に戻った。吉勝は宮に妖し退治の顛末を報告するため、鈴子とは邸の中に入った所で別れた。代わりに伊勢の君たち五人の女房たちが待っていた。
皆、鈴子の姿を見るなり、驚いた顔をした。それもそのはず、鈴子の髪には枝や草、葉っぱなどが絡まり合い、着ている袿の袖や裾は破れ放題のひどいものだった。伊勢の君は鬼気迫る顔で鈴子に近寄ると黙ったままで手を引っ張った。
鈴子は早々とお湯殿の方に連れて行かれた。ここで女房たちによってたかって、着ていた衣を剥ぎ取られて湯帷子に着替えさせられる。髪や体を念入りに洗われて布で水気を拭き取ってもらう。
その後で延々と髪を櫛ですかされた。香油を刷り込まれて気がついた時には夜中になっていた。
「…ふう。やっと、おきれいになられました。一体、どこへお行きになられていたのですか、姫様」
満足いく仕上がりになったのを確認してから、伊勢の君は尋ねてきた。鈴子は仕方なく答えた。
「…その。修行のためと言われて。北山に行っていたの」
「…んまあ。北山ですって?」
「ええ。それで妖しが出るというから吉勝殿と退治してきたわ」
簡単に言うと伊勢の君は信じられないという顔をした。
「…あの吉勝様と一緒に行かれたのでございますか?!」
「…そうだけど」
「…んまあ。なんという事でしょう。妙齢のうら若き姫君に顔を晒させるだけでは飽きたらず、妖し退治に連れて行くとは。危険極まりないですわ!」
伊勢の君は真剣な調子で怒る。その剣幕に鈴子は圧倒された。
「…ま、まあ。伊勢の君、落ち着いて。吉勝殿はわたくしに危険がないようにしてくださったから。心配する事はないわ」
「…わかりました。姫様がそうおっしゃるのなら、わたしどもからは何も申しません」
伊勢の君はふうとため息をつきながら鈴子に言った。それには肩をすくませた鈴子であった。
鈴子は髪を乾かした後、明け方近くに眠りについた。夢も見ずに深い眠りであった。吉勝がその部屋を静かに訪れる。
「…姫」
低いささやき声が暗闇に消えて無くなった。吉勝は鈴子の額にかかった髪をそっと、払いのける。
「…封印が解ける時まで後もう少しか」
また、ぽつりと彼は呟いた。が、それも暗闇に吸い込まれて消える。
鈴子は一向に目を覚まさない。それを見つめながら吉勝は眉をしかめた。
自身の力が鈴子を欲する。彼女の持つ強い陽の気に惹かれてしまう。
だが、まだ時は早い。吉勝はそう思いながら、鈴子から離れた。
「…姫。良い夢路を」
そうささやきながら彼は部屋を後にした。
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