十三話

 酔いが冷めたせいか、彼も私も先程の居酒屋の時とは違い、あまり話が続かなかった。私は一口お茶を飲んだ。既に冷めている。私は、湯飲み茶碗をテーブルの上にそっと置いた。少しの会話の後にまた沈黙。その繰り返し。けれど、その沈黙はちっとも気まずいものではなく、自然で、ある種の心地良さも感じられる。


「ちゃんと勉強してんだな」

彼は、立ち上がると、本棚の前に向かう。そして、その中の本を一冊取り出し、表紙をじっと眺める。

「『群・環・体 入門』・・・ 、何だこりゃ?」

不思議そうに見つめ、パラパラとページをめくっていた。


「数学の本」

私が答える。

「なるほど。さっぱり分からん」

「でしょうね」


 彼は、苦笑いを浮かべながら、腰に手を当てていた。立ったままだったので、ちょうどベッドに座っている私を見下ろすかたちとなる。


「京子の隣に行っても良い?」

彼が訊いた。少し緊張気味に。

「うん、良いよ」


 笑顔で応じることができた。彼が、ベッドに腰かけていた私の隣に、ゆっくりと座る。しばらくお互いに何も喋らず。沈黙が部屋を支配する。

 コト、と天井から音がした。二階の人が何か物音をたてたのだろう。ちょっとびっくりして、彼と一緒に笑った。壁に掛けてある時計が、午前一時十分を指していた。もう木曜日か。ふとそんなことを考える。



「京子」

彼が、私のことを真剣に見つめてくる。

「え、なになに?」



 次の瞬間、私と彼は唇を合わせていた。彼が一瞬、唇を離す。こういう時、果たして女の子はどこを見ていれば良いんだろう。そんな疑問が頭に浮かぶ。彼が、またも唇を合わせて来た。そうだ、目を瞑ればいいんだ。私はゆっくりと目を瞑る。私の肩を掴む力が、少しずつ増していくのが分かる。今度のこの時間は、最初のそれよりもずっと長かった。


 次第に、過去の風景が想い起こされた。ここはどこだろう? そうだ、小学校の教室だ。どうして自分一人だけ? そっか、計算ドリルの進みが遅いからって、担任の先生によく居残りさせられてたんだっけ。


 別に遅いわけじゃなかったのに。

 人並み以上に早かったはずなのに。


 どうして私だけ居残りさせられたんだろう。あの時の違和感と、今の唇の感触を結びつけるものは、一体、何?気がつくと、彼が、少し不安な表情を浮かべながら私のことをじっと見つめていた。



「ごめん。・・・嫌だった?」

彼が訪ねた。

「ううん、嫌じゃないよ」

少し間を置いて応える。

「いや、でも、やっぱりごめん。驚かせて悪かった」

彼が、私から視線を逸らす。

「どうして?」

私が彼に、訊く。

「なんていうか、いつも俺からばかり求めちゃっててさ。京子は、あまり望んでなさそうだし。いつも俺の方が一方的だ」

「そんなことないよ」



 本当にこれは本音だった。彼のことを想っていることに対しても、偽りはない。少なくとも私の場合、彼に対して抵抗しないことが、最大限に彼を求めていることになるのだ。



「前に何かあった?」

彼が、質問して来た。

「何か、って?」

私は隣に座る彼を、真っ直ぐに見据えた。

「恋愛とかでトラウマになるようなこと」

「ううん。特に、何もない。どうして?」

「何となく」

「あたし、普通の女の子とは違ってるかな?」

「うん。ちょっと」

「ふふふ、正直ね」

しかし、この素直で正直なところが、彼の一番の魅力だった。



「まともな人格を形成していくうえで、最も重要で、基礎となるのはいつ頃だと思う?」

不意に私が、彼に問いかける。表情は少し笑っていた。

「中学くらいかな。青春真っ盛りだし」

彼が思案顔を浮かべながら答える。

「なるほど。あたしは、もっと小さい頃だと思う。小学生とか、それこそ低学年」

一瞬、彼の表情が凍りついたように見えた。彼なりに何かを感じたようだ。


「まあ、普通の人の気持ちも想像はできるんだけどね。素のあたしは、そうじゃない。だから、上手に振る舞えない」


 私は少し俯き加減になった。彼は、私のことを抱き締めない。私はそれが正解だと思った。少しの沈黙の後、彼が、口を開いた。


「どんなにまともな人間でも、不運な巡り合わせや、わずかに歯車が狂ったりするだけで、いつでも魔王になる可能性を秘めてるもんだよ」


魔王。何だか大袈裟な表現で可笑しかった。私はまた、心の中でクスクスと笑う。


「けど、俺は、それでも負けずにまともで居続ける人間が居ると思いたい。男であっても、女であっても。その希望だけは、持ち続けていたいな」

「・・・」

 何の話をしているの? とは言わない。その代わり、あなたの言わんとしていることがそれなりに的を射ている、とも私は言わない。


「何だか、よく分かんなくなってきちゃった。考え過ぎは良くないって事かな」

そう自分に言い聞かせることで、心の決着を付ける癖がいつの間にか備わっていた。



 再び沈黙が私と彼を、包む。しかし私は沈黙を破った。そして、彼に問いかける。

「あなたは、あたしの骨の髄まで好きになれる? 真剣に。あたしの骨の髄まで愛せるの?」

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