第一章 第2話 ジェットフォイル 待合室

  寒空の下タクシーを待ち続けている人の群れを改めて眺めた。これでは1時間以上は待つことになる。博多港までは大した距離ではない。


 「歩くか」と列を外れて動いたとき、雪がどさっと落ちてきた。雪の洗礼を受けた人たちが慌てて雪を払った。今日が大雪であることを改めて認識した上で「えいやっ!」と体に喝をいれた。雪を踏み分け、冷たくなった足先で強引に博多港へ向けて歩き出した。そういえば今日は2月26日だと思い出し、あの歴史的な大事件のときもこんなに真っ白だったんじゃないかと思いを巡らせた。


 昭和十一年二月二十六日、早朝、皇道派青年将校らが武力による政変を目論み、 首相官邸・警視庁などを襲った。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎等九人を殺害。侍従長・海軍大将でもある鈴木貫太郎に重傷を負わせ、陸軍省・参謀本部・国会・首相官邸などを含む永田町一帯を占拠した事件だった。


 映画やドラマでこの日が雪だったと描写されている。しかし、実際の大雪は三日前であり当日に雪は降っていなかったそうだ。関東地方に振った大雪は積雪三十六センチという歴史的にも類を見ない積雪となった。この日から低温の日が続き、大雪がまだ解け切らない中で起きたクーデターが「二・二六事件」だった。


 隆一郎はアスファルトを白く染め上げる雪を見て因縁めいたものを感じていた。

 歩くこと数十分。目的の博多港へ到着した。腕時計を見てしてほっと一息ついた。


 レインブーツを選んで良かったと家を出る前の自分を褒めた。自衛隊仕込みの靴磨きスキルでピカピカにした革靴か、雪に備えて革靴に見えるレインブーツか悩んだ。こんな雪の日でも元幹部自衛官……特に海上自衛隊で培われたシーマンシップは身だしなみを考える。


 今回の琉洲奈島警備隊への訪問は隊員の定期健康診断のような気楽な話ではないはずだ。琉洲奈島警備隊長の天寺還郷一等陸佐は礼儀正しい人物だが、電話の声でもわかるあの無粋な指揮官は着した才谷をそのまま泥水の中や崖といったアドベンチャースポットにご案内してくれそうだった。


 いつもの基地訪問用の定番スーツを選んだが、現地に到着後すぐに作業着服を手渡されるかもしれない。退官した隆一郎に自衛隊の制服を渡すことはないだろうが、「先生の身長と洋服のサイズをおしえてくれ」と先ほどの電話で質問された。パーティ用フォーマルスーツが用意されるとは思えない。汚れ仕事になる覚悟を決めた。


 高杉晋作の辞世の句。

 「おもしろき こともなき 世を おもしろく 住みなすものは 心なりけり」の言葉が頭をよぎった。


 彼は数年前まで自衛隊に所属していた。実家の才谷病院を経営する父が突然の心筋梗塞で倒れ、病院を切り盛りしていた母から至急の連絡があった。 防衛医大入学直後から家族とはほとんど疎遠となっていた。連絡をこちらからとらず、実家に帰ることもなかった。


母からの知らせにも「俺に頼らないでくれ」と隆一郎は何度も拒絶した。実家には嫌な思い出がある。帰りたくかったのだ。


 高校二年の夏、親しかった同級生が実家の病院から退院した直後に亡くなった。同じバスケット部に所属していた彼とは切磋琢磨し競い合った仲だった。とても負けず嫌いな奴で部活では何度も競い合い、大喧嘩をしたが、部活が終わるといつも「アイス食べて帰ろう」と誘いあった。仲たがいしても、すぐに気持ちを切り替えることができる奴だった。


 実家の病院に入院してきたときも、すぐによくなるからと話していた。病室でバスケットボールを恋しがる彼が今でも忘れられない。彼が亡くなったのは、不運な偶然が重なっただけだ。医療ミスではないと頭ではわかっているが当時は納得ができず父と何度も言い争った。わずかな異変に気付いていれば助かった命かもしれない。その記憶が忘れられず、実家から逃げるように遠ざかっていった。


 何かの予兆、小さな疑問も見逃さない医師になりたいと強く思った。


 才谷病院は福岡の中堅の病院で、地元の人が頼りにしている。勤務医の先生方が診療して保ってはいるが、経営者がいないままでは厳しい。母から自衛隊をやめて帰ってきてくれと泣きつかれた。


 隆一郎の兄も医師なので兄が跡を継いで経営すればいいと説得を試みたが、研究者肌の兄は病院運営や地元病院関係者との付き合いができない。「兄は地元で嫌われているから経営は任せられない」と母ははっきり言った。一年ほど家族会議を繰り返し、しぶしぶ自衛隊を辞めることになった。


 実家には嫌な思い出があるが、自衛隊には忘れられない経験がたくさんあった。共に厳しい訓練に耐えた同期や同僚と積み重ねた記憶は自衛隊をやめても体に染みついて消えることはない。両親の力を頼らず、自分の能力と気力で積み上げてきたこの年月をできることなら続けていたかった。残念でならない。


 才谷隆一郎は防衛医大卒業後、医官として海上自衛隊に勤め、最終階級は三等海佐だった。海上自衛官は自衛隊員としての体力錬成、水泳能力も求められる。そのあたりは医官も同じだ。艦艇勤務に就く場合もあるため、泳げなければイザという時の生存率が低い。もともと水泳が苦手で、入隊直後から潜航するマーライオンと同期に揶揄された。


小学校でしか泳いだことのない彼にとって自衛隊の50メートルプールは果てしなく遠くみえた。自分の番となり壁を蹴って勢いよくスタートした。しばらくは水面で浮いていたが、5メートル付近から徐々に沈みはじめた。手足をばたつかせても浮き上がらない。そのままプールの底に着底。苦しさから底を蹴って急速浮上した後プールサイドにへばりついて、飲み込んだ水を吐いている様子がマーライオンに見えたらしい。


 悔しいがなかなか適格なネーミングに反論をあきらめた。同期が時々、「まぁくん」と才谷隆一郎を呼ぶことがある。それはこの「潜航するマーライオン」から進化したニックネームだ。


 体育教官からの熱いご指導の下、泳げない彼は晴れて赤い水泳キャップを被ることになった。俗に言う赤帽訓練で、泳げるようにするための補備訓練である。赤帽を被っている間は泳げるようになるまでこの補備訓練が続く。


 赤帽訓練で誰でも泳げるようになるから大丈夫だと体育教官は自信たっぷりに言った。どんな奴でも泳げるまで泳がせるという意味合いだろうと思った。


 地獄のような赤帽訓練の効果は絶大で、沈むか溺れるしかできなかった彼も人並み以上に泳げるようになった。揶揄していた同期もこれには心底驚いていた。


 いくらやっても泳げないという意味のカナヅチ海上自衛隊員はみんなにはっきりわかる赤い帽子でマーキングされる。そのマークは目立つし恥ずかしい。だから必死に練習するしかない。実際に泳げるようになった隆一郎もこの厳しいシステムは効果的だったと実感している。


 豪雪で交通機関の乱れがあったものの、30分弱で博多港に到着した。足を取られるほどではなかったが、日当たりの悪い路面は凍りつき、時に足を取られた。九州郵船自慢の高速艇ジェットフォイル・ヴィーナスの出航時間にはまだ余裕がある。


 「ヴィーナスちゃんに嫌われないようしなきゃあな」これから乗船する船に敬意を示すためにも、靴底についた泥をドアマットで丁寧に落とした。


 雪は降っていたものの風は強くなかった。壱岐を経由して新厳原港に行くジェットフォイルは一日に二便ある。フェリーでいけば約5時間の乗船時間が高速艇のジェットフォイルでは半分の約二時間半で済む。


 この船は水の上をすべるように進む高速艇だ。


 博多を十時三十分に出向し、新厳原に十二時四十五分。到着する便に乗る。琉洲奈島へ三十分程度で行ける飛行機のルートもあるが、この天候と視界では船が無難だ。電車ですら止まる雪なのだから、欠航している可能性も高い。


 現地では陸上自衛隊琉洲奈島警備隊の指揮官が待っている。退官時の隆一郎よりはるかに階級が高い一等陸佐だ。自衛隊員は時間にうるさい。こちらの到着予定時間きっかりに彼は港のゲートで待っていることだろう。


 ゲートを入ってチケット売り場まで進む。チケットを求める人がすでに並んでいた。売店は開いており、待合所にはまばらに人が座っている。この悪天候でも船は出るようだ。乗船手続きの書類を書いた。三十分後に受付開始するという立札が置いてあり、チケット売り場の窓口は無人のようだ。


 ほとんどの待合客が静かに座って出航を待っていた。その中に時々立ち上がってうろうろ歩き回る白い毛皮のコートを着た四十近い女がいた。動物愛護運動の結果なのか、毛皮を着ている人を最近見かけなくなったなと隆一郎は何となく考えていた。

 その女はチケット売り場に並んでいる人の列をものともせず、最前列までずかずかと踏み込み、早く売り場をあけろ!と受付窓口に向かって喚いた。無人の窓口からは何の返答も無い。誰もいない窓口を睨みつけると何か悪態のようなものつぶやきながら待合席にもどった。突然の喚き声に並んでいた人達は驚き、警戒していた。


 隆一郎は職業柄、その異様な様子が気になった。詮索するのは良くないと思いつつ、女に悟られないように後方から少し近づいてみた。女は小さく震えているようだった。コートは着ているものの明らかに薄着だ。


 「大丈夫。大丈夫。大丈夫。まだ間にあう。まだ間に合う。まだ間に合う。大丈夫」


 その女はぼそぼそ小声で呪文のように唱えていた。観光客や家族連れの多い待合室で女は明らかに異質だった。よく見ると着ている古い毛皮は手入れされておらず、べっとりと汚れて毛が所々固まっていた。


 面倒に巻き込まれないように、また少し離れて女を観察した。


 毛皮のコートを着ているのに足元は裸足に紫のスリッポン、荷物は無い。汚れた毛皮のコートを着ていなければ、近所へ買い物に出かけるような風貌だ。


 大きなニット帽を目元近くまで深くかぶり、その下に赤い髪が垂れている。大きなサングラスをかけ、いかにもサスペンスドラマで逃亡中の女優のようだ。四肢は長く痩せ頬骨が突き出ており、栄養状態はかなり悪い。彼女の爪はデコボコで欠けていた。重度の貧血が疑われる。ダイエットならやりすぎだ。


 隆一郎は待合所を見渡した。売店の他、観光案内ポスターやパネルも展示されている。琉洲奈ヤマネコ「るすにゃん」というご当地キャラクターが「海も、山も、琉洲奈島がいい感じ!」と案内しているポスターにスマホを向けて写真を一枚撮った。


 ポスターに焦点があっておらずご当地キャラ「るすにゃん」はぼやけていたが、撮り直しはしなかった。画像の隅に小さく女の全身が映り込んでいた。本当に記録しておきたかった画像はきちんとピントが合っていた。これでいい。

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