垣本夏見 木曽渡

柿本夏見は一抹の不安を覚えていた。何事か起こってしまってからでは手遅れになってしまう。ではこの怪しいゲームに飛び込むべきなのだろうか。

三億円という額は大金だ。手紙にも書いてある通り稼ごうと思っても膨大な時間がかかってしまう。このままだと一生住む世界が限定されてしまう。そんな人生はごめんだった。

垣本は意を決してこのゲームに臨むことにした。新たな世界へ飛び込むため。


「インフルエンザですね。抗生物質ととんぷくを処方しておきますので症状が回復しないようでしたらまたお越しください」

目の前の子供とその母親ににこりと笑みを向ける。

木曽渡は勤務医だった。四十代になって平の勤務医というのは何とも滑稽なことだろうか。ひたすら泣きわめく子供をなだめすかして、薬を処方し続けるだけの仕事。

分かってはいても納得がいかない。自分にはもっと向いている仕事があったはずなのに。

医師免許を取ってやっと落ち着いたかと思った。しかし、現実はそれほど甘くなかった。勤務医の仕事はハードワークだ。四六時中診察をするだけならまだいい。

看護師同士のくだらない雑談に突き合わされるのも我慢しよう。

だが、どうしても納得のいかないこともある。

それは年下に馬鹿にされ続けることだ。

耳と目がいい木曽には嫌でも聞こえてくる。

やれ、「あいつは医療ミスをして飛ばされた」「若い看護師にセクハラをして出世の道を断たれた」だの根も葉もないうわさが飛び交い、周りの見世物にされることがとんでもなく苦痛だった。

 金さえあればこんな世界抜け出してやる。

 そんなことを思い出した矢先一通の封筒が届いた。

 内容はいたってシンプルだ。ゲームに参加して勝てば三億円を賞金として渡す。ただそれだけだ。文の読み方によっては参加するだけで金をくれるのかもしれない。どちらにせよ木曽に断る理由はなかった。

 手紙を送ってきたのがどんな人間か走らないが、俺を見くびっている。俺がしがない勤務医でないことを証明してやる。

「木曽先生どうされました? 何かいいことでもあったんですか」

 同僚が声をかけてくる。いつも馬鹿にするように話しかけてくるのが癪だった。第一年上に対する態度がなっていない。

「旧友から手紙が来てね。そうだ、来週はお休みをもらうから伝えといてくれるかな?」

 すると彼は露骨に嫌そうな顔をする。

「だから先生はダメなんですよ。あっちの全知君を見てください。診察のスピード、正確性はピカ1。それなのに病欠は一切なし。有休も返上しているんですよ。木曽先生も彼に見習った方がいいんじゃないですか?」

 あはは、と笑って去っていく。冗談じゃない。俺を無能呼ばわりしやがって。

 木曽は机を小突く。それだけで机は大きな音を立てて揺れる。視線が木曽に集まる。

 彼はそのまま病院を後にした。

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