天のお城でブランチを(日常エッセイ集)

天城らん

腕時計を忘れた日


 今日、腕時計を忘れた。

 

 着替え、化粧と身支度みじたくがすべて整った後、最後に目の高さほどの棚の上にある腕時計とパワーストーンのブレスレットを装備して仕事に出かけるのが私の習慣だ。

 なのに、家を出てしばらくして左手首に目をやれば、今日に限っていつもあるべき場所に腕時計がなかった。


 春から初夏への季節の変わり目。

 私の住んでいる東北の盆地は、朝晩の寒暖の差が激しい。日々の気温差も前日と比べると秋と真夏の気温差の時すらある。

 一日の気温差が20度もあれば、何を着ればいいのか、どんな寝具で寝たらいいのか迷う。

 朝晩は暖房をつけても、昼間は半そでで過ごす日が続いていた。寝具の交換時期に悩みながら過ごしていたところ、さすがに冬用の厚手の羽毛布団では寝苦しい夜があった。

 何度も寝返りを打っては、暑くて目が覚めよく眠れない。

 そうして、ぼーっとした頭でのまま起き、出勤ギリギリに身支度を終え家を飛び出した私は、まんまと腕時計をつけ忘れたのだった。


 

 腕時計をつけ忘れるのは、年に1,2回。

 高校生の時から体に染みついた習慣で、そうめったにあることではなかったからだ。


  *

 

 現在使用している腕時計は、文字盤は2センチ程度。ピンクゴールドの優しい色合いのフレーム。パール調の白い文字盤にはつまようじの先ほどのささやかなダイヤが飾られている。チタン製のアナログの腕時計だ。

 私が身に付けている物の中で一番高い。

 エコドライブ(太陽光発電)のため、電池交換不要。

 具体的に言うと、奮発ふんぱつして5万2千円で購入した。

 値段のことを言うといやらしいので普段は絶対に言わないのだが、私はこの時計を既に6年使っている。

 十分にその価値があると、言いたいがためのことなので許して欲しい。


 女性が身に付けるアクセサリーは、ネックレスやイヤリング、指輪がある。

 周りの女性やファッション雑誌を見れば、それらの相場は非常に高い。私の腕時計など目ではない。

 しかし、私はそういった装飾品はほとんど身に付けない。

 イヤリングは仕事で電話をとる際に邪魔になるし、ネックレスも肩こりに効くという物をいつもつけているので他の出番はほとんどない。

 指輪も頻繁ひんぱんに手を洗い、アルコール消毒をするこのご時世にはあまり付けたいとも思えなかった。

 ただ、腕時計だけは高校時代からずっと身に付けている。

 アクセサリーをあまり持っていない私にとって、腕時計は唯一ゆいいつ贅沢品ぜいたくだ。


   *


 習慣とは恐ろしいもので、私は腕時計を忘れたと言うのにその日、何度も左手首を見た。

 10回以上は見たと思う。

 そして、そこに何もないことを確認するとがっかりしてため息を吐く。

 ひどく不安で落ち着かない。

 私は、アナログの時計にこだわりがある。

 針の形や文字盤の数字にというわけではない。針があるアナログ型であることにこだわりがあるのだ。

 デジタルだと、どうしても残り時間の概念がいねんがつかみにくい。

 なんというか、私は数字から時間を想像することがあまり得意ではないらしい。

 そんな私にとって、腕時計は心強い相棒だ。


   *


 腕時計をつけ始めたのは高校生からだ。

 入学祝いに親に買ってもらった腕時計は、ムーンフェイズのアナログ時計。文字盤に月が出入りする窓のある時計のことだ。

 丸いフレームは金をいぶしたようなクラシックな雰囲気で、茶色の革バンド。

 私はプラネタリウムが好きで、天文に詳しくはないが星が好きなため、この時計がとても気に入った。

 生活防水なので、多少の水がかかっても問題がなく丈夫な時計だった。

 何度も革バンドを取り替えもした。

 卒業した後も使っていたが、この時計はチタン製ではなかったためフレームにだいぶ傷がついてしまっていた。

 それでも使い続けていたが、だんだんと電池交換の頻度が高くなった。

 いつもはホームセンターで電池交換をしてもらっていたが、いやな予感がして時計屋さんに持っていく。

 時計屋さんはこう説明してくれた。

 時計と言うのはたくさんの歯車で成りたっていて、その歯車同士の潤滑油が古くなってくると歯車を回す力が多く必要となり、電池消耗が早くなると。

 要するに経年のために、動きが悪くなってきたということだ。

 もとのように使うには、オーバーホールといって分解点検をする必要があるらしい。

 けれど、数千円の時計を同等の金額で点検整備するのは、いくら愛着のある時計であると言ってもためらわれ、私はそれをあきらめた。

 かわりに時計屋さんは、軽く油をさしてくれたのでしばらくまた使うことができたが、その間にお別れの準備ができた。

 

   *


 最初の時計から、今の時計の間までにもいくつか時計を挟んではいるが数年はしっかり使い込んでいる。同時に複数の腕時計を持つほど甲斐性かいしょうはない。

 私は結構、れ込むと一途なタイプなのだ。

 

 とはいえ、このエッセイを書くに至って最初のムーンフェイズの時計を探したが見つからなかった。

 捨ててはいないはずなので、革バンドを外し小さくなったことで、どこか私の宝箱のごちゃごちゃの中に紛れ込んでしまったようだ。


 それでも、目を閉じると時を刻む姿が鮮明に思い出せるあの腕時計は、まぎれもない私の最初の相棒だ。



 ***


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