哀別

 オルド国がリィア国との戦いに敗れ、クライオへ身を潜めることになったシェールは恋人のシーシャの元を訪れていた。シーシャはルキシルへ来てから知り合った、繊細で透明感のある女性だった。一時は将来を真剣に考えるほどシェールはシーシャに入れ込んでいたが、何故かセリオンはそれをよく思っていなかった。


「シェール様、オルドが破れたと先ほど聞きましたが……」


 シェールの顔を見るなり、シーシャは心配そうにシェールを見上げた。交易国であるルキシルは他国の情勢に敏感なために、既にあちこちでオルドの敗北とリィアの広がった勢力についてどうなるかという話で街は持ちきりだった。


「……別に、関係ねえよ」


 いきなりオルドの名前を出されたせいか、シェールは機嫌を損ねたようだった。


「どうして、どうしてそんなに冷たいんですか?……祖国ではないのですか?」


 シーシャは何かと優しくしてくれるシェールが好きだったが、祖国でのことを尋ねると必ずと言っていいほど不機嫌になることが不思議であった。普段はなるべくオルドの話をしないようにしていたが、今回ばかりは尋ねない訳にはいかなかった。


「そうだな、君は俺のことが好きなんだよな?」

「はい、今更何を仰っているの?」

「こんなことを言うと君は俺を嫌いになるのではないかと常々思っていた。しかし、こうなった今となっては……」


 シェールはそこで黙り込んでしまった。


「何を、常々思っていらっしゃったのですか?」


 シーシャは恐る恐る尋ねた。シェールはシーシャから視線を反らした。


「……オルドなんかさっさと滅んでしまえ、と」


 吐き捨てるように呟いたシェールに、シーシャは息を飲んだ。


「どうして、そんな、恐ろしいことを……」


 シェールはこの気持ちをどう説明して良いかわからなかった。祖国に対して良い感情を持たないということが常識に外れたものであることは理解しているつもりだったが、その気持ちをなかったことにして自身のことを語るのは難しいと思った。


「俺が怖いか?」

「いえ……」


 シーシャは普段のシェールを思い出していた。貧しくてあまり友達のいなかったシーシャに対してシェールは基本的に優しく、時に情熱的に接していた。シーシャは初めて他人から受ける熱烈な好意に戸惑いながらも不思議な心地よさも感じていた。


「実は、それで明日ルキシルを発つことになった」

「郷里に帰られるのですか?」

「まあ……そんなところだ」


 シェールは逃亡先を明言しなかった。シーシャが同行を許諾して実際に出発してから、あまりにも複雑な自身の身の上と事の次第を話す予定であった。


「シーシャ、俺と来てくれるか?」


 その言葉に、シーシャははっきりと戸惑いの様子を見せた。


「お気持ちは嬉しいけれど、母がなんて言うか……」

「君も立派な大人だろう、親なんてどうでもいいじゃないか」


 シェールはやや強引にシーシャに詰め寄った。


「そんなことないわ、私にとって大切な母なんだもの。それに最近年をとって体が弱ってきているの。放ってなんかおけない」

「でも、俺は君に来て欲しいんだ」


 シェールはシーシャの手を取った。その言葉に偽りがないことはシーシャにはわかっていた。しかし、シーシャはよく自身の都合しか考えないシェールに違和感を持っていたところだった。


「ねえ、どうしてあなたは私の気持ちを考えてくれないの?」

「気持ち、か。それじゃあ君は俺と母親のどっちをとるというんだ?」


 やはりシーシャの葛藤を理解しないシェールに、シーシャは苛立った。


「そんなに簡単に聞かないでよ、私はあなたじゃないの」


 シーシャは縋り付くようにシェールを問いただした。


「ねえ、誰だって、お母さんは大事でしょう?」


 その言葉にシェールは凍り付いた。それまで愛しくて守ってあげたいと思っていたはずのシーシャが一瞬に遠くに感じ、二度と触れられないように感じた。


「……わかった、シーシャ。君はここに残ってくれ、俺は一人で行く」

「でも、シェール様、それでいいんですか?」


 あくまでもシーシャの感情を理解しようとしないシェールに、シーシャは不安になった。


「俺は自分の親を大切にする人とは一緒にいられないんだ」


 シーシャはその言葉に強い拒絶を感じた。そしてその溝は二度と埋まることがないであろうことを理解していた。


「わかりました。私、あなたのことを一生忘れません」


 シーシャの中で様々な思いが巡っていた。この先シェールと一緒にいれば楽しいこともきっと多いと思うが、今日のように嫌な思いをすることもきっと多いということは間違いなかった。


 シーシャは今後のシェールに思いを馳せた。思えば、シェールも積極的に他人と付き合うような人物ではなかった。それは異国からやってきたからということもあっただろうが、シーシャの知る限りシェールは基本的に誰とも馴染んでいなかった。後見人であるセリオン以外とは機械的な会話をするだけで、全くと言っていいほど他人を信用していなかった。そんなシェールに優しくされたことが最初は嬉しかったが、シーシャの中で違和感はどんどん膨れ上がっていたところであり、遅かれ早かれこの日が来ることはシーシャの中では自明であった。


「いいんだ、俺のことなんかさっさと忘れてくれ……俺の方こそ、君と一緒にいられて嬉しかった。君は君で自分の幸せを見つけるんだ」


 そう言うシェールの心境は裏腹であった。簡単に別れの言葉を述べ、シェールはシーシャの元を去った。すぐに帰って逃亡の諸準備をしなければならないが、簡単に頭は切り替わりそうになかった。


「どうして皆俺を置いて行くんだろう。一生懸命大事にしていたつもりなんだけどなあ」


 シェールもシーシャとの思い出を胸に歩いていた。シーシャとの別れも辛かったが、いつの間にか気持ちがすれ違っていたことに気がつかなかったことがシェールの涙を誘った。


「やっぱり俺は、生まれてくるべきではなかったんだ」


 幾度となく繰り返してきた言葉には失意と共に諦めがあった。そしてそんな不幸を背負い込んだ自分と縁の切れたシーシャには幸せになってほしい、と強く望もうと思い込むことにした。


***


 失意のままシェールはセリオンと翌日、クライオに向けてこっそりと出立した。船を乗り継ぎ、別人として偽造した通行証を用いてエディアからクライオへ入った二人は、アイルーロスの家へ身を寄せた。


 そこへオルドから逃げてきたアルゲイオ兄妹がたどり着くまで、それほど日はなかった。

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