十五話

 新幹線の窓の外には、住宅街やビルの景色が増えてきた。直に目的の駅に到着しようとしている。間もなく、彼と

再会することになるだろう。改札まで迎えに来てくれることになっている。

 私は、空になって冷たくなったコーヒーの缶をギュッと握りしめ、振り返った数々の思い出をもう一度反芻してみた。


 これと言って大きな心境の変化はなさそうだ。隣の紳士も降りるための身支度を始めていた。ノートパソコンを閉じ、それをアタッシュケースの中に入れる。私も席上の棚に置いてあったバッグを取った。紳士が席を立ち、前方の方へ歩いて行く。私は後ろのドアから出ることにした。


 外の空気はひんやりとしていた。私は立ち止まり、軽く深呼吸をする。赤いトレーナーを着た小さな女の子が、駅のホームにある自動販売機の前に立ち、展示用のジュースをじっと眺めていた。


「ママ、これ飲みたい」

女の子が飲みたいジュースを指差した。

「じゃあ、お金あげるから自分で買ってごらん」

母親らしき女性は、女の子に数枚の硬貨を手渡した。女の子が嬉しそうに販売機に硬貨を入れていく。

 

 ところが最後の一枚がうまく入らず、女の子は、あっ、という声と共に硬貨を落としてしまった。硬貨が私の方に向かって転がってくる。硬貨は十円玉だった。私はその十円を拾うと、

「はい、どうぞ」

と笑顔で手渡した。女の子は十円玉を受け取ると、私の顔を見て何やら不思議そうな表情を浮かべていた。

 女の子が何も言わずに販売機の方に走って行く。このやりとりを眺めていた母親が、ありがとうございます、礼を述べた。私は、女の子の母親に笑顔で軽く会釈をすると、ホーム中央にある階段に向かって歩き出した。

 


 私は至って『普通』だった。彼に会うのは実に五年ぶりだけれども、緊張したり身構えてしまいそうな予感はない。新幹線の中で覚えた不安感、それはある種の楽しさも含んでいたけれど、いつの間にか心の中から消え去っていた。

 私は改札の方に向かって歩き続ける。ふと視界の端の方で、誰かが私に向かって手を上げていた。私はその相手に視線を向ける。

 彼、だった。間違いない。彼は、五年前と少しも変っていない。私は改札を通り抜けると、今度は彼に向かって歩き続けた。



「よお、京子。久しぶり」

彼が、笑顔で言った。

「久しぶり」

私も笑顔で応じる。

「何か痩せたじゃん。ダイエットしたの?」

「いや、もともとだし」


 彼が、どこか照れくさそうに視線を逸らした。この時、私は、自分の胸の奥底から、得体の知れない何かが少しずつ湧きあがってくるのを認めた。言葉を発しようとしたのだけれど、声が、出ない。


どうしたんだろう?


 彼が、戸惑いと心配の混じった顔を浮かべていたようだけれど、私の視界は流れ、モザイクがかかったようだった。涙が溢れ出てくる。


どうしてだろう?


こんな事は、予想していない。予感さえもなかった。

それなのに、どうして?


『普通』に、戻れたから?・・・何を言っているのかしら。私は至って、『普通』だ。


 最初から。

 生まれた時から。

 小学校の前も。

 その後も。

 それなのに。それなのに。

 

 そして、沈黙。

 彼と、私を包む沈黙。

 


 憎むためじゃないでしょ?

 誰かのために今日も笑うの?

 叫び生きろ

 私は生きてる



 そして、沈黙は崩壊した。

「今度は・・・、今度は、あ、あたしが」

嗚咽を漏らしながら、ようやくそれだけ言えた。

「あなたに、告白します」


一本の太い線が左の頬を伝わる。


「だから・・・、あたしと結婚して下さい」


 彼の前で、私は大粒の涙を流していた。彼の前で泣くのは、これが二度目だった。

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