第36話 悪役令息が生まれた日(後編)
大人になったラピスは神が遣わした天使のように綺麗で、その性格は魔獣も怯え竦むであろうほどに苛烈だった。けれどその言葉の鋭利さと裏腹に、血まみれの男を担ぎこんで治療するような優しさを持つ、ジャックが惚れたそのままのラピスがそこにいた。
──やっと会えた。
嬉しかった。嬉しすぎて死ぬかと思った。
この日のために自分は生きていたのだと断言出来た。
心臓は痛いほど高鳴り、口元がもにょもにょするのが止められなくて、気持ち悪くなるのが嫌で俯いた。
けれど──
「で? お前はどこの誰なの。名前は」
愕然とした。
(──覚えて、ないのか)
幸せの絶頂から絶望の谷間に突き落とされた気分だった。
胸が痛いほど締め付けられて泣きたくなった。
(そりゃ、そうだよな……)
もう十年も前のことだ。
あの頃の自分は泣き虫で体つきも頼りなく喧嘩の一つも満足に出来ない腑抜けだった。ラピスが覚えていなくても無理はないだろう。
ほんの少しだけ期待したけれど。
覚えていなくて残念だという気持ちはあるけれど。
お前を守るために戦ったなどと押しつけがましいことも言えなくて。
あの頃の自分を思い出してほしくなかった。
「で、なんでその毒男が私の店の前で血まみれで倒れてたの」
「……言いたくねー」
「は?」
「死んでも言わねー。かさぶた取るなり何なりしろや」
だから、最初からやり直すことにした。
「まだ名乗ってねぇぞ。人に名前を聞いたら名乗り返せってカーちゃんに教わらなかったか」
──ダリウスはいずれ必ずやって来る。
そう宣告されたばかりだ。
第二皇子は一度邪魔された程度でラピスを諦めるほど弱くはない。
むしろジャックが防いだことでますます苛烈になるはずだ。
ラピスは強い女ではあるが、武力に勝てるほどではない。
どうしたら傍にいて守ってやれるだろう。
考えて、分からなくて、少しでも顔が見られるのが幸せで。
この笑顔を、曇らせたくなくて。
「お前、私の
だから、その手を掴むことにした。
ラピスと過ごした日々は人生で一番幸せだったと断言できる。
あまつさえ一つ屋根の下で過ごしているだけで幸福すぎて死ぬかと思った。
私生活がだらしない所は新たな一面が見られてみたいで嬉しかったし、どんな客の前でもへりくだることなく対等に接する仕事ぶりはかっこよかった。ぶつくさ言いながら結局人助けをしてしまう性根の良さも、悪人に対して容赦なく毒を振舞う苛烈さも、一緒に過ごす日々の中で好きなところがどんどん増えていって、十年前より一層好きになった。
ただ一つ不満があるとすれば、男として見られていないこと。
目の前で着替えを始めるのはさすがに心臓に悪いからやめてほしい。
自分以外の男にも見せた時のことを想像して頭が狂いそうだったから。
──ラディンとはそんなことをしたのか?
黒い欲望が、幸せの裏でどんどん膨らんでいく。
だけどその度に第二皇子の私兵たちがやってきて、ジャックを目覚めさせる。
ダリウスに勝てない自分が情けなくて、怪我をする自分が恨めしかった。
そして──第二皇子。
買い出しを終えて、店の中からルイスが出てきた時のこと。
あの時、ジャックは店の壁に背を預けてすべてを聞いていた。
ドアから出て来たルイスはジャックに気付いて目を細めた。
「あぁ、君か。久しぶりだね。僕のラピスを守る凶犬くん」
「……テメェ」
僕の、というところを強調されて殴りたくなる。
あれほど強引に店を壊そうとして、ひと目につかずラピスを攫おうとして、どの口がそれを言うのか。
「聞いているよ。君、結構戦えるんだって?」
「テメーよりはな」
「面白いなぁ。あの落ちこぼれのジャック・バランがこんなことをするなんて誰が想像しただろう」
「気色悪ぃんだよ。ラピスに近付くんじゃねぇ」
ルイスは意味ありげに目を細めた。
「ねぇジャック。気付いてるかい?」
「ぁ?」
「これはね、ゲームなんだよ。君がラピスを守り切れたら君の勝ち。僕がラピスを手に入れたら僕の勝ち──そういうゲームなんだ」
「──……は?」
ルイスは楽しそうに笑った。
「おかしいと思わなかったかい? 第二皇子である僕の権力をもってすれば、ラピスを公然と逮捕するのは容易い──兄上に毒煙を蒔いたくらいだしね。それをしないのは、簡単に手に入ったらつまらないからさ」
「な、にを」
「正直、君に邪魔されるとは思わなかったんだ。でも僕は面白いと思った。君がラピスを守り切れるならそれでよし。守り切れず僕の手に落ちるもよし。僕はどっちでも楽しめる」
人間をぶち殺してやりたいと思ったのは初めてだった。
ここまで。
ここまで、人は人を弄ぶことが出来るのかと。
煮えたぎる怒りを抑え込みながら、ジャックは唸った。
「……テメー、ラピスを何だと思ってやがる」
「最高の遊び相手かな?」
「……っ!!」
許せなかった。今この場で殺してしまいたかった。
こいつはクズだ。ラピスの幸せな生活を脅かす害虫だ。
「テメーの好きにはさせねぇ」
「僕は僕の好きにするよ。それが許される身分だからね」
「ぶっ殺してやる」
「あはは。楽しみにしてるよ。でも」
ルイスは去り際に言った。
「君程度が、ラピスの唯一になれると思ってるのかい?」
「……」
「自惚れないことだね。君なんかの代わりはいくらでもいる」
……あぁ、言われなくても知っている。
自分はどこまでも凡才で、未だダリウスにも勝てない腑抜けで。
それでも。
『私はね。結婚なんて考えてないけど、もしも夫を選ぶなら私のためにすべてを懸けられる人が良いの。私を殺さなきゃ世界が滅ぶと言われても、迷わず私を選んでくれる男じゃないと結婚したくない。だって、それが愛ってものでしょ?』
(俺は、全部懸けられるよ)
世界とラピスを選べと言われたら迷いなくラピスを選ぶ。
ラピスのためなら平民にもなるし、他国だろうがどこへでも行く。
あいつの幸せを邪魔する奴はどこの誰だろうが噛み付いてやる。
それだけがルイスとの違いで、ジャック・バランの誓いだった。
──幸せだった。
けれどこの幸せが永遠に続かないことも分かっていて、ジャックとラピスは危うい境界線の上で、互いが作った境界線を越えないように日々を過ごしてきた。男女の仲でもない、友情というほど安くもない、じゃあ何かといわれたらよく分からない、綱渡りの関係。
その日々は、唐突に壊された。
滅茶苦茶になった店を見た時、すぐにあいつだと思った。
同時に、ルイスが本腰を入れてラピスを手に入れようとしているんだとも。
「今回の一連の騒動……たぶん、ラディンが病気になった時から仕組まれていたのよ」
そう聞いた時、ジャックはあのニヤケ面が頭に浮かんで拳を握った。
(結局全部、あいつのせいかよ)
ようやく自由を手にして幸せに暮らすラピスを。
無邪気に笑うようになったラピスを。
身勝手な欲望で貶めて、辱め、生活を壊そうとする。
あの男が諸悪の元凶だ。あの男を生かしていたら、またラピスを脅かす。
──だから。
「じゃあ、俺辞めるわ」
「………………は?」
幸せを手放すことにした。
「はぁ──あ……マジで付き合ってらんねぇよ。馬鹿馬鹿しい」
「……やめるって、どういうこと?」
「分かんねーか? 今日でテメーの下僕は終わりっつってんだよ」
ごめんな、ラピス。
「どうして……今なの……」
俺だって離れたくないんだ。でも、
「皇族に逆らうのはやりすぎだ。付き合いきれねぇよ」
ルイスを害したらさすがに皇帝も黙ってはいられない。
向こうから冤罪をかけてきたラディンとは違うのだ。
何の証拠も掴めていない今、ルイスに手を出せばラピスは処刑されるだろう。
ルイスはラピスであっても簡単に捨てる。そういうやつだ。
ラピスが負けた瞬間、遊び相手としての価値を失って処刑を見過ごすはず。
「なら、お前はどうするの?」
「探索者に戻る。元から俺には関係ねー話だし」
だから、傍には居られない。
下僕なんか捨てて、どうか実家を頼って欲しい。
父親が嫌いなのは分かる。自分だってそんな父親に頼りたくはない。
でも実家には兄弟もいるはずだ。
特にツァーリ家の祖父はラピスを溺愛していると聞く。
せめて帝都ではなく、領地に戻ればラピスを守ってくれる……
そんなことを言っても、ラピスはおめおめ逃げる自分を許さないだろう。
そして、ラピスが逃げることを望まないルイスがどうするかは想像に難くなかった。
「俺が好きでテメーなんかの下僕やってると思ってたのか?」
幸せだった。
「笑わせんな。テメーみたいな女にいいように使われて、クソみてーな日々だったよ」
人生で最高の日々だった。
お前といるこの場所が。
お前と過ごすこの時間が。
お前と食べるささやかな食事が。
全部が全部、ジャック・バランの血肉で、宝物だ。
この二か月、世界中の誰よりも幸せだった。
「いいわよ。じゃあどこへでも消えたら」
あぁ、本当は傍に居たい。
ずっと一緒にいて、笑っていたい。
「あぁそうさせてもらう。これでテメーとも無関係の他人だな」
ラピスが悪いことをした奴に仕返しをしようとするのは正しい。
でも、今のままじゃその正しさ故に身を滅ぼす。
「えぇそうよ。消えなさいよ」
言質は取った。
ここまで嫌われたらラピスは何を聞かれても自分を捨てるはずだ。
皇族暗殺なんて大それたことにラピスを巻き込むことは決してない。
これでいい。
これがいい。
泥をかぶるのは一人で十分だから。
だから、お前はお前の幸せをつかんでほしい。
そう、思っているのに。
「……」
ジャックは血が出るほど唇を噛みしめていた。
扉を出ようとして、ドアノブにかけた手が震える。
「じゃあな。ツァーリの公爵令嬢殿」
……。
………………。
あぁ。やっぱりいやだ。
いやだ! いやだ! いやだ!
今すぐ引き返せ。今なら間に合う!
(俺は……っ)
今すぐ。今すぐだ。
ラピスの手を取ってルイスの手が届かないところに連れ去ってしまえばいい。
二人で一緒につまらないことで笑って、些細なことで喧嘩して、なんだかんだと恋仲になって、二人でずっと一緒に暮らそう。他の奴らなんてどうでもいい。ラピスが居ればそれで幸せなんだ。自分以外の男と結ばれているところを想像したら全部ぶち壊してしまいたくなる。そんなこと許してたまるか。
俺だけを見てほしい。
俺だけに触れてほしい。
「もう二度と会わねぇだろう……ま、達者でやれや」
だけどそれは、
ラピスの幸せじゃない。
自分が焦がれたラピス・ツァーリに、そんな人生は似合わない。
扉を閉め、背中を預けて天を仰ぐ。
(……もう、戻れねぇな)
熱くなる瞼を拭う。
決意を秘め、ジャックは走り出した。
◆◇◆◇
夜。
帝都の街を走りながらジャックは過ぎ去りし日々を思う。
(……結局、言えなかったな)
弱い自分を知られたくなくて、過去をほじくり返すのも嫌だった。
今の心地よい関係を壊すのも嫌で、結局気持ちを伝えられなかった。
次に会ったら、今度は素直になれるだろうか。
憎まれ口を叩かず、どこぞの皇子のように気持ちを正直に伝えられるだろうか。
ずっと伝えたかった。
でも、最後までお前に相応しい男になれなかった。
(なぁ、ラピス)
(お前は、俺のことをどう思ってたのかな)
人の性根は簡単に変わらないという。
ジャックも同じだ。
結局十年前と何も変わっていない。
たった一言すら満足に言えない軟弱野郎だ。
それでも、許されるだろうか?
十年もこじらせた想いを抱くことを。
もしも奇跡が起きて再会出来たら、伝えることを許してほしい。
(なぁ、ラピス)
(お前が好きだよ。十年前からずっと)
夜の闇に届かぬ想いを投げ、凶犬は走り続けた。
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