四章
第17話
東の内塔、五階。
一号室の大きめの寝台。
ワレスのものはほかの二段ベッドとは離れて別になっている。
その洗いたてのシーツをかぶせた寝台によこたわり、目を閉じたとたん、ワレスは夢のなかにいた。
自分でもビックリするぐらい、とつぜん世界が切りかわり、懐かしい景色に立っていた。
(ああ……この風景……)
やわらかに生えそろった下草。手入れのゆきとどいた樹木。ゆるやかに流れる小川。カラカラとまわる水車。
よくある田園のようだが、ここは違う。下草のあいだから顔を出した花のつぼみまで、よく見ると人間の手がかかっている。ここは田舎の牧歌的風景を模して造られたアウティグル伯爵家の裏庭なのだ。
(この小川……あの水車……)
ワレスの胸の内を木枯らしのごとく冷たいものが吹きぬける。
なつかしく甘い、けれど残酷なこの情景。
(もう一度、この場所に立つ日が来るとは思わなかった)
それが、たとえ夢のなかでも。
これは夢。だが、なんと鮮明な……。
(今にも、おまえの声が聞こえそうだ)
ワレスはおだやかに流れる小川のほとりを歩く。
ここからは屋敷が見えない。深く庭木にかこまれた一画で、どこからも死角になっていた。
天使——
歌声が聞こえる。あの子の声だ。
いつのまにか、ワレスのとなりをルーシサスが歩いていた。
少女みたいに細い肩の、ワレスが殺した天使。
あのころも同い年の自分よりかなり小柄だと思っていたが、今見ると、ルーシィは切ないぐらい華奢だ。こわれやすい、ガラス細工の人形に見えた。
ワレスはルーシサスにあわせ、ゆっくり歩む。
ルーシサスの肩の上で、咲きそめの白雪草のようなプラチナブロンドがゆれている。
声を出すと消えてしまいそうで、話しかけられない。
ふれたい。でも、ふれられない。
ワレスはその言葉を声に出したわけではなかった。が、それを読みとったように、少年は顔をあげた。愛らしい大きな若草色の瞳。いつもうるんだように見える、やわらかな新緑のグリーンだ。優しい春のひだまりのような。
「恨んではいないよ。ただ、ちょっとさびしいだけ……」
「ルーシィ……」
ふたたび、ルーシィはうつむく。
「ワレサ。大人になっちゃったんだね」
あれから十二年。でも、ルーシサスは今でも十五歳。永遠に十五歳。ワレサより半年遅い……年が明ければ、十六の誕生日を迎える、あの冬の日から。
「ぼく、行かなくちゃ……」
ルーシサスがつぶやき、とつぜん走りだした。
「待ってくれ! ルーシィ」
かけっこだって、なんだって、ワレサにはかなわなかったくせに、走りだしたルーシィは、みるみる遠くなっていく。ワレスがどんなにけんめいになっても追いつけない。
「行くな! ルーシィ。まだ話が……おまえに言いたいことが——」
ぼくをつかまえてごらんよ。
ルーシィの姿は風にのって舞いあがる。追いつけないはずだ。彼の背中には純白の翼がある。
(待ってくれ。ルーシィ。置いていかないでくれ。おまえを失ってから、おれがどんなに苦しんだか)
やけになって
ワレスの世界は終わってしまって、生きているのは、ぬけがらの自分。
わけもなく皇都の街路をさまよった。愛しい人の幻影を求めて。
涙は枯れはてても、心のどこかが血を流し続けていた。片時も止まることなく。
青白い月が迷路のような皇都の夜を見おろす。
路地裏に迷いこんでしまった。建物のあいだの細い道を歩いていた。冷たい石畳に響く足音。気味が悪いほど人の気配はない。どこからか流行り唄をかなでる琴の音が聞こえたが、それはいっそう、ワレスの孤独をかきたてた。
「ルーシィ。どこへ行ったんだ!」
叫んでも答えはなく、ワレスの声だけが虚しく反響する。
(ルーシサスは死んだ。死んだ。おれが殺したんだ)
忘れてしまいたい。イヤなことはみんな。誰か、おれを罰してくれ。
背後で急にかるい足音がした。ワレスのよこをすりぬけて、誰かが建物のかげへ消えていく。
「ルーシィ?」
あわててあとを追った。が、そのときには、すでに人影はなかった。かわりに、ワレスが来たのとは反対の路地から男が走ってきた。たったいま、のぞいた、まがりかどへ行こうとする。ワレスとぶつかって、男は顔をあげた。
「……小隊長?」
ミレインだ。
不可解きわまりないという顔をして、ワレスと、少年が消えたかどを見くらべる。
「なんだって、ここで小隊長が出てくるんだ? これは私の夢だろう?」
「それはこっちのセリフだ。夢のなかでまで、あんたの顔なんて見たくない」
ムッとするようすはいつものミレインそのもの。
「私のほうこそ、そっくりそのまま言い返すとも。夢の産物なら消えてくれ。私は今、マレーヌを追っているのだ」
「マレーヌ?」
「死んだ弟だよ」
言ってから、ミレインは不思議そうに、ワレスを見た。
「なぜ私はおまえにこんな話をするのだろう」
「夢のなかだから、飾りがないのだろう」
「では、ついでに聞くが、おまえは私を嫌っているのか?」
「嫌いだね」
ワレスが正直に言うと、ミレインは真剣に悩むようだった。
「なぜだ?」
「それは自分の胸に手をあてて考えてみるといい」
「まあいい。どうせ、任務が終われば、おまえと会うことは二度とない。二度とな」
いやに念を押す。
「夢のなかでまでイヤなやつだな」
ワレスが言うと、
「おたがいさまだ」
ムカっ腹を立てたまま、ミレインは少年が消えていったほうへ走っていった。
ワレスは嘆息して立ちつくす。
(なんで、おれのなかで一番もろいところをつく大切な記憶と、思いだしたくもないやつが、ごっちゃになって出てくるんだ? もうウンザリだ。こんな夢……)
ミレインなんて出てきて、気持ちが冷めてしまったのだろう。ワレスはベッドのなかで覚醒した。もしものときのために、つけっぱなしにしたランプの光が、物悲しく堅固な石の城の一室を照らしている。夜気にはもう秋の気配が忍びよっている。
ワレスは寝返りを打って、再度、目を閉じた。そのとき、ふと、顔にかかる糸のようなものを感じて、片手ではらいながら、まぶたをあけた。光のかげんで、ちょうど目にとまる。
ワレスの顔のすぐよこ。さっき寝返りを打つまで頭の下になっていた場所に、針でついたような小さな穴があいている。
枕についた針のあと。
針を刺して死んだバルバス。
針——銀の、針……。
忘れるな。ワレサレス。おまえは私のもの……。
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