向日葵の君
竹刀を背負って学校へ登校するなんて、いつ振りだろう。中学最後の大会以来だから、夏くらい?
地元なら通いつけの武道具店があったけど、まだ引っ越して来たばかりのこっちでは、お店どころか街の構造すらよく理解できていない。とりあえずメインストリートである七日町商店街っていうのがあって、その脇道に1軒お店があることを須和さんが教えてくれた。
須和黒江――その名前が、トークアプリのアカウント一覧に刻まれることになるなんて、誰が予想できただろうか。たんなる同い年のクラスメイトの連絡先を手に入れたというだけなのに、胸を張りたいくらいに誇らしかった。
教えてもらった武道具店では、高校規格である三八(さんぱち)の竹刀を購入する。中学のころに使い慣らした三七(さんしち)と比べて三センチほど長く、その分だけ重くなった竹刀。長さの違いは間合いに。重さの違いは体力に響いてくるので、少しでも早く慣らさなきゃいけない。
だから、はやる気持ちを抑えることなく、まずは竹刀だけでも買いそろえたわけだ。防具は、引っ越すときに北海道の母の実家に預けてしまった。農家をやっている母の実家には、とてつもなく大きな倉庫があるので、北斗市の家から持ち出しきれなかったものを預かってもらっていた。あの時は、高校で剣道を続けるつもりなんてこれっぽっちもなかったので、防具も一緒に預けてしまっている。
近いうちに送ってもらわないといけないのだけど、諸事情により、どうしようか迷っているところだ。
そういうわけで、今は竹刀だけ。安売りしていた布製の竹刀袋に突っ込んで、肩から下げる。長物なので、どうにも目立つよね。校門が近づいて、生徒の数が増えて行くにつれて、いくらか視線を感じるようになってくる。
流石に教室にまで持って行きたくないなぁ……道場は朝も開いているはずだし、竹刀だけ置かせてもらうことにしよう。
目論見通り、体育館の鍵はあいていて、道場にも入ることができた。どこかの部活が朝練をしているのか、床板をシューズの底がこする「キュッキュッ」という音が、遠くに響いていた。
一方で、道場の中は無人だった。剣道部は朝練ないのかな?
もしくは、大会が近づいてからとか……?
正直なところ、匂いが気になるので、乙女的に朝練は勘弁願いたい。素振りとか、防具をつけない程度の運動なら良いけれど。
道場の隅に竹刀を袋ごと置かせてもらって、道場を後にしよう――と思ったけれど、気持ちが高ぶって引き返す。袋の中から竹刀を取り出して、鍔を装着すると、壁に備えられた大鏡を前に、正眼で構える。
そのまままっすぐ、正面に向かってメン。ひと振りで、足先から頭のてっぺんまで、じーんと気が張り詰めていく。思わず笑みがこぼれた。
あんなに辞めようと思っていたのに、今はこんなにわくわくしている。故郷を遠く離れたこの地で、この学校で、私は剣道をやるんだ。
不意に、入口の方に気配を感じた。振り向くと、入口から中を覗いていたらしい人影が、慌てた様子で逃げて行くのが見えた――かと思ったら、ゴチンと鈍い音に加えて「ギャッ!」と叫ぶような声が響く。
流石にぎょっとして、慌てて廊下へと向かう。
「だ、大丈夫ですか!?」
入口から顔を出して右に左に見渡すと、廊下の真ん中で大の字になってぶっ倒れた女生徒の姿があった。あれ、たぶん顔面からいったな……ホントに大丈夫かな。なんて声をかけようか迷っているうちに、彼女はうずくまるようにもぞもぞと身体を起こした。
「い、いったぁ……」
爽やかなショートヘアの間から、真っ赤になった額が覗く。それを手で撫でながら、眉をひそめる彼女の周りには、なんていうかその、お花が舞って見えたような気がした。
やだ、イケメン。
思わずスカートをはいてることを二度見して確認してしまうくらいの、超絶美形がそこにいた。須和さんも須和さんで美人だけど、それとは方向性が違う……彼女がアジアンビューティーなら、目の前のこの方は光源氏とか、宝塚のトップスタァって感じ。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
妙にどぎまぎしながら、改めて声をかける。そこでようやく私のことに気づいたのか、彼女はぎょっとして顔を青ざめさせた。
「いやっ、ごめ……その、私は……」
彼女は慌てふためきながら、めくれ上がりかけたスカートを正して立ち上がる。同時に新たな驚きが私を襲った。
――でっか!!!
私も同年代の中では、かなり身長が高い方だと思うけど、それでもはるか高みから見下ろされているように感じるくらいの――実際はたぶん、目線ひとつ外れるくらいだろうけど、思わずそう感じてしまう――そんな威圧感があった。
「ど、どうやら君に見とれて前後不覚に陥ったみたいだ。それじゃあまた! シーユーアゲイン!」
これが少女漫画なら「ドッキーン!」となりそうな台詞と、キザなウインクを残してん、彼女は今度こそ一目散に去って行ってしまった。
な、なんだったんだろう。すごくカッコよかったけど、状況が状況すぎて、理解が追いついていない。もしかして私、何か失礼なことしたかな……モヤモヤとしたまま、私も道場を後にした。
放課後。私は改めて道場を訪れる。もちろん竜胆ちゃんも一緒だ。今日は入部届けの提出日なので、いよいよ本格的にこの部の一員となる日がやってきた。
「ようこそ剣道部へ! 今年は豊作でいいね!」
用紙を持って道場に足を踏み入れた新入生たちを、安孫子先輩は「すしざんまい」みたいなポーズで出迎える。私たちの他にも、初めて見た顔の新入生が三人。ひと学年だけでチームが組める人数がいるというのは、女子剣道部としてはかなり豊作の部類になる……と思う。私はそういう地域で育ったから、そんな認識だけど。安孫子先輩も「豊作」と喜んでいたから、近しい感覚ではあるはずだ。
「三年で副部長の安孫子蓮(れん)だよ。部内の人と人のパイプ役みたいな感じだから、人間関係で困ったことがあったら何でも相談してね」
パイプっていうより、ポンプか何かの間違いじゃないかな。こっちは入部前から、ほとんど強制的に、部内の人間関係に組み込まれちゃっているんだけど。三年の先輩に向かってそんなこと、口が裂けても言えないけど。
そのまま、何となく自己紹介の流れに。注目度も高いということで、スタートは一年生からとなった。
「一年三組、日下部竜胆です! 飛島中から来ました! 二年後に団体戦でインターハイに出るのが夢です!」
「今年頑張ってくれてもいいんだけどなぁ」
「もちろん、レギュラー入り目指して頑張ります!」
安孫子先輩のお小言に対して、竜胆ちゃんは実に強メンタルな返事をする。先輩たち相手にレギュラー奪取宣言なんて、いったいどんな心臓をしているんだろう。でも、それをさらっと言ってなお嫌味がないのが、日下部竜胆という人間が持つポテンシャルだ。
「同じく一年三組の秋保鈴音です。七重浜中――えっと、北海道から来ました。家庭の事情で。よろしくお願いします」
我ながら、実に無難な自己紹介。まあ、先輩たちには既に済んでいることなので、他の同級生に伝われば問題ないわけだしね。次は、須和さんかな――と思いきや、マネージャーなので、どうやら最後に回されるらしい。
よって、ここからはまだ見ぬ同級生たちとなる。
「一年一組、井場真柚(まゆ)です。楯山中出身。日下部さん、去年の県予選で戦ってるんだけど……覚えてるかな?」
「覚えてる! 払い技めっちゃ上手い子!」
「あはは、まあ、負けちゃったけどね。でも、そんな風に覚えてくれてるなら嬉しいな」
井場さんと名乗った子は、はにかみながらも嬉しそうに笑う。かつて戦った相手が、進学と共に仲間になる。同じ県なら、そういうこともままあるよね。身ひとつで他県にやってきた私としては、羨ましい繋がりだ。
「一年五組、戸田姫梅(ひめ)です。出身は長谷堂中。剣道は初めてなんですが、大丈夫ですか?」
ヒメという名前の名前の響きが似合う、小柄な彼女は、ちょっぴり心配そうに尋ねる。そんな不安を、熊谷先輩が笑顔で一蹴した。
「ウチも初心だけど何とかやれてるんで、大丈夫ッスよ。まあ、レギュラー狙いたいとかだったら、かなり努力しなきゃいけないッスけど」
「ま、まさか! そこまで望んだりしませんよ! ただ……」
戸田さんは、意味深に言葉を濁しながら、後ろに控える須和さんに視線を送る。
「実はこの間、こっそり見学に来ていたんです。そこでちょうど、試合やってるのが見えて……その、カッコイイなって」
見学期間に試合って……もしかして、須和さんの入部をかけたアレのこと?
こっそりとは言え、誰かが見てるなんて全く気付かなかった。まあ、あんなバチバチの〝逆入部テスト〟をやってたら、堂々と足は踏み入れづらいか。
「戸田さんは、スポーツは何かやってたの?」
「えっと……スポーツと言えば、たぶんスポーツではあるんですけど」
安孫子先輩の問いに、戸田さんはまた遠慮がちに答える。
「中学のころにスポーツチャンバラをやってました。でも、高校からは剣道にしてみようかなって、ずっと考えてて」
「おー、スポチャン。腹違いで遠縁のご親戚って感じ?」
「え……あ、はい、そうですね?」
安孫子先輩のワードチョイスが謎過ぎる。分かったのか分かってないのか(たぶん分かってない)、戸田さんは曖昧に首を傾げながら頷くほかないようだった。
「同じく一年五組、藤沢つづみです! 千歳中出身で、まあ、家が近所ですね。これまた同じく初心者です! ちなみに、体育以外でスポーツはやったことないです!」
「へえ……それで、どうして剣道部に?」
五十鈴川先輩が、にこやかに尋ねる。すると藤沢さんは、剣道――というよりは、シャドー居合のようなポージングで、空中に見えない剣を振う。
「時代劇が大好きで、一回はリアルな剣技に触れてみたいなと! 好きな作家は藤沢周平です! あ、別に、苗字が一緒だからじゃないですよ?」
そういうきっかけで剣道始める人もいるんだ。私なんか、なんとなく近くでスポ少やってる団体があったからってくらいの理由だったのに。世間は広い。
「藤沢周平いいよね~。あたしは映画しか見たことないけど好き」
「流石は庄内勢! 地元の宝をしっかり履修してくれてて嬉しいです!」
竜胆ちゃんが、あっという間に地元トークで意気投合していた。後で聞いて知ったことだけど、庄内っていうのは山形県の海沿い地域の総称ということらしい。で、藤沢周平はそこの有名な時代小説作家ということ。何本か映画やドラマの原作にもなっているらしいけど、残念ながら私は観たことがない。
そういう話を聞かされると、北斗市の有名人って誰だろうって気になる。残念なことに、ぱっとは思いつかなかったけど。お隣の函館市ならいっぱいいるのにね。
そして、選手組の自己紹介が終わり――部員たちの視線は、自ずと一点を向く。ひときわ存在感を放つ、彼女のもとへ。
「一年六組、須和黒江。山形十中。マネージャーとして入部します」
実に簡潔な自己紹介だった。それでも、ここに居る誰もがその名前と顔を記憶に刻み付けたことだろう。それほど圧倒されるようなオーラが彼女にはある……と、私は思っているけど、実際はどうなんだろう。私がただ、彼女のことを神聖化しすぎているだけなんじゃないかって、ここ最近思い始めて来た。
「えっと……須和さんは、選手じゃないんですか?」
戸田さんが、またまたまた遠慮気味に尋ねる。須和さんは、一切の躊躇いもなく、静かに首を縦に振る。
「今、私には選手をやる理由がないから」
「は、はぁ」
意味を理解できていないあたり、戸田さんは、本当に通りすがりに試合を見ただけなのだろう。あの試合が何のために行われていて、どういう約束が交わされていたのか、何ひとつ知らないようだ。
「以上六名だね。すばらしい。願わくは、ひとりも欠けることなく、せめて夏まで持ってくれますように」
安孫子先輩が、何やら不吉なことを口にして、新入部員挨拶を締める。だけど、せっかくこうして知り合えたんだから、三年の引退まで一緒に部活をやりたいよね。安孫子先輩ほど図々しくないつもりだけど、そうなってくれたらいいなという想いは私も同じだった。
新入部員の挨拶が終わったので、続いて先輩たちの挨拶に続く。私たちはまあ、ひと通りの顔と名前は一致しているつもりだけど……ちゃんと自己紹介をしてもらったことはまだないため、改めてのはじめましてとなる。
「三年の早坂楓香(ふうか)です。さっきの熊谷ちゃんと同じく、高校からの初心者組。試合は出れるなら出たいけど、そこまでガツガツはしてないつもりかな。だから、最高学年相手だからって遠慮しないで、積極的にレギュラー狙いに行ってね」
「二年の五十鈴川奈々子です。私は中学校から始めたけど、頑張って稽古を積めば、すぐに追いつけると思うよ。もちろん、追い抜かれるつもりもないけどね。よろしくね」
早坂先輩と五十鈴川先輩。面倒見の良さそうな先輩コンビは、完全に初心者組のフォロー体制だ。こういう人たちが部内にいるっていうのは、ひとつの財産だと私は思う。ただ厳しく稽古を積むだけの部活じゃ、ついていけなくて辞めてしまう初心者は、世の中に沢山いるのだから。
「二年、熊谷杏樹ッス。初心者組スけど、今はレギュラーの先鋒を任されてるッスから、試合に出たいならライバルッスよ。負けないッス」
熊谷先輩も、なんだかんだで面倒見がいい方だと思う。仮入部の私たちにも、比較的積極的に絡んでくれたし。ただ、先のふたりと違ってレギュラー争いに真剣な点が、大きな違いになるのかな。よき先輩でもあり、よきライバルともなりそうな気がする。
そして、問題の最後のひとり。中川先輩の番になると、道場内の――主に一年生たちの空気が、ずんと重くなるのを感じた。
「二年、中川薔薇(ろーず)」
「え?」
「あぁ?」
なんか聞きなれない発音が飛んできて、思わず素で聞き返してしまった。当然のごとく、殺気満々の視線で睨まれてしまって、背中が思いっきり震えあがる。
「す、すみません、つい……ちなみに、字はどう書くんです?」
「……薔薇って書いてローズだよ。文句あっか?」
「ないです!」
あったとしても言えるはずがない。そもそも、予想外の人が予想外な名前だったから、単純に驚いてしまっただけなのに。でも、ローズって名前はちょっとお洒落だね。心の底からそう思ったけど、今は何を言っても嫌味にしか聞こえないので、お口チャックにしておく。
中川先輩は、他に話すことはないらしく、そのまま黙り込んでしまった。微妙な沈黙が流れて、安孫子先輩が場を取り繕うように手を打つ。
「と、とりあえず、今日居る部員はこれで全部だよ。あと来てないのは部長と――」
言いかけながら、道場の入り口に視線を向ける。直後に同じ方向から、カタンと小さな物音が響いた。先輩は、しめたと言わんばかりのあくどい笑みを浮かべて、熊谷先輩の背中を叩く。
「杏樹、確保」
「らじゃッス!」
指令を受けて、熊谷先輩が猛ダッシュで道場の外へ飛び出した。遠巻きにドタンバタンと、なにやらすったもんだの音が聞こえて、やがて「バタン!」と何かが倒れる音と、「ギャッ!」っと女性の悲鳴が響く。
「いったい外で何が……」
「少なくとも、良いことじゃなさそうだよ」
竜胆ちゃんとふたり、息を飲んで見守っていると、やがて熊谷先輩が入口から顔を出す。その隣には、腕を背中側に回されて、文字通り〝確保〟された、ひとりの女生徒がいた。
彼女の姿に、私は見覚えがある。今朝、道場の前にいた、やたら背の高いイケメンだった。
「痛いよ熊谷ちゃん……何もここまでしなくっても」
「副部長命令ッス。あと、北澤先輩なら頑丈だから、これくらいなんともないッス」
「褒められてるのに嬉しくない……」
イケメンは、何やら泣き言を言いながらも観念した様子で、逃げるようなそぶりは逃げなかった。安孫子先輩が満足そうに頷いて、彼女のことを指す。
「彼女が三年の北澤日葵(ひまり)だよ。はい日葵、一年生に自己紹介」
そう場を仕切る安孫子先輩は、なんだか北澤先輩の保護者みたいだった。習い事の付き添いかな?
北澤先輩は、いまだに〝確保〟の状態のまま、眉間に皺を寄せて何度か唸って、それから覚悟を決めたように私たちに向き直る。
「三年の北澤日葵です。よろしく」
それから、なぜか良い笑顔で華麗なウインクを決めてくれた。
「やだ、イケメン……」
井場さんたちが、私が今朝やりそこねた〝ドッキーン〟状態になっていた。もじもじしながら顔を赤らめて、なんとも浮ついた空気が場内を包み込む。
「あの先輩つよそ~! 試合してみた~い!」
竜胆ちゃんは竜胆ちゃんで、別の意味で興奮していた。それはそれでどうかと思うけど、楽しそうなので放っておくことにした。
確かに、私をしのぐ体躯は目を見張るものだ。必ずしも背が高い人が強いわけではないけれど、強い人には背が高い人が多い。竹刀の規格が定められている以上、背の高さがそのまま、間合いの広さに直結するからだ。そして、柔道やほかの対人競技と違い、剣道の試合に階級は存在しない。
「日葵サン、お疲れ様です!」
中川先輩が、ヤ〇ザ映画さながらの綺麗な一礼をする。北澤先輩は、一瞬びくりと驚きつつも、すぐにはにかんだ笑顔を向ける。
「中川ちゃんは、今日も元気だね」
「おかげ様で、毎日健康そのものです!」
「わ、私は特に何もしてないけど……」
彼女は、あははと力なく笑うだけだった。
あの中川先輩の尊敬っぷりはなんなんだろう。単純な先輩への敬意と考えたら、安孫子先輩にはわりと雑な対応だし。ううん……ヤンキーに好かれるタイプの先輩。この向日葵の君は、少し用心しておいた方がいいのかもしれない。
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