疵鬼

はじめアキラ

<1・逃走>






365:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

何か、面白そうなおまじないない?

あんま怖くないやつ。






 きき、ききき、きき。


 音が、追いかけてくる。足を滑らせ、時折転びながらも小城真理奈おぎまりなは走った。とにかく逃げなければいけない、分かっているのはそれだけだ。出口が何処かなんてわからないけれど。とうに失われた方向感覚で走り続けていても、いずれ体力が尽きてしまうことはわかりきっていたけれど。

 本能で察していた――アレ、に追いつかれたら終わるのだと。

 いわゆる神隠しのようなものに遭って、どこかに連れ去られてしまうならまだ良かった。この世に二度と戻って来れないのは恐ろしいことではあるが、何の苦痛もなく見知らぬ世界に連れ去られて意識がなくなるなら、きっとそれに対する恐怖もまた失われることだろうから。気が狂って何もわからなくなってしまえば、それも一つの幸せであるのかもしれないのだから。

 だが。

 後ろから追いかけてくるものはきっと、そんな生易しいものではない筈。どうしてそう感じるのかは知らない。けして己が直感の鋭い方だと思っているわけでもない。

 それでもわかる。


 ききき、ききききき、きき。


 きず

 廊下に、床に、壁に。傷を増やしながら、何かを引きずるようにしながら追いかけてくる、それ。それに捕まったらきっと自分は終わる。命を失うだけでは済まされない。魂まで、心まで、何もかも潰されるおぞましい末路が待っているに違いない。本能がそう警鐘を鳴らすのだ。そんな最期を少しでも遠ざけたければ、足が折れて這ってでも逃げ続けろ、あれに捕まってはならない――と。






369:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

うちの学校の生徒なんでしょ?だったら、普通に“キズニ”様のおまじない試してみたらどうかな。


370:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

キズニ様ってなんぞ?


371:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

きずな、が訛ったみたいな名前だね。


372:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

あれ?意外と知られてないの?

キズニ様はうちの学校の守り神様なんだよ。生徒のことが大好きだから、何でも叶えてくれるんだってさ。

きちんとお祈りした生徒は、それに応じてお願いを叶えてくれるんだよ。金運が上がるおまじないとか、受験で成功するおまじないとかいろいろあるっぽい。

ちゃんと恋愛のおいまじないもあるんだよ。


373:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

何か学園七不思議のおまじないバージョンっぽい。

ていうか、うちの学校って怪談じゃなくておまじないなのかな?

興味あるし、教えてよ。







 自分はただ、学校の掲示板でおまじないを見つけて実行しただけだ。

 テニス部の、澤田さわだ先輩。自分はいつも遠くから、彼の練習を見ていることしかできなかった。周りからは熱血テニス馬鹿、なんて呼ばれているくらいのテニス好き。少しでも時間があいたらコートに入っているか、あるいか壁打ちしてひたすら練習していると専ら噂されていた。爽やか系イケメンだし、興味を持っている女の子は真理奈以外にも多いはずである。だが、彼女ができた、という話はまったく聴かない。告白された先から全部断っているらしい。――最終的には、テニスでプロの世界にまで行きたいと考えているがゆえに。大好きな仲間達と共に、本格的に全国大会を目指しているがゆえに。


――自分は器用じゃないから、いろんなことを両立していけない。恋愛とテニスの両方をやる余裕はないから……だっけ。なんかこう、先輩らしいといえばらしいんだけど。


 それでも傍にいたいと、願ってしまった。

 多くのファンの一人ではなく、自分だけを見て欲しい。テニスの練習があるせいでデートの頻度が減るというならそれも我慢する。ただ、いつまでもフェンスの向こうから、彼がポイントを取るたびに歓声を上げるだけの一人でいたくはなかったのだ。名前のない女の子ではなく、彼にとって唯一無二の存在でありたかった。実際に話す機会なんて、コートを出てくる時にちょこちょこ挨拶をする程度で、向こうは自分の顔も覚えていないかもしれないというのに。

 だから、恋のおまじないをしようと思い立った。この学校の裏掲示板の一つに書かれていた、特別なおまじない。キズニ様、という守り神様が自分を助けてくれるというおまじないを。






376:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

時間とか場所とか、細かく決まってるから気を付けてね。

恋のおまじないは特に、他の人におまじないをするって教えちゃだめだよ。あ、掲示板で匿名でおまじないやりましたーって言うのはOKだと思うけど。顔見知りにおまじないするって予め教えちゃうと、成功率下がっちゃうみたいだから。

場所は、夜の学校。七時以降に、学校に侵入しないといけないからそこのハードルは高いけど、その分他のおまじないより用意する道具は少ないし、成功率も高いんだって。

必要なのは、ハサミだけ。

小さな裁縫のハサミでもいいんだって。

それを持って、家庭科室の前の廊下に立って、目を瞑って心の中で唱えるの。


「キズニさま。キズニさま。ここで捧げます。ここで捧げます。私の名前は●●です。××への想いを遂げさせてください」


これを三回。唱えたら、前の廊下の窓ガラスを見る。

自分の顔がガラスに映ってなかったら、成功なんだってさ。


377:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

なんかすごくシンプルだな。そんだけ?ってかんじ。


378:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

というか、七時ってもう学校の鍵閉まってない?

どっから入るの?


379:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

あ、職員用玄関か。

先生達って八時とかでも普通に残ってるし、あそこなら開いてるわ


380:えぶちゃんねるにて、楽しい学園生活@エンジョイ勢の名無し

>>379

そうそう。

ちなみに、自分の顔が硝子に映ってなかったら成功って話だけど、他にも家庭科室のドアが開くとか、何かを引っ掻く音が後ろから聞こえてくるとかいろいろあるみたいだよ。

そういうのがあると、キズニ様が来てくれた印ってことで、おまじないが成就する確率がさらに上がるんだってさー






 なんだかミステリアスな神様だな、と思った。元々オカルトな話に興味があった真理奈だ。鋏ならいつも鞄に入っているし(お裁縫同好会に入っているから、裁縫用の鋏があるのだ)、銃刀法違反なんてことにもならないだろう。新しく用意する必要もない。同好会が終わった後で、適当に駅前のショップあたりで時間を潰して、もう一度学校に引き返しておまじないを試せばいいと考えたのだ。

 そして掲示板で言っていたように、職員用玄関なら開いているし、特に誰かが見張っている様子もない。そこから入って、三階の家庭科室へ向かうのは訳ないことだった。一度下駄箱に戻って靴を履きかえるのだけが少々手間だったけれど。

 儀式は滞りなく行われた。

 十一月の七時ならもう外は真っ暗である。職員室からも遠い西棟の三階は、既に電気も消えていて真っ暗だったがそれも怖くなかった。むしろ、何か出てきてくれたら面白いとさえ思っていたほどだ。ホラー映画の主人公に自分がなりたいとまで思ったことはないが、ちょっと離れたところからキャラクターが襲われているのを見て怖がるくらいのポジションにつくくらいは面白そうと考えたことくらいはあるのである。キズニ様、という守り神様は掲示板の通りなら悪い神様ではなさそうだし、この学校でお世話になっているのだから一度くらいお目にかかりたいという気持ちもあったのだ。

 そう、本当にそれだけ。

 この恋が成就したら嬉しいな、ついでにキズニ様とやらを見られたら面白そうだな。おまじないを実行するには、それだけの動機で充分だったのである。

 まさかこんなことになるなんて、どうして想像できただろうか。


 き、き、ききききき、きききききき。


「はぁ、はぁ、はぁっ……!」

 音は、どんどん近づいてくる。振り返っても、相手の姿は見えない。ただ、廊下に、天井に、妙な傷が増えていくのが見えるばかりだ。

 まるで、大振りのナイフか何かを引きずりながらこちらに迫ってきているかのよう。

 おまじないは終わったのに、何故自分は追いかけられているのだろう。そもそも、何に終われているのだろう。キズニ様は、学校に通う生徒が大好きな守り神様ではなかったのだろうか。


――た、たすけっ……助けて!


「きゃあっ!」


 階段を降りようとしたところで、思いきり足を滑らせた。尻もちをついたまま、踊り場へと転がり落ちる真理奈。その拍子にバッグがひっくり返り、中身がブチ撒けられることになる。携帯電話が勝手に開いて、くの字に折れ曲がったままするすると床を滑り落ちて言った。壊れてしまったかもしれないが、それを気にしている余裕はない。それよりも、足にずきりと走る痛みの方が深刻だった。

 折れてはいないだろう。でもきっと、捻った。そもそも既に息は上がり、疲労から全身にびっしょりと汗を掻いている状態。これ以上、もう、逃げることは。


「やだぁっ……!」


 疵が、迫ってくる。疵が、疵が。

 怪談に歪な線を刻み、踊り場を滑り折り、尻もちをついたまま後ずさる真理奈の足元へ。

 そして、ついに。


「ひぎっ」


 びしり、と。真理奈の上履きの爪先が割れた。ぱっくりと割れたそこから、だらだらと赤いものが流れ出していく。上履きと一緒に、靴下も、そして足の指と甲も一緒に叩き割られたのだと知った。

 理解した途端、激痛が。


「ぎ、ぎゃ、ぎゃあああああああっ!」


 びしびしびしびし。

 疵は、真理奈の両足を伝ってどんどん這い上がってくる。

 ぱっくりと膝まで肉が割れ、白い骨が飛び出した。疵は股間の方にも及び、真理奈の繊細な下腹部まで丁寧に切り開いていく。服と一緒に刻まれる肉。黄色い脂肪がでろりと露出する。腹膜が破裂し、中の内臓までもがでろでろと床に溢れて落ちていく。


「いだい、いだ、いだ、いだ」


 座っていることができなくなり、ぶくぶくと泡を吹いて真理奈は倒れた。激痛と出血で、全身が不随意に痙攣する。床に手をついた途端、疵は両手にも侵食した。中指と薬指の間からぱっくりと開かれ、まるで羽根仕掛けのように骨がギザギザになって飛び出していく。


――わかんない。なんで、なんでこんなことになったんだっけ。私、そんな、悪い事、したっけ。


 ぐるん、とあまりの苦痛に目玉がひっくり返り、がくがくと体を震わせて悶えながら。それでも真理奈の意識は、暫く消えることを許してはくれなかった。

 2011年、11月15日。

 少女の地獄を知る者は、まだいない。

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