ゴキブリ
「非常にまずいな。首尾よく潜り込めたはいいものの、もうすでにこの屋敷は奴らに包囲されている。脱出をどうするか……」
闇の中で黒の全身タイツで覆った男はつぶやいた。先ほどの激しい戦闘で、タイツはところどころ破けている。連絡用小型トランシーバーも動かない。
「やっぱり、マフィアの取引現場に忍び込んで証拠を取ってくるなんて無茶だったんだ。僕らはマスターから捨て駒にされたんだぁ」
こげ茶色の全身タイツを着た男が半泣きで言った。
「バカ、兄弟、まだ希望を捨てるなよ。俺たちはこの難しいミッションに指名されたんだぞ。実力あるエージェントとしてマスターに認められた証拠じゃないか。自信を持っていこうぜ」
「実力を認めてるエージェントに、こんな低予算のスーツ渡すかなぁ」
「シッ、静かに。この隙間から下を覗け。取引が始まるぜ」
二人は一時会話をやめて天井裏から下の部屋を覗き見る。金髪をオールバックに固めた白スーツの男が、真っ赤な胸元が大きく開いたドレスを着たきれいなお姉さんを従えて部屋に入ってくる。
「おわ、キャシー、あんな男がいたのかよ。俺とは遊びだったのかよ」
「まあ、僕も全身タイツとは付き合いたくないかな」
「俺のこと、愛してるって言ったのに!」
「君、英語わかったの?」
「一言も聞き取れなかったけど、俺はできる男だからな。お前もさっき会った時見たろ?彼女の目を見れば俺に向けられた感情くらい容易に察せるさ」
「ゴキブリを見る目してたよ」
部屋に黒髪で黒スーツの男が入ってくる。銀色のアタッシュケースを持っている。間違いなく例のブツが入っているはずだ。タイツの二人は身を乗り出す。
「Long time no see. Mr.X and Chelsea. <久しぶりだな、ミスターエックスとチェルシー>」
「You don't have to say hello. Give it to me. <挨拶はいい。ブツをよこせ>」
「Yeah, yeah. Don't hurry. This is here. You check this now, right? <わかってるって。そう急くなよ。今、確認するだろ?>」
金髪の男が頷く。黒髪の男は慎重な手つきでアタッシュケースの留め金を外していく。タイツ二人も生唾を呑み込んでそれをじっと見た。今回、二人が身をささげる組織のマスターが得た情報は、組織の一員の裏切り行為の密告があったということだった。
黒髪は二人の元同僚だった。二人の属する組織は、社会の平和を守るために、様々な悪と戦う。そのため、自然と物騒な武器も必要になるのだが、その武器がマフィアなんかに流れてしまうと恐ろしいことになるのは言うまでもない。今まで切磋琢磨しながら一緒に仕事をしてきた仲間の知られざる側面に二人はショックを受ける。
「あいつ、英語しゃべれたのか……」
呆然とする二人をよそに、アタッシュケースはスムーズに開いた。
「あれっ……!?武器、じゃない?」
アタッシュケースに整然と詰め込まれていたのは、どう見ても武器ではなさそうだった。小分けのチャック付きのビニール袋だった。中には何か、黒っぽい塊がたくさん詰め込まれているようだった。
「Is this fine? Now deal done. Give me the promised money. <これでいいか?さて、取引成立だ。約束の金をくれ>」
「Wait. <ちょっと待て>」
見ると、女が黒髪にピストルを向けている。金髪がゆっくりとアタッシュケースに近づき、袋の一つを開けて中身を黒髪の手のひらに乗せた。
「I stell can't trust you. Eat this. All I want is cricket. Not cockroach.<俺はまだあんたが信用できない。一つお前が食って見せろ。俺が欲しいのはコオロギであって、ゴキブリじゃないんだ>」
黒髪は戸惑う。手のひらに乗るのは、乾燥させた昆虫の死体のようだった。
「何あれ。イナゴかな?」
「いや、黒いからコオロギかもしれねえぞ。しかし、コオロギだとしてもなんでこんな風に取引しなきゃなんねえんだ?希少種の密輸か?」
「待って。あいつ、なんか泣いてない?」
よく見ると黒髪は肩を震わせて涙を浮かべていた。
「おい、こうなりゃしかたねえ。あいつが裏切ったかどうかは一旦脇に置こうや。鉄のハートを持つと言われたほどの元同僚が涙を流してんだ。相当つらいことがあったんだろう。ここで助けなきゃ、俺たちは明日から胸を張って生きられねえ」
黒タイツは天井板を外し始める。
「Hey! Who's there!? <おい!誰かいるのか?>」
天井裏の暗がりから声がした。
「まずい、見つかった!こんなところまで見張りを張り巡らせているだなんて」
こげ茶タイツはおろおろと腰を探るが、ピストルはなかった。黒髪は上を見上げた。
「The voice... <その声は……>、コードネーム『ナマコ』!てことは『ガリ』もいるのか!」
「『マグロ』、今助けるぞ!」
ガリと呼ばれた黒タイツはもはや忍びもせずに天井板を拳で破壊しようとする。
「Mr.Tuna, are you their friend? <ミスターツナ、あなた、あいつらと仲間だったの?>」
女は天井から顔を出す黒タイツと、黒髪のどちらに銃口を向けるべきか決めかねて両者に交互にピストルを向ける。黒髪は女と黒タイツを交互に見た。
「No, I just met them for the first time. <いいや。今初めて会った>」
そして黒髪は軽く肩をすくめる。
「You can shoot. <撃っていいよ>」
女は躊躇せずに天井に向かって発砲する。
「うわあ、何すんだよ!キャシー!俺とお前の仲じゃねえか!」
「What? Chelsea, what's your relationship with him?! <なんだって?チェルシー、お前、あの黒タイツとどういう関係なんだよ!>」
金髪の男が叫ぶ。下の部屋は完全に修羅場となった。しかし、天井裏もまた修羅場である。
「I found you! Suffer yourself to be bound! <見つけたぞ!おとなしくお縄につけ!>」
天井裏にはタイツ二人の前にぴちっと体にフィットするデザインのボディスーツに身を包んだ男が現れる。当然、武装している。
「くそっ、海外にも忍者はいるんだね」
スパイ用スーツに掛けられた予算が見て取れ、こげ茶タイツは格差を感じるが、何とか減らず口をたたく。
「At the party, I was just apploached by him. I don't like him. No, I hate him! <さっきのパーティーで彼に言い寄られただけ。私は彼をどうとも思ってないわ。いいえ、大嫌いよ!>」
女は金髪に必死で弁明する。女の脳裏にはほんの一時間前の出来事がよみがえる。屋敷の大広間で行われた重要人物が集まるパーティーに紛れ込んだ明らかに目立つ、怪しいタイツの二人組。女が会場から出て一人になった瞬間、カサカサとゴキブリのように近づいてきて手をこねこねした。
女の腕にはぶるりと鳥肌が立つ。女は生まれてこのかた、ゴキブリというものがどうしても我慢できなかった。すぐさま会場の警備員を呼びつけてぎったんぎったんにしてやったつもりだったが、なかなかにしぶといやつらだった。
「キャシー、さっきのはこのアホ面のタイツマンに撃とうとしてたんだよな!俺、今行くよ!マグロを助ける予定だったけど、君もここから助け出すよ!」
黒タイツは天井板を思い切りはがした。黒髪は頭を抱えた。言語の壁は厚いが、愛情はそれを迷惑な感じに飛び越える。黒タイツは部屋に飛び降りた。
「ああ、ガリ!行かないでよ!ここを丸腰の僕一人にするつもり?」
こげ茶タイツは必死になってポケットやらウエストポーチを探った。なんでもいい、とにかく襲い来る海外忍者に対して時間稼ぎができれば。ポケットの中の封筒に指が触れる。それは、白い封筒で、黒と白のシンプルなものだったが、ご丁寧に水引の飾りまである。出発前にマスターがくれたものだった。
「マスター、あなたって人は……何もかもお見通しですね!」
こげ茶タイツはさっそく封筒を開ける。
「くそ、こんなことに巻き込まれちゃたまんねえ」
すでにかなり巻き込まれてはいるのだが、黒髪はそう悪態をつき、黒タイツと金髪と女が何やらごちゃごちゃやっている間にアタッシュケースの蓋を閉じて部屋から逃げ出した。
「Wait! If you don't wait, I'll kill you!! <あっ、待て!待たないと殺すぞ!>」
金髪はそれを追いかける。黒髪は焦ってすっ転び、部屋の出入り口で倒れた。アタッシュケースが開いて部屋中に虫の死体が散らばる。
「Oh my god! My precious snacks! <ああっ、俺の大事なおやつが!>」
金髪は黒髪を放って、床に這いつくばって虫の死体をかき集める。黒髪はすぐに起き上がろうとしたが、目の前に広がる光景に涙を流し、泡を吹いて気絶した。前組織では鉄のハートを持つ男として尊敬されていた黒髪は、虫全般が泣くほど苦手だった。
「手紙だ。えー、あなた方は我々の組織にまあまあいろいろな成果をもたらしてくれました。まず、いいニュースなのですが、……うん?まず?まあ読もう……。この度、来年度から非常に有望な新人エージェントを雇うことが決定しました。……ふうん、よかったじゃん……。次に、悪いニュースですが、この度はとても心苦しいのですが、あなた方二人、すなわちコードネーム『ナマコ』と『ガリ』は解雇とさせていただきます。……今後のご活躍をお祈り申し上げます……ってえええ!?クビィ!?」
こげ茶タイツは腰を抜かした。
「Are you fired...? <クビになったの……?>」
日本語は一ミリもわからないだろうが、雰囲気で何かを察した海外忍者はこげ茶タイツの肩をさすって慰める。
「そんなぁ……。200社受けてやっと雇ってもらえたのに……。こんなのってないよ」
こげ茶タイツの目から涙が一滴手紙に落ちた。
「?」
濡れた箇所になにやら文字が浮かび上がっている。こげ茶タイツは慌てて涙をもう一滴流そうとしたが、新たな発見への高揚感でもうすっかり気分はなおっており、涙は出なかった。鉄のハートを持つのは、もしかしたら彼なのかもしれない。
こげ茶タイツは手紙を舌でべろべろ嘗め回した。もう恥も外聞もあったものではない。海外忍者は気でもふれたかと心配そうな顔をして、俊敏な身のこなしでこげ茶タイツと距離を取った。
「なになに、困ったときはこの呪文を唱えてみなさい。きっと役に立ちますよ。『心地』。……
こげ茶タイツは腹の底から大きな声で叫んだ。海外忍者、金髪、女、黒タイツまでも、ドン引いた表情で彼に注目した。
「だめか。何も起きない。ああ、そうか、これは夢見心地とかで使うから、……ゴコチ!」
やはり何も起きない。
「な、なあ、ナマコ、さっきはアホって言ってごめんよ。お前は大丈夫だよ、カタツムリくらいには知能あるよ。俺が保証する。だからさ、もうおかしなことはやめて元に戻ってくれよ」
黒タイツは懇願する。
「これもだめか。じゃあなんだ。あと他に読み方あったっけ?ええと、ええと。ああ、ガリは僕より頭悪いし、外国人は漢字わかんないからな、どうしよう」
「おい、さらっと悪口言ったな」
「こころ、しん、ち、ぢ……」
その時、こげ茶タイツのいる場所の天井板が急に抜けた。こげ茶タイツは思考中だった言葉を叫びながら落ちていく。
「コッコロチーーーィィィ!!<cockroach!!>」
「eeeeeeeeeek!!<キャアアアアアア!!>」
女は甲高い悲鳴を上げ、握っていたままだったピストルを部屋中に乱射した。金髪は運悪くヘッドショットを食らって倒れた。
「今だ!逃げよう!」
黒タイツはひっくり返ったゴキブリのようなポーズで固まっているこげ茶タイツをつかむとその部屋から逃げ出した。
🪳 🪳 🪳
「……というわけなんです、マスター」
「ふむ」
きっちりとしたパンツスーツに身を包む女性は、黒タイツとこげ茶タイツの上司だった。マスターは回転椅子を回して二人のほうに体を向ける。
二人は今日はさすがに破れた全身タイツではなくビジネススーツを着ていた。ネクタイの色がちょうど黒とこげ茶なので、黒タイとこげ茶タイと呼ぶことにしよう。二人は異国からなんとか逃げ帰り、報告のためにオフィスに出社していた。
「あなた方の仕事ぶりはよくわかりました。……それで、一つ聞きたいのですが」
「はい、なんなりと」
こげ茶タイが言う。
「取引されていたのは、結局コオロギだったのですか、それとも、ゴキブリだったのですか?」
「それは、わかりません。でもしかし!それを受け取って使用する人間は死んだので、実質取引を阻止しました。そんな取引はなかったということになりますよね」
気を付けの姿勢を保ったまま黒タイが言った。マスターはため息をついた。
「わかっていないようですね。今回の派遣の目的は、コードネーム『マグロ』の裏切り行為の証拠集めであって、取引自体の阻止ではありません。白黒はっきりつけたかったのに、マグロは生きているし、なんならさらに疑念が深まりました」
「どちらかというとクロマグロですね」
こげ茶タイは神妙な顔で言った。黒タイは肘鉄を入れる。
「とにかく。あなた方はたいして価値のある情報を持ち帰ったわけではありませんが、ほぼ不可能と言われていたミッションから生還しました。なかなかしぶとくて驚いています。それに免じて、クビは取り消しということにしましょう」
黒タイとこげ茶タイは顔を見合わせた。
「ありがとうございます!まさに夢見心地です!」
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