第22話【ウルスラ文書】

 夜風で白幕が鳴り、卓上の屈折計の針がわずかに震えた。

 冷めた黒豆コーヒーを啜り、私は革表紙の覚書を開く。書記は石筆を整え、私の口述を待っている。


 ——以下、現地主任提出の原本(翻訳写)。封蝋:黒百合印。


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 題:黒花現象・十イア級モデル(zeta 位相結合型「消魔場」)覚書

 起草:主任研究官 ウルスラ

 日付:聖暦4076年 9月35日 午前14時30分


【要旨】

 ミアン域で観測された直径およそ 10 イアの黒花現象は、

(1) 短命・高強度の消魔場 S が突発形成し、

(2) 熱 (theta)・衝撃 (u)・魔損 (M) が同時に立ち上がり、

(3) 赤石(埋植魔晶)の残留振動が双子月の合周期 T_Sigma にほぼ同調(微偏差 epsilon)

 する事象である。半減期 t_half は 6–8 刻。ガラス化土壌の屈折 n は局所魔力密度 m に依存し ±0.03 揺らぐ。

 本覚書は S, m, theta, u, zeta(位相偏差)からなる連成の古式モデルを与え、半減・光学揺らぎ・位相同調を一枠内で説明する。


【単位系】

 距離=イア(ia)/時間=刻(koku)


【観測拘束】

 ・黒花域=楕円(長径 10.8 ia/短径 9.6 ia)。周縁に流向性黒灰。

 ・t_half = 6–8 刻(術阻害の半減)。

 ・風下 2–3 ia の水生体鰓に魔的焼灼(熱徴より“魔”優勢)。

 ・屈折 n の揺らぎ幅 ≈ ±0.03。

 ・赤石残留周期 T_obs ≈ T_Sigma ± epsilon(|epsilon|/T_Sigma ≲ 1.2%)。


【変数と外力】

 S(x,t):消魔場の強さ(術阻害量)

 m(x,t):局所魔力密度(魔素の濃度)

 theta(x,t):温度

 u(x,t):衝撃・流動の擬速度

 zeta(x,t):位相偏差(双子月合位相 phi_Sigma に対する差)

 外力の位相:phi_Sigma(t) = Omega_Sigma * t + phi0 + epsilon * sin(Omega_R * t + phi_R)


【支配近似(古式)】

(1) 消魔場 S の拡散・減衰・源


 ∂S/∂t = D_S * ∇^2 S - λ * S + α * m - β * S * m



(D_S:拡散係数、λ=ln(2)/t_half:減衰、α:励起、β:相殺)


(2) 魔力密度 m と熱 theta


 ∂m/∂t = D_m * ∇^2 m - κ * S * m + σ_θ * theta

 c_θ * ∂theta/∂t = k * ∇^2 theta + a * (∂S/∂t) + b * S * m



(3) 位相の強制振動(弱非線形振子)


 d^2 zeta/dt^2 + 2γ * dzeta/dt + ω0(m)^2 * zeta

 = H * S * cos( Omega_Sigma * t + phi0 )



 近共鳴(Omega_Sigma ≈ ω0)では


 T_obs ≈ T_Sigma * ( 1 ± (epsilon * Omega_R / Omega_Sigma) )



 を与え、観測の 1.2% 以内の偏差に収まる。


(4) 光学応答(屈折の一次近似)


 n(x,t) = n0 + a_n * m + b_n * S + g_n * (∂S/∂t) + d_n * ∇·( S * ∇m ) + ...



 この形で ±0.03 の揺らぎ域を再現可能。


【半減・同調・同時発火の整合】

 ・半減:空間一様の近似で S(t) ≈ S0 * exp(-λ t)。t_half=6–8 刻に整合。

 ・同調:上式(3)は強制振動の理に従い、Omega_Sigma 近傍で振幅極大(位相拘束)を示す。

 ・同時発火(熱・衝撃・魔損):以下の汎関数が臨界を越えると爆裂的放出が立つ。


 E[S] = ∫_Ω { (μ/2) * |∇S|^2 + (χ/2) * S^2 } dA

 条件: ∫_{0→τ*} ∫_{円域(半径 5 ia)} Γ(S,m) dA dt > E_c(m_eff)



【屈折揺らぎの見積もり】

 小振幅で


 δn ≈ a_n * δm + (b_n - g_n * λ) * δS



 代表比振幅(δm/m ≈ δS/S ≈ 0.1)と係数の最小二乗同定により


 |δn| ≈ 3e-2



 を得る。


【常数推定(誤差論)】

 観測列 { n(t_i) }, { T_obs }, { m痕 }, { S指標 } に対し、

 Θ = { λ, α, β, a_n, b_n, g_n, κ, H, γ, ... } を最小二乗で求めた。

 感度が高いのは λ(半減)と H/γ(強制同調の強さ)。


【運用上の訓令】


 発現後 8 刻以内の侵入を禁ず(中位術式の顕著な機能不全)。


 風下 2–3 ia での採水・摂食を禁ず(線量 D = ∫ S m dt の閾値超過)。


 赤石保持者は隔離(位相強制の再発恐れ)。


 掘削・加熱は停止(E[S] の再励起回避)。


【代替説の吟味】

 ・隕鉄:Ni 濃集・衝撃石英なし。位相同調の説明不可 → 棄却。

 ・火山性:ガス指紋不一致。半減・同調の両拘束に反す → 棄却。

 ・既知兵器:公知出力域外、赤石の強制振動痕が異質 → 高確度で棄却。


【付記(原簿扱い)】

「人族関与の弱化」「位相項の削除」等の文言改訂依頼を受領したが却下。

 原観測簿は付録βに写し、黒百合印で封緘済み。


【結語】

 黒花現象は、zeta(位相)により励起された十イア級の消魔場 S が、魔素拡散・熱・強制振動と連成して爆裂的相転を呈するものであり、半減・光学揺らぎ・赤石同調を一枠内で説明できる。

 次段は「消魔子」の実体探索と、phi_Sigma—zeta の結合項を机上模型(回転振子)で分離検証する。


【観測要点(再掲)】

 t_half = 6–8 刻

 |Δn| ≈ 0.03

 T_obs ≈ T_Sigma ± epsilon(1.2% 以内)

 風下 2–3 ia に魔的焼灼

 域径 ≈ 10 ia(楕円 10.8/9.6)


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 私は最後の句点を打ち、紙端を振ってインクを乾かす。

 幕の隙間から差す光に、採取したガラス片が鈍く光った。


「……悪魔の研究」


 その規模も、覚悟も、悪魔的だ。

 覚書を三通に割く。ひとつは学院の査閲へ、ひとつは西方港湾庁あての安全訓令、残るひとつ——付録β封緘本——は信頼できる者へ。


「落とさないで。表書きは『黒花現象・十イア級/付録β在中』」


 遠くで太鼓が三度。私は新しい紙に、次の表題を書く。


「zeta と赤石埋植個体の机上模型(回転振子)——同調実験計画」

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