第22話 つながっていたこころ
「いやああっ!!」
思いっきり振り上げて、振り下ろした拳は、
「ええっ!? どうしたの草壁さん!!」
「ったあ!!」
……翠川くんにはかすることもなく、明後日の方向を切って床に激突した。ものすごい音と共に衝撃が駆け上がって脳みそを揺らし、目の前に白や黄色の星が散った。痛みで涙がにじむ。
ほんと、自分の運動神経のなさを呪うしかなかった。走りが遅い、踊りが下手なだけじゃなくて、狙ったところにパンチを当てることもできないなんて。
突然床を殴りつけて痛みに震える私を、翠川くんは目を丸めて不思議そうに見つめている。
「えっと、あのね、こことここ。傷があるでしょ」
「……はっ?」
言われるがまま、わけがわからぬまま、ゆっくりと視線を動かす。
ピントは一瞬遅れてついてきて、彼が指差した両方の鎖骨の下あたりにうっすらとした線状の傷跡があるのが見えた。引っ掻き傷かと思ったけれど、たぶん手術痕だ。
「二年前に、手術したときの跡なんだけど……って、草壁さん? どうしたの? お腹痛い? ああ、今は手か。大丈夫?」
翠川くんが心配そうに私の顔を覗き込んだけど、私はすでに別の意味でブルブル震えていた。そう、彼がわざわざ服を脱いだのは、私に
大丈夫なわけがない、だって、押し倒されるものかとばかり思っていたから――とはさすがに言えなかった。
そんなことを知られたら恥ずかしすぎてもう二度と顔を合わせられない。あと、心臓が爆速で鳴っているのを抑えられない。外に漏れ出て彼に聞かれやしないかと、不安でたまらない。
でも、なんの説明もなしに服を脱いで迫ってきた彼も悪い。いまだ痺れたままの右手をさすりながら咳払いをした。
「私は大丈夫。で、そ、その、やっぱりどこか悪いの?」
何とか持ち直せた私に合わせるように、彼も背筋をピンと伸ばした。
「ああ、今も昔もちゃんと健康なんだけどね」
とにかく目のやり場に困ってしまうから早く服を着て欲しい。でも、彼は構わず真面目な顔で話し始めた。
「ここと、それから頭の中に機械を入れてあってね。実は脳に少し異常があって、自分ではどうしても能力を制御できないから、電気刺激してもらって何とかしてるって感じ」
「は、はあ」
「で、ぶつかったり、転んだりした時に当たりどころが悪かったら故障の原因になるんだって。だから運動は基本的に禁止。体育休んでるのもそのせいで」
「そ、そうなんだ……ってごめん!!!!」
私は先ほどの行いを思い出して、頭が真っ白けになった。もしもあのパンチがヒットして翠川くんを殴り倒すことに成功していたら、再び月曜のような大ごとになっていたのでは?
血の気がものすごい勢いで引く。先ほどとは一転、運動音痴で本当に良かったと思った。彼をもう一度病院送りにしてしまったら、もう合わせる顔なんかない。考えていると本当にお腹が痛くなってきて、体を丸めた。
「え? ああ、まあ、もともと運動はすごく苦手だから、体育やらなくて良いのはラッキーなんだけどね……っと」
どうやらあらぬ勘違いからぶん殴ろうとしたことはバレてないらしい。
ようやく翠川くんが服を着直したので、グチャグチャにこんがらがっていた頭の中が整い始めて、ずっと聞きたかったことを思い出す。
「あの、月曜に倒れちゃったのはどうして?」
「……それね、僕もはっきり覚えてないんだ。もしかしたら機械の誤作動じゃないかって話だったけど、調べてみたら違ったらしくて。念のために脳とか心臓とかの精密検査受けて、結果待ち中」
なんでもないことのように言って笑っているけれど、本当に大丈夫なんだろうか。
「じゃあ、土曜日は中止したほうがいいよね」
「あっ、ううん。ちゃんと許可もらってる。でも、あんまり遠くに行かないでって言われちゃったから、草壁さんが大変だよね。本当なら、こんな時くらい僕が近くに行くべきなのに」
早口で話しながら頭を荒っぽく掻いて、やっぱりまた今度にしようかという彼を、あわてて止める。
「私がここまで来る。定期あるし、長旅には慣れてる。どっかでお茶飲みながら話ししたり、適当に街を歩こ」
「あの、そんなのでいいの? 女の子ってもっとこう……ちゃんとしたのじゃなきゃ嫌じゃないの?」
「別に公園で日向ぼっこするだけでもじゅうぶん楽しい。昼休みみたいな感じで大丈夫。困らせるために誘ったわけじゃなくて。もっと一緒にいて、話ししてみたかっただけ」
「今でもそう思ってくれてるの? だって、こんなのって普通じゃないのに」
翠川くんは胸元を、傷があるあたりを押さえた。捨てられそうになった子犬みたいな、切なそうな顔で。
でも、何を今さらと思う。
「普通じゃなきゃダメなら、私はどうなる? 学校どころかこの国にひとりなんだから普通じゃないでしょ。落ちこぼれだってみんなが言うのに、翠川くんはかまわず友達になってくれたのに」
「友達……」
「うん、だから、大切な友達だと思ってるから。ちょっとやそっとじゃ揺らがない」
友達、と呪文のように唱えながら、翠川くんはまるでこちらの様子を伺うように、顔を上げたり、俯いたりを何回か繰り返した。やがて彼は拳を握ると、私をまっすぐに見据える。
「あ、あのさ、僕みたいなのでも、頑張ったら、草壁さんの彼氏になれるかな」
思いもよらぬ台詞に、体温と心拍数が一気に上がる。だって、だって、これって。
「な、何? どういうこと? だって、翠川くん好きな人いるんだよね?」
「そうだよ」
目の前で、翠川くんが耳まで赤くして震えていた。そして、私の心の中で水色が、桃色が翡翠色が、激しく渦を巻いていく。
どうやら私はまたひとつ大きな勘違いをしていたらしい。
――麗しの王子様と結ばれるのは、いつだって誰もが振り向くほど美しくて、心まで清いお姫様だと思い込んでいた。
けれど、心優しい王子はずっと見てくれていたのだ。そのおかしな能力のせいで人々に除け者にされて、ひとりで寂しく過ごしていた真っ黒い魔女の方を。
何もかもに気づいてしまった瞬間、まるで花火のように、目の前で鮮やかな色が弾けた。染めてしまったかと思ったけど、ギリギリで止まった。
でも、この部屋中を、なんなら世界中をすべて染めてしまいそうなくらい、心に色が満ちてくる。
「あっ、あの……その、つまり」
その先は、どうしても言葉に詰まってしまう。頭が、心が、今にも燃え上がってしまいそうなほど熱い。
髪に手をやって、ハッとした。もちろんここに来る前に整えてはきたけど、さっきの悶着で大いに乱れているっぽい。冷や汗をかいて、きっおメイクだって崩れてる。毎日着ている制服のスカートは、ちょっとプリーツがくたびれている。
釣り合いなんて気にしなくていいって葉月は言ったけれど、ちがう、今じゃない。
「だから、ぼ、僕は、ずっと草壁さんのことが……」
私は、再び迫ってきた翠川くんを押しとどめるように両手を前に出した。
「……ちょっと待って! だめ!!」
「えっ」
私に彼の心は読めないけれど、明らかに顔が冷たい青になっていく。
「……ごめんね。嫌なわけでも、傷つけたいわけでもなくて。私にもちょっとだけ頑張らせてほしいだけで」
「あの、どういうこと?」
「とにかく土曜日に……お願い。今はまだ……」
だって、彼が頑張ってくれるというなら、こんな丸めて広げた紙みたいにくしゃくしゃの私じゃなくて、少しでも可愛い私で気持ちに応えたい。
「えっと……わ、わかったよ」
とは言いながら、翡翠色の目は私の答えに戸惑ったように彷徨っている。部屋の中に灰色っぽい妙な空気がたっぷりと満ちたところで、玄関ドアが開く音がした。
「ただいまあ。あれえ、史穏。誰か来てるの?」
女の人の声だ。翠川くんはビシッと背筋を伸ばす。相変わらず顔は青いけど、ちょっと色味が変わったような気がする。
「……母さんが帰ってきたみたい」
お母さん!! 彼の言葉を号令に、私は急いで髪と服を整えた。足音は階段を上がり、どんどん迫ってくる。
言うならば彼のお母さんは、私にとってラスボスのようなものだ。絶対に失礼があってはいけないと、必死でご挨拶の言葉を考えていると、ドアが大きく開いた。
「なんだよ。ノックもせずに」
らしくなく、不機嫌をさらす翠川くん。私は先手必勝とばかりに、お殿様を前にしたみたいに体をぺちゃんこにした。
「ああっ、初めまして!! おじゃっ、おじゃましてます!! お留守の時に上がり込んですみません。あの、すっ、史穏くん……が、休んでいた時のノートを持ってきま……」
「あら、奥ゆかしいお嬢さんね」
頭の上から、かっかと笑い声が降ってきた。どうやら柔和な印象の翠川くんと違って、お母さんはちょっと豪快な方らしい。ゆっくりと、顔を上げる。
瞳の色こそ違うけれど顔は翠川くんに瓜二つ。つまりとびっきりの美人。うちの母よりは年下で間違いなさそうだけど、お姉さんと言われても鵜呑みにしてしまいそうなくらいには若々しいし、まるで女優さんみたいに綺麗な人だ。同性でもドキドキしてしまうほどに。
「そんなかしこまらなくてもいいよ。お気遣いありがとう。て言うか、史穏。お茶とお菓子くらい出してさしあげなさい。全く、ぼんやりしてると嫌われるぞ」
「ほんとだ!! ごめん!!」
頭を軽くこづかれてあわてる翠川くんに、お母さんは追い打ちをかけるように大きなため息をついた。
「もう。私が持ってくるから。ほんと、気が利かない息子でごめんね」
「い、いいえ! とんでもないことでございます!!」
どういうリアクションをしたらいいのかわからなくて、とりあえず、また床にぺちゃんこになった。
「やだ、ほんとにやめて。頭上げて。息子の彼女やお嫁さんをいじめる趣味はないから大丈夫。もっと気楽に付き合おう」
「はいぃ」
「母さんッ!!」
先ほどよりさらにゆーっくりと頭を上げた。翠川くんのお母さんといえば、生成色のエプロンドレスを着た柔らかな人をイメージしていたけれど。それとは対照的な、ひとことで言えばかっこいい女性だった。
白いタートルネックのニットに、紺の細身のパンツ姿。まだそこまで寒い季節ではないのに、手には黒い手袋をきっちりとはめている。きっとお母さんもテレパシストなのだ。
ほっそりとして背が高く、癖のない黒のストレートヘアを顎の下で切り揃え、前髪を作らず左右に分けている。メイクも服装もとてもシンプルで、アクセサリーもゴールドの小さなイヤリングくらい。それなのにとても華やかに見えるのは、やっぱり整った容姿のおかげだろう。私は鏡を見たわけでもないのに少し小さくなった。
ともあれ、そんなどちらかというとシャープな印象の人が、ニコニコ笑いながら大きな黒い毛玉……でなくてクマのぬいぐるみを大事そうに抱っこしている。ちょっと奇妙な感じだ。
――って、あれ? この子、どこかで。
クマと目が合う。すると馴染みの人に出会ったような気分になって、ここに来てからこれまでずっと荒ぶり続けていた心がすんと落ち着いた。でも、どうしてなのかよくわからない。もちろん、似たようなぬいぐるみは持っていない。
「いちいち持ってくるなよ!! 見られたくないから下に置いてたのに」
どうやらこのクマは彼の持ち物らしく、翠川くんが身ぐるみ剥がされたかのような素っ頓狂な声をあげた。でも、真っ赤な顔で怒っている彼を見ても、お母さんはあっけらかんとした態度だ。
「……置き忘れてるのかと思ってた。ああ、この子はね、史穏といつでも一緒の大親友なの。だからまとめてよろしくね、お嬢さん」
「もう、なんでバラすんだよ!! 最悪だよ!! 別にずっと連れて歩いてるわけじゃないだろ!!」
「まあ、そういうことにしといてあげましょう」
「なんだよそれ!!」
お母さんはやっぱりイタズラっぽい性格なのか、面白いものを見つけたと言わんばかりの表情。涙声になってうずくまってしまった翠川くんを見て、笑いながらクマのぬいぐるみをベッドに座らせた。
ひと抱えほどある大きな体はくしゃくしゃの黒い毛に包まれていて、そこから焦げ茶色のつぶらな瞳がのぞく。
その見た目にシンパシーを感じ、思わず自分の癖毛を触る。この子に初めて会ったような気がしないのは、きっとそのせいに違いないと思った。
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