一話⑦終

 大空を舞台に鬼渡しをしていた翼人の素楽そらであるが、眼下に光を捉えた刹那、魔法弾と魔導具を構えた男を目視する。


「くたばりやがれクソ鳥め!」

 翼竜の家屋から飛び出してきた賊だ。手に持つ魔導具は銃の形状をしている、魔導銃と呼ばれる魔導具の一種だ。魔石を消耗品の如く使い潰すことで、威力や弾速、精度を上げた代物だ。


まずっ!)

 翼竜と距離があった為、彼女は滑空状態であった。加速するには遅すぎる場面、全力で空を叩き身体を捩って回避を行う。既のところで躱せる算段であったのだが、魔法弾は軌道を修正する様にして素楽を目指す。


(追尾弾!?)

 魔法弾は彼女の左腕、その翼部に命中し朱く透明感のある羽を打ち砕く。


 無理矢理に身体をねじって体勢の崩れていた時に、片翼を砕かれたことによって勢いそのままに地上を目指すことになる。

 不幸中の幸い、といったところだろうか、魔法弾は腕に当たっておらず魔力の羽を砕いたのみであった為、再度翼を展開して急ぎ羽撃く。とはいえ立て直すまでには至らず、高度が上がることはなく墜落するのであった。


 翼を大きく広げ身体を立てることで、勢いを大きく殺す事に成功したものの、完全な着地とは至らずに地面を転がりボロボロな様子である。


「いったぁ…」

 新品であった騎士服は土と枝葉で塗れ、可愛らしい顔には小さな切り傷擦り傷、あしゆびに生える獰猛そうに見える爪は小さく欠けている。とはいえ見た限り大きな怪我などはなく、骨も折れている様子はない。


(…早く逃げなくちゃ―――)

 素楽は翼竜に追われている。墜落して地上にいればカモでしかない。飛び立てる場所に移動しようと周囲を見渡した瞬間に、大きな羽撃き音と共に翼竜が着地する。ドスンという重量感のある音と共にだ。


 ギャアアアアアアァァ!

 耳を劈く咆哮を上げた翼竜は、憎たらしい小鳥へと血走った瞳を向ける。絶体絶命とはこのことなのだろうと思われる状況だ。

 いた短剣に手をかけ構えるも、大地を掴む趾は震えている。全身に嫌な汗をかきながらも素楽は対峙する。


(……短剣じゃ鱗を抜けない。徹兄ちゃんがくれた魔導具で岩をぶつけれれば、隙きができるかもしれない。込められるだけの魔力を込めて放つ!)

 翼竜は直様襲いかかってくることはなく、ジリジリとにじり寄る。先程までの様子から、見かけるやいなや喰いかかって来そうなものだが、案外のこと冷静らしい。どう料理してやろう、などと考えている可能性がなきにしもあらずだが、襲いかかってこないのであれば、魔力を込める余裕ができる。虚仮威しではあるが、素楽はこちらから攻め込まんばかりの眼光で翼竜を睨めつけている。


 先に痺れを切らした翼竜が駆けると同時に、素楽は足に付いた魔導具から岩の魔法を放つ。岩は勢いよく翼竜の顎へと命中、怯んだ隙きを見て素楽は走り抜ける。後方には背の低い木々が幅を利かせているため、前に逃げる他ないのだ。


「よしっ!――ごふっ」

 脇を抜けて後は羽撃いて逃げるだけといったその時に、脇腹に強烈な一撃を貰うことになる。長い尻尾で薙ぎ払われたのだ。勢いよく木に打ち付けられた素楽は、口からすべての空気を吐き出した。新たに空気を取り込もうとするが、引きった喉と硬直した肺では正常に呼吸することは叶わない。


(…どうしようかなー。これ)

 じんわりと目尻に涙を浮かべながら、どうにか逃げる算段をするが呼吸すらままならない状況では、できることもそうないだろう。虚を衝けた岩の魔法も二度は通用しないだろうし、翼竜の様子を見る限り有効だとはいえない。


 せめてもの思いで短剣を握り翼竜をめつける。なんの抵抗もなく食われるのではしゃくだと。


 顎に岩を受け怒り心頭に発する翼竜が襲いかかろうとするその時に、同等の大きさをした何かが翼竜を吹き飛ばす。翼を広げ後肢で立ち上がり、ピィイと鳴き声上げたそれは鷲獅子わしじしの雪丸だ。


 体格こそ雪丸の方が小さいが、上にのしかかり翼を前肢で押し付ける形で拘束し、鋭利な嘴で執拗に突いている。


「素楽殿ご無事で!囮役は我らが引き継ぎますので、素楽殿は朝露で本陣にお戻りを!」

 翼人数人と雪丸よりも一回り大きい鷲獅子が遅れて現れる。朝露と呼ばれたのは大きい鷲獅子で雪丸の親である。素楽が動けないと見るや、翼人は急ぎ担ぎ上げ朝露の鞍に乗せる。


「朝露、素楽殿を落とさぬように飛べ、いいな。よっぽどのことがない限り落ちることはないですが、しっかりとお掴まりください」

「…助かり、ました。ありがとうございます」

「いえいえ、大婆様を助けていただいた事を思えば、まだ足りないくらいですよ!それではまた!」

 朝露は翼人と目配せをした後、大きく羽を広げて飛び立つ。


「羽つきクソ蜥蜴とかげめ!ここは我らの縄張りだ、覚悟しろってんだボケ!」

 打って変わって翼人らは、天敵たる翼竜へと敵意を剥き出しにして、時間を稼ぐべく襲いかかる。


 松野に里を構える翼人は鷲獅子と共生している。他所に里があるかといえば肯定しかねるのだが、それは置いておこう。

 共生することになった由来は翼竜に起因する。その昔、翼人は餌として里を襲われ、体格から有利であった鷲獅子も数の多い翼竜には手を焼いていた。目の上のたん瘤というやつだ。翼人と翼竜、鷲獅子と翼竜は敵対関係、翼人と鷲獅子はといえば、仲の悪くない隣人といったところで、敵の敵は味方だと気がつけば協力共生関係になっていったのだ。


 そんな過去から、彼らは翼竜を蛇蝎だかつのごとく嫌う。遠方から群れが飛来しようものなら、松野に存在する翼人の里がすべて協力するほどだ。


 翼人らが杖を構えて魔力を込め終わるのを見計らって、雪丸は翼竜から離れる。魔導杖から放たれた魔法は、赤褐色の鱗を傷つけるの精々で有効打とはなりえない。本人らも理解しているようで、ある程度魔法を叩き込んだ後に、雪丸共々飛び立つ。あくまで囮役だということだろう。彼らは朝露を追うように本陣を目指す。


「下に魔導具、銃形状のを持っている賊がいるから気をつけてね」

 鞍に跨った素楽は朝露に向けて警告する。人を乗せた鷲獅子では流石に回避は叶わないので、警告するだけ無駄の可能性もあるのだが、賊のような者を見かけたら迂回するくらいの予防策は取れるだろう。


 実はどこぞの傭兵団が既に片付けていたりするのだが、そんなことは知る由もない。

 本陣の上空、眼下には翼竜を迎撃する為、陣を組んだ兵士と冒険者らが視界に入る。真上を駆ける大翼に、彼らは翼竜かと攻撃を行おうと構えるが、指揮をする騎士が停止命令を出すことで不用意な戦闘を回避する。


「素楽くん!ああ、よかった。君に何かあれば、宗雪そうせつ様や百花ももか様に顔向けが出来ないからね。五体満足で戻って来てくれたこと嬉しく思うよ」


「只今帰還しました。…迎撃の構えは十分なようですが、弓が余っていれば私も加わりたく思います」

「ふむ、もう十分に働いてくれたと私は思うのだがね。そこまでいうならば弓を取り置いてあるから使うといい」


「ありがとうございます。松野騎士の末輩として、借りは返せねばなりませんので」

「無茶はしないように、ね。弓を取りにいくついでで癒法を受けるのだよ?」

「りょーかい、です」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた素楽は、癒法師の元へ駆けてゆく。


(宗雪様、と百花様から大目玉を食らう覚悟をしとかないと…。しかし、本当に無事で良かった)

 小さな背中を見送った石堂は方方へと指示を出す。次に鷲獅子が通り抜ければ、次は翼竜だと。


 弓の具合を確かめつつ戦列に加わると、上空に翼竜が映ずる。石堂の号令で戦端が開かれ魔法や矢が翼竜を襲う。種族として優れる存在であろうと、圧倒的な物量差にはかなわないといった様子で、翼膜が裂け地上へと引きずり落とされる。


 地上に落ちてしまえば大きいだけの蜥蜴、強固な鱗で身を固め強靭な身体を振りかざそうと、多勢に無勢で魔法と矢で蜂の巣にされれば方なしというもの。時間は掛かったものの翼竜は首を落とされる事となった。


「「うおおおおおおおお!!!」」

 誰かが上げた勝鬨かちどきが伝播する。


「はぁ、おわったぁ…」

 大弓を担ぎ直した素楽は大きく息を吐き出して尻もちをつく。死と隣り合わせ状況の終わりによって、張り詰めた緊張の糸が切れたのだろう。


 本命たる賊の掃討は終わっていないのだが、皆一様に一仕事を終えた雰囲気となっていた。


「いやはや、まだ終わってないのだけどね。ま、仕方ないか」

 困ったような表情を浮かべた石堂が浮かれている面々を見回してため息を吐き出す。


「あはは、こうなっちゃしょうがないですねー。明日からは山狩りですか?」

「そうなるね、こりゃ仕事が長引きそうだよ。素楽くんは明日の朝一番で城まで書簡を届けてもらうことになるね。後のことは文虎様や宗雪様に指示を仰いでくれ」


「りょーかいです。…厄介なことになりましたね。翼竜の事もですけど、魔導銃を所持している賊もいました。徹兄ちゃんほど詳しくはないですが、威力や精度の品質が高いものだったと思います。ちょっとした嫌がらせにしては、お金が掛かってますよ」

「ふむ、見た目での判別は?」

 素楽は首を横に振りながら肩をすくめる。


「流石にちょっと。はっきり言えるのは、間違いなくウチのではないってことだけですねー。回収できればとおる兄ちゃんが判別できると思いますが…」

「…骨が折れそうだよ」

「頑張ってください、石堂いしどう騎士長サマ」


―――


「おわっ、雪丸。甘えん坊さんだね、君」

 早朝に素楽が松野に戻るということで、雪丸が立ちふさがっているのだ。素楽のことが大層お気に入りのようで、翼竜との戦いの後はずっとベッタリとくっついている。


「よしよーし、また遊ぼうねー」

 首に抱きついて撫で回せば気持ちよさそうな顔をして、手を止めて離れればしゅんと肩を落とす。まるで大型犬だ。

 ある程度の言葉は理解している生き物なので、一度嘴を擦り付けた後に自ら飛び去っていった。


「それじゃあ書簡と魔導銃は間違いなく届けてくれ」

 書簡に加えて魔導銃と賊の持っていた書類が運搬品に加わっている。


 昨日の夕刻、賊の頭目を捕らえた長命ちょうめいら傭兵団が、戦利品と共に帰還した。その戦利品が件の魔導銃と家探しで出てきた書類である。


 何故に態々証拠になりそうな書類を賊に渡していたのか、賊が捨てずに保管していたのか、と違和感と疑問が残るものだが証拠は証拠である。


 証拠書類を信じるのであれば、下野しもつけ領の三嶋みしま家が関わっていることになる。松野と下野は犬猿の仲といってもいいほどで、嫌がらせをしてくる可能性としては無きにしもあらず。だが、ここまでの賊を送り込んだ上で、魔導銃と翼竜を用意する程の余裕があるかと聞かれれば、首を傾げざるを得ない領地だ。


 そこまで領地間の外交に明るくない騎士の顔ぶれが、このあからさまな証拠物品に何かしらを感じるほどであった。捕らえた賊らに“お話”を伺っても概ね間違っている様子はないのだから不思議なものだ。とはいえこれらのことで頭を悩ませるのは彼らの仕事ではないので、専門家に任せようと思考放棄するのであった。


「はーい、任せてください。それではご武運を」

「さて、今日も忙しくなりそうだね」

 見送りを終えた騎士らは山狩りに備えて行動を始める。


―――


「――といった感じだね」

 城の執務室。素楽からの報告を聞きながら石堂からの書簡に目を通した文虎ふみとらは、蟀谷こめかみを抑えるようにして瞑目する。一頻り頭を抱えた彼は絞り出すように、ため息を吐き口を開く。


「こうして顔を合わせられたことは喜ぶべきだな、無事でなにより。……下野が関与しているのは確実、挑発でもしているつもりだろう。こっちにはこれだけの備えがある、やり返せるものならやってみろとな。書類は証拠にはなりうるが、決定力に欠けるうえ一々突いたところで、煙に巻かれるだけ。多少の制裁を加えるのは確定だが、父上にこれらを送れば中央で面白楽しい舌戦をしてくれるだろう」


「戦には?」

「ならんならん、下野の連中にそんな余裕はないさ」

「良かった。戦なんかになれば、領民の楽しそうな姿が見れなくなっちゃうからねー」

(…お前の才が最も輝くのは戦時なのだが……そんな活躍はしたくないだろうな)


「そうだ。…父さんと二人で話したいことがあるんだけども、いいかな?」

 頬を掻き照れくさそうな表情で、素楽はお願いをする。意図を理解した文虎は無言で控室を勧める。


「父さん…」

 そう小さく呟いた彼女は宗雪に抱きつく。驚きもせず受け入れた彼は、慣れた手付きで頭を撫でる。


 何も言葉を発することのない二人であったが、顔を埋めた素楽が小さく嗚咽おえつを漏らす。

 年齢の上では成人しているが、まだまだ若年といって差し支えない。報告の過程で翼竜に対する恐怖心がぶり返したのだろう。魔導銃が直撃したら、雪丸らが遅れればと、場合によっては今生を終えていた可能性すらあった。むしろ今までよく気丈に振る舞えていたものだ。


「…怖かった」

「そうだな」

「…もしかしたら…死んでたかもしれないって思って…」

「大丈夫だ、素楽はここにいる」


「うん…」

「騎士が嫌になったか?」

「ううん。…あたしも香月だから」

「大きくなったな」

 素楽が落ち着くまでの間、宗雪はゴツゴツとした掌で頭を撫で続ける。


「そろそろ戻らなくちゃね。今日は屋敷に帰ろうと思うから、父さんの仕事を手伝うよー」

「ゆったりと休んでいても良いのだぞ」

「まだ昼前だし、半日も城でやることもないよー」

「…昔は好き好んで忍び込んで、一日過ごしていいただろう」

「あはは、昔は昔、今は今だよ。わぷっ」

 手巾で泣き跡を拭き取って、二人は控室を後にする。


「というわけで仕事を貰うねー。十露盤って備品室にあったっけ?」

「あるだろうが、帰っても構わないのだぞ?人手は欲しいが、此度は十分すぎる程に働いているしな」


「あったあった。どうせここにいるんだし手伝ってくよ、少しすれば天夏なんだから大変でしょ。側近として手腕を振るわないとねー」

「そうかい、側近サマの手なら猫よりも確かだ。朔也の抱えてる書類を一部頼む」

「はーい。朔也様、お隣を失礼しますね」

「ああ、うん」

 体質の都合上、あまり他人に近づかれることのない朔也は少々困惑したのだが、魔力に鈍い素楽はお構い無しで仕事を始める。年頃の、とは言い難い体格ではあるが、年頃の女の子が隣に居ることで落ち着かないのだが、そういった感情にも鈍いのが彼女である。


 黙々と仕事を進める素楽を横目に、朔也は助けを求めるのだが文虎は悪戯っぽい笑みを浮かべるのみ。


(薄情者め!)

(くくっ、いい薬だろ)

(…仕事をしろ)

 宗雪の猛禽もうきん然とした鋭い眼で一睨されて、若造二人は書類へと瞳を落とすのであった。


―――


「ただいまー!なんかちょっと懐かしいなー」

 いくつかの荷物を抱えた素楽が香月邸に帰宅を告げる。彼女が帰省するのはいつぶりなのだろう、出迎えた使用人たちが驚いた表情を見せているではないか。


「おかえりなさいませ。おや、姫様ではございませんか、おかえりなさいませ。お荷物はこちらで、お預かりしますね」

 ほっほっほ、と笑いながらニコニコと笑みを浮かべる老年の獣人、彼は香月家の家令で使用人の長、名は一昌かずまさ。古くから香月家に仕える重臣だ。


「この子は丁寧に扱ってねー。あたしの部屋の窓際に置いといて、月光浴が好きなんだ」

 素楽が使用人に手渡したのは、お化け人参のニンジンだ。葉だけ土からだして小さく鳴き声を上げており、馬車の移動はお気に召さなかったことが窺える。


「それにしても一昌はまだまだ元気だねー」

 キビキビと使用人らに指示を出して取り仕切っている姿は、とても老年とは思えない。素楽の知る限りでは、足腰を痛めている姿や業務に音を上げている姿を見たこともないのだから、壮健といわずしてなんというか。


「ほっほっほ、まだまだ現役、後進に家令の座を譲る気にはなりませんな」

 目尻に笑いしわを刻みながら、力こぶを作り自身が現役であることを主張している。なかなかに茶目っ気のある御人だ。


「それでは愛理あいりが来ましたので、姫様は先ず湯浴みとお着替えを」

 はーい、と間延びした返事をした素楽は、愛理と呼ばれた小麦色の髪と尻尾をした獣人侍女に連れられ浴場へと向かう。


「お久しぶりでございます、姫様。…ところで、その、随分と騎士服が傷んでいるようですが、お話を伺っても?」

「あー、仕事で鷲啼山わしなきやままで?」

 表情を一切変えない愛理だが、耳はピクリと動き尻尾を上げる。


「……左様ですか」

「大したことはなかったから問題ないよー。落っこちただけで、傷もすぐに直したから跡も残ってないし」

「…はぁ。姫様にはもっと安全なところで、安穏と暮らしてほしいのですが。無理でしょうね」

「あはは…」

 曖昧に笑い誤魔化しても、愛理は何か言いたそうな瞳を向け続ける。諫言の一つや二つを心に留めているのだろう。


 浴室では既に湯浴みの用意を終えているようで、素楽が現れれば使用人らによって手際良く衣服が剥ぎ取られてゆき、珠のような肌が露わになる。


 のんびりと浴室の壁を眺めていれば、身体の隅々まで綺麗に磨かれて、良い香りのする浴槽へと案内される。


「んんー極楽極楽ー」

 彼女の住まう部屋、その浴室にも浴槽はあるのだが、一人暮らしでは湯船を用意するというのは億劫なもので、一度たりとも湯が張られた形跡はない。


 更衣室で忙しく衣服の用意している物音に耳を傾けつつ、浴槽で身体を伸ばしては大きな欠伸をする。


 昨日は中々に大変な仕事に加えて、慣れない宿で疲労が抜けていないのだろう。今日も今日で半日は事務仕事、書類を持って走り回っていることも珍しくなかった。


 そういった結果、浴槽でコクリコクリ、ウトウトと舟を漕いでる。


「姫様ぁ、お風呂で寝ちゃダメですよぉ」

「…うん、だいじょう、ぶ」

「これは、大丈夫じゃないですねぇ。お着替えの準備ができたので、こちらへ」

「…んー」

 半ば寝ているような素楽は、使用人に手を引かれて更衣室まで向かう。


「姫様ぁ今日はもうお眠りになりますか?」

「……んー。…そうする」

 湯冷めしないよう使用人が総動員でお世話をする。髪や身体が言うまでもないのだが、羽毛で覆われた両の腕は厄介の一言に尽きる。

 使用人らが一仕事を終えて満足感に浸る頃には、当の素楽は小さな寝息を立てており起きる様子は見受けられないのである。


「おやすみなさいませ、姫様」


―――


「奥様、姫様なのですが。…その、もうご就寝に」

 驚いた女性に声を聞いた愛理は、淡々と言葉を続ける。


「大変にお疲れの様子で、着替えの最中には既に寝息を立てておりました」

「…そう、なら仕方ないですね。積もる話は明日にしましょうか」

「それがよいかと」

 鳩羽鼠はとばねずみ色の髪を揺らし、上品な仕草で食卓に着いた女性は、少しばかり気落ちした態度を見せる。彼女は香月百花、香月家の長子と次子の生母だ。


「鈴、素楽が帰ってきたようです。明日は三人でお茶にしましょう、最近は暖かな日差しが心地よいので東屋が良いかしら」

 遅れて現れた白髪の妖禽ようきんの翼人、素楽を大きくしたような女性が現れれば、百花は楽しげに話を進める。いうまでもないだろうが彼女は素楽の生母だ。名はすず、宗雪の妾で香月家お抱えの薬師だ。本人が婚姻を望んでいないため妾という立場にいるが、宗雪や百花からは側妻そばめとして打診を幾度か受けている。


「おや、そうなのかい?前に会ったのは…十六の誕生日の時だったかね」

「そうです。半年も帰ってきていないのですよ!鈴の方からも小忠実に帰省するように説得してくれません?」


「あはは、もう二十年以上も家に帰ってないあたしが言っても、説得力なんてありませんよ」

「……そういえばそうでしたね」

「冒険者稼業に満足すれば落ち着くとは思うんですがねぇ。外に出すことは無いんですから気長に待ちましょう」

「むう」

 納得半分不服半分といったところか、百花も素楽に無理強いをする腹積もりはなく、小さな愚痴として零れ出ただけなのだろう。


 百花は素楽を非常に溺愛しているが故、仕方ないのかもしれない。生母が自身ではないとはいえ、手のかかる男児の後に生まれる娘は非常に愛らしく思えるもの。赤子の頃こそは多少の遠慮などもあったのだが、可愛らしい衣服で着飾ることができるようになれば、彼女のきせかえ人形と化してしまったのだが。それはもう、毎日飽きもせずにきゃっきゃわーわーと黄色い声を上げてだ。


 とはいえ溺愛していたのは彼女だけかと問われれば否で、一家一団となって素楽を構い倒していたのだが。

 そんな訳で百花は素楽に飢えていた。ぬか喜びで盛り上がっていた分、落ちた反動は大きい。


「寝顔をちょっと拝むだけなら…。食事の後にでもご一緒しませんか?素楽の部屋に寄りたい気分なもんで」

「名案ね!」

 即断即決。

 こうして香月の夜は賑やかに過ぎてゆく。

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