第20話 名前
スマホのホーム画面は二時。一気に眠気が襲う。
「せんせ」
「ん?帰る?」
「まだ、運転しちゃダメ。もう少し経ってから」
「ん……」
先生は手を絡めて握ってくる。
「眠い?」
「はい」
「佐名さん寝てていいよ。起こしてあげるから」
「なんか、眠い、けど、寝れない気がする」
「そっか」
先生は私を見ないで窓の外を見ている。私も窓の外を見た。暗い景色に街灯が光っているだけだった。
「魔法の言葉って何??」
自分が過去に先生を救っていた魔法の言葉が知りたかった。
「ここで教えたらつまんないよ」
先生は意地悪に笑う。目が腫れている。
「そっか……」
「佐名さんは、小さかったイメージが今でもある」
私が驚いたように先生を見ると、ふふっと笑って
「成長してるんだね、人って大人になったら気付かないものだけど、今この瞬間に産まれた子供は佐名さんが高校を卒業するには公園を駆け回ったり、一生懸命に覚えた言葉でお喋りをし始めるだろうよ」
「先生が覚えていて、私が覚えていないのはずるいです」
すると先生は私の手を握って
「昔、その時は佐名さんから手を握ってくれたよ」
そっと胸に落ちるように言った。
それから三十分程経った頃だろうか。先生が口を開く。
「行くか」
と言ってハンドルを握り、車を走らせた。
朝方にマンションに着いた。日が昇るのが見える。
「なんか、離れたくなくなっちゃった」
私がポソッと言うと
「それは嬉しいよ」
ドアを開けてくれる。
「向月先生」
「なに?」
「ありがとう」
「腫れあがっちゃったね、目」
「先生こそ」
と言って二人で微笑んだ。
「君は一人じゃない」
「先生だって」
そう言うと、そっと笑ってくれた。
家に帰ると片付けていた家の中がさらに綺麗になっている。お父さんが来る前に並べた靴、特にお兄ちゃんがスーツを着る時に履く靴と私のローファーはピカピカに磨かれていた。リビングに行くとお父さんがソファーで寝ていた。不意にキッチンを見る。お皿も、鍋も洗われている。床もピカピカだった。夜だったこともあって掃除機をかけれなかったことから、雑巾を使ったのだろう。窓も磨かれていた。
数年前にお父さんの寮におばあちゃんと二人で行ったことがあるが、その時に『片付けぐらいしなさい』と、おばあちゃんに言われていた。一人暮らしとはいえ、ここまでの家事は慣れなかったと思う。そう思うと、想ってはくれているんだ……と、なんとも言えない気持ちになる。
「お兄ちゃんはまだ、帰って来てないんだ……どこ行っちゃったんだろ」
お兄ちゃんの部屋のドアを開けるが、ベットをめくってもいない。
リビングに戻るとお父さんがむくっと起きていた。
「お父さん」
震えた声で言うと
「茉裕」
私の名前を呼んだ。
「ありがとう、部屋とか綺麗にしてくれて」
「望は父親ぶるなって言うんだろうから、茉裕がやったと聞かれたら答えてくれ、俺はもう、帰るから、すまんな」
と言って着替えていた。
私は冷蔵庫からあるものを取り出す。
着替え終わったお父さんにそれを渡した。
「これ食べて」
「……ケーキ?」
「お兄ちゃんが作った」
お父さんは少し迷う
「俺が食べていいの、か?」
「お兄ちゃんには内緒。余ったから食べてって言ってたやつ。今のお父さんは、食べるべき、かな」
お父さんはラップをとって私が渡したフォークを使って口に運んだ。
一口食べて
「望、すごいな」
と一言。
「高価そうな材料を使っているんだろうな。でも、どこか安心感がある後味だ。このショートケーキ美味いよ」
「私が好きだから、作ってくれたの。お兄ちゃんは仕事でケーキ作ってる。去年言ったか……」
お父さんは少し目を細めて
「そうか、そうか」
嬉しそうに言っていた。それから話を続ける。
「こんな話聞きたくないと思うけど、お母さんは俺の誕生日をホットケーキで祝ってくれたよ。俺はコンビニの棚にあるショートケーキをお母さんの誕生日に渡していた」
初めて見た。知った。お母さんのことをお父さんが幸せそうに話す姿。
「高校卒業したお母さんと、小さくておんぼろのアパートで暮らしていた時期があった。今は社員寮だけどね。望は覚えているらしい。茉裕のおばあちゃんが言ってた」
「私もちょっと覚えてる」
海が見えるところ。港町。朝から活動を始める。
そのアパートでお母さんは知らない男の人と性行為していた。お父さんはあまり帰ってこなくなった。お母さんの両親には会ったことがない。お母さんをよく思っていなかったのか、ギャルのお母さんを見放したのか、それは聞けていない。
そこで、幸せな生活を送っていたのだと思うとなんだか嬉しかった。
「望を産んだのはお母さんが二十で俺が二十三の時だったし、二人が産まれる前、二人だけの時は二年ぐらいだったな。楽しかった。望は小さい頃から元気だったし」
「うん」
「望は、お母さんに似ちゃったんだよ。顔も髪色も……嫌なところから逃げ出すのは俺に似たな」
「そう、なんだ」
「懐かしいなぁ、出世してなかったからお金がそんなになくて、茉裕のおばあちゃんに俺の服を持ってきてもらったり、先輩から少しだけどもらったお金でたまに贅沢で外食したりした」
「それは、覚えてない」
お父さんは、一気に懐かしむように話す。
それから、
「……そろそろ帰るよ」
と言った。ショートケーキを残していたので
「全部食べてよ」
と言うと、またソファーに座って食べ始めた。
「あのさ」
「ん?」
「名前」
「名前?」
お父さんは聞き返す
「名前、どうして、お兄さんには『望』って付けて、私には『茉裕』って付けたの?お兄ちゃんは読みやすいけど、私は『裕』で『ひろ』って読むでしょ?」
お父さんは私を一瞬見て、下を向いてゆっくりと口を開いた。
「望には望みを捨ててほしくなかったからかな。世の中、生きるだけで大変だ。辛い。望むことは大事だし、夢を持つのも大切だ。でも、叶わないことの方が多い。でも、『望んでほしい』と思った。そう思った。まぁ、親バカだよな」
ははっと笑った。お父さんの顔は見えないけれど声は明るかった。
「茉裕は?」
「お母さんが大事にしていた絵本にジャスミンっていうケーキ屋の女の子が登場人物でいて、その子みたいにまっすぐで、自分を持っている女の子になってほしいと思ったから。お金も人生では必要。でも、それよりも広い心を持ってほしいからって……」
そう言った後
「望も茉裕の名前も二人で決めた」
と、付け加えた。
「そう」
「俺も、お母さんもお世辞でも学がなくてな。図書館に行ってどんな感じがあるか調べまくったよ」
穏やかに微笑んでいた。
「茉裕が、もし、子供を産むような歳になったらと思うと楽しみだよ」
それから、慌てて
「すまん、父親ぶった……」
と言われたため、私は言った。
「いいよ、お父さんだし」
私はお父さんは見ないでそっぽ向いて静かに言い放った。するとお父さんは
「そうか……そうか……」
と言って涙声になった。
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