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 朝食を終え、身支度をすませた若井は「じゃあ、いってくる」とモフモフ野郎に声をかけた。

 この家では、諸般の事情から、夫であるモフモフ野郎が家を守り、妻である若井が外出することが多い。といっても「外で仕事をして家計を支える」とかではなく、単に大学に行くだけである。なにせ、若井はまだ学生なので。日々レポート提出に追われている身なので。


「今日こそ、掃除機をかけておけよ。特に台所と居間を念入りにな」

「わかった」

「それと、できたら洗濯も頼む。くれぐれも色落ちするやつと白物を混ぜるなよ」

「それもわかっている。高校時代にさんざん言われた」

「そのわりに混ぜて洗うだろ、お前は。学習能力のないヤツめ」


 若井の指摘に、モフモフの尻尾がブンッと素振りのように揺れる。

 表情変化の乏しい大賀だが、その分、彼の尻尾はよく動く。そのため、最近の若井は、大賀の顔より尻尾の動きを目を配ることが多い。


「それじゃ、あとはよろしくな」


 リュックを取ろうと手を伸ばすと、なぜか大賀にがっちりと捕まれた。


「……なんだよ」

「……」

「俺、急いでんだよ。手、離せ」


 いつもなら「要望があるなら言葉にしろ」と言うところだが、今回は敢えて避けた。だって、このタイミングでの大賀の「要望」なんて、絶対にろくでもないものに決まっている。

 なのに、こんなときに限って、モフモフ野郎は口を開くのだ。


「挨拶がまだだ」


 ──そら、きた。やっぱりろくでもないものだった。


「挨拶なら今から言うって。『いってきます』──」

「そうじゃない」


 大賀の手に、力が込められた。


「いい加減、慣れろ」

「嫌だ、慣れたくない」

「夫婦なら当たり前だ」

「そんなことないって! うちの両親はやらねーよ」


 そんな「いってきますのキス」なんて。

 ごにょごにょと若井は言葉を濁すが、大賀が手を離す気配は一向にない。

 このままだと時間の無駄だ。どちらかが折れるしかない。

 その結果、折れるのは、いつも若井なのだ。


「わかった。屈め」


 モフモフのしっぽが、パタンと揺れた。

 間髪いれずに屈んだ大賀の頬に、若井は軽く唇を押しつけた。


「これでいいだろ! それじゃ、いってきます!」


 捕まれたままだった右手がようやく解放され、若井は逃げるように玄関を出た。

 外はからりとした晴天──のわりに、肌にささる外気はやけに冷たい。


「ああ、くそ……ああ、くそ」


 きっと湿度が低くて乾燥しているせいだ。そういうときの体感温度は低くなりがちだって聞いたことがあるし。

 そう、間違っても「顔が火照ほてっているから」ではない。

 そのままずんずんまっすぐ歩き、駅前まで来たところで若井は「あっ」と声をあげた。


(今日は遅くなる、って言うの忘れてた)


 まあ、いいか。メッセージアプリで伝えるとしよう。

 そんなわけで、いつもの電車に乗るなり、若井はスマートフォンを取り出した。


 ──「今日、飲み会。帰りはたぶん終電」


 それから少し迷って、もう一文付け加えることにした。


 ──「先に寝てていい。鍵しめておけよ」


 よし、とうなずいて送信ボタンを押す。「既読」はそのうちつくだろうと考えて、若井はゲームアプリをたちあげた。

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