私についての物語

@tree-kangaroo

第1話 葵

 これは私が、私という人生を生きるために戦った記録である。


 私は、仲のいい両親のものとで育った、ごく普通の女の子だった。

 名前は井上葵という。しかし、この苗字は、早々に意味をなさなくなる。

 いつも眼鏡をかけた優しい父と、もの静かで穏やかな母。私は一人っ子で、とても可愛がられた。祖父母はどちらもいなかった。父はもともと母子家庭で育って、お母さんは父が結婚したころに亡くなったらしい。母の方もどちらも私が記憶もないほど幼いころに亡くなっている。父は私と同じ一人っ子で、母には妹がひとりいて、私の両親以外で親類と言える唯一の人だった。

 私は幸せだった。祖父母がいなくても、いとこがいなくても、幸せだった。小さな団地で暮らしていた。父は何か商売をしていて、幼い私にはわからなかったが、自分の家が裕福でないことは知っていた。でも、それは私の子ども時代に何の障害にもならなかった。

 

 あの団地に暮らしていたころ、ひとつ、のちの生活に繋がると思われるエピソードがある。当時は分からなかったが、その意味が後々分かった、という出来事だったので記録する。

 たぶんあれは、私が小学校一年生の頃だ。初めて買ってもらった自分の机に、赤いランドセルと黄色い帽子がかかっていたことを覚えている。その日は学校がお休みだったが、朝から両親はどこか緊張していた。お客さんがくること、決して部屋からは出ないこと、そういい含められていた。

 両親が言ったとおり、スーツ姿の男性がふたり来た。母が、四階の団地のベランダから下に止まった黒塗りの車を見下ろして、急いで部屋の中に戻った。黒塗りの車から人が三人出てきた。ひとりが急いで運転席側から反対側に回って、車のドアを開けた。昔のドラマに出てくるようなシルクハットをかぶったおじいさんと、まだ若い男の人が下りてきた。何か袋を持っていた。その瞬間、若い男の人がぱっと顔を上げて、四階にベランダから身を乗り出した私と目が合った。きれいに撫でつけられた黒髪と太い眉の下にある強い目が印象的だった。私は驚いてぱっと身を引いて部屋に戻った。

 それから言われた通り部屋からは出なかった。


 お客さんはどうやらうちの両親が好きで招いた人ではないらしい。それは子ども心にも分かった。

 低い声でぼそぼそとした会話が隣の部屋から聞こえてきた。それにうちの両親が、小さく頷いたり、短く答えたりしている。今から思い出すと、その日の印象はそんなかすかなものしかない。これは私があとから、あの日のことを思い出し、事実を鑑みて補ったものなので、記憶自体がひどくあいまいだ。でも、おそらくそんなに事実とは外れていないはずだ。


 お客はすぐに帰った。

 私はベランダの外に出たい欲求と戦っていた気がする。気になるけど、見てはいけないような気がして、そのそばの壁にもたれ掛かったまま、外の様子に耳を澄ましていた。

 ずっと外で待っていた黒塗りの車のドアが開けられ、短い会話が続いた。その間も、あの強い目をした男性が、この四階のベランダをじっと見つめているような気がした。


 その日は不思議な一日だった。お客が帰っても、ふたりは元気がなく、言葉が少なかった。何か悪いことがあったのだと、子ども心に早く寝かされた布団の中でいつまでもまんじりとしていた。

 しかし、両親が元気がなかったのはその日一日だけで、翌日はごく普通の父と母だった。

 なんだ、何でもなかったんだ。

 安心したのを覚えている。


 本当の大事件が起こるのは、このあとの話だ。

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