キーホルダーペンギン
『おい、ちょっと。おい、お前だよ。俺の声が聞こえてるか?』
誰かに話しかけられた気がして俺はスマートフォンから顔を上げる。金曜午後6時。地下鉄の駅は退勤のサラリーマンやら、下校中の高校生やらであふれていたが、俺の方へ存在をアピールしてくる人間は見当たらない。
一週間の仕事を終えた、少しくたびれ、休日の訪れに少し浮き足立つ人の群れを乗せて、一週間の仕事のように長いエスカレーターは等速度で上昇していた。
一人のサラリーマンが俺の右横を追い抜かして行った。俺はスマートフォンの画面に視線を戻す。
『無視すんなって!俺はここにいるだろ?聞こえてるなら返事のひとつでもしてくれよ』
また声がした。空耳ではない。どうやらその声は俺に向かって語りかけているようだった。
しかし、誰が俺に語りかけてくるのかさっぱりわからなかった。辺りを見渡すが、やはりわからない。エスカレーターの手すりに掴まって後ろのOLを見るが、彼女は俺と合った視線を迷惑そうに逸らしただけだった。
『ぎゃっ!』
悲鳴のような声がしてようやく俺は声の主がわかる。俺の前に立つ女子高生のスクールバッグについている、馬鹿でかいペンギンのぬいぐるみのキーホルダーだ。アニメのキャラクターで、俺も時々目にすることがあった。長いこと彼女のカバンに括り付けられて登下校を共にしてきたのか、その見た目はずいぶんと薄汚れていた。
キーホルダーは、エスカレーターの手すりの下の部分に体を押し付けられるようにして接触したまま引きずられていた。女子高生は自分の身動ぎのせいで、キーホルダーが痛そうな状況に陥り、悲鳴を上げたことには気づいていないようだ。
キーホルダーが喋った。
『そりゃあ喋りたくもなるだろ。こんな毎日が続いてると、いくら可愛い顔をした俺でもくたびれちまうもんだ』
この声は俺だけに聞こえてるのか?
俺がそう頭の中で問いかけると、すぐに答えがあった。
『そうだよ』
……まずいな。最近仕事が立て込んではいたが、とうとう疲れがこのレベルに達していたとは。今日の飲み会は欠席して正解だった。今夜は早く熱い風呂に入って寝よう。
『勘違いするなよ。俺がお前に喋ってるのはホントだぜ。お前の疲れは関係ない』
だとしてもだいぶキャラクターの性格が違うぞ。俺の知っているアニメのキャラクターはまず人語を喋らないし、可愛らしい鳴き声で鳴くんだ。
『それは画面の中限定での話だ。言うならば営業の顔だな。俺たちグッズの役目は基本的に喋らず、可愛い三次元の俺を愛でてもらうこと。グッズの俺の性格まで営業モードの俺と同じにする必要ないだろ』
君の持ち主がそれを聞いたらショックを受けるんじゃないかな。画面越しに見た君のキャラクターが好きになったからグッズを購入しているわけだから。
『この子には喋りかけないから大丈夫だよ。つーか、アニメは二期に入って、新たなキャラがたくさん出てくる。すぐ新しいやつらに目移りするさ』
キーホルダーはサバサバとした調子で言った。現実的というか、自虐的なキーホルダーだ。
『それよりさ、お前、俺をちょっと助けてくれよ。エスカレーターの壁が体に当たってて、擦れて痛いんだよ』
それは少し難しいな。エスカレーターに乗っていたら急に後ろに立つサラリーマンが自分のカバンのキーホルダーを触ってきたら怖いだろ。
『そりゃあそうかもしれないけどさ、俺はだいぶ体にダメージ入ってんだよ。人を助けると思ってさ、少しずらすだけでいいんだよ』
君は人じゃなくてペンギンだし、いや、ペンギンですらなくてぬいぐるみだ。
『今までこの声の後ろに立ったサラリーマン全員に話しかけてきたけど、お前もどうやらそいつらと同じようだな。一人も俺を触ろうとしてくれない』
キーホルダーはため息といっしょにぼやく。誰一人キーホルダーに触らなかったということは、この駅を利用するサラリーマンに常識があって、女子高生が一度も怖い思いをしなくて済んだということだ。喜ばしいではないか。
女子高生が肩からずり落ちてきたカバンの肩紐を、勢いをつけて肩に背負い直す。キーホルダーはさらに壁に押し付けられる。
『あー!!』
キーホルダーはまた悲痛な声を上げる。
『この子はもう本当に自分のカバンの幅にお構い無しだ。この時々来る壁の継ぎ目が痛えんだ。あと、汚れてる所があったら最悪だ』
エスカレーターは緩やかに角度を変える。地上だ。
すまなかったな、と俺は心の中で詫びた。
『ちぇっ。まったく、キーホルダーやるのはなかなか辛いよ。まあ、仕事が大変なのはお互い様だな。じゃあな』
女子高生は駅の外へ出て行った。
ああ、またな。と俺は呟いた。
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