天罰必中暗闇姉妹 暗黒編
村雨ツグミ
天罰必中暗闇姉妹 暗黒編
この世界にはかつて『悪魔』という存在がいた。
悪魔とは「概念的な存在が、現実世界に適応した結果生じたもの」という、ちょっとわけがわからない定義がインターネット辞書には書かれている。理解がむずかしいが、とにかく悪魔は、私達の生活を脅かす者であるそうだ。悪魔の中には人間社会にうまく順応する個体もいるそうだが、とにかくモンスターのような恐ろしい存在だと思えばまちがいないし、実際まちがいなかった。
そして、この世界には2種類の『魔法少女』がいる。いや「いた」と書くべきだろうか?1つは『閃光少女』と呼ばれる、人類の自由を守るため悪魔を討伐する魔法少女。もう1つは、悪魔と契約を結び、自分の願いを叶えるために悪魔と共存しようとする『魔女』だ。どちらもなぜか未成年の女性がほとんどなので、まとめて魔法少女と呼称されていたらしい。
20世紀末、悪魔と人類との最終戦争が起こった。魔法少女同士がぶつかり合う壮絶な戦いだったらしいが、とにかく、人類側の勝利に終わる。ほとんどの悪魔はこの戦争によって滅びた。それは同時に、悪魔側についた魔女達の落日でもあったし、悪魔の王が消えたことにより、閃光少女達もまた役目を終え、姿を消した。
私の名前は村雨ツグミ。私は最終戦争を知らない。幼いわけではない。私は最終戦争が終わってから2年過ぎた現在18歳になる。だが、私に思い出せるのは、どれだけさかのぼっても1年ほど前までの記憶だけである。そう、記憶喪失なのだ。だから、もしかしたら客観的には誤りになるかもしれないが、私の主観としてこう書かざるを得ない。
私は、今夜初めて『魔法少女』に会った。
某県、城南地区城南駅前。午後8時過ぎ。
都会というほど込み入ってはいないが、田舎というほどでもないこの平凡な街には、今日も少なくない学生やサラリーマンの群れが往来を埋めていた。そのビルの一つ、屋上に誰かが立っている。
女子高生である。少なくとも、県内のとある高校の指定セーラー服を着用している。なぜかコスプレめいて見えるのは彼女の身長と顔つきのせいだろう。170cmもある。高校1年生の女子としては破格の身長だ。鋭い眼光を地上へ落としている端正な顔立ちは、美人というよりもハンサムと形容する方が適切に思える。赤みがかったロングヘアを後頭部で結んでいるが、その位置が高すぎるためか、ポニーテールというより、本人の雰囲気も相まって、生まれる時代と性別を間違えたサムライのようだった。
化粧もほとんどしていない無精さの割には、右手の中指に不釣り合いなほど派手な、赤い宝石の付いた金の指輪をはめている。その指輪だけは異様だが、手に握られている携帯電話は、最終戦争が終わって復興が進んだ現在においては、女子高生なら誰もが持っている普遍的なアイテムであった。
マナーモードにしている携帯電話がバイブレーションを刻む。液晶画面には「オトハ」という表示。待っていた相手だ。
「アタシよ。オーシャン、何人に連絡がついた?」
オーシャン。そう呼ばれた電話の先にいる相手は、自分と同じ『閃光少女』のアケボノオーシャンである。耳に近づけたスピーカーからは、ため息がまず聞こえてくる。
「ぜんぜん駄目だね。ガンタンライズとはなんとか連絡がついたけれど、来るのに時間がかかりそう」
困ったことになった、と屋上の少女は思う。悪魔が近くにいるのだ。それは閃光少女になった者が、使命を果たすために与えられた知覚センスがそう告げているのである。しかし、そんな才能も使わなければ錆びついてしまうのが当然だろう。この異変を察知しているのは自分と、同い年の閃光少女であるアケボノオーシャン、そしてガンタンライズだけだ。しかし無理もないのかもしれない。最終戦争から、もう2年が経ったのだ。本当なら、閃光少女を今も続けている方がどうかしている。
だが、とにかく今夜は問題だ。
「ひとまず、アタシとアンタの二人でやるしかないわね」
オーシャンの肯定する相槌を聞きながら少女は再び屋上から地上へと視線を落とす。悪魔が近づいているのはわかるが、どうしても見つけられない。オーシャンも駅の反対側出口で探しているはずだが、見つけられていないのは自分と同じだ。
「もしも最近、城西地区に現れた奴と同じならさぁ」
オーシャンが続ける。
「鏡の中から出てくるよ、そいつらは」
「見つけた」
少女はするどく携帯に叫ぶと、ビルの屋上から飛び降りていた。
手に持っていた携帯を投げ捨てる寸前に「どこに?」と聞こえた気がしたが、無用な質問だ。アケボノオーシャンは轟音が聞こえる方へ飛んでくればいいのだから。少女は落下しながら、右手の指輪を撫でた。
「変身!!」
少女の体が一瞬で赤い炎に包まれた。炎は間もなく収まり、真紅のドレスと、それとは不釣り合いな無骨な籠手を装着した、戦士としての姿の彼女が現れる。ビルからビルへ三角跳びをしつつ、地上の一点を目指して急降下していった。
有名なブランド服を扱う店舗の、ウインドウの前に立っているのは、ただの女子高生である。べつにその店に用事があったわけではない。ただウインドウを鏡代わりにして身だしなみをチェックしたかっただけなのだ。身だしなみに問題はなかった。が、何か異様な物が見えた気がした。黄色と黒の縞模様をした柱のようなものが、ウインドウから反射して見える自分の後ろにあるような……
「?」
振り返っても何も無かった。しかし、ウインドウに再び向き直った瞬間、8つの目をもつ『ソレ』の顔が自分に迫って来て、思わず悲鳴を上げた。
ガラスが粉々に砕ける轟音とともにウインドウから出てきたのは、虎柄の巨大な蜘蛛だった。乗用車よりも一回り以上も大きい蜘蛛は目の前の女子高生を跳ね飛ばすと、道路脇に駐車されていた乗用車に衝突する。運転手を待っていたらしい後部座席の老人が、スピンする座席に撹拌されながら頭から窓ガラスの破片を浴びた。店の入り口で唖然としていたサラリーマンは、大蜘蛛が振り回す足にぶつかり、街路樹に背中から叩きつけられる。
誰しもが突然の事態に混乱し、無秩序に逃げ回った。たった数分で街はパニック状態である。その中に、幼い少年を抱えて逃げる、小柄な少女の姿があった。都市が戦場となった時には飛散したガラスこそが危険な凶器となる。少女の足にもまた飛び散った無数のガラス片が突き刺さり、流れ出る血が彼女から逃げる力を奪いさってしまうのは時間の問題だった。その時である。
赤い火の玉のようなものが空から落ちてきて、轟音とともに道路に小さなクレーターを穿った。逃げ惑っていた男性が尻もちをつき、指をさして悲鳴を上げる。
「今度はなんなんだ!?」
炎が収まると、人間の姿をした何者かが立ち上がる。男性の悲鳴が、歓喜の叫びに変わった。
「グレンバーン……?閃光少女の、グレンバーンだ!!グレンバーンが帰ってきた!!」
グレンバーン。先ほどビルから飛び降りながら駆けつけた閃光少女が、大蜘蛛を睨みつけると、大蜘蛛は自身の牙をこすり合わせて威嚇音を発する。
「間違いない。悪魔ね」
グレンバーンはゆっくりと歩き、そしてそれが小走りになり、やがて全力走で悪魔の大蜘蛛へ近づいた。蜘蛛もまた8本の足をリズムカルにコンクリートに叩きつけてグレンバーンに迫る。
グレンバーンの拳があかね色に燃える。
「おらあっ!!」
グレンバーンは力まかせに右拳を蜘蛛の頭に叩きつけ、すぐさま反転し、後ろ蹴りで蜘蛛の体を立体駐車場のコンクリート柱へ向かって吹き飛ばした。駐車されていた車達が、巨大な衝撃に目を覚まし、けたたましい防犯ブザーの大合唱を奏でる。
蜘蛛が目を回すことがあるのかグレンバーンにはさっぱりわからなかったが、例えるなら、そのように見えた。大蜘蛛の足元がふらついている。攻撃は効いているのだ。
グレンバーンがすぐ横を見ると、足にガラス片が刺さった少女が、幼い少年を庇うように抱きしめながら倒れているのに気づいた。
「そんな事をしている場合じゃないでしょ!早く怪我人を助けなさい!」
グレンバーンは倒れている少女を叱ったわけではない。そんな少女を無視して、のんきに携帯電話のカメラで自分を撮影している群衆に怒ったのだ。2年の歳月は、人々の記憶からグレンバーンを消し去るには短い期間であったが、人類から危機感を奪いさるには十分過ぎるほど長かったようだ。
「早く来なさいよ、オーシャン」
追撃の手刀を脳天に浴びせた後、グレンバーンは大蜘蛛の体を無造作に掴み、比較的広い車道へと放り投げる。見た目のおどろおどろしさと比べれば、この程度の悪魔はグレンバーンの相手では無かった。しかし、それはあくまで能力をフルで発揮している場合の話である。だが、今はフルパワーで戦うわけにはいかない。炎の閃光少女であるグレンバーンが本気を出してしまったら、それだけで周りに大火災を引き起こしてしまう。怪我で倒れている少女は仕方がないとしても、閃光少女の戦いをエンターテイメントとして消費している群衆は、一喝した程度で避難するほど常識的では無さそうだ。
「逃げるな、こらあっ」
大蜘蛛がその巨体から想像できないほどの素早さで路地に入り込もうとする。余計な被害を広めないためにも逃がすわけにはいかない。狭い通路に飛び込もうとした瞬間、大蜘蛛の前方に青く透き通った、蜘蛛にも負けないほど大きなトランプが行く手を阻み、それどころか勢いよく蜘蛛にぶつかって、その巨体を仰向けにひっくり返した。
「必殺、畳返し~」
大きさは似ているが畳ではない。結界である。
呑気な調子で、青いシルクハットを被った、奇術師のような格好をした少女が現れた。
「いやぁ、待たせてごめんごめん」
彼女の閃光少女としての名前はアケボノオーシャン。青みがかったショートヘアと整った顔立ちは、グレンバーンとは別の意味でボーイッシュな印象を与える。群衆のカメラがアケボノオーシャンへ一斉に向いた。
「遅かったじゃない」
とはグレンバーンは言わない。
「頼むわ」
とかわりに叫んだ。
「OK」
アケボノオーシャンは何をするべきかわかっている。彼女が白い手袋をはめた両手をパチリと合わせると、先ほど蜘蛛の行く手を遮ったトランプが、まるでグレンバーンと大蜘蛛だけを囲むように現れた。彼女の役目は、悪魔が逃げ出したり、閃光少女の攻撃で周りに被害が出ないように結界を張ることである。本当は事前に悪魔と閃光少女の姿が見えないように結界で囲み、誰にも気づかれないまま悪魔を討伐するのが最善なのだが、今回はどうしようもなかったのは言うを待たない。とにかく、これでグレンバーンは本気になれる。
「はああぁぁぁ」
グレンバーンが気合を入れると、彼女の背中に6本の細い羽が伸び、羽の先をなぞるように丸い日輪が浮かぶ。そして真紅の籠手が炎に包まれた。大蜘蛛は後ずさりをするが逃げ場はもう無い。もはや前に出るしかない。
グレンバーンは両腕をそれぞれ天地に向け、大きく円を描くように回す。すると円の中心に、小さな太陽のような炎の球体が生まれた。
「おらあああっ!!」
グレンバーンがそれをドッジボールのようにして投げつけると、炎球を叩きつけられた大蜘蛛の体がまたたく間に燃え上がり、体表がどんどん赤く変色していった。
グレンバーンはそんな大蜘蛛にくるりと背を向けて、残心のポーズをとる。
「敵は一匹……」
その瞬間、グレンバーンの背後で大蜘蛛は大爆発を起こした。結果的に結界のすぐそばで観戦することになった少女からは恐怖でしかなかったが、思わず「すごい」とつぶやいていた。
グレンバーンがふと右手を見ると、蜘蛛の糸が絡まっているのに気づく。右手に軽く力を入れると、籠手が赤熱し、蜘蛛の糸はジュッと音をたてて蒸発した。
「もう大丈夫だね」
アケボノオーシャンが結界を解除すると、カメラを向けた群衆が大歓声を上げた。
「さ、サインしてください」
もうすっかり安全だと思ったのか、そんな事を言うファンらしき輩がしきりとグレンバーンに寄ってきた。そのたびにグレンは「邪魔よ」と彼らを追い払わなければならなかった。ファンサービスでやっている事ではない。許されるならば殴りたおしたい気分だ。悪魔は討伐したが、問題は怪我人である。オーシャンとも手分けをして確認することにした。もっとも、オーシャンはグレンよりもおおらかゆえ、サインはさすがに辞退するものの、撮影にピースサインで応えてグレンをイライラさせたが。
「大丈夫?」
グレンが声をかけたのは、幼い少年を庇いながら倒れていた少女だった。やはり足に刺さったガラス片によりおびただしく出血している。グレンが近づいてくるのを見て身を起こそうとしたが、グレンは「そのままでいいわ」とそれを制した。かわりに庇われていた方の少年を立ち上がらせてみたが、その子はほぼ無傷だった。ショックのためか、今はほとんど口がきけないようではあったが。
「弟君は大丈夫よ」
「弟……じゃないかも」
「え?」
なぜか自信が無いような言い方も気になったが、それよりも姉弟だと思っていた二人に縁が無かったことに意外さを感じた。そういえば、横に突っ立っている少年も不思議そうな顔で少女を見つめている。
「どうして……」
「わからない。気づいたらこうなっていたの」
グレンは改めて彼女をよく見た。身長は145cmくらいだろうか?自分よりずっと小柄だったので幼く見えたが、同じくらいの歳かもしれない。黒々とした艶やかな髪が腰にかかるほど長く伸び、それでいながら癖毛が強く、あちこちで飛び跳ねながら自己主張をしている。気弱そうに見えるが、それでもグレンの視線をまっすぐ見つめ返しており、瞳の光の中に芯の強さが見えた。なにより、もしも閃光少女に友がいるとするならば、このように見知らぬ誰かを、自分をかえりみずに助けられる者である。グレンは嬉しくなった。
「今夜アタシに良いことがあったとしたら、それはあなたのような人を助けられたことよ。久しぶりに人間を助けられた気がする」
グレンはお世辞が言えるタイプの人間ではない。無神経な群衆にウンザリさせられてばかりだったので、心からそう思ったのだ。思ったからには、それを口に出さない理由も無い。もっとも、言われた方の少女は赤面するしかなかったが。
「お~い、こっちこっち~」
少女の傷の具合を確かめていたグレンが振り返ると、アケボノオーシャンが空に向かって手を振っていた。もう一人の閃光少女が到着したのだ。少女が天に向って指をさしながら尋ねる。
「あの子は天使?」
グレンは質問に答えなかったが、ある意味そうかもしれないと思う。薄紫色のドレスを着たポニーテールの少女が、同じ色をした背中の羽を広げて空から降りてくる。手には槍を持っているが、所詮は護身用にすぎない。閃光少女、ガンタンライズである。彼女の役割は、悪魔の攻撃で負傷した人間を魔法で癒やすこと。要するにヒーラーだ。彼女は優しい笑顔をしながら降りてきたが、地上に近づくにつれて表情が固くなっていった。実体化した悪魔が襲撃した後は、いつだってひどい状況だ。死人も出ている。グレンは先にオーシャンの方へ行くように目配せした。
グレンは考える。誰かが言っていた「ヒーラーは後方で味方を回復するだけの楽な役目だよな」という、心ない言葉への反駁を。そういった意見も一理あるかもしれない。だが、これほどストレスを感じる役目も無いのではないか?とも思う。戦うだけ戦って、最期は討ち死にすればいい自分とは違う覚悟を問われる。
今もそうだ。ガンタンライズは、間違いなく助けられる怪我ならば助ける。オーシャンが見つけた怪我人を治して、二人でこちらに歩いてくるところだ。だが、歩道に横たわってピクリともしない女性の側で、涙を流しながら絶叫する男性の前には止まらない。ガンタンライズは彼らを見たが、顔も向けないオーシャンは彼女の肩を抱くように手を回し、制しながらこちらに歩いてくる。
死んだ人間はどんな魔法を使っても生き返らせることはできないのだ。しかし人情としては、生き返らないにしても、死んだ人間にも回復魔法をかけて、欠損した部位を修復して荼毘に付したい気持ちもある。だが、そういった感傷はシビアな場面では通用しない。ヒーラーは常に、誰を治すかの選択を強いられるのだ。ヒーラーの数は十分ではない。時間も限られている。ゆえに、全ての命を救うことはできない。当然、恨まれることもある。今回だって、裏では「なんでもっと早く来てくれなかったんだ」と言われるはずだ。ヒーラーは人の生死の結果を、全て自分の責任として背負っていかなければならないのだ。
少女の足を見たガンタンライズが少しはしゃいで言った。
「よかったー、あんまりひどい怪我じゃないみたい」
少女は少し耳を疑った。たしかに自分はなんとか生きてはいるが、ひどい怪我ではあるように見えたからだ。ガラス片が足首の健にも食い込んでいるし、出血も続いているのでちょっとした血の池も道路にできている。しかも、グレンバーンが「ごめん」と言いながらガラスを全て抜いていったので、少女は痛みで悲鳴を上げていたところだったのに。
「大丈夫、怖がらないで」
そう言うとライズは手のひらから光を出し、少女の傷口に当てた。すると、すぐに傷口が小さくなっていった。まるで開いていたジッパーが閉じていくようだ。少女にとって気になったのは、流れ出していた血液も逆流して体に入っていくことである。道路に落ちた血が再び自分の体に戻るのは不潔な気がしたが、たぶん魔法だから大丈夫なのだろうと、多少無理にでも納得するように自分に言い聞かせるしかない。
ガンタンライズの治療中はグレンバーンがアケボノオーシャンとなにやら会話を交わしていた。
「へ~、見ず知らずの子を命がけで守っちゃうなんて、世間も捨てたもんじゃないね~」
アケボノオーシャンが少女の顔を覗き込みながら、そう話しかけてきた。
「君、閃光少女の素質があるかもよ?」
オーシャンがそう言うとガンタンライズが彼女を睨む。それをたまたま目にしたグレンは少し気になったが(まぁ、無責任な冗談よね)と内心、怒る気持ちに同意した。
「あの人……死んじゃったの?」
少女の目線の先には、先ほどガンタンライズが素通りした、動かない女性がいる。セーラー服を着た女子高生である。大蜘蛛に最初に襲われたのは彼女だった。
「……うん」
ガンタンライズは渋々答えた。少女はむしろ怪我していた時よりも顔が青ざめていった。自分に近い年齢の、それも同じ女性の無惨な最期を見てしまったがゆえか、人間の死というものが実感をもって迫ってくる気がしたのだ。呼吸がどんどん早くなっていき、過呼吸になりかけると、ガンタンライズは少女の両頬を、両手で挟むようにピシャリと叩いた。
「私を見て!」
少女はビックリしてガンタンライズの顔を見る。ライズの顔は、ここに降りてきた時のように優しい笑顔になっていた。少女の呼吸が、やや落ち着きを取り戻す。
「死に囚われてはダメ。それが悪魔を再び呼ぶことになるから。生き残った人は、死んでいった人達のためにも、心を明るくして、強く生きていかなければいけないの、だからほら……」
少女はライズの笑顔を見つめ、そして微笑してうなずいた。そして「ありがとう」と。
「そうそう、ツグミちゃんは笑顔が一番だよ!」
ライズがいきなり少女の名前を呼んだ時、グレンとオーシャンに同じ動揺が走った。名前をズバリ呼ばれた少女、つまり、ツグミはもっと不思議に思うしかない。
「あなたは私の知っている人なの?」
ここで少し説明が必要だと思う。閃光少女達が、というより魔法少女達が特徴的なコスチュームを着ている理由である。決して伊達や酔狂で着ているわけではなく(そういう者もいるかもしれないし、グレンバーンの衣装は耐火服も兼ねているが)、認識を阻害する魔法を付与した衣装を身にまとうことで、自分の正体を隠しているのだ。認識の阻害というのは、要するに目の前で変身でもしない限り、グレンバーンの変身前の人物は不明のままだし、奇妙な例えだが、アケボノオーシャンにグレンバーンの服を着せたら、どれだけ顔や体格が違ってもグレンバーンに見えてしまうというわけだ。
口頭で自分の正体を明かしてしまっても同様に正体が露見してしまうことになる。ガンタンライズとツグミにどんな接点があるのかグレンとオーシャンには知るよしもないが、二人が動揺したのはそうした事情があるのだ。さらにガンタンライズは二人を驚かせる。
「もちろん知っているよ!」
「ちょ、ちょっと」
さすがに止めようかとオーシャンが手を伸ばすと、ガンタンライズは続けて元気よく言った。
「私達閃光少女は、親愛なるみんなのお友達だよ!いつもあなた達を見守っているからね!」
バイバーイと手を振ると、ガンタンライズは背中の羽を伸ばし、空へと飛び去った。
(たぶん、うまくごまかせたかな~?)
おそらく自分達も潮時だろうとオーシャンとグレンも思う。これ以上、自分達がここで姿を晒す理由はない。まもなく警察が到着するだろうが、法外な存在である閃光少女には、司法に協力する理由もなければ、その能力も無い。
オーシャンは自分の足元に、ちょうど本人がふざけて言った通り、畳ほどの結界を作った。彼女の隣にグレンバーンも立ち、二人そろって結界の上に乗る。
「じゃあねツグミちゃん、さよなら~」
二人を乗せた結界もまた、空に向かって飛び去っていく。オーシャンは下界に手を振りながら(グレンは黙って腕組みをしている)夜の闇に消えていった。
ツグミはふと、いつの間にか側にいたはずの少年(自分の弟と間違えられた子)がいない事に気づいた。しかし、まもなくその少年が、少し離れたところで母親らしき女性と手をつないでいるのを発見した。少年はツグミを指さして何やら母親らしき女性に語りかけ、その女性がツグミに何度も頭を下げているのが見える。
ツグミはつぶやいた。
「帰ろう。私にも帰れる家があるのだから」
その時、路地の暗闇で何者かが携帯電話を耳に当てていた。おそらく歩道側からは暗すぎて姿がわからないが、声色から察するに女性である。
「ええ、わかった」
受話器の先にいる人物に報告する。
「追跡を始めるわ」
するとその女性は自分の左腕を上空に向け、そこから何かを射出した。蜘蛛の糸である。蜘蛛の糸はするするとその女性の体を持ち上げていき、彼女もまた夜の闇へと消えていった。
「た……ただいまー……」
ツグミは糸井家のドアを恐る恐る開いた。時刻は既に午後9時を過ぎている。一階リビングの方からドタドタと足音が響き、まもなく顔を引きつらせた壮年の男性が玄関に滑りこんできた。
この家の主、糸井コウジである。コウジはしばらくツグミを見つめていたが、やがて「ああ、よかった」と胸を撫で下ろした。
「『お父さん』心配かけて、ごめんなさい……」
「まったく心配したよー、まさか城南駅であんな……とにかく、さぁ、中に、入って入って」
コウジに引きずられるようにしてリビングに入ると、テレビに映ったニュース番組が、破壊された城南駅の様子を中継していた。
「……もう一度繰り返します。本日20時、城南駅西口ショッピングセンター前で、正体不明の生物が突如現れ、通行人に次々と襲いかかり……」
「正体不明の生物は突如現れた女性二人組が駆除したとの証言が……」
「警察では目撃者の証言をもとに、三人組の行方を追って……」
「今年に入って4度目ですねー。解説の山田さんはどのように思われ……」
ツグミは次々とチャンネルを変えて見たが、どの放送局の、どのアナウンサーも、決まりきったように同じ内容を繰り返していた。
「本当は閃光少女が助けてくれたんだろ?」
ツグミはコウジの言葉にうなずく。
「どうしてテレビは閃光少女や悪魔のことを喋らないの?」
「警察や自衛隊だってそうさ。政治家も。大人達は、自分にとってわけのわからない存在が、怖くて仕方ないのさ。だから口にしない。そうすれば、まるで存在しないかのように振る舞える。そうして知らんぷりしていても、どこからか閃光少女が現れてなんとかしていくんだから、なんとか自分達のクビをつなげておく事ができるのさ」
一種のタブーなのである。今からずっと前に対悪魔法案を提出した国会議員が、誇大妄想のオカルト主義であるとして辞職に追い込まれた経緯があったためだ。悪魔との最終戦争が始まっても、それは変わらなかった。というより、戦争の終結で、いよいよ変わる必要さえ無くなったのである。政治家は自分達の票さえ確保できるのであれば、一年に数人くらい行方不明事件が起きても、重い腰を上げる度胸はない。
「でも『お父さん』は信じているよね」
「ああ。仕事柄かもしれないけれど。僕は、客観的な世界があるなんて信じちゃいないんだ。誰しも、世界を見ているつもりで、本当に見ているのは自分の心の影だ。つまり、世界があるように見えても、本当にあるのは自分の心だけなんだよ。悪魔ってそういうところから来るんじゃないかな?」
「私にはそういう話、ちょっと難しいかな……」
「うん、まぁ、そうだね……僕のクリニックには、悪魔がいなくなったと言われてからも、何年もずっと苦しんで通院を続けている患者さん達が何人もいるんだ。だから、彼らの言うことを嘘だなんて思うわけがないじゃないか。とにかく、きっと明日からケアに追われることになるよ」
糸井コウジの職業は心療内科医である。二階建ての自宅はクリニックも兼ねており、患者は玄関とは別にある入口からクリニックの方へ入ることができる構造だ。コウジいわく、こういった悪魔関連の事件が起こるたびに、不安から心身を患う人が増えるそうだ。閃光少女のガンタンライズが、ことさらツグミに笑顔を求めたのは、そういう不調を事前に防ぐ意味があるのかもしれない。ツグミが漠然とそんな事を考えていると、二階からバタバタと誰かが駆け下りてくる。
「ツグミちゃん!おかえりー!心配したよー!」
糸井コウジの娘、糸井アヤである。今年から県内のとある高校に通い始めた一年生だ。ツグミの方が年長なのだが、彼女の方が10cmほど背が高い。普段は薄紫色のリボンで髪をポニーテールにセットしているのだが、今は髪をおろしているようだ。はじけるような笑顔がまぶしい。リビングにダイブしてそのままツグミに抱きついた。
「ごめんねアヤちゃん、遅くなっちゃって。今晩はご飯を作ってあげられなかったね。明日の朝はちゃんとお弁当を作ってあげるから」
「きっとだよ?やったー!」
コウジはツグミの横で渋い顔だ。
「コラッ!お父さんはアヤの事も心配したんだぞ。『お腹が痛くなったから早退します』だなんて、急に塾を飛び出しちゃったと、先生から連絡があったんだから!」
「えー、だってー」
アヤは不満そうに頬をふくらませている。
「塾ってつまんないんだもーん」
「とにかく、お父さんはこれからツグミちゃんと大切なお話があるから、先に休んでいなさい」
「ふーんだ。そうやってまた私をのけものにするんだ」
アヤは二階の寝室に上がっていった。
ツグミが糸井コウジに対して、あるいは糸井コウジがツグミに対して、どこか遠慮するような態度をとるのには理由があった。ツグミはコウジの事を『お父さん』と呼んでいるが、その言葉の真意は、あくまで『糸井アヤちゃんのお父さん』である。この家に母親はいない。アヤの母は、彼女の幼少時に他界したのだ。それ以来、父親であるコウジが一人で懸命にアヤを育ててきた。その二人ぼっちの家庭に、拾われてきた猫のように居ついてしまったのがツグミだ。
ツグミは静かに学生証をテーブルに置いた。
『村雨ツグミ』
それが彼女のフルネームである。
今から1年前、当時中学生だった糸井アヤが、自然公園の樹林で倒れていたツグミを家に運び込んだのがキッカケだった。持ち物といえば、財布に入ったわずかなお金と、この学生証のみである。それだけでも奇妙なことだが、もっと奇妙だったのは、彼女が記憶喪失になっていたことだ。生まれはおろか、家族も、住む家も、学生証を目にするまでは、自分の名前さえ記憶から抜け落ちていた。彼女を診た医者は、樹林で落雷に見舞われたのではないかと推測する。しかも、奇妙なことはまだまだ続く。
学生証を持っていたので、当然、糸井コウジはその学校へと問い合わせてみた。県内にある、ごく普通の高校だ。しかし、その高校では村雨ツグミのことをまるで知らないという。それを信じるなら、この学生証はまったくの偽造だ。だとしたら、復学など叶うはずがない。記憶を失う前のツグミは、どうしてこんな物を持ち歩いていたのか?
結局のところ、糸井家でツグミを保護することになったのは、アヤがツグミを発見してから、まもなく決まった。アヤがどうしてもそれを望んだからである。母を幼少時に失い、一人っ子であったアヤは、姉妹のような存在を強く望んでいたのだろうとコウジは解釈している。
実際、父親のコウジから見て、ツグミとアヤは本当の姉妹のように仲睦まじくなった。思春期を迎え、どこか情緒不安定だったアヤが落ち着いたのも、ツグミが見守ってくれたおかげだろうと思う。
それだけではなかった。仕事に忙殺され、おろそかになりがちだった家事全般も、やがてツグミが一手に引き受けるようになった。料理も、掃除も、洗濯も、あるいは家庭菜園まで、ツグミは何でもこなした。ツグミはアヤの姉のような存在でもあり、そしてこの家庭にとって母親のような存在ともなったのだ。最近では、クリニックで書類をまとめる仕事の手伝いをも頼んでいるくらいである。
「この住所に行ってみたんです」
ツグミは学生証に書かれた住所を指さす。コウジはツグミに尋ねた。
「どうして、また?」
ツグミの自宅(?)を訪ねるのは今回が初めてではなかった。当然ながら、ツグミを保護した直後にもその住所を訪ねている。しかし、そこにはたしかに家があったが、不動産会社いわく、何年も前から誰も住んでいない空き家だった。
「もう一度見てみたくなって……」
「記憶が戻りそうな予感がしたから?」
「はい」
「それで、どうだった?」
「その家に、今は誰かが住んでいました。だから玄関の呼び鈴を鳴らしたんです」
「ほう?」
「知らない女の人が出てきました。向こうも、私を知らないみたいで。謝って帰りました」
「ふーむ」
コウジは腕組みをして考えた。
「ツグミちゃんが夕方になって、フラッと出ていっちゃった理由はよくわかったよ。でも、一つわからないなぁ。結局はそこに行っても、何も収穫は無かったんだろう?どうしてすぐに帰らず、日が落ちてからも駅にいることになったんだろう?」
「わからないんです。ただ、なぜか、そこに居なければいけないんじゃないかと思って……」
「ふむ?」
幸運の予感というものだろうか?とはいえ、そのために危険な目にあったのだから、これは悪い虫の知らせである。コウジは、ツグミが無理に記憶を思い出そうとしているために、心のバランスを崩しているのではないかと思った。
「ツグミちゃん、無理に記憶を思い出そうとする必要はないよ。君さえよかったら、私は君に、ずっとここに居てくれてもいいと思っているんだ。アヤもきっと喜ぶ。私も、君にもっとクリニックの仕事を覚えてもらおうと思っていたところだ」
「ありがとうございます。でも……」
「ツグミちゃんには、きっと、忘れたくなるほどつらい過去があったんだよ。そんなものにこだわらずに、今現在、これからを生きていけばいい。他人は自分の過去についてアレコレ勝手なことばかり思うけれど、自分のこれからの生き方は、自分で好きに決められるんだから」
「自分の生き方……かぁ」
二階の寝室で机に向かいながら、ツグミは『お父さん』の言葉を反芻していた。机の上には一冊のノートが開かれて、デスクライトの光だけが紙面を照らしている。ツグミが糸井家で保護されて以来書き続けたものだ。『お父さん』が言うには、日々の出来事、感じたことをノートに書き出すことで、心を癒す効果があるらしい。
コウジとの話し合いを終えてから入浴し、すぐにベッドに入ったのだが、ツグミはなかなか眠れなかった。今こそ心を安らげる効果がほしいと思う。ツグミは思いつくまま、閃光少女達とのめぐりあいをノートに書いていった。
今夜あった出来事を入念に記し終えたツグミは、その文章の頭に、大きな文字でタイトルを付けておくことにした。ノートを見直す際、見つけやすくするためだ。簡潔なものでいい。
「閃光少女に会った時」
(私も閃光少女になれたりするのかな?ガンタンライズちゃんみたいに、誰かを癒すことができるような)
その時、部屋の奥にあるベッドで物音がした。ツグミはすぐにデスクライトを消す。
「あ、ごめんアヤちゃん。起しちゃった?」
それはアヤが寝ているベッドである。アヤとツグミの二人は同じ部屋で、ベッドを二つならべて寝起きしているのだ。
「アヤちゃん?」
返事のかわりにすすり泣く声が聞こえる。ツグミは、横向きに寝ながら涙で枕を濡らすアヤの顔を、不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたの?」
「今日ね……本当にツグミちゃんが無事で……よかった。ツグミちゃんが、遠くへ行ってしまいそうで……怖かった……」
アヤはやっとそれだけ答えた。「遠くへ行く」とは「死んでしまう」という意味だろうか?ツグミはアヤのベッドに自分の体を入れた。
「どこにも行かないで……」
「私はどこにも行かないよ。いつまでも、私はアヤちゃんと一緒」
「うん……」
ツグミはアヤをそっと抱きしめた。二人の心はすっかり落ち着きを取り戻し、静かな夢の世界へ導かれていった。
(今日もよく晴れそうね)
バス停に立っていた女子高生が手をかざしながら、まぶしく光る太陽を透かして見上げた。登校時間である。バス停には彼女の他に何人もの女子高生達や男子生徒達がいた。それぞれが複数人のグループに分かれ、好きなドラマの俳優や流行しているJPOP、そして昨夜の事件について話している。しかし、彼女だけがただ一人、他の学生達からは遠巻きにされていた。どうしても近寄り難い雰囲気があったからだ。
まず背が高い。身長は170cmもある。高校1年生の女子としては破格の身長だ。端正な顔立ちは、美人というよりもハンサムと形容する方が適切に思える。赤みがかったロングヘアを後頭部で結んでいるが、その位置が高すぎるためか、ポニーテールというより、本人の雰囲気も相まって、生まれる時代と性別を間違えたサムライのようだった。
そして、強い。もともと中学1年生の頃から空手の全国大会に出場し、熾烈な優勝争いを繰り広げていたのは、知る人ぞ知ることである。なぜか中学2年生になったある時期から空手をぱったりやめてしまったが、むしろその強さを示すエピソードには事欠かなかった。たまたま寄ったコンビニで出くわした強盗を、犯人の方が警察へ保護を求めるほどめちゃくちゃに叩きのめした他、3年生の女子グループに校舎裏へ呼び出された時は、四人揃って保健室送りにしている。その中には柔道部の男子生徒も含まれていた。ただ、そんな彼女に不思議な魅力を感じるのか、彼女から言わせると「とちくるった」感覚を持つ一部の女子生徒が、下駄箱にラブレターを入れ、むしろ単純な暴力よりも彼女を困らせたりしたが。
彼女の名前は鷲田アカネ。この4月から、バスで県立の高校に通っていた。
「アカネちゃーん!おはよー!」
アカネが名前を呼ばれて振り向くと、はじけるような笑顔の(あくまでアカネと比べれば)小さな女の子が勢いよく手を振りながら、こちらへ走ってくるのが見える。
彼女の名前は糸井アヤ。アカネと同じ高校、同じ学年、同じクラスの友人だ。入学当初から孤立していたアカネにも、なんら恐れることなく接してきた数少ない女子生徒である。まだ数週間の付き合いだというのに、二人はすっかり親友だった。
「おはよう、アヤちゃん。リボン変えたの?」
アカネはアヤのポニーテールをまとめている薄紫色のリボンを指さす。彼女のチャームポイントだ。
「そうそう。かわいいでしょ?新しいの、初めて使うの!」
「アヤちゃーん!」
アカネとアヤが他愛も無い会話をしていると、誰かがアヤに向かって叫んでいるのが聞こえた。二人が同時に振り向くと、アヤよりもさらに小さな女の子が、ナイロン製の包みを持って走ってくるのが見える。なんとなくデジャブを見るようで吹き出しそうになったアカネだったが、走ってくる少女の容姿を見るほど、顔が変わった。
身長は145cmくらいだろうか?黒々とした艶やかな髪が腰にかかるほど長く伸び、それでいながら癖毛が強く、あちこちで飛び跳ねながら自己主張をしている。そんな気弱そうな少女だ。一生懸命走ってきたのか、息を激しく切らしながら、追いついたアヤにナイロン製の包みを突き出す。
「アヤちゃん、お弁当を忘れてる!」
ツグミである。
「あ!ごめんごめん!」
アヤは申し訳無さそうな顔で頭を掻きながら笑顔で受けとった。そして、自分の横でアカネが妙な顔をしている事に気がつく。
「どうしたの?」
「あ、いや」
アカネに見られていることに気づいたツグミは、軽く会釈した。なんとなく、背が高いアカネが怖いらしい。
「えーっと、アヤさんのお姉さんでしたっけ?」
アカネがそうツグミに話しかけると、アヤが肘でアカネを突っつく。
「ツグミちゃん、だよ。ときどき会ってるじゃん。なんで今朝に限ってジロジロ見るの?」
そういえばそうかもしれない。アヤがお弁当を忘れることは今に始まったことではない。きっとその度に、この『ツグミちゃん』が走って届けていたはずだ。まったく忘れていたアカネは少し気まずさを感じながら、なんとか誤魔化す方法を考える。
「昨日、城南駅にいなかった?」
「え、あなたもあそこにいたんですか?大変でしたね」
ツグミはちょっとビックリしている。意外なところで同じ事件に出くわした仲間がいたものだ。
「え、ええ。アタシは全然、安全な場所にいたものですから、大丈夫でしたケドネ」
おそらく嘘にはなっていないはずだ。同じ危険地帯でも、戦う能力を持っている者の方が断然護身には有利なのだから。
何を思ったのかツグミはアカネの両手を握って、こんな事を、いたってマジメに語り始めた。
「死に囚われてはダメですよ。それが悪魔を呼ぶことになりますから。生き残った人は、死んでいった人達のためにも、心を明るくして、強く生きていかなければならないのです」
「は、はぁ」
こんなやり取りに背を向けていたアヤが道路の彼方を指さして叫ぶ。
「バス来たよー!」
アカネは救われたような気持ちで、着いたばかりのバスにそそくさと乗り込む。アヤはツグミと話していた。
「今日も塾だったよね」
「うん、学校から直接行くー。今日の時間割なら7時には帰れると思う」
そうしてバスに乗り込んだアヤは「あれ?バスがなんか違う」と不思議そうにキョロキョロした。アカネはアヤを自分の隣席へ手招きする。
「連絡聞いてなかったの?城南駅はめちゃくちゃだから、学校から直通のバスが出ているのよ」
学校へ向かうバスの中でも、サッカー部の朝練を横目で見ながら校門に入る時も、アカネが迷惑そうな顔で十何通目かのラブレターを下駄箱から取り出す時も、話題は自然とツグミのことばかりになった。そこでやっとアカネはツグミの身の上がわかってきたが、むしろもっと彼女のことが知りたくなってくる。
「記憶喪失か……アタシにも何かツグミちゃんのために協力できることはあるかしら?」
もう呼び方まで変わっている。
「お父さんが言うには、無理に思い出そうとしない方がいいんだって。なんというか、自分の心を守るために、過去の記憶を無意識に封印しちゃう人もいて、ツグミちゃんもそうなんじゃないかって。そういうのって、本人がその過去を受け入れられる準備ができたら、自然に思い出すとか」
「そっかぁ」
「今度家に遊びに来なよ!アカネちゃんなら、きっとツグミちゃんと仲良くなれるよ!」
「そうね」
アヤから家の住所と簡単な手書きの地図を受けとったアカネはうなずいた。郊外にある。近くまで行けばクリニックの看板が目印になるはずだ。
正午のチャイムが鳴った。教室の生徒達は、思い思いに自分達の机同士をつなげ、昼食の弁当を開いている。
「これ、すごくおいしいわ。ツグミちゃん、いいお嫁さんになるわね」
「お嫁になんか、あげないもん」
アカネとアヤがおかずを交換しながら仲良く弁当をつついていると、突如教室の扉が勢いよく開け放たれた。アカネは思わず「ゲッ」と辟易した表情になる。そこには中背ではあるが、胸も、肩も、首も、おまけに顔もでかい筋肉質な男性が、小麦色にやけた顔に満面の笑みを浮かべて立っていた。
「押忍!!久しぶりだね、アカネ君!」
「寺田先生……こっちの学校に来てたんですか?」
「まさか君と再びこうしてめぐりあえるとはな!やはり運命というものを感じるしかない!」
(相変わらず暑苦しい……)
体育教師の寺田である。アカネ達の高校では空手部の顧問でもある。アカネが中学校時代に空手をしていたのは前述の通りだが、その中学校で出張顧問として空手部を指導していたのがこの寺田だ。アカネの才能に惚れ抜いていた寺田が、2年生になってから急に空手をやめてしまったアカネを、毎日のように口説いていた伝説は、OBの中で知らない者はいない。
「アタシ、もう空手はやりませんよ」
ズカズカとこちらに歩み寄ってくる寺田に、アカネが先制口撃をしかける。
「ちょっと待ってくれ。僕はまだ空手部の勧誘をしていないじゃないか」
「あ、うーん、まぁ、たしかに……」
「今からやる。アカネ君!空手部に入らないか!?」
「あーん、もう!!」
これからまた三年間毎日、寺田による空手部への勧誘が始まるのか?そう考えたら、アカネは頭を抱えるほかない。
「まあ待て、話を聞いてくれ」
寺田がアカネに手を向けて制する。
「まさか僕だって、中学の時みたいな馬鹿の一つ覚えをしようなんて思っちゃいない。そこで僕なりに考えた。なぜアカネ君が空手への情熱を失ってしまったのか?それは……」
「それは?」
寺田がビシッとアカネを指さす。
「ライバルがいないからだ!!」
「な、なんですって!?」
完全に見当ハズレである。だが寺田はかまわず続ける。
「前の中学では君と肩をならべられるような実力の部員は一人もいなかった。そんな中で空手へのモチベーションを維持しろという方が、どだい無理なのだ!しかし、我が城南高校空手部は違う!この層の厚みは、まさに高校空手界のバームクーヘン!」
「バームクーヘンっておいしいよね!」
見当違いな発言をするアヤを横目に、アカネは不機嫌な顔を容赦なく寺田に向ける。
「話が見えてこないのですが?」
「つまり、一度うちの部員と手合わせしてみてほしい。そうすれば、君のくすぶるハートに、再び炎が燃え上がるはずだ!」
アカネにとって迷惑千万極まりない提案だった。しかし、ふと思いついた事を言ってみた。
「……じゃあ、もしアタシが空手部で一番強~い先輩から一本を取れたら、どうします?」
「そうなると、つまり君を満足させられる強者はいないというわけだな!もしそうなら、空手部への勧誘など、夢のまた夢」
「ほ~う?」
「アカネちゃん、なんだか目が怖いよ」
「じゃあ約束してくれますね。アタシが勝ったら、空手部へ勧誘するのは諦める、って」
「わかった!約束しよう」
それだけ言って寺田はやっと教室から出て行く。
「空手部の稽古は放課後の4時からだ!楽しみに待っているぞ。ハーッハッハッハ!」
そんな寺田の高笑いが、廊下にいつまでもこだました。
「アカネちゃん、大丈夫?あの先生すごく自信がありそうだったよ?」
「やるしかないわよ。三年間あいつにつきまとわれるなんてごめんだわ」
「よっぽど空手をやりたくないんだねー。なんで?」
もっともな質問である。アカネは少し考え、窓の外を見ながらつぶやく。
「アタシって、野生の熊みたいでしょ」
「へーえ?」
アカネのよくわからない返答に、アヤもまたよくわからないリアクションを返した。
「なんなのよ……コレ」
高校の武道場は、約束の午後4時をむかえる30分も前には、既に人だかりで入り口が埋め尽くされていた。
「あの先生、声が大きかったもんねー」
既に体操服のジャージに着替えたアカネに、一緒についてきたアヤがささやく。そんなアヤまでなぜかジャージに着替えていた。
尾ひれはひれの付いた最強伝説をもったアカネが、ついに城南高校空手部に殴りこみをかける!そんなビッグマッチを、娯楽に飢えた高校男児達が見逃すはずがなかった。アカネのクラスの一人が二人に話し、二人が四人に話し、四人が無数に話しを広げれば、こうもなろう。中には脚立まで持ち出して、窓の外から覗いている輩さえいる。
「来たぞー!アカネさんだー!」
入り口にいた男子の一人がアカネを見つけ、そう叫んだ。アカネが無言で武道場の入り口に歩いて行くと、モーセが渡った時の紅海のように、男子生徒の波が左右に割れる。
(昨日といい、今日といい、どいつもこいつも野次馬根性が強すぎるわ)
「正面に、礼!!お互いに、礼!!」
空手部の面々は顧問の寺田の号令に合わせて座礼をした後、二人組にわかれて柔軟体操を始めていた。寺田はアカネの姿を認めると、笑顔で彼女を迎え入れた。
「ようこそ空手部へ!よく来てくれたねアカネ君!みんなにも紹介しよう、鷲田アカネ君だ!99年の姫路大会決勝で見せた胴回し回転蹴りは、君たちにもビデオで何回も見せたように……」
「いいから、早く始めませんか?アタシとやるのは一体誰です?男子ですか?」
入り口で男子達がどよめきを上げる。通常女子と男子は、腕力の差がありすぎるため試合をしない。もしも男子が相手なら、とんでもないジャイアントキリングが見られるかもしれないと沸き立つ。
「いいや、女子だ。君が試合をする相手は向こうにいる。アカネ君もよく柔軟をしておきたまえ」
寺田の指さす先で、空手部でも数が少ない女子部員のうち二人が、互いに協力して柔軟体操をしていた。体が小さい方の女子部員がアカネに会釈する。
「手伝おうか?」
アヤがそう聞いたがアカネは首を横に振った。
「いえ、いいわ」
アカネは靴下を脱いで素足になり、板敷きに座って柔軟運動を繰り返す。アカネの胸が床に付きそうになるほど足が曲がる度に感嘆の声が外野からあがったが、アカネの意識はもう対戦相手であろう女子部員に集中していた。お互いに座っているためわかりにくいが、身長は自分と同じく170cm前後ありそうである。しかし、恰幅はまるで違った。胸も、肩も、首も、そして顔も大きかった。そして道着の名札には『寺田』と書かれている。アカネは大いに納得した。彼女なら自分と良い勝負ができると考えて当然だろう。
「先生の娘さんですか?」
練習試合用の防具類を持ってきた顧問の寺田にアカネが尋ねた。
「ああ!僕によく似ているだろう!その上、美人だ!」
「そうですね」
アカネは前半部分だけを素早く肯定した。
「しかし君の相手は私の娘ではない」
えっ?とアカネが驚いていると、寺田娘と一緒に柔軟体操をしていた、体の小さな女子部員がとことこ歩いてきた。
「3年の神埼です。よろしくお願いします」
アカネは、爽やかに挨拶をしてきた神埼と名乗る少女をよく見た。黒帯こそ巻いているが、体の線は細く、身長も150cmに届かないように見えた。彼女の姿は、どこか今朝見たツグミを連想させる。
「やめましょう!体重が違い過ぎます!」
アカネは思わず寺田にそう叫んだ。しかし寺田はアカネを睨んで言った。
「アカネ君。君はもしも組手の相手が私の娘だったら、体重差を理由にして断ったのかね?」
「あっ……」
顧問寺田の言葉は正鵠を得ていた。アカネは改めて神埼に向かい合い、十字を切って頭を下げた。
「たいへん失礼な真似をしました。鷲田です。よろしくお願いします」
拳足のサポーターと面ガードを付けたアカネと神崎が、道場の中心で向かい合った。二人が付けているこれらの防具は、それぞれ、手と足に付ける空手用ボクシンググローブのようなものと、透明なヘルメットを想像すればいい。胴体の防具は、神埼とアカネ双方の希望により付けないことになった。
「なんだよ~これって勝負になるのか~?」
観客となっている男性生徒らが、そんな野次をとばしている。無理もない。アカネと神崎が対峙している様子は、まるで大人と子供の勝負に見える。ビッグマッチを予想して集まった彼らの目に、物足りなく映るのも無理はないだろう。そんな彼らも空手部顧問の寺田が睨むとさすがに黙ったが、しかし当の寺田は口角を歪ませている。
(まぁ、見ているといい。神埼の実力を)
審判となるのは当然、顧問の寺田だ。アカネ達二人に礼をさせると、道場の中央に立って激をとばした。
「始めぃ!!」
号令と共に、アカネは体を斜めに開き、半身に構えた。仮に、いくら空手の実力があるからといって、寺田が何も企まずに、小柄な神埼を自分にぶつけるとは思えなかった。何か裏があるに違いない。もしそうなら、考えられるとしたら反則技だ。面ガードの上から目突きを狙ってくるとは思えなかったので、あり得るとしたら金的蹴り。それをさばけるようにあえて横向きの姿勢に構えたのである。しかし、神埼の動きはアカネの想像を超えたものだった。
「えっ?」
神埼の姿が消えた。と同時に突然眼の前に拳が現れる。激しい衝撃と面ガードを覆うポリカーボネートが軋む音を感じながら、アカネは床の冷たさを背中に味わった。
「一本!」
審判の寺田が高らかに宣言する。野次馬の生徒達がどよめく。
「マジかよ。あの神崎って先輩、アカネさんを簡単に倒しちゃったよ」
「度胸あるよな。始まってすぐ低くなって飛び込んでいって」
「速すぎだろ!時間でも止めているんじゃあないか!?」
もともとこの野次馬達は、アカネが空手部の強豪を打ち倒す姿を期待した集まった連中だ。しかし今や、逆に小柄な神埼がアカネを打ち倒す番狂わせを期待している。顧問の寺田は満足そうだった。
「アカネ君、まだやれるかね?」
「あたり前でしょ!」
アカネは尻もちをついたまま面ガードのズレを直しつつ叫ぶ。すると神埼が近づいてきてアカネに手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「あ、ええ、はい」
神埼はアカネを助け起しながら、小声で「集中して」と励ました。そんな様子に、何人かの生徒は拍手さえ送っている。
「神埼!組手の相手に情けは無用だ!」
「はい!すみません!押忍!」
寺田に叱られながら神埼は再び開始位置に立つ。アカネは考えを改めた。
(戦略とか、策略じゃない。あの神崎先輩は、本当に強いから、寺田がアタシの相手に選んだんだ)
そうであれば、中途半端なやり方をしては不覚を取るのは必至だ。
「始めぃ!!」
再び神埼は低い姿勢をたもってアカネの懐へ飛び込んでいった。アカネは膝蹴りで迎撃する。
(硬い!)
よく腹筋が鍛えられている。こういうタイプはえてして打たれ弱いものだが、神埼はひるまずアカネのボディを拳で突く。至近距離での拳による応酬になったが、アカネのようにリーチが長いタイプは、神埼と比べればインファイトには不向きだった。
(それなら……!)
アカネはバックステップで距離をとることに決めた。が、その瞬間に天地がひっくり返った。
(えっ!?)
気づけばアカネはまたしても床に叩きつけられていた。投げられた!そう気づいたのは一瞬遅れてからだ。見上げると、神崎がアカネの片腕の関節を極めてこちらを見下ろしている。
「せあっ!」
神埼がアカネの面ガードに、寸止めの突きを決めた。観衆は歓声を上げて神埼をたたえる。やられた!アカネは、空手の試合なのだから相手が投げや関節技を使ってくるわけがないと思いこんでいた。戦士として、そういった士道不覚悟は、まったく恥じ入るしかない。これで二本をとられてしまったかと思いきや、意外にも審判の寺田は神埼を叱った。
「神埼君!我が会では、そういった技は認められていない!」
「はい!つい、その、すみませんでした!」
いいえ、私の不徳です。とはアカネは言えない。三年間の平穏な学校生活がかかっているのだ。それにしても、と思う。神埼の戦い方は、アカネが知っている空手のそれとはかなり異なる事に今さら気づいた。投げや関節技などは、空手の片手間に習得できるほど甘い技術ではない。突き方も空手の正拳突きとは違い、手の甲を横に向けた縦拳突きだった。低い姿勢で飛び込むダッシュも、そのままアカネの足をすくえばタックルに早変わりするだろう。伝統的な武道のようであり、それでいながら最近流行りの総合格闘技のようでもあった。
「始めぃ!!」
「神埼せんぱーい!がんばれー!」
「いける!倒せるよー!」
三本目の手合わせが始まった時には、観客達はほぼ全員神埼の味方になっていた。本当なら、アカネは神埼から一本だけしかとられていない。だが、観客も、そしてアカネ自身も、神埼から二度不覚をとり、もう後が無いような気分になっていた。
アカネの戦い方が変わった。開始早々にバックステップで距離をとり、長い手足で神埼を寄せ付けないスタイルをとったのだ。この作戦は、試合に勝つという意味では大成功だった。アカネの長い手足が突き刺さるたびに、神埼は確実に弱っていった。時々は神埼の回し蹴りもアカネに当たるが、アカネにはダメージがまるで入っていない。観客のテンションがどんどん下がっていく。彼らはライオンがウサギを痛めつける光景を見たくて集まったわけではない。そして何より、苦しそうにあえぎながらも諦めないで闘争を続ける神埼を見て、アカネ自身が悲しくなってきた。
特に打撃系格闘技においては、小兵がそのハンデをくつがえすのは難しい。神埼の鋭い技のキレといい、鍛え上げられた腹筋といい、肉体のハンデを補うために何年も人一倍激しく自分を鍛え続けてきたのは手に取るようにわかることだ。もしも中学1年までのアカネであれば、そんな相手を打ち倒せるのは喜び以外の何物でもなかっただろう。しかし、今は違う。ここにいる誰一人知らないことだが、鷲田アカネは閃光少女グレンバーンなのだ。
無論、試合中に魔法を使っているつもりはまったく無い。それでも、肉体は魔法に耐えられる器として強化されているし、無意識に能力を使っていないとも限らない。閃光少女としての度重なる戦闘経験は、身長や体重の差よりも、致命的な才能の差を生み出しているに違いない。
(フェアではない)
アカネの足刀蹴りを受けて、神埼の体がくの字に曲がる。もう何度目かの光景。
「TKOだろ、TKO!誰かタオルを投げろよ!」
そんな野次も飛んでくるが、アカネも神埼に諦めてほしかった。しかしその時、神埼の目に光が宿る。
(ダメよ……)
アカネは首を横に振る。この試合で4度目となる高速ダッシュで神埼はインファイトに持ち込もうとした。しかし、スタミナの大半を失っていた彼女のソレは、姿勢が今までよりずっと高くなってしまっている。
(ダメなのに……!)
渾身の突きを放つ。しかし、神埼の目に映っていたアカネの上半身が消えた瞬間、前方に宙返りするアカネの踵が神埼の頭上に落ちる。カウンターで決まったアカネの胴回し回転蹴りが神埼の面ガードに深々と突き刺さり、彼女の頭ごと床に叩きつけた。
「一本!」
寺田は高らかにそう宣言したが、動かなくなった神埼がさすがに心配になって彼女の様態を確認した。
「失神しているな。おい、面ガード外せ」
寺田娘が神埼の面ガードを外して戦慄している。
「わ、割れてる……!」
厚いポリカーボネート板を破壊するのはただ事ではない。
「一年!長机を持って来い!神埼を乗せて保健室に運ぶんだ。氷も持って来い!」
そう指示を飛ばしてから寺田は、面ガードを外している最中のアカネに歩みよる。
「いやぁ、近年稀に見る良い試合だった!残念ながら君を満足させることはできなかったようだな!君の勧誘は約束通り諦めよう。しかし、どうかな?この試合を通して、君のくすぶるハートに再び炎が燃え上がったのならば、我々空手部はいつだって君を……」
「いいえ」
アカネは冷たくそう言い放ちながら面ガードを寺田に押し付け。脱いでいた靴下を拾って武道場の出口へ向かった。そこにかたまっていた観衆達は、むしろ逃げるようにアカネが通るスペースをつくる。
「アカネちゃん!」
心配そうな顔をしたアヤがアカネを追いかける。アカネは振り返りもせず靴を履いているところだ。
「ごめん、アヤちゃん。今日はアタシ、一人で帰るわ。一人にさせてほしいの……」
「アヤちゃん……」
アカネはただまっすぐ前だけを見つめて武道館を後にした。
(もう、アタシは人間ではない)
夕焼け色に染まる彼女の背中に集められた視線は、ただひたすらに冷たく感じられた。
アカネ達の通う高校の裏手には延々と竹林が続いていた。そこまでなら時々ではあるが、人間が竹を採取したり、タケノコを掘りにくることもある。だが、さらにその奥に入るには険しい山道をひたすら登り続けることになる。特に見どころというポイントもなく、標高もたいしたことは無いその山の頂上を、わざわざ目指すようなもの好きな登山家や観光客はいない。だからこそアカネにとっては、隠れてトレーニングに励める格好の隠れ家であった。
森の中。一定のリズムで鈍い音が繰り返される。まるで丸太同士をぶつけるような音は、人間の発する気合と同時に山に震わせた。
「おらあっ!」
ひときわ大きな木の幹に向かって、アカネはひたすら回し蹴りを打ち込んでいた。もう1時間もそうしていただろうか。閃光少女のアカネといえども、息を乱し、着ているジャージの色を、流れる汗で変えてしまっていた。
アカネの動きが止まった。疲れてやめたというわけではない。打ち込んでいた大木を前にしながら、構えを崩さず静止している。するとすぐさま、背後の茂みに向かって叫んだ。
「誰よ?そこにいるのは!」
するとその言葉を待っていたように、何かがするどく回転しながらアカネの顔に向かって勢いよく飛んでいった。アカネがそれをキャッチする。缶ジュースだった。
「あっはっは~、さすがはアッコちゃんだね~」
茂みの中から、ショートヘアの、中性的な少女が姿を見せた。中性的な、というならアカネもそうであるが、アカネが美男子というタイプなら、彼女は美少年という雰囲気だ。スキニージーンズにフード付きのパーカーという格好が、よけいそういった印象を引き立たてている。少女はいたずらっぽい笑みを浮かべながら近づく。
「次にアッコちゃんは『どうして私は自分を鍛えているのかしら?』と言う!」
「言わないわよ」
アカネは缶ジュースを開け、中のスポーツドリンクを胃に流し込んだ。軽く口元を拭いて、うつむく。
「でも、たしかにそう思うわ。アンタには事情が全部筒抜けってわけね、オトハ」
オトハ。和泉オトハは、アカネと一緒に大木の根本に腰を降ろし、持ってきていたもう1本の缶ジュースを開けた。
「アンタもさっきの組手、見てたんでしょ?」
「いやぁ、直接は見てないけど。でも、うちの学校の男子も騒いでたからね~。だいたいの事情はわかるよ」
オトハとアカネは同じ高校ではない。アカネは県立の普通高校だが、オトハは国立の工業高等専門学校に通っている。しかし、二人は同じ中学校の出身だ。親友である。といってもアカネとアヤの関係がまっとうな友情だとすれば、オトハとのソレは腐れ縁といった感じだ。アカネの事を「アッコちゃん」と気安く呼ぶのも彼女しかいない。
オトハは閃光少女アケボノオーシャンである。アカネにとっては、何度も共に修羅場を駆けてきた戦友だ。閃光少女同士は連携する時でもお互いの正体は普通隠しているのだが、変身前の正体をお互いに知っている戦友の中で、今も生き残っているのはオトハだけである。もっとも、オトハにとってもそうであるかはわからないが。
「空手部の先輩の足をひん曲げ、アバラを折り、頭を陥没させたんでしょ?いや~バイオレンスだね~」
「そこまでしてないわよ!」
とつっこみつつもアカネは気を落としている。
「でも、一生懸命空手に打ち込んできた神埼先輩に、余計な劣等感を植え付けてしまったかもしれない。フェアな戦いではなかった。でも、アタシはそれを教えることはできないの。もしも神埼先輩が空手をやめたり、後遺症が残ったりしたら、アタシは自分が許せないと思う」
「後遺症はともかく、空手をやめるのは個人の勝手だと思うけどな~」
アカネは答えなかった。オトハも別に返事をうながすわけでもなく、二人そろって緑を見つめている。そうやって間をあけてからオトハは独り言のように話し始めた。
「閃光少女って何なのだろうね~。お金をもらえるわけでもない。偉くなれるわけでもない。アイドルみたいに人気になっても、正体を隠し通さなきゃならない。命がけで戦っていても、法律上は人権すらない」
アカネは何も言わない。
「こんなんだったらさぁ、魔女として生きても良かったかもしれないね~。悪魔との契約で得た力を使って、好き放題に生きていくのさ。うまくやればお金だって稼ぎ放題。裏社会のフィクサーにだってなれるかもしれない。もしも邪魔をする者がいたら……」
「ダメよ、そんなの!」
アカネは思わずオトハに向かって叫んだ。オトハはその前からアカネの顔を見つめていたことに、やっとここで気づく。
「アッコちゃんの、そういうところ、好きだよ」
オトハが微笑しながらそう言うので、アカネは赤面して顔をそむけた。オトハは再び、からかうような笑顔になる。
「もう少し自分に自信をもってもいいんじゃないかな~?アッコちゃんがこうして今でも鍛え続けていたおかげで、昨日の悪魔を討伐することができた。もしも私やガンタンライズだけだったら、被害はもっとひどかったはずだよ。それに、敵は悪魔だけとは限らない。もしかしたら、新しい敵が現れるかもしれない」
「新しい敵?一体何よ、それ?」
身をのり出すようにして尋ねるアカネに、オトハは苦笑する。
「言葉の綾。例えばの話だよ~」
アカネはまたうつむいた。
「あんな悪魔、派手なだけで、ぜんぜん弱かったわ。鍛えるほどでもなかったくらい……」
「そう、そこが問題なのさ」
「え?」
再びオトハの顔を見る。オトハの顔から笑いが消え、真剣そのものの顔でアカネを見つめ返している。
「まさか私が、アッコちゃんを励ましたり、からかったりするためだけにここに来たと思った?」
オトハは、たまにこうやってゾッとするような喋り方をする。しかし、こういう喋り方をする時は、いつだって悪い予兆を捕まえた時だ。そしてその予兆は、外れたことがない。
アカネは残っていた缶ジュースの残りを飲み干した。
「話を聞かせてくれるかしら?」
オトハはA4サイズで印刷された紙を二枚取り出した。まずは一枚目を二人が見られる位置に置く。そこには県内の地図が描かれていた。そして、そこに四箇所だけ赤い印が付けられている。城北、城東、城西、そして城南。
「これは今年の3月から4月にかけて、県内で発生した悪魔による襲撃事件の場所だよ」
オトハはさらに4枚の写真を取り出す。1枚の写真には見覚えがあった。城南駅で戦った大蜘蛛の悪魔である。他の3枚の写真にも悪魔が写っていた。それぞれを襲撃場所の赤い印に置く。
「あれ?これって……」
「気づいた?この悪魔達、色や外見なんかは少しずつ異なるけれど、どれも同じタイプだ。テレビは悪魔の映像を流さないからね~。調べるまで気づかなかったよ」
続けて、もう一枚の紙をその上に重ねた。その紙にも青い印が、なにやら複数箇所に描かれている。しかも、それは赤い印、つまり悪魔襲撃現場の近辺に分布していた。
「これは悪魔による襲撃事件が発生した後に、行方不明になった人達の住所だ。そしてその件数は……」
アカネが持っている、城南駅で戦った大蜘蛛の写真を指さす。
「悪魔を討伐するために現れた閃光少女の数と一致するのさ」
オトハが何を言いたいのか察して、アカネは戦慄した。つまり、誰かが閃光少女をおびき出すためだけに悪魔をわざと襲撃させて、そして見つけた閃光少女達を、少なくとも拉致しているということか。しかしオトハはもっとおぞましい事を想像している。
「城北、城東、城西、そして城南。誰かを探しているのか、あるいはしらみつぶしに殺していきたかったのか。今のところ目的は不明だね。だけど、こうして再び城南で悪魔が現れた以上、その目的は未だ果たされていないと見るのが妥当でしょ」
アカネはふと気になったことを尋ねた。
「これだけの内容をたった一人で調べたの?」
「あはは、オトハちゃんは天才ハッカーですから~」
しかしアカネに冗談は通じないだろうなと思い、オトハは正直に話した。
「実は3件目、つまり城西の事件が起こってから、気になって探偵に調べてもらったんだ。行方不明者が全員若い女性だったから、関連を疑うのに時間はかからなかったね」
「閃光少女の事を調べられる探偵がいるの!?」
「ああ、なにしろ彼女自身が魔法少女だから」
その探偵の素性も気になるが、今は話を前に進めた方が良さそうだ。
「それで、その探偵に事前に依頼しておいたんだよ。いずれ城南でも同じように悪魔の襲撃が起こり、閃光少女が現場に駆けつけたとして。もしも閃光少女を尾行する何者かがいたら、その何者かを追跡して正体を探ってほしい、って」
アカネは息を呑む。
「まさかアンタがそこまで考えてたなんてね。アタシも『アンタのそういうところ好きよ』って言うべきかしら?」
「私はもっと好き~」
「なっ!?」
再び赤面する。
「しかし、今のところ探偵さんからの連絡は来てない。調査中なのか、尾行に失敗したのか、あるいは消されてしまったのか……いずれにしても」
オトハは広げていた紙を握りしめながら言った。
「こんな事が自然に起こる確率は1%未満。統計的に考えたなら、偶然なんてありえない」
アカネとオトハは下山することにした。アパートで一人暮らしのアカネはともかく、寮に住んでいるオトハには一応門限がある。どうとでもなるらしいが、なるべく、どーのこーのはしたくないらしい。
「この事、ガンタンライズは知ってるの?」
斜面を器用に滑り降りながらアカネがオトハに聞いた。ところで、実は二人ともガンタンライズの正体を知らない。オトハだけがガンタンライズの連絡先を知っているが、あくまで閃光少女としての付き合いで連絡先を交換しているに過ぎない。思わぬ正体の露見を防ぐために、閃光少女の連絡先は、たとえ味方であっても、本人の許可なく他者へ教えないのが、この道の淑女協定だった。
「いや。探偵からの連絡を待って、ハッキリしたら、私から連絡するよ。ガンタンライズがどちら側の人間なのか、まだわからない。なるべく危険は避けたい」
ライズちゃんが敵なわけないじゃない。とアカネは言いたかったが、その言葉を飲み込んだ。態度や見た目はアテにはならない。変幻自在な悪魔達との戦いで、嫌というほど学んだことである。
「ねぇ、本当に今回の事件、黒幕の心当たりはないのかしら?」
「一つだけある」
オトハが小川を飛び越しながら答えた。
「『暗闇姉妹』って知ってる?」
「噂だけは聞いたことがあるわ。ナマハゲみたいなものでしょ?」
オトハは吹き出す。
「せめてブギーマンって言ってほしいな~」
ナマハゲ、ブギーマン。あるいは、黒いサンタクロース。なんでもいいのだが、世界には悪い子供を懲らしめる悪霊の神話がいくつも残っている。暗闇姉妹とは、魔法少女達にとってのブギーマンだ。
「魔法少女ばかりを狙って殺していく魔女でしょ、その暗闇姉妹って」
法外な存在である魔法少女には、その能力で悪事に手を染める誘惑が常につきまとう。そういう自分達を戒めるために、悪い魔法少女を処刑していく、想像上の魔女が『暗闇姉妹』なのだ。あくまで想像上の存在だったので当初こそ様々な姿形が存在したが、今では漆黒のドレス姿で、彼女が裁く罪も、無辜の人間を殺したら、彼らにかわって恨みを晴らしにくる、という設定に、概ねなっている。
「だいたい想像上の存在でしょ?それって」
竹林が見えてきた。山を出るのはまもなくだろう。
「いや~そうでもないんだな、それが」
オトハが言うには、最終戦争が終わった直後、実際に次々と魔法少女が殺されたらしい。しかし、その犯人はわからない。単独犯なのか、複数犯なのか。そもそも、どうやって殺したのかさえわからなかった。殺された魔法少女には、薬物の反応はおろか、外傷さえ一つも無かったからだ。公式な記録では全員心臓発作による死亡となっているが、魔法少女の事情を知らない者でも、若い女性ばかりが立て続けに死ねば不思議に思わずにはいられない。魔法少女達からすれば、なおさらだ。もしもそんな存在がいるとしたら、その犯人自身も魔法少女であるに違いない。想像上の存在でしかなかった暗闇姉妹が、にわかに現実味を帯びた瞬間である。
「じゃあ、殺された閃光少女達が、無辜の人間を殺してたっていうの?」
「いや~まさか。過去に遡って、一人もいないってことはないかもしれないけれど、まさか全員ってことはないでしょ。私はあくまで、魔法少女が次々と殺された事件については、これしか類似を知らないってだけだよ」
二人はやがて民家に隣接する道へ出た。
「何かわかったら連絡するね~。だけど、何度も言うけど探偵が消される可能性もある。とにかく用心に越したことはないよ」
「わかったわ。オトハも気をつけて」
オトハは道路脇に停めていた原付きスクーターにまたがって去っていった。
(そういえば、アヤちゃんはどうしたかしら?)
アヤが通っている塾がこの近くだったことを思い出す。先ほどそっけない態度をとった事を謝っておこうと思い。アカネはその方角へ歩いていった。
「クシュン!」
村雨ツグミは外灯の光に照らされながら、鼻水をすすった。少しでも体を温めようと、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。季節は春であるが、4月の夕刻は意外と冷え込んだ。ツグミは、変に頑なになったりせず、『お父さん』の言う通り、マフラーをつけてくれば良かったと後悔した。ツグミがいるのは小さなビルの前である。そのビルの二階部分が学習塾になっており、糸井アヤは一週間に数回、その塾へ通っているのだ。べつにツグミがアヤを迎えに行く習慣はないのだが、今夜はたまたま夕食の支度が早く済んだため、手持ち無沙汰でもあったし、アヤが驚く顔を見たいと企んで、待っていたのである。手元の腕時計を見ると、時刻は午後6時44分。50分には授業が終わるはずだ。
「ツグミちゃん?」
ふと、どこかで聞いたことあるような声が聞こえた。というより、今朝会ったばかりだ。
「鷲田アカネさん……?」
見ると、ジャージを来た長身の少女がこっちに駆けてきた。
「アカネ、でいいわよ。ツグミちゃんもアヤちゃんを待ってるの?」
「はい。その『アカネちゃん』さんは、どうして?」
ツグミは緊張して変な敬語になってしまっている。
「たまたま近くまで寄っただけよ。いつもアヤちゃんを迎えに来ているの?」
「いいえ、私も今晩はたまたま……」
「うふふ、じゃあアタシ達を見たら、きっとアヤちゃんはビックリするわね」
ツグミも一緒になって笑い、アカネに対する緊張がほぐれたようだ。この人は、見た目はちょっと怖いけれど、すごく良い人だと思う。
午後6時50分、ビルの二階に見えていた人影が、一斉に机から立ち上がったのが見えた。ビル脇の階段から、次々とアヤと同学年の学生らが降りてくる。ツグミとアカネは、アヤがいつ現れるかと待っていた。しかし、一向にアヤが降りてこない。ツグミとアカネは顔を見合わせる。すぐに二人は階段を登り、塾の中を見た。プリントを片付けていた講師がツグミの顔に気づき話しかけてくる。
「ああ、糸井さん家の……」
ツグミが会釈を返す。
「困るなぁアヤちゃんには、今日はどうして塾に来なかったんですか?せめて事前に連絡をいただけましたら助かるのですが」
「えっ?」
「えっ?」
「?」
ツグミとアカネは塾から出た。
「おかしいわね。さぼって家に帰ったのかしら?」
「私は家からここに来たんだよ!?」
アカネは公衆電話に目を留めた。
「小銭ある?」
「100円でいい?」
「借りるわよ」
アカネは電話ボックス内にある分厚い電話帳を開き、『ジ』から始まるページを手繰る。
城南高校の職員室に置かれた電話が鳴る。たまたま全校生徒の体力測定結果をまとめていた寺田が受話器を持ち上げたが、まさに彼こそアカネが話したかった相手だ。
「はい、城南高校です」
「1年の鷲田アカネです。寺田先生はいらっしゃいますか?」
「アカネ君か?僕だが」
「ああ、寺田先生。同じ1年の糸井アヤさんは学校から帰っていますか?」
「アヤ君、それなら君と一緒に帰ったと思っていたが」
残念ながら違う。寺田はよく見ていなかったらしい。
「あ、そうだ。アヤ君が携帯を忘れていったぞ。更衣室に置き忘れたんだろう。明日職員室へ取りに来るよう伝えてくれ」
「今からそちらへ行きます」
「ええっ!?」
アカネは即答した。アヤがどこをほっつき歩いているか知らないが、自分が携帯を持っていないことに気づけば、学校へ取りに戻るかもしれない。
「今からって、学校へ行くバスは無いぞ」
あ、しまった!とアカネは思った。城南駅を経由して高校前へと向かうバスは現在運休している。もちろん、学校間を直通するバスはもう走っていない。
「走って行きます」
「走るって、こんな時間に……」
「ああ、いえ、その……くすぶっていたハートに炎が燃え上がったような……そうじゃないような……」
「ほう?ロードワークというわけだな。なるほど空手部への復帰を決意してくれたとは、先生も嬉しいぞ!気をつけて(ブツッ)」
とにかく今は勘違いさせておくことにした。アカネは受話器を下ろす。
「ツグミちゃんは、ひとまず家に帰ればいいわ。もしかしたら、アヤったらそのまま家に帰ってくるかもしれないから……ツグミちゃん?」
ツグミの様子がおかしかった。しきりとなにやら耳を抑えている。
「あ、ごめんなさいアカネちゃん。なんだか耳鳴りがして……」
不思議に思って電話ボックスから出たアカネも、同様に耳鳴りに気づいた。
「とにかく、アタシは学校へ行ってくるわ。ツグミちゃんも気をつけて帰ってね」
「どうしてそこまでしてくれるの?」
「えっ?」
ツグミは不思議そうにこっちを見ている。アカネにすれば、そんな質問をしてくるツグミの方が不思議だった。
「どうしてって、友達だからよ。『行ってきます』って朝家を出ていった友達が、夕方になっても『ただいま』って家に帰ってこない。そんなのって、なんだか悲しいでしょ」
ツグミはしばらく考えていたが、やがてうなずいた。そんなツグミに背を向けてアカネは走りだす。
(あれ?耳鳴りがやんだ……なんだったのかしら?)
ツグミは、少し遠回りにはなるが、なるべく明るい道を選んで家を目指した。しかし、どんどん耳鳴りがひどくなる。
(うううう、なんなの……これ……?昨日の夜と、同じ……)
その頃、いまやすっかり陽が落ちた道を、月明かりを頼りに糸井家へと向かう一人の人影があった。顔は暗くて見えないが、そのシルエットは若い女性のようである。女性はゆっくりと糸井家の門扉を開き、玄関のチャイムを鳴らした。
糸井コウジはリビングに置いてある固定電話の子機を降ろした。
「まったく!アヤのやつはいったい何をやっているんだ?」
先ほどまで電話で話していたのは、アヤが通っている塾の講師である。授業が始まっても、アヤは塾に現れなかったというのだ。そんな事も知らず、アヤを迎えに行ったツグミが不憫に思えてならなかった。アヤがどこをほっつき歩いているか知らないが、少なくともツグミはそのうち帰ってくるはずだ。思った通り、すぐに玄関のチャイムが鳴る。
「ツグミちゃんかい?」
コウジは玄関の扉を開けたが、そこに立っていたのはツグミではなかった。
「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありません、先生」
「ああ、池田さん」
そこにいたのは看護師の池田であった。
「どうしたんです、いったい?」
「実は財布を落としてしまいまして、心当たりは全て探してみたのですが、見つからず……後残るはこちらだと思うのですが……」
「ああ、そりゃあ大変だ。すぐに鍵を開けるよ」
コウジはクリニックの鍵を持ち、玄関脇にある階段を看護師の池田と一緒に登った。二階のクリニック側玄関に入ってすぐ横に靴箱があり、二人はそこでスリッパに履き替える。もしも財布を忘れるとしたら、受付窓口か待機室、あるいはワープロが置かれた診療室だ。
「手分けをして探そう」
コウジは診療室に入っていった。池田はまず受付窓口の周りを確認してみることにする。財布は無い。
「キャッ!」
池田は小さく悲鳴を上げた。顔を上げたら、そこに帽子とサングラスで顔を隠した金髪の女性が、音も無く立っていたからだ。よく見ると土足で上がりこんでいる。
「あの、すみません。クリニックの診察時間は16時までなのですが……」
女性の反応は無い。
「あー、すみません。もしかして外国の方ですか。は、ハロー。キャンユースピークジャパニーズ?」
おもむろに金髪の女が腕を池田に向けると、そこから細い糸が飛び出し、恐怖の顔を浮かべた池田の首に巻きついた。
「あった!あったよ!池田さん!やっぱりワープロの隣に落ちてたよ!」
診療室の方からそんな声が聞こえてくると、帽子とサングラスを外した金髪の女は、顔についた8つの目を、ゆっくりとそちらへ向けた。
「こんばんはー!」
アカネが職員室に飛び込むと、寺田は額にシワを寄せた顔を向けてきた。
「アカネ君、困ったよ。さっきからずっと同じところから着信が続いているんだ。うるさくて仕事にならないよ」
アカネは振動を続けるアヤの携帯電話の液晶画面に『アケちゃん』という文字が浮かんでいるのを見逃さなかった。すぐに着信ボタンを押して携帯を耳に当てる。
「ガンタンライズ!ライズ!何も理由を聞かずに、今すぐ家から逃げて安全な場所へ隠れて!」
「オトハ!」
「あ、えっ?アッコちゃん!?」
オトハがガンタンライズへ連絡をとる。考えられる理由は一つしかなかった。
「オトハ!ガンタンライズの正体は糸井アヤよ!」
「えーっ!?なんでそんなこと言うの!?」
魔法少女の淑女協定は重々承知しているが、今はそれどころではない。
「糸井クリニックよ!住所はアンタならパソコンで調べられるでしょ!すぐに行って!アタシもこれから行く!」
携帯を切り、寺田に叫んだ。
「先生、車を出して!アタシを送っていって!」
「え、今から?先生には仕事が……」
「生徒の安全が最優先でしょ!!アタシが空手をできなくなってもいいの!?」
寺田を半ば引きずるように駐車場へ行き、彼の車に乗って道を指示した。
「えーっと?君のアパートってこっちの方角だったっけ?」
「近くまで送ってくれるだけでいいんです」
幸いにも車は渋滞に巻き込まれることなく、郊外の糸井クリニックまで順調に近づく。しかし、クリニックの前で寺田を停めるわけにはいかない。自分の正体がバレるどころか、足手まといになりかねない。
「すみません先生、そこに入ってもらえますか?」
「いいけど?」
寺田はアカネが指示した通り、人気の無い暗い駐車場へと車を停めた。
「ありがとうございました先生、恩に着ます!」
「ああ、気をつけて帰りなさい」
寺田はアカネが降りたのを確認して車を再び発進させようとしたが、なぜかアカネが車の外から運転席側の窓をノックしてくる。怪訝に思いながら寺田は窓を下ろした。
「どうしたアカネ君?」
「本当にありがとうございました。先生に助けてもらったこと、絶対に忘れません」
アカネはそう言うと、寺田の襟を掴み、彼の頭を車の窓枠へ叩きつけた。
「ウゲッ!?うーん……」
寺田は口から泡を吹いて気絶する。
「ああ、こりゃ退学になるかしらねぇ……」
そうぶつくさ言いながらアカネは夜の道を駆けていった。
ツグミは家に帰ると玄関のチャイムを鳴らした。返事は無い。
「ただいまー」
扉を開いて玄関へ入るツグミ。返事は無い。
リビングへと入ってみる。誰もいない。
キッチンを覗くと、夕食用に作ったビーフシチューが、ガスコンロの上に置かれたままだった。
「『お父さん』、帰ったよ」
どこへ呼びかけてみても返事は無い。
(どうしたんだろう?)
ツグミは家の外に出てみた。見上げると、二階のクリニックの方に明かりがついている。
(また池田さんが忘れ物でもしたのかな?)
玄関脇の階段を登ってクリニックの玄関から入ると、やはり看護師の池田さんがいた。しかし、奇妙だ。受付窓口に立ち尽くしている彼女は、恐怖を顔に貼り付けて硬直している。
「こんばんは池田さん、今日は何を……」
そう喋りながら玄関の扉を閉めた瞬間、池田の首が体から落ちた。
「ひいいいいい!?」
池田の胴体もまた糸が切れたようにその場に崩れると、ツグミもまた驚いて尻もちをつき、悲鳴をあげた。
「ど、どうして!?なんで!?」
すると、再びツグミの耳鳴りがひどくなる。視線を診療室へ向けると、扉が少し開いていた。そこから見える診療室の床に赤黒い液体が撒き散らされている。ツグミの嗅覚が告げる。どう観ても血だ。勇気を絞り出してよろよろと立ち上がったツグミは、手を壁に当てて体を支えながら、恐る恐る診療室のドアへ近づき、中へ入った。
「ああああああああああ!!」
絶叫するツグミの目に入ったものは、バラバラに切断された糸井コウジの遺体だった。診療室の壁一面に蜘蛛の巣が張られ、今もまだ血がしたたり落ちるコウジの肉を、まるで磔のような形で保持している。
「アヤちゃん、アヤちゃん、お父さんが、どうして、どうしよう!?」
いまやツグミの耳鳴りは最高潮へと達していた。ツグミはまだ気づいていない。診療室の天井に、金髪の女がまるで蜘蛛のように貼り付いていることに。全身が黒いラバースーツに覆われ、顔には人間の目の位置に2つ、額に6つ、合計8つの目がついている。女は身を起こすと、鋭利な外骨格に覆われたその両手を、下で慄いているツグミの首へと近づけた。
ツグミの耳鳴りが止まった。辺りが一切の静寂に包まれる。ツグミの目前を、金髪の長い髪の毛が一本、ふわふわと落ちていく。
蜘蛛女が天井からツグミの首へ伸ばしていた両手が、今まさに届こうとする瞬間、ツグミがその場で伏せたため宙を切った。
(なに!?)
ツグミはそのまま転がるようにして逃れ、天井を見上げて驚愕する。顔に8つの目を持つ蜘蛛女が、天井に足を貼り付け、逆さまになったままツグミを品定めしていたからだ。
「だ、誰ぇ!?あなた、何なの!?」
「勘のいい奴」
蜘蛛女が天井から降りてツグミと相対する。
「これはあなたの仕業なのね……!」
無惨に殺された看護師と糸井コウジのことである。
「お前もこれからそうしてやるんだよ!」
蜘蛛女は鋭い外骨格におおわれたその手を、ツグミへ突き刺すように伸ばす。ツグミはとっさに机に置かれていたワープロを持ち上げて盾にした。
「ひっ!?」
分厚いワープロを蜘蛛女の指が貫き、ツグミの顔の寸前で止まる。ツグミは慌ててワープロから手を離すが、すかさず蜘蛛女の回し蹴りが飛んでくる。これもなんとかしゃがんで避けるツグミであったが、蜘蛛女の足は壁ごと窓をえぐり、割れたガラスと石膏の破片を頭から浴びる。恐るべき殺傷力の蹴りであったが、ワープロが手についたままになっていたため、蜘蛛女はバランスを崩した。
「わあーっ!!」
勢いで流れてツグミに背を向ける格好になった蜘蛛女を、ツグミは力いっぱい後ろから押した。蜘蛛女はつんのめるように、書類が入ったキャビネットへ手をつく。蜘蛛女の背後でバタバタと足音が走る。
「逃がすか!」
そう叫びながら振り向いた蜘蛛女であったが、ツグミは逃げていなかった。蜘蛛女の視界に再び現れたツグミは、木製のコート掛けを、すでに袈裟懸けに振りかぶっている。
「んっっ!!」
ツグミが渾身の力で蜘蛛女の頭に叩きつけたコート掛けが、土台の部分から粉々に砕けた。テンプルに重い一撃をくらったヘビー級ボクサーのように、蜘蛛女の膝から力が抜ける。ツグミは続けて、患者用のパイプ椅子を拾い、もう一度振りかぶる。
「舐めるな!小娘が!」
次の一撃は蜘蛛女が片手で受け止めた。そのままツグミの胴体に蹴りを入れると、彼女の体がまるでサッカーボールのように吹き飛ばされる。診療室の外まで吹き飛ばされたツグミは、蹴られたお腹を抑えながら慌てて診療室の扉を閉めた。
「無意味なことを」
蜘蛛女はまるでカーテンでもめくるように、診療室の扉を破壊した。ハッキリ言って、外側から鍵をかけて閉じ込められるような構造ではないため、ドアノブを捻れば内側から普通に開く。律儀に扉を閉めるツグミの行為も無駄だったし、わざわざ見せつけるように扉を破壊する蜘蛛女の行為も無駄だった。だが、蜘蛛女は、この生意気なほど意外な抵抗をしてみせた小娘を、なるべく怖がらせて嬲ってやろうと思った。しかし、この生意気な小娘は、もっと意外なほどすばしっこかった。今度はクリニック入り口の扉が閉まり、自宅側の玄関まで続いている階段を、段飛ばしで勢いよく降りていく音が聞こえる。まもなく、門扉を勢いよく開く音が響く。
「逃げられるとでも思っているのか?」
蜘蛛女は助走をつけると、まるで水泳選手が飛び込みをする時のような姿勢となり、そのまま入り口扉を体ごと突き破り、宙返りをしながら糸井家に面する道路に着地した。頭上から散乱してくる破片を意に介さず、蜘蛛女は道路を見回す。ツグミの姿が見えない。蜘蛛女が開け放された門扉に走って近づくと、そこにツグミの靴が片方だけ残されていた。おもむろに蜘蛛女が拾い上げる。
(逃げる時に脱げたのか……?)
突き破ったクリニックの入り口、開け放たれた門扉、そして片方だけ残された靴、さらに闇の中へどこまでも続く道路。それらを順に見つめていた蜘蛛女が、突如家に向かって振り返った。
「貴様、家の中に居るな!」
「!!」
玄関扉の裏に隠れて両手で口を押さえていたツグミが、恐怖に息を呑む。蜘蛛女は騙されなかった。屋外へ逃げ出したように偽装するため、門扉を乱暴に開けてから片方の靴を投げ捨て、自身はこっそりと玄関扉の裏に隠れたのだ。だが門扉だけが閉められていなかった違和感を蜘蛛女は見逃さなかった。
蜘蛛女の足音がゆっくり近づいてくるのを察知したツグミは、なるべく音を立てないように気をつけつつも、急いでもう片方の靴も脱ぎ、それを持ったままリビングまで這っていった。
やがて蜘蛛女が扉を開く。見回してみたが、ツグミはいない。玄関に入った蜘蛛女は、扉を完全には閉めず、少しだけ開けておいた。蜘蛛女がリビングへ入ってくる。ツグミはソファーの裏に、震えながら隠れていた。その時、突如携帯電話の着信音がリビングで鳴り響く。姿は見えないが、おそらく蜘蛛女が電話に出たのだろう。
「……父親の方は始末した。写真も撮っている。……いや、まだだ。あの小娘は妙に動きがいい。……もしかして、あんたが探しているのは……」
蜘蛛女はしばらく沈黙して、それから応える。
「……わかった。言われた通りにしてやる。私にやすやすと殺されるようなら、どのみち、そうではないんだからな」
蜘蛛女は通話を切った。ツグミにはわからなかった。なにを「探して」なにが「そうではない」というのだろうか?しかしハッキリわかりきっていることがある。
(やっぱり私を殺すつもりなんだ……!)
蜘蛛女は部屋に漂う獲物の匂いを楽しんでいる。自分が探している小娘は、この部屋のどこかに隠れているのはお見通しだ。嗜虐的な笑みを浮かべた蜘蛛女は、まず自分がたった今入ってきた方の通路に、何重にも蜘蛛の糸を張った。
(何をしているんだろう?)
ツグミは恐る恐る覗き見る。次は浴室へ続く通路を蜘蛛の巣で塞ぐ。そして縁側へ続くガラス戸へも、入念に。
まずい!とツグミは戦慄する。部屋の出入り口を全て塞いでしまうつもりだ!今はもうキッチンへ続く出入り口しか残っていないが、ここを塞がれたら蜘蛛女と密室に取り残される!
蜘蛛女はもう一度リビングの中を見回してみた。ソファーの裏か、カーテンの後ろか、あるいはキャビネットの中か。どこに隠れたか知らないが、いずれにしても自分の行動はわかるはずである。蜘蛛女は、わざわざそれらの隠れ場所を改めてみるつもりはない。こうして部屋の出入り口を順番に塞いでいって、最後の出入り口を塞ごうと構えれば、なりふり構わず飛び出してくるはずだ。そこに糸を絡みつけ、ズタズタに引き裂いてやる!蜘蛛女がキッチンへと続く最後の出入り口へ、腕を向けたまさにその時。
「アピアパー!!」
突然蜘蛛女の背後から馬鹿げた調子の男性の叫び声が響き、思わずそちらに糸を飛ばした。糸は素早く、白目をむいておかしな表情を作る男の顔が、画面いっぱいに映ったテレビに絡みつく。
「ふざけるな!」
蜘蛛女は、奇声を発したお笑い芸人の相方が、ツッコミを入れるより早くテレビを両断した。
「あの小娘、どこまでも、どこまでも!」
手こずらせるものだ。蜘蛛女はカーテンを引きちぎり、キャビネットを貫き、力まかせにソファーをひっくり返す。ソファーの裏に、片方だけの靴と、テレビのリモコンが残されていた。
ツグミはキッチンへ滑り込む直前にいくつか身を守る助けになりそうな物も拾っておいた。その一つが固定電話の子機である。コードレス式なので、家の中にさえいればどこでも使えた。通報先に悠長に話していたら殺されるのは必至なので、110番だけ押して放置する。しかし、もしも警察が駆けつけても、なんともならない気がした。ツグミだって既に相手が何者かわかっている。
(魔女だ……)
魔法少女には2種類ある。悪魔と戦う閃光少女と、悪魔のような魔女だ。ツグミはキッチンの戸棚から包丁を抜く。
(やるしかない……!あの人だって、もともとは人間なんだ……!)
と、ここで。なにやらカタカタと金属同士がぶつかるような音が聞こえる。その不気味な音は、ガスコンロの上に置いてあった、大鍋の蓋がうごめいている音だった。その中身はツグミが夕食のために作ったビーフシチューだったはずである。まるで中身が沸騰しているかのように動いていた蓋が、ついにキッチンの床に落ち、鍋の中から巨大な蜘蛛の群れが湧き出てきた。
「きゃああ!!」
巨大な、といっても、昨夜現れた大蜘蛛よりずっと小さい。それでも、その一匹一匹は、足を広げるとツグミの頭よりも大きかった。ツグミは半狂乱になりながら、自分にまとわりついてくる蜘蛛を、夢中で体から剥がし、包丁で刺し、踏み潰した。動く蜘蛛は全て殺し、ツグミは腰が抜けたようにその場にへたりこむ。
「つーぐーみーちゃーん」
背後からぞっとするような声音で呼びかけられ、ツグミの全身に鳥肌が立った。蜘蛛女がそこに立っているのは、振り向いてみなくてもわかる。
「あーそーぼー」
その瞬間、パチリと全ての照明が消えた。蜘蛛女がブレーカーを落としたのだ。自分の命を狙う知能をもった化け物と、暗黒の一室で二人きりになる恐怖は、察して知るべし、である。
「あっ……あ、ああ……」
ツグミよりもずっと夜目が利く蜘蛛女は、ゆっくりとツグミの首に手をかけ力をこめた。真綿で締めるように、徐々に、徐々に。今のツグミは、まさに手のひらに握ったハムスター同然だ。生殺与奪の権利を文字通り掌握した蜘蛛女は、獲物の反応を楽しんでいる。獲物のハムスター。ツグミは、しかし妙なリアクションをした。普通こうやって首を締められた者は、相手の指に手をかけ、無駄なあがきをするものである。だがツグミは手を前に伸ばしている。何かを探すように。そして目当ての物を手繰り寄せたツグミは、迷わずその先端を蜘蛛女の顔へ向けた。
「ぐわっ!?」
蜘蛛女の顔へ白色の粉塵が殺到する。ツグミが手にする消火器に蓄えられた高圧の不活性ガスが、蜘蛛女の目という目に難燃性の粉末を容赦なく押しつけたのだ。糸井家は自宅とクリニックの建物が共用されている。心療内科とはいえ病院である以上、消火器の設置が義務付けられている。それは同じ建物を共有する自宅部分も同様であった。ツグミはキッチンに逃げ込む前に、廊下に置いてあったそれを、万が一の際に使う目眩ましとして持ち去ったのだ。気がつくといつのまにか、ツグミは蜘蛛女の魔の手から逃げていた。
「おのれ……!」
蜘蛛女は完全に頭に血が登っている。
「もう容赦はしない……見つけたら……即死させる!」
と蜘蛛女は口にしない。これから始まるのはお互いに吐息の音すらはばかるステルス戦だ。
キッチンから脱出したツグミはそのまま消火器で廊下に煙を充満させ、咳き込まないように口にハンカチを当てながら玄関へと向かう。この家で生活していたツグミは、例え明かりが無くても、間取りは体が覚えていた。煙によってお互いに姿が見えないのであれば、むしろ有利なのはツグミの方だ。
しかし一つ問題があった。もはや屋外に逃れるほか無いが、どうやっても玄関の扉を開く時に物音がすることだ。最初バタバタと音を立てて逃げていた時はともかく、今はお互いの姿が見えないため、どこにいるかを音で探りあっている。そうなれば、物音に向かって蜘蛛女が攻撃をしてくることは明らかだ。もう一つの出口と言える庭に面した縁側のガラス戸は、既に蜘蛛の巣で封印されている。こうなればリスクを承知で玄関へ向かうしかない。迷っているうちに煙が消えたら元も子もないからだ。
こうして扉へ近づいたわけだが、ツグミの心に安堵の波が押し寄せた。扉が完全には閉まっておらず、少し開いていたのである。べつに古い扉でもないので、開く時に軋むことはない。ツグミは扉をそっと押して、外に出ようとした。その時である。
プツン!と、まるでギターの弦が切れるような、控えめに言ってささやかとは言えない音が響きわたる。ツグミにはその音の原因が、まるで想像つかなかった。
(えっ?なんで?どうして!?)
(かかったわ)
蜘蛛女が仕掛けた罠だった。玄関の扉にわざと隙間を空けていたのは、そこに鳴子代わりの糸を張っていたからである。無論ツグミが消火器で目眩ましを仕掛けるのは予想外だったが、何者かが外から新たに侵入したり、万が一にもツグミに裏をかかれる用心として仕掛けていた。今、扉が完全に開き、玄関で靴音が鳴る。もはやツグミに残された選択肢は、全速力で走ることだ。
「逃さん!」
蜘蛛女はツグミの首の高さに向かって糸を射出する。相変わらず煙のせいで姿は見えないが、手応えがあった。
「バラバラになって死ね!」
蜘蛛女は糸を強く引っ張った。ただの人間が蜘蛛の糸の張力に抗えるはずがない。そのはずだった。
「……は?」
手応えはある。だが、手応えがあり過ぎる。何も切れる感触が無いのはおかしい。まさか勢いをつけすぎて、糸を外の街路樹に引っ掛けてしまったのか。
「くっ!?」
いや違う。相手は無機物ではない。植物でもない。何かがいる!その何かが、蜘蛛女の膂力を上回る力で糸を引き、逆に蜘蛛女の方を引き寄せている。舞い上がる粉塵の中で、その鋭い眼が光る。蜘蛛女はハッと気づく。先ほど玄関で靴音が鳴り、ツグミが走って逃げるとばかり思った。だが、ツグミの靴は今、どちらも脱げているはずだ。
「そこにいるのは誰だ!?」
答えが煙のベールを超えて突如現れた正拳突きとして返ってきた瞬間、蜘蛛女は自分の迂闊さを後悔した。
「がはっ!?」
眉間に打ち込まれる正拳、みぞおちへの貫手、顎への掌打、喉への親指一本拳、脇腹からこめかみへの二連回し蹴りを瞬く間に打ち込まれ、最後に再び糸が引っ張られた蜘蛛女は前のめりに倒れかかる。
「おらあっ!!」
暗闇から伸びてきたシメの後ろ蹴りが、蜘蛛女の体を吹き飛ばし、廊下の突き当りにあるトイレのドアまでめり込ませた。
玄関の扉が完全に開放されたことにより、廊下に充満していた消火器の煙が、夜風に乗って外へ流れていった。外灯と月の光が差し込み、対峙しているそれぞれの顔を照らす。
「あ……アカネちゃん!」
突如玄関から入ってきた人物にいきなり頭を抑え込まれて伏せていたツグミは、その人物がアカネである事に今気づいた。ツグミの首の高さは、彼女の胸の高さである。アカネの右手には蜘蛛の糸が巻き付いていたが、蜘蛛女を引きずり倒す時に少し食い込んで血が出ただけで、他になんということもなかった。
「アカネちゃん、お父さんが……お父さんが殺された!」
ツグミの報告を聞き、蜘蛛女を睨むアカネの顔が、一層険しくなる。
(あの魔女、知っているわ……!アイツが事件の黒幕だったのね)
アカネはツグミに命令する。
「ツグミ、ここから逃げなさい!」
「アカネちゃんも来て!」
「……アタシにはやることがあるのよ!」
「どうして!?殺されちゃうよ!早く一緒に逃げて!!」
「うるさい!」
腕を抱えて引っ張ろうとするツグミを、アカネは突き飛ばした。ツグミは目に涙をためながらキッと睨む。
「私達友達でしょ!?友達が帰ってこなかったら悲しいって、さっき言ったじゃない!!私だってアカネちゃんが帰ってこなかったら悲しいって、なんでわからないの!?」
「アタシはアカネではない!!」
「……えっ?」
覚悟を決めるしかない。
「アタシは、アイツを倒す者だ」
アカネは自分の正体を明かすことにした。ツグミを逃がすには、もうそうするしかない。空手の型で精神を集中させると、右手の指輪が紅蓮に燃える。
「変身!!」
アカネの体が炎に包まれ、その炎が燃えるような真紅のドレスへと変わっていく。そのドレスとは不釣り合いなほど無骨な籠手が、アカネの両腕で赤熱する。戦士としての彼女の姿は、もう鷲田アカネではない。
「グレンバーン……!アカネちゃんが……閃光少女だった……!!」
変身を終えたグレンバーンは、ここに来てから初めて優しい笑みを見せ、ツグミの頭を撫でた。その大きな手が、とても暖かかった。
「ツグミちゃん、よく一人で頑張ったわね」
そう言われるツグミの目から涙がこぼれる。そうか。アカネちゃんはあの時から、ずっと私を守ってくれていたんだ。
「走れ!」
ツグミにそう叫び、グレンバーンは戦闘態勢をとった。廊下の奥で倒れていた蜘蛛女は、まるで糸で引っ張られるマリオネットのような動きで起き上がる。グレンと蜘蛛女は同時に、お互いへ向かって走り出す。
「アンコクインファナル!!」
グレンバーンが雄叫びを上げながら拳を突き出す。
「グレンバーン!!」
アンコクインファナルと呼ばれた魔女もまた同じようにして叫び返す。
二人の拳が廊下の中央で激突し、発生した衝撃波は糸井家の窓という窓を全て破壊した。
ツグミは後ろも振り返らずにひたすら走った。アカネちゃんがグレンバーンなら、足手まといにならないためにも、力の限り離れなければいけない。それに、ツグミ自身も早く安全な場所へ逃れたかった。保身ばかりの問題ではない。というのも、またしても耳鳴りが始まり、それがどんどん大きくなるからだ。
「これは何なの?危険のサインじゃないの?」
夢中で走るが、靴を履かずに出るしかなかったので、とっくに靴下はボロボロだ。素足で砂利やコンクリートの痛みに耐えるのも限界だった。なにより、息が苦しい。それだけ頑張って走っても、耳鳴りは収まるどころか勢いを増していく。
「どういうこと!?私に何を知らせようとしているの!?」
もはや耳鳴りはとどまるところを知らず、ツグミの限界を越えようとしていた。
「やめて!!私の中から出ていって!!」
そう叫ぶやツグミは、頭を両手で押さえてその場にうずくまってしまった。
グレンバーンとアンコクインファナル。二人の魔法少女は糸井家を地震のように揺らしながら激しい肉弾戦を続ける。グレンがインファナルの横面に手刀を決めると、インファナルが負けじとグレンのみぞおちに膝蹴りを当てる。インファナルがグレンの首を締めると、グレンはその腕を逆にとってインファナルを床に叩きつけた。仰向けのインファナルは糸を天井へ飛ばし、自分の体を引っ張り上げて吹き抜けを通り、二階に陣取り、眼下のグレンを見据える。
「閃光少女たちを襲っていたのはアンタだったのね!暗闇姉妹のように!」
グレンが叫んだ。二人は最終戦争の前からの宿敵である。これまでに何度も衝突してきた。しかし、いくら閃光少女と魔女の思想が異なるといっても、結果的にそうなるのは例外として、殺し合いをするのは異常だ。閃光少女は人間を守るために悪魔が倒せさえすればいい。魔女は悪魔から力を得ているといっても、悪魔そのものを生み出しているわけではないのだから、積極的に命まで奪う必要はない。逆に、魔女は悪魔さえ守れたらそれでいい。いわば「罪を憎んで人を憎まず」といった不文律のようなものを、自然と魔法少女達はもっていたのだ。無論、悪魔と人類の存亡をかけた最終戦争ではそうも言っていられなかったが、戦争は終わったのだ。今さらになってインファナルが閃光少女を殺してまわるのは異常というしかない。しかし、やはり魔女になるような人間とは価値観を共有できないのかもしれない。インファナルが呪詛の言葉を吐く。
「お前たち閃光少女さえいなければ、我々魔女が日陰で生きなければならなくなるようなことは無かった!だが力さえあれば、こうやってお前たちに復讐ができるのさ!」
「死に場所が欲しかったら、まずはアタシのところへ来れば良かったのよ!こそこそとヒーラーから潰していくアンタに、なんの力があるって!?」
その言葉に、なぜか口をつむぐインファナル。できることならそうしたかったと、にが虫を噛み潰したような顔に、ありありと浮かんでいるようだ。グレンは続ける。
「アンタたち魔女がどうなってようと、知ったことじゃないわ!自業自得よ!」
「うるさい!」
インファナルは両手を伸ばし、二階から糸の弾を連射する。グレンは両手の籠手に炎を纏わせ、回し受けの要領でそれらをかき消した。だがその時、勢い余った炎が壁に飛び、火がつく。グレンはあわててその部分を拳槌で破壊し消火するが、その隙目掛けてインファナルが飛び降りた。グレンを押し倒して馬乗りになり、何度もパンチを浴びせる。
「我々魔女は悪を望んでいたわけではない!今とは違う新しい秩序を求めていただけだ!お前らのような体制側の人間には、悪というレッテルを貼られた者どもの苦しみがわかるまい!我々が勝利していたら、神が悪魔に、悪魔は神となっていた!」
今度は逆にグレンがインファナルをひっくり返し、上から何発も殴りつける。
「勝手なことばかり言ってるんじゃないわよ!悪は悪よ!新しい秩序?ふざけないで!自分勝手なルールを押し付けているだけでしょ!悪魔が勝利していたら、この世界は地獄になっていたわ!」
「では今の世界に地獄は無いのか!?」
インファナルの叫びに一瞬グレンは言葉に詰まる。インファナルはそんなグレンを巴投げの要領で吹っ飛ばした。壁を突き破って道路に転がりでたグレンは、受け身をとって立ち上がる。
「出てこいインファナル!」
しかし暗くて中が見えない家からは返事が無かった。ずっと家の中で戦う方が有利であると、インファナルは知っているからである。一見互角に見えるこの戦いも、実際にはグレンバーンの方が劣勢だった。ダメージレースで負けている。今さら繰り返すまでもないかもしれないが、炎の閃光少女がその本領を発揮するには、場所が悪すぎた。ここは郊外にあるベッドタウンだ。もしも糸井家が炎上すれば、それが一帯に延焼していくのを止める能力は、グレンには無い。能力を抑えるどころか、ほとんど無しで戦っているようなものだ。
(結界で家を囲めば……)
と無いものねだりも考えてみる。しかし、そんなに広く、自由自在に結界を作る能力は、グレンには無い。せいぜい1メートル四方ほどの結界を、何か(例えば掌)に貼り付けて、簡易の防御手段とするのが関の山だ。
(オーシャンを待つしかないわね)
こう言っては悪いが、中に残っているのは死人だけだ。ツグミを逃した今となっては、無理に家内に踏み入る必要はない。アケボノオーシャンが結界を張り、その中で炎を存分に奮えば、むしろ相性が最悪なのはアンコクインファナルの方であった。だがこの時、グレンが今最も耳にしたくなかった音が、道路の向こうから響いてきた。
(ふふ、やっと来たわね)
インファナルもまたその音を耳にし、笑みを浮かべる。夜の静寂に響くサイレンの音。警察である。パトカーに乗った二人の警察官が、糸井家の様子を見に来たのだ。
「まもなく現場に着きます」
若い警察官の一人が車内にある無線機で報告する。彼らが来たのは、110番通報があったからだ。実は、村雨ツグミがインファナルから逃げ回っていた時、密かに電話で110番を押していた。
「事件ですか?事故ですか?」
オペレーターがその直後耳にしたのは、大きな蜘蛛に襲われていたツグミが上げた悲鳴だけだ。事情はわからないにしろ、駆けつけない理由は無かった。この後の展開を考慮しても、ツグミを責めるのは酷だろう。彼女が通報しなくても近隣住民が通報するのは時間の問題であったし、やろうと思えばアンコクインファナル本人が通報することもできたのだから。
「止まれ!止まりなさい!近づかないで!」
「あ、あれ?」
公式には存在しない事にされているとはいえ、警察官二人はどちらも、悪魔や魔法少女、そして閃光少女グレンバーンを知っていた。そのグレンバーンが自分達の乗るパトカーを遮り、追い返そうとしている。
「一体どうしましたか?また悪魔ですか?」
「車から降りないで!」
そうグレンが懇願した時には、二人の警察官はどちらもパトカーから降りていた。知っていたとしてもどうしようも無かったかもしれないが、既に魔女の間合いに入っている。
(いただきね)
暗黒から無数に蜘蛛の糸が伸び、警察官二名は、悲鳴を残して屋内へと吸い込まれていった。
「ちっ!」
職務柄仕方がないとはいえ、これでは邪魔するために現れたようなものだ。わざわざ自分から近づいてくる、手頃な人質として!グレンバーンは屋内に突入するしかない。
「どこに!?」
廊下には見えない。階段にも。入り口に張り巡らされた蜘蛛の巣を手刀で斬ってリビングに入るが、誰も。だがその時、轟音をたててリビングの天井が崩れ去った。
それはつまり、二階の床も崩れたということである。二人の警察官が、二階の天井から伸びる蜘蛛の糸に、首吊りの形で晒し者にされ、もともとあったはずの床を求めるように両足をばたつかせた。
「ははははははは!」
「貴様!」
天井に逆さまに貼り付いたアンコクインファナルが高笑いを響かせる。
「おっと、動くなよ。殺すぞ……?」
そうインファナルが言うと、警察官二人の首にまかれている糸がキュッと絞られた。一息に殺すほどではない。その証拠に、二名の警察官はわずかにある隙間に指をかけ、握力の続く限り気道を確保しようとしている。
「くっ……!」
天井から糸を垂らして降りてくるインファナル。その後に待っていたのは一方的な暴力だった。殴り、蹴り、締め上げ、叩きつける。グレンは血を吐きながらも二人の警察官を開放する手段を考えるが、無理だ。無論インファナルがわずかに隙を見せた時に、跳躍して糸を斬るのは容易い。しかし、二名同時となると別だ。一人を助けると同時にもう一人が殺されるのは目に見えている。
「殺してやる……!殺してやるぞ!閃光少女ども……!」
なんとか起き上がろうとするグレンバーンの腹部を蹴り上げ、壁に叩きつけたインファナルが叫ぶ。
「私は全ての魔女達の代弁者だ!全ての閃光少女は、恐怖に震えるといい!そう、私こそが暗闇姉妹だ!」
グレンはオトハから聞いた暗闇姉妹の話を思い出す。罪を犯した魔法少女を人知れず始末し、一切の痕跡を残さず立ち去る。やはり、あれは美化しすぎた話でしかなかったのだ。同族殺しに心血を注ぐなど、シリアルキラー以外の何者でもないではないか。ましてや心優しいヒーラーのガンタンライズに何の罪が!?噂というのは、所詮こんなものなのだろう。地上を照らしていた月に雲がかかり、部屋をなお一層暗くする。
「どうした!?人間を守らないのか!?」
そう叫ぶとインファナルは、警察官の一人に糸を放った。糸は警察官の足に絡みつく。
「そんな!やめなさい!やめろおおお!!」
足を切断された警察官が、グレンバーンと同時に絶叫した。
「柴田ぁ!!」
残された警察官が、傷口からおびただしい血を流す同僚の名を叫ぶ。
「グレンバーン!俺たちのことはいい!そいつを倒してくれ!」
「おいおいおいおいおいおい、あんまりグレンバーンをいじめてやるなよ」
インファナルはグレンの髪を鷲掴みにし、首ごと乱暴に持ち上げる。
「こいつにそんなことできねぇ。お前は、誰一人だって守ることなんかできねぇんだ。ではもう一人の足も……」
グレンはインファナルの顔にツバを吐いた。
「この……人でなし」
インファナルはそれを手で拭うと、その手をそのままグレンの喉元へ向ける。
「約束とは違うがお前だけはこの場で始末してやろう……死ね!!」
インファナルがグレンの喉を貫こうとしたまさにその時、突如激しい耳鳴りがグレンを襲った。
(なに……これ……?)
どういうわけか敵であるインファナルもまた動揺している。同じように耳鳴りが止まらないのだ。かかっていた雲が流れて再び月明かりが部屋を満たすと、両者の耳鳴りが同時にやんだ。その時である。
「ハッ!?」
二階に音も無く誰かが立っている。ちょうど影になっているためグレンからは顔が見えないが、小柄な少女のようだった。夜目が利くインファナルには顔が見えるのか、一瞬だけ動揺したものの、にたにたと余裕の笑みを浮かべる。
「また虫けらがノコノコと一匹、死にに来たか?」
しかし影の人物がこちらに近づいてくると、グレンもインファナルも顔色が変わった。歩く少女の右指に指輪が出現したからだ。暗黒の中でありながら闇色に光る、そういう矛盾したオーラを放つその指輪は、魔法少女の印であった。
「変……身……」
謎の少女を闇のオーラが包む。幾重にも影のような包帯が体を包み、まるで漆黒のドレスを形作る。
「誰だお前は!?」
「天罰代行、暗闇姉妹」
「暗闇姉妹!?お前が!?」
グレンは目を見張る。
(あれが……本物の……暗闇姉妹……!?)
トコヤミの少女はおもむろに短い棒のような物を取り出す。彼女がそれをひねると、端部からダガーのような刃が飛び出した。極端に柄の短い槍のようだ。
「殺された者たちのうらみ、今晴らします」
トコヤミはそれだけ言うと、警察官たちを吊るしている内の一本の糸を短槍で切断し、すぐさま跳躍してインファナルに襲いかかった。二人の体が同時に落下する。
「舐めるな!」
インファナルは防御するために、グレンを掴んでいた手を離し、トコヤミの短槍を受け止め、弾き飛ばす。
「だああああああぁ!!」
開放されたグレンはやけくそな雄叫びをあげ、すぐさまもう一人の吊るされた警察官に向かって跳んだ。警察官の体を抱えると手刀で糸を切断し、二人そろって床に落ちる。
「この小娘!」
インファナルの蹴りがトコヤミの体をサッカーボールのように吹き飛ばした。しかし、インファナルの見せ場はここまでだった。
「ガッ!?」
トコヤミは地を這うほど低い姿勢のダッシュで距離をつめ、インファナルの顔面に容赦なく縦拳を打ち込む。インファナルが顔を守ればボディを突き、ボディを守れば顔を容赦なく攻めた。隙があれば関節を蹴り、痛みに頭を下げれば顎をかち上げる。インファナルが打ち返せば、その一発を避けるかわりに、二発の拳を叩き込んだ。まるでトコヤミだけが二倍の速さで動いているようだった。部屋の中に鈍い音が響く。
「あああっ!?ああっ……あっ……」
一旦様子を見ようと身構えたインファナルの股間を、一切躊躇することなく蹴り上げたのだ。呼吸さえ乱れてないその顔には、感情がまるでない。いつまでも、そこには氷のような表情があるだけだった。
「強い……!」
グレンは、トコヤミがインファナルを圧倒する様子を見て、そうつぶやかずにはいられなかった。しかも、今のところは、その異常な速さを別にすれば、これといった能力を使っていないのだ。インファナルの屈辱はいかほどであろうか。
「ま……待ってくれ!」
後ろへステップして距離をとろうとするインファナルの天地が回る。彼女の体を床に投げつけたトコヤミは、腕関節を極め、防御できない顔面へ向けて容赦なく拳の雨を降らせる。もはやバスケットボールのように腫れ上がったインファナルの顔が、泣き声とまじったよくわからない悲鳴を発した。
「うおりゃあああっ!!」
五体満足のまま生還した警察官が、足を斬られた同僚と、グレンバーンの二人を抱えて家から脱出した。彼の体力もまた限界であるはずだが、雄叫びをあげながら死力を尽くし、パトカーの傍まで二人を運んだ後、這うようにして無線機を掴む。
「本部!本部!666!666!」
続けて彼は糸井家の住所を叫ぶ。
公的には悪魔や魔法少女の存在は認められていない。そのため666はそれを示す隠語である。犯人の逮捕ではなく、怪我人の救援に特化した部署への応援要請だった。
「やるじゃない……」
グレンは足を切断された警察官のベルトを抜き取り、傷口を締め上げて止血を試みながらそうつぶやいた。今までグレンは、警察など、戦いの役にも立たないクセに、出しゃばってばかりの邪魔者のようにさえ思っていた。だが必死に義務を果たそうとする彼らを間近に見て、グレンは考えを改めようと思った。
「何か必要なものはあるか?」
「飲み物がほしい」
「コーヒーでいいか?」
「いただくわ」
震える手で水筒から注がれたコーヒーを受け取ると、一気に飲み干す。グレンの肉体にわずかに活力が蘇った。彼女は何気なく警察官達の腰を見た後、あることを思いついた。
「少しの間、それを貸してくれない?あなた達二人分のよ」
インファナルは天井へ糸を伸ばし、上昇する勢いで無理やりトコヤミを振り払った。ひどい腫れのせいで視界が狭くなっているが、そのわずかな隙間から見えるトコヤミは、落ちていた短槍を拾って歩いてくる。その姿はまるで、自分を殺すためだけに製造された、殺人マシーンのように見えた。インファナルが人生でここまで恐怖を感じることなど、今までに一度も無かった。そして、場合によっては最後となる。
「よ、よせ!私に近寄るなぁ!」
インファナルはそこら中に落ちている物を、糸で拾って投げつける。軽い物は弾かれ、重い物は避けられた。長い足を突き出して距離をとろうとしたが、腰が入っていないその蹴りを避けたトコヤミは、足が床に着くや、床ごと足の甲を短槍で貫いた。
「ゲッ!?」
後は再び嵐のような攻撃がインファナルを見舞う。しかも床に縫い付けられた足は、身じろぎすることさえ許してくれない。気が遠くなるような激しい痛みを味わいながら、インファナルは覚悟を決める。
(あれだ……あれを使うしかねぇ……)
「ぎぇぺぱぁっ!?」
トコヤミがとどめとばかりに繰り出したスイングパンチが、インファナルを横倒しになったキャビネットの向こう側まで吹き飛ばした。しかし、これはおかしな挙動である。彼女の足は短槍で床に縫い付けられているはずだ。見ると、その足だけが取り残されている。インファナルが自らの糸で切断したのだ。トコヤミは残された足から短槍を引き抜くと、キャビネットの奥にいるであろうインファナルへ近づいた。
しかしその瞬間、トコヤミはキャビネットごと凶暴な力で吹き飛ばされた。壁まで叩きつけられたトコヤミが、自身にのしかかるキャビネットをどけると、少なくとも普通の人間からすれば驚愕する光景が広がっていた。
「てめぇは……てめぇは……」
インファナルの下半身が、完全に巨大な蜘蛛のそれに変わっていた。6本の丸太のような足が、表面にある無数の針を震わせる。両肩からは通常の腕の他にもう一対、甲殻に覆われた新しい腕が、その先端についた鋭利なハサミを光らせている。まさか背中についた昆虫型の羽は、この巨体を空へ浮かべるというのだろうか。
「てめぇは……てめぇは……てめぇは……!」
インファナルは首筋に刺している、既に
「てめぇはもうお終いだああああ!!」
そう叫んだ口元が裂け、新たに生えてきた黒い牙が横向きに大きく開いた。
「な、なんだ!?」
突如地響きのようなものが始まり、グレンにコーヒーを渡した警官が動揺した。どうやら地響きは糸井家の奥から聞こえてくる。一瞬静まり返った次の瞬間、糸井家の壁を突き破って、巨大な怪物が姿を表した。
「ば、化け物……!」
それは変わり果てた姿になったアンコクインファナルであった。
「こうなってしまったら、もう元の姿に戻れる保証は無い!!」
その声もまたディーゼルエンジンを積んだ大型トラックの排気音のようだ。
「だが、貴様だけはここでぶち殺すと決めた!!」
怪物になったインファナルは、トコヤミの体ごとブロック塀を薙ぎ払う。二人はそのままもつれるように、隣家の中を蹂躙していった。例えトコヤミが2倍の速さで動けたとしても、相手の腕の数がこちらの倍であれば、不利なのはトコヤミの方だった。というより、もはや格闘技が通用する場合ではない。
「な、なんだぁ!?」
隣家の住人等があわてて飛び出す。家屋をまるでトンネル工事のように貫通し、またしてもブロック塀をなぎ倒して二人が飛び出したのは、土管が無造作に置かれた空き地だった。不動産会社の名前が書かれた鉄の看板を、怪物はハサミで試し斬りする。
「赤い臓物をぶちまけろ!!」
トコヤミは振り下ろされるハサミを短槍で受け流し、インファナルの腕に鉄棒選手のように飛びついて関節を極めようとするが、もう一本の腕で殴り飛ばされる。格闘戦では勝負にならなかった。それだけではない。何かが鋭くトコヤミの頬を掠める。インファナルが口から毒針を発射したのだ。毒針が連射されるごとに、トコヤミが避け、距離が開いていく。ついにトコヤミは土管の後ろへ身を隠したが、インファナルは機関銃のごとく毒針を連射する。コンクリート土管がまるで発泡スチロール製に見えるほどの勢いで削れていった。飛び出すのは自殺行為だったが、このまま待つのもまた、ただ死がおとずれるまでの時間稼ぎにすぎない。その時である。
「手こずっているようね!」
上空からの声にインファナルは顔を上げた。月を背にして民家の上に立っていたのは、傷だらけになったグレンバーンだった。不敵な笑みを浮かべて怪物を見下ろしている。
「炎を貸すわ」
悲しいかなグレンが今立っている民家は典型的な木造建築である。
「貴様に何ができる!!」
怪物インファナルが毒針を連射すると、グレンは目の前に1メートル四方の赤い結界を張って防いだ。そしてすばやく、腰の後ろから2本の警棒を引き抜く。
「はっ!」
両手に持った警棒を結界へ突き刺すと、警棒に結界が巻き付いた。赤熱して発光する警棒を舞うように振り回し、毒針を叩き落としていく。
「さぁ、行くわよ!」
インファナルの正面に飛び降りたグレンは、赤熱する棒を前方に構える。すると棒の両端が炎の鎖で連結された。紅蓮のヌンチャクが高速で振り回される。
「ガキが……舐めてるとぶっ潰す!!」
「おおおおおおおおお!!」
怪物の4本の腕がグレンに迫るが、数が増えて見えるほどスピードを増していくヌンチャクが、それらをことごとく弾き飛ばす。
「おらおらおらおらおらおらおらおらっ!!」
「がっペッパぁ!?」
ヌンチャクが本体へと届き、怪物を滅多打ちにする。たまらず羽を広げて空へ逃れようとするが、少し宙に上がっただけで止まった。
「き、貴様ぁ!邪魔をするな!!」
昆虫のような羽に、影を伸ばしたような包帯が絡みついている。それはトコヤミの服から伸びていた。彼女が怪物を飛ばせないように踏ん張っている。
「おらあっ!」
「べフッ!?」
グレンは跳び上がり、ハエでも叩き落とすかのように脳天にヌンチャクを直撃させた。そして、ヌンチャクの魔法を解き、インファナルの背中へ登って、芋でも抜くように羽を引きちぎる。
「ズアッ!?」
グレンは巨大な蜘蛛の足に生えた針を意に介さず、両脇に抱える。
(まさか、アレを狙っているのか!?)
「だああああああああっ!!」
焦る怪物をジャイアントスイングの要領で、どんどん振り回した。巨体の軌跡が回転数を上げていく。
(まさか本当に、アレを狙っているのか!?)
「どりゃああああああっ!!」
陸上競技のハンマー投げよろしく宙を舞った怪物は、地球の重力に引かれ一点に墜落した。歩いてくるグレンバーンは、今や不動明王の如く燃え盛っている。怪物は周りを見回した。
(やはり、そういう事かーっ!!)
そこはバスのロータリーだった。この広さ、そしてコンクリートしか無い空間。グレンバーンが本気を出せる、数少ない空間。
「タイミングはアタシに合わせなさい!」
トコヤミは返事の代わりに短槍を構える。
「はああぁぁぁ」
グレンが気合を入れると、彼女の背中に6本の細い羽が伸び、羽の先をなぞるように丸い日輪が浮かぶ。そして真紅の籠手が炎に包まれた。両腕をそれぞれ天地に向け、大きく円を描くように回すと、小さな太陽のような炎の球体が生まれる。
「おらあああっ!!」
グレンが炎球をドッジボールのようにして投げた。怪物インファナルは4本の腕をクロスさせ、それを真正面から受け止めた。
「グレンバーン!!これで勝ったと思うなよ!!お前らを狙っているのは、この私だけでは無いと、覚えておくがいい!!」
炎球が爆発し、防御していた4本の腕が吹き飛ぶ、そして、炎を追いかけるように跳躍したトコヤミの体が、インファナルとすれ違った瞬間、その手から短槍が消えた。
「あ、あ……ああ……」
インファナルのうなじに、短槍が突き刺さっている。トコヤミは痙攣する怪物に後ろから歩いて近づくと、その短槍を深く押し込み、止めをさした。ロータリーに、ただ沈黙だけが残された。
「アイツ……負け惜しみを……でも、やったわね!」
グレンは安堵して息をついた。トコヤミとハイタッチを交わしたい気分だったが、短槍をインファナルの死体から引き抜くトコヤミの顔を見て、気分が一気に萎んだ。
(あっ……)
泣いているのである。表情こそ氷のままだったが、頬を涙が伝っていた。そして、ただ、沈黙している。
(そっか……アタシたち、人を殺したんだ……)
グレンはトコヤミの事情などまったくわからないが、それが彼女なりの黙祷なのだろうと思った。
「グレン!グレーン!」
やっと現場に到着したらしいアケボノオーシャンが手を振って走ってくる。グレンはオーシャンに報告した。
「オーシャン、犯人はアンコクインファナルよ。今倒したわ」
「それは、よかった。でも、ちょっとまずいんだ」
「えっ?」
オーシャンに連れられてパトカーの傍まで戻ると、コーヒーの警官が申告な顔で、足を切断された同僚を診ていた。
「血が出過ぎているんだ。救急車がまもなく到着すると思うんだけど、いや、もう助かるかどうか……」
「そんな……」
オーシャンはグレンにそう説明する。コーヒーの警官もまた倒れている彼に語りかける。
「おい、何か家族に伝えておきたいことはあるか?」
倒れている警官が口を開きかけたその時、トコヤミがその警官へ向けて歩いてきた。
(えっ……?まさか、目撃者を口封じするつもりじゃ……!?)
「ダメよ!」
しかしトコヤミは制止するグレンを押しのけ、警官の前に座った。そして掌を足の切断面へ向ける。そこからあふれた光は、グレンとオーシャンにとって見覚えのあるものだった。
「これはガンタンライズと同じ能力」
オーシャンがそうつぶやくと、家の中に置き去りにされていた足の先が引き寄せられ、切断面へくっつくと、傷口がジッパーを閉めるように閉じていった。さらに、糸井家、隣家、そして空き地の土管までもが、時間を巻き戻すように治っていく。
トコヤミはヒーラーだったのだ。
「そうか。一切の痕跡と外傷を残さないというのは……」
グレンがそうつぶやくと、ロータリーに放置されたアンコクインファナルの死体もまた、修復されていく。うなじの傷が消え、腕が再生し、下半身が二本足に戻り、額の蜘蛛の目が消えて、人間だった頃の姿に。そしておそらくは、糸井家の遺体も。
「あ……ありがとう……」
「柴田!」
倒れていた警察官が感謝の言葉を述べた時、グレンには、トコヤミが微笑したように見えた。彼女は、その笑顔をどこかで見た気がしてならなかった。
「ねぇ、待って!」
立ち去ろうとするトコヤミをグレンが止める。
「あなた、もしかしてアタシが知っている人なの?」
トコヤミは傷が治りつつあるグレンを一瞥した後、背を向けて音も無く跳躍し、闇の世界へと消えた。
「ねぇ、あの子は誰なの?」
「なによ、あなたもよく知っているじゃない」
グレンは尋ねるオーシャンに振り返った。
「暗闇姉妹よ」
『暗闇姉妹』
人でなしに堕ちた魔法少女を始末する者を人はそう呼んだ。
いかなる相手であろうとも、
どこに隠れていようとも、
一切の痕跡を残さず、
仕掛けて、追い詰め、天罰を下す。
そしてその正体は、誰も知らない。
「とうとう見つけることができた。トコヤミサイレンス」
その様子を橙色のフード付法衣を着た何者かが見ていた。
「しかし、そういうことなら……ガンタンライズにはまだ利用価値があるわね……」
法衣の何者かもまた、闇の中へ消えた。
暗黒編 了
天罰必中暗闇姉妹 暗黒編 村雨ツグミ @tenbatuhittyuu
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