重ねる

醍醐潤

第1話

 保存ボタンを押すと、小宮山有高こみやまありたかはパソコンをシャットダウンした。腕時計の針を見ると、ちょうど午後六時半になったところだった。


「お疲れ様です。お先に失礼します」

 軽い整頓作業をして、椅子から立ち上がり、デスクでまだ残業をしている同僚に声をかけた。「お疲れ様です」、返事があると、小宮山は鞄を右手に持って、オフィスを出た。


 定時を過ぎているが、明かりがついている他の部署も多い。廊下を進み、エレベーター乗り場まで来た。ボタンを押した。一階からこの八階にまでエレベーターが上がって来るまでの間、スマホを見ながら待っていると、


「小宮山さん、お疲れ様です」

 後ろから小宮山の名前を呼ばれた。女の声で、コツコツとヒールで歩いて来る足音も聞こえる。何度も耳にしている声だったので、すぐに誰だか分かった。


「お疲れ様です」

 振り返った小宮山は会釈した。ストライプ柄のスキッパーシャツにベージュのデニムスカートを穿いた春野由奈は、口角を一瞬上げたが、すぐに元に戻して、彼の隣に並んだ。由奈は入社三年目の二十五歳で、経理部で事務員をしている。小宮山は領収書を経費で落としてもらうため、経理部をほぼ毎日訪ねるので、彼女とはよく顔を合わせる関係だ。由奈も残業をしていたのだろうか。


 エレベーターが到着した。

「先にどうぞ」

 と、小宮山はエレベーターのボタンを押しながら、由奈に先に乗るように促す。「ありがとうございます」、由奈の頭が軽く下がると、速足で彼女はエレベーターに乗った。


 扉を閉める。①のボタンを押すと、エレベーターは下がり始めた。

「小宮山さん」

 由奈が再び小宮山に喋りかけたのは、エレベーターが六階を通り過ぎた時だった。


「な、何ですか?」

「このあと、何か予定って入ってますか?」

「いや……特に、ありませんけど」

「少し小宮山さんに伝えたいことがあるんです。一緒に来てくれますか?」

 小宮山の答えを聞くと、由奈はすぐにいった。一体、どういうようなのだろう。小宮山は少しドキリとしながらも、由奈の誘い通りに動くことにした。「分かりました。どこへ行けばいいんですか?」


 由奈が指定してきたのは、ここから徒歩五分のところにある喫茶店だった。小宮山はてっきり、居酒屋かバーなど、アルコールを挟むのかと思っていたので、喫茶店の提案にかなり意外に感じた。


「どうしたんですか?」

 そんな小宮山の顔を見て、由奈は首を傾げる。

「いや、なんでも……」

 エレベーターが一階に到着すると、二人は並んで、オフィスゲートを通り、社外へ出た。五月中旬の某日。既に初夏なので、少し暑いが比較的過ごしやすい気温である。


「春野さん、それにしても、一体、僕に何の用があるんですか?」

 喫茶店へ向かう道のりで、赤信号で止まった。小宮山から問いに、由奈は、

「それは着いてから話します」

 一切、その内容まで明かそうとしない。彼は気になっていた。彼女のいったことに従ってあげているにも関わらず、その由奈のいう、「伝えたいこと」を全く教えられていない、そのことが歯がゆくて仕方がない。ソワソワした気分で、小宮山は経理部女事務員の横を歩く。そのうち、二人は目的の店に到着した。


 店内は比較的、空いていた。何人か、客の姿は見えるが、決して多いと表現できる人数ではない。

 好きな席に座るように店員にいわれたので、窓側のテーブル席に二人は座ることにした。


「それで、一体、僕に伝えたいことって、何なんですか?」

 店員が、グラスに入った水を置いて戻って行くと、小宮山は早速質問した。「もう、ここに着いたことですし、いい加減、話してくれたっていいじゃないですか」


 すると、由奈は、

「それはあなたが一番分かっているはずよ」

 と、いった。今までに見たことのない悪い笑みを顔に浮かべて。


「……どういうことだ?」

 小宮山も声色を変えた。

「あら。もしかして、分からないとでもいうつもり?」

「ああ、そうだ。僕には、さっぱり」

 ふーん、由奈は水を一口、口の中に含むと、何やらバックの中をゴソゴソといじり始めた。小宮山は自然と緊張した顔で、彼女の手の先の方を見る。鼓動が会社を出た時より何倍も速くなっているのが感じた。


 そして、顔を上げ、鼻から短い息を吐いて笑う。

「これなら、どうかしら」

 由奈がテーブルの上に置いたのは―—八枚の写真だった。全て裏返しに置かれていた。


「この写真が、どうしたんだ?」

「さぁ。めくりなさい」

 命令口調で指示され、小宮山は従った。八枚の中から一枚を選んで、表に返した。

 それを見た瞬間、小宮山の表情が変わった。

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