第150話 三善結生子(大学院学生)[14]

 結生子ゆきこがいる部屋は、龍乃たつのちゃんの部屋と同じつくりだ。

 たんすは、衣服だんすが一つと、茶だんすが一つで、あと押し入れに布団が入っている。ありがたいことに、勤勉な先生には隣の部屋が与えられていて、ここは一人部屋だ。

 天井から蛍光灯が照らしている。それだけの部屋だ。

 時計を見る。

 日付が変わっていた。

 独り言を言う。

 「わあ天辺てっぺん越えてるよブラック指導教授のせいで……」

 でも、寝る気にはなれない。

 寝る前に、さっきの会話を文章にまとめておこう。

 玉藻たまもひめは実在した、とは書けない。

 わかるのは、せいぜい、天保てんぽうの時代に八十歳のおばあさんがいて、そのおばあさんが若いころ、岡平おかだいらには玉藻姫の話を語る人がいたらしいということまでだ。

 おばあさんが一七五〇年ごろ生まれとすれば、一七七〇年代、安永あんえい年間か、もうちょっと後くらい。

 もうちょっと、時代の幅が絞れればいいのだけど。

 そのころ、藩は二つに分かれて治まらなかった、ともいう。

 悪家老が姫を殺したこと、または、殺したと言われたことは、いま伝えられている以上の混乱を巻き起こした可能性がある。

 そして、もう一つ、藩の下級役人に、姫に会った、と言った人物がいることだ。

 『向洋こうよう史話しわ』はまだぜんぶチェックしていないからなんとも言えないけど、ここまで見た範囲では、藩の役人とか家老とかで、姫がいた、と言った人は、いない。

 もしかすると、藩政の関係者で、姫に会った、という人物はこれが初めてかも知れない。

 もっとも、このひとがほんとに姫に会えるような身分の役人だったかどうか、わからない。

 わざわざ「士」ではなく「そつ」と書いてある。「卒」だと身分は低い。藩主家の身の回りの世話とか、特別な仕事でもしていないかぎり、普通はお姫様になんか会えないだろう。

 でも、結生子はもう確信している。

 お姫様はいた。

 そして、それを証明できるのは、ここにいる自分だけなのだ。

 お姫様は、あの過去の石の牢屋で苦しみ続けている。

 痛くて、体がだるくなっても痛さの感覚だけは消えなくて、苦しくて、気を失いそうになっても苦しみと痛みの感覚だけは消えなくて、息が止まりそうになって、でも、苦しくなると喉がかってに呼吸しようとして、それでさらに苦しさが増す……。

 たぶん、命が果てるまで、それが続いた。その苦しみの果てには死しかない。体の苦しみとともに、その恐怖にも責め立てられ……。

 それでも、結生子には手が出せない。

 もう、過去のできごとなのだから。

 どうしようもない。それが残酷な事実だ。

 けれど、現在の自分には、そのお姫様のために、できることがある。

 それはお姫様だけではない。いまでも、このお姫様がいるかいないかわからなくなったために苦しんでいる人たちがいて、その人たちのためにもなる。

 かならずなる。

 自分のいるべき場所で。

 それをやろう。

 結生子は立ち上がった。

 ほんとうにこの部屋、あの幸織さちおの家の部屋にそっくりだ……。

 後に高校で一人の男子を取り合うことになる帰郷きごうりゅう鳥浜とりはま幸織、そして、もう一人、二人の共通の友だちで、やっぱり帰郷家流の滝頭たきがしら瑠姫るきという子もいた。いつも三人で遊んだ。

 瑠姫には、この前、あの漁業博物館に史料を取りに行ったときに会ったけど、幸織にはずっと会ってない。

 やっぱり、いちど会おう。

 この夏じゅうに。

 それで、男の子を取り合ったことをやっぱり許してくれないのなら、それはそれでしかたがない……。

 結生子は、窓から外を見た。

 となりの龍乃の部屋の電灯はもう消えている。

 窓から見える永遠ようおんという寺も、どこにも電灯はともっていない。

 そこを照らしているのは、いま結生子の背後にともっている蛍光灯だけだ。

 だから、空は暗くて、星がよく見える。

 しばらく見ていると、あそこにも、こちらにも、と見える星の数が次々に増えていく。

 このまま目を慣らせば、もっと暗い星まで見えるだろう。

 星は、その身を焼き焦がしながら、夜空を照らしている。ここからはどうやっても手出しができない。

 ただ、どんなかすかな星も、自分の身を焼き焦がして燃えることで、そこにその星があることをわたしたちに知らせてくれている。

 わたしたちが、その微かな星の存在に気づくためには、じっと目をこらせばいい。

 それだけで……。

 「永遠えいえん」という名がついた寺と、その星空と。

 あのお姫様と自分との間に流れた二百五十年が、いったい何なのだろう?

 結生子は、一人、その星空に向き合って、立ちつくしていた。


(おわり)

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