ヨク
早山カコ
ヨク
ヨクは俺の弟だ。俺はヨクのことが嫌いだ。
例えば幼い頃のエピソード。あいつは小さいうちから、俺のあとをチョロチョロとついて回っていた。その日も、当時小学二年生だった俺の周りをヨクは、いっちょまえに付き纏ってきた。うざったくて仕方なかった。俺は小学校の同級生と遊びたいんであって、放課後の公園にお前が来たってただただ邪魔なだけなのに。体格もなにも二年生の俺たちと釣り合わないお前に、居場所なんかないのに。
一緒に公園に来ていた友達数人が近くの駄菓子屋へ行ってしまったので、俺はふて腐れてジャングルジムに登っていた。塗装のハゲた鉄骨群の頂上に座り、生あたたかい色の西日に包まれた、花を散らしたばかりの葉桜を眺めた。ふと視線を下方の砂場に移して、ぎょっとした。ヨクが、友達のうちの一人がそこに放置していたゲーム機を、勝手に手に取っていたのだ。
おい、と声を出す間もなくヨクがこっちを見上げた。
「兄ちゃんもコレで遊びたいでしょ? うち、ゲーム買ってもらえないもん」
舌ったらずな口調で言って、歯を見せて、ヨクは登れもしないジャングルジムを、ゲーム機片手に危なっかしく俺の方へ登ってこようとして、そして。
「あ」
ゲーム機を途中で落とした。がしゃんっ、と鉄骨の一本にぶつかって砂場に落下したゲーム機は、そのあと駄菓子屋から戻ってきた友達がいくら悲鳴を上げて電源ボタンを押しても、息を吹き返さなかった。
日が暮れて帰って来たうちの親は、事情を把握するなり烈火のごとく怒った。俺はその夜、団地のふたつ隣の棟に住んでいるその友達の家へ、親同伴で謝罪に行った。誕生日プレゼントで買ってもらったばかりだったというゲーム機を壊され、泣き腫らした友達の顔を俺は直視できなかった。友達はその日から友達でなくなった。
息が詰まる団地、よその晩ご飯のにおい。狭苦しい家に戻るとさらに追加で叱られ、疲れ果てて自分の部屋の襖を開けるとヨクがそこに立っていて、
「おかえりっ兄ちゃん! 明日は駄菓子屋行こうよ! 今日みんなが食べてたあのコーラ味みたいなやつ、おれも食べたーい!」
──俺はたった今、お前の責任を被ってお小遣い半年抜きを言い渡されたのにか?
弟は昔からそういう奴だった。時が経って背丈が伸びようが、その腐れた内面はひとつも変わらなかった。
今も、新宿の、そこはかとなく何かの腐臭がわだかまる路地裏で、俺の前にぶらぶらと歩いてきたヨクはあの頃と何も変わっていない。俺にしつこく付き纏うところも含めてだ。
「兄ちゃーん。さっき客殴ったってマジぃ?」
すえた臭いの濡れたアスファルトにしゃがみ込んでいる俺は、「マジだよ」と屈辱的な気持ちで弟を見上げ、吐き捨てた。どうしてお前なんかに見下ろされなきゃならないんだ、と思うがだるくて腰が上がらない。
「なーんでよりによって店の真ん前で殴っちゃうよ? 店長エグいぐらいブチギレてたよ」
「知ってるよ。次は俺が殴られそうだったからここまで逃げて来てんだろ」
「はーぁ。マジでバカじゃね?」
ヨクは俺の顔に向かってふぅっと煙草の煙を吐き出した。不快でたまらない。煙草と、自分の汗と中途半端に高い香水のにおいが全部混ざって、喉の奥から酸っぱいものがせり上がりそうになる。
「せっかく兄弟ホストとして在籍してんのにさぁ。兄ちゃんがクビんなったら俺も辞めなきゃなんねーじゃん、めんどくせ」
「んだよお前はよ……お前だけ残りゃいいだろがあの店によ」
「やだ。つーか、ムリだよ。俺が兄ちゃんから離れられるわけないっしょ?」
煙草を咥えたヨクは、一応は地面から尻を浮かせている俺と違って、躊躇なく地べたに尻をつけて座る。ブランド物のスーツが雨上がりのアスファルトでぐじゃりと汚れる、見ているだけで腹が立つ。ヨクは「兄ちゃんと俺は一心同体なんだから、さぁ?」と、人の神経を逆撫でする笑みを浮かべた。
「殴ったのってあのバンギャっぽい女の子でしょー? 前からムカつくって言ってた子」
「……るせぇ……」
「だひゃひゃッ! 落ち込んじゃってる!」
ヨクが汚い笑い声を上げた。こいつの笑い声は昔からいやに特徴的で、汚い。
「だひゃッ、あひゃひゃっ! ね、クビんなったら俺らどうなっちゃうんだろうねっ! 今の家も店長が紹介してくれたトコだしっ! やっぱ追い出されんのかな、そしたら俺らホームレスじゃんウケる」
「──ッるせぇな黙れ黙れ黙れ‼ そもそもおめぇだろうがよッ、ムカつくなら殴っちまえよっておめぇが俺を唆したんだろ‼」
「だひゃひゃひゃッ!」
「笑ってんじゃねぇよ、なあ‼ なあぁッ‼」
拳を振り回して声の限り喚くと、路地の入口の前を通りかかった男女グループがバケモノでも見るような顔でこっちを見た。「ヤバ、何あれ」「病気じゃね?」と聞こえる声量で勝手に品評される。やり場のない怒りがますます腹の底に溜まる、怒鳴り足りないような、でも怒鳴ったって解決するわけじゃない、なんにも。酒焼けの喉から血の味がした。
俺はついに膝を地べたについて、情けない嗚咽を漏らし始めた。目の前には煙草をふかしている笑い上戸の悪魔が居た。居た。居るよ、ここに。遠くから薄くサイレンの音が聞こえた。
「あーやべ兄ちゃん、パトカー呼ばれちゃったかもよ」
ヨクが言う。こいつが悪魔。こいつはここに居る、確実に。
這いつくばって啜り泣いて、それだけで数分が浪費される。どうして俺はいつもこいつと。
「……あっ、兄ちゃん! あれ!」
急にきらきらと色づいたヨクの声に、俺は思わず顔を上げた。ヨクはそれはそれは無邪気に目を輝かせ、路地の向こうに覗く派手な色彩の看板を指さしていた。同時にそちらの方角から制服姿の警官たちが近付いてきているのを認め、俺の喉はヒュッと鳴った。
「ちょっおまっ、警察来て──」
「それはそれとしてっ! 兄ちゃん、俺あの映画観たい! あの看板ほらっ、見える⁉」
*
俺の人生は弟に滅茶苦茶にされてきた。
絶えず寄生され、壊されてきた。あいつさえ生まれてこなければと何度呪ったことだろう。だが俺の呪詛は弟に届くことはなく、不利益をこうむるのはいつも俺自身と、俺の周りの人間だった。ちがう、悪いのは弟なんだ。あそこでのうのうと息をしてるあいつが悪いんだ、と、しかし俺はそう叫ぶことも助けを求めることもできなかった。
小学生の間に住んでいた団地で、ヨクがゲーム機を壊したあの一件以来、俺は同級生からハブられるようになった。規模の小さい学校だったから、それはそのまま校内での半永久的な孤立を意味した。
六年生の終わり頃、少しだけ口論になった同級生が居た。でも卒業式の三日前、そいつの上ばきの中にカッターの刃を入れたのは俺じゃない。ヨクだ。だが俺の弟は罰されず、バッシングを受けたのは俺だった。孤立の続いていた俺にはひとりの味方も居なかった。ヨクは叩かれる兄の姿を遠巻きに眺めて、やっぱり汚い声で笑っていた。俺は小学校の卒業式を欠席した。
そうなるともう地域のコミュニティ内にも居場所がなくなり、俺はこの世の終わりのような顔をした親に手を引っ張られ、引っ越した。移った先も前と似たり寄ったりの、粗末な造りの公営住宅だった。
俺は新しい中学にも馴染み損ねた。初めはうまくやれていたのに、やっぱり放課後に顔を出したヨクが、同級生の女子に通学路で嫌がらせを仕掛けたのだ。性的な目的が含まれていると解釈されても仕方ないような嫌がらせだったから、大問題になった。しかし責められたのはやっぱり兄の俺だった。ヨクの名前ではなく俺の名前が、校内に悪意ある噂とともに一瞬で広がった。ヨクの存在は人の口にのぼらず、俺だけが。通学路に居たのはあいつなのに。俺は結局、中学の三年間をほとんど不登校となって過ごした。
ヨクを叱らず、俺ばかりを激しく罵り続けた親は、やがて汚物を見るような視線だけを残して俺への干渉を絶った。寝起きの時間がずれ、同じ狭い家の中でもほぼ顔を合わせることがなくなった。あの壁の薄い家で、ヨクだけが自由に暮らしていた。俺のよれた部屋着の裾を、俺よりひと回り小さい手で掴んでは、どこそこに行きたいあれが食べたい兄ちゃん兄ちゃん、ときらきらした瞳で俺に何かをねだることをやめなかった。
十七歳になると、俺は家を出た。親権者の同意がなかったので物件探しには多少アンダーグラウンドな手段を使ったものの、曲がりなりにもやっと独り暮らしに漕ぎつけたぞ、と新居でほっと息をついていた俺の前に、インターホンをけたたましく鳴らしてヨクが現れた時の、あの絶望感は忘れない。よっぽど殺してやろうかと思った。しかし慣れないワンルームの中で俺は、弟の首に両手をかけることすらできなかった。弟の脈にさわれもしなかったのだ。
居るのに。ここに。ずっと俺のあとをつけ回して、全ての元凶がそこに居るのに。
俺と兄ちゃんは一心同体だよ。離れるなんて絶対ムリだよ。
ヨクの鼻にかかった、ざらつくクセに甘ったるいあの声でそう言われるたび、喉の辺りを掻きむしりたいほどの嫌悪感に襲われる。
あいつは俺の人生にどこまでもどこまでも、当たり前のような顔をして着いてくる気なのだ。
だひゃひゃッ。
俺と兄ちゃんは一心同体だよ。離れるなんて絶対ムリだよ。
*
と。
そういうことにしておいて、生きているのだが。
たまぁに さめてしまうから こまる。
*
客を殴って水商売を辞め、その後も職を転々とし、実は保険証を持っていなかったりして、途中で腕の内側に沢山注射痕が付いたりもして、何年か経って、さてこれが何度目の留置所だったか。
ぼんやりした頭痛の中で瞼を開けた俺は、目に飛び込んだ白い天井と蛍光灯の光に顔をしかめた。医務室のベッドに寝かされ、軽く身体拘束を施されているようだった。
しかし、この感覚は。
枕の上で顔を傾けると、看護師と目が合った。
「……あー。鎮静剤かなんか、俺に打ちました……?」
掠れた声で尋ねると、看護師は「はい。幻覚や幻聴の症状が酷かったようでしたので」と事務的に頷いた。
「だひゃッ……」
その特徴的で汚い笑い声は、間違いなく俺の喉から発されていた。薬剤によって強制的に「正常」へと近付けられた俺の知覚は、今だけ、その笑い声が紛れもなく俺自身のものであることを認識できていた。
だが、幼い頃からの自主的な訓練で徹底的に捻じ曲げた認知は、そう簡単に治るものではない。
再び仰向けに戻ると、布団の上、俺の体の真上にヨクがずっしりとしゃがみ込んで俺を見下ろしていた。そう、普通こんなことはありえない。さっき部屋の中にヨクは居なかった。今は唐突に居る。しかも俺と一緒に捕まったはずなのに、拘束や監視のひとつもなしに、俺の布団を土足で踏んで。そんな奴を留置所の職員やら看護師やらが見逃すはずがない。
普段は分からないが、今だけは分かる。
ヨクは俺の作り上げた、強固な幻覚と幻聴と幻臭の塊なのだ。
「兄ちゃん、おはよぉ」
最初は何から始まったんだったかな。悪いことをしたいけど、子供ながらに良心が咎めるから、全部の責任を転嫁できる存在が欲しくって頑張ったんだったかな。ヨクのことがすげぇ嫌いって設定で普段の俺が振る舞うのは、一応残ってる罪悪感とか自己嫌悪のなれの果てだっけか? あ、なんかどうでもよくなってきたや。鎮静剤切れてきたか?
ヨクの体には一切の重みがない。
「兄ちゃん、まーた捕まってどぉすんのー。今度はいつ出れんの? ベッドに拘束までされちゃって」
……だひゃッ。
あれ、これ俺の声か? ヨクの声? 分かんなくなってきた。認識がいつもの地点までゆっくり、どろどろりと落ち始める。喋ってるのがどっちでも、なんかどうでもいいな。
「あっ、ねーねー兄ちゃん! それはそれとして、さぁ?」
ヨクが無邪気にゆったりと笑った。蕩けた笑顔だ。
「俺、明日の朝はハチミツが死ぬほどかかったパンケーキ食べたいっ。マジで皿までびっしゃびしゃにハチミツのやつ」
「……あひゃ。うるせーよ、死ね」
「は? だって我慢できないよ食べたい食べたい!」
俺は笑ってヨクに罵声を浴びせた。
でも分かってるんだよ。本当はぜんぶぜんぶぜーんぶ分かってんだ。
お前は、俺だけの
あー、看護師がなんだか厳しい顔をしてこっちに近付いてくる。死ぬほどハチミツのかかったパンケーキ食いてぇな。マジで皿までびっしゃびしゃにハチミツのやつ。
ヨク 早山カコ @KakoSayama
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