十九話

 それで、と私は切り出した。

「まだ、話は終わってないんでしょ?」

彼が私の手を取り、進行方向へとゆっくりと引っ張る。私達は再び歩み始めた。予想した通り、話の続きがあるらしい。彼は真っ直ぐ前を向いて歩いていたけれど、次に口にする言葉を思案している様子だった。


「さあ、続けて。今日この場で、あなたが言いたいこと全部、あたしに吐き出して」

歩みを続けながら、私達の視線が合わさった。彼は薄く微笑んでいる。

「さあ、話したまえ!」

私が声をあげると、彼も吹き出して声をあげて笑った。


 少しの間があって、ようやく彼が口を開いた。

「人ってさ・・・、自分以外の人から見るといつもと変わらない様子でも、思い詰めて悩んでたり、追い込まれてたりするよね」

私は彼の目を黙って見つめながら、話の先を促した。

「仲の良い友達や家族どうしでもさ、見た感じはいつもと一緒なのに、実はその人は心の中ですごく葛藤してる。既に結構出くわしているのかも。そういうシーンに」



 そうかもね。と、私はその一言だけを口にする。



「自分のメンタルの不安定さや脆さを、俺は何度呪ったことか。安心になれる本みたいなのがあれば、俺は何十回、何百回と読み耽るだろうね」

再び彼の右手の温度が、少しずつ上昇を始めていた。

「常に安定している人、または精神をコントロールし、安定状態へと導く能力を持つ人間を、俺は真に尊敬するよ」

 

 今度は私が薄く微笑んでいた。

「滅多に居ないわ、そんな人」

彼の方を向いてみる。そうかなあ。と、彼も笑みを浮かべて言った。



「でもねぇ・・・、なっちゃったもんは仕方ないよね」

彼が、前方を真っ直ぐと見据えながら言った。なっちゃったとは、振り払えない不安に駆られる時期や時間の事だろう。

「だから俺は、スポーツや勉強なんてそこそこ出来れば良い。仕事だってそこそこで良い。見た目だって・・・」

ま、見た目は元々そんなによくないけどね。彼は、そう付け足した後、勿体ぶったように間を設けた。

「とにかく、俺は、こうなってしまった以上は、精神が不安定になってしまった以上は、いかなる状況にも立ち向かう能力が欲しい。立ち向かう精神力が」


 ふう、とそこで私は深呼吸をした。

「もっと楽に考えられない?もっと楽に生きれない?」


 彼は、私の問いに答える代わりに、何故自分があまり他人の悪口や陰口を言わなくなったのか。や、浪人生の時に予備校で一目惚れした北海道大学の女の子のこと。幼少期から今に至るまでどんな事を思い、考えて生きてきたのかを私に詳しく語ってくれたのだった。

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