第20話 不機嫌な王子様

「おーこわ。せっかくの綺麗な顔が台無しやで、王子」


 鍵山くんは私から取ったままだった本を閉じて机に置き、頬杖をついてクツクツ笑った。


 それは私に向けるものとは違う、ひんやりと冷たくて乾いた笑い。白々しいというか、相手のことを馬鹿にしているような感じだ。翠川くんは笑う鍵山くんに一瞬だけ怯んだような様子を見せたけど、すぐに表情を引き締めた。


「うるさい。静かにできないなら出ていけ」


「んー」


 鍵山くんは怒る翠川くんにふざけて返すでもなく、あの何もかも脱ぎ捨てたような無表情でじいっと黙っていた。


 図書委員からしたら、静寂を乱すものを注意するのは当然だ。声はあくまで抑えているけれど、委員の使命に燃えているのか、翠川くんの目もまた赤く燃えているようだった。顔が綺麗なだけに、怒っているとけっこうな迫力があって、すくみ上がりそうになる。


 いっぽう私はといえば、まるでハリセンボンを飲まされたみたいに、胃がチクチクと痛み始めていた。


 そう感じるのはもちろん、大声を出してしまったのは私だから。図書館では静かに。そんな当たり前のルールを守れない人間は嫌われてしまうかも――鍵山くんに言われたことなんか残らず飛んでいって、あっという間に頭の中はそればかりになってしまった。


 色々と後ろめたくなって、翠川くんと目を合わせられなかった。


「邪魔をしてすみませんでした。かえ、帰りますね」


 そう言って、慌てて荷物をまとめた。そもそも本が目当てでここに来たわけでもないのだから、罪悪感でお腹の中のハリセンボンはパンパンに膨らんでいて、口から出るのが敬語になってしまうのも仕方がない。


「草壁さん、行かないで。僕は別にそんなつもりじゃなくて……」


 翠川くんの様子までおかしいのはどうしたことなのか。彼は上下左右に目を泳がせると、ハッとした様子で咳払いをひとつした。


「あ、ああ、そうだね。静かにしてもらった方が良かったかな、こ、今度からは気を、つけてください……」


 私のことも注意すべきだと気がついたようだ。けれど、鍵山くんに対しての毅然とした態度は幻だったのか、声の調子は尻すぼまりで最後は聞き取るのがやっとなほどだった。なんだか魔法の馬車がただのカボチャに戻ってしまったみたいに。


「なあ、王子。俺にもそのくらい優しく注意してえや」


 鍵山くんはねっとりとした声色でそう言うと、翠川くんの肩を馴れ馴れしく掴んだ。翠川くんは目を釣り上げると、その手を躊躇なく払い落とす。


「……うるさい、触るな。出ていけ」


「うわっ、冷た……あかんあかん、風邪ひく前に帰ろ」


 翠川くんににべもなくあしらわれた鍵山くんは、私にさっきの本を押し付けてからウインクをして、軽快な足取りで図書館を出て行ってしまった。


「……そうだよ、お前なんか大っ嫌いだよ」


 鍵山くんの背中に投げつけられた砂粒みたいに小さな声は、図書館のほんのわずかな物音に解けて消えていく。ふたたび険しい顔になった翠川くんに目配せだけして、私も帰ろうとした時だった。


 突然、目の前から翠川くんの姿が消えた。膝をついてしまったからだと気がついた次の瞬間にはもう、彼は床に倒れ込んでしまっていた。単に転んだだけかと思ったけれど、なぜかそこからぴくりとも動かない。


「え、どうしたの!?」


 人目を気にしなければいけないことも忘れ、私は横向きに倒れている翠川くんを、渾身の力を込め仰向けにした。いくら彼が細身といっても、男の子は背が高いからなのかずいぶんと重い。別に暑くもないのに、全身から汗が噴き出す。


「翠川くん!! 起きて!!」


 肩を強く揺さぶってみても反応がない。彼は薄目を開けたまま完全に気を失ってしまっていて、浅く息はしているけれど顔は蒼白い。ただ事ではないことは明らかだった。


「何してるの!! 動かしちゃダメよ!!」


 司書の先生の叫び声で我にかえる。事態に気付いたのか、図書室の中にいた子たちが次々悲鳴をあげた。生徒を縫うように飛び出してきた先生は、私を翠川くんから引き剥がすと、「誰か、AEDと救急車を」とまた叫ぶ。波紋が広がるように、廊下でも小さくないざわめきが起こったのが聞こえた。


 先生に耳元で大声をかけられても、心電図を取るために大きく服をまくり上げられても、救急車のサイレンの音が聞こえてきても。翠川くんの意識は戻らない。


 それからは世界がスローモーションのように見えた。どうしよう、何がどうなってるの、さっきまで普通に話していたじゃない。声を上げることも動くこともできないのに、頭の中は空回りして、耳の中で心臓がバクバクとうるさい。


 先生たちや救急隊の人が次々に押し寄せてくる様子を、私は本棚の陰にへたり込んだままでぼうっと眺めていた。


 どのくらいそうしていただろうか。すっかり周りに人がいなくなっていることに気がつき、急いで教室に戻ると、すでに五限目、現代文の授業の最中だった。


 ドアを開けた瞬間、全員の視線が一瞬だけこちらに向いたけれど、すぐに解放される。私はこのクラスでは空気以下の存在な訳だけど、今はその扱いが楽に思える。


 ただ、石森先生だけは私をまっすぐ見て目を尖らせ、遅刻の理由を尋ねる。「さっきまで図書館にいた」と言うと、先生はそれ以上何も言わなかった。


 教室には空席がふたつ。ひとつは翠川くんので、なぜか鍵山くんもいない。先に教室に戻っているものばかりだと思っていたのに、いったいどこに行ったんだろう。


 まあ、鍵山くんのことなんて今はどうでもいいか――私は重い体を引きずるようにして最後列の席についた。友達が倒れても何もできなかった自分に苛立たしさを感じながら、机の上に教科書とノートを広げる。


 前方の空席が、まさに私の心に開いた穴のそのものだった。救急車に乗せられてしまった翠川くんが心配で心配で、本当はいても立ってもいられない。


 叶うことなら今すぐにでも飛んでいってそばについていたいけど、私は別に家族でもなんでもないから、こうして教室に戻るしかない。やりきれなさに唇を噛むと、心の中に血の色みたいな暗い赤がにじむ。


 授業は私の澱んだ気持ちと関係なく進んでいった。なんとか切り替えてついていこうとしても、先生の話は脳みそのシワに引っ掛かることなく、表面をツルツルと滑ってしまう。


 ぼんやりしていることを先生に悟られないよう、シャーペンを懸命に動かし、板書をなんとかノートに写しとっていく。書いてあることや先生が話すことのの意味を考える余裕もなかった。


「じゃあ草壁さん、今のところ答えてくれる?」


「はっ!? ご、ごめんなさい……聞いてませんでした」


 突然当てられたけれど、何を問われたのか分からなかった。教室のあちこちからクスクス笑いが起こる。AとBは、ツボに刺さっちゃったのか大げさに肩を揺らしているけれど、あいつらにどう思われてるかなんて今はどうでもいい。


 バカにされてもいい。翠川くんさえ無事ならば。


「……うーん」


 いつもの石森先生なら眼鏡をギラリと光らせるか、目を釣り上げて厳しいことを言うんだろうけど、今日は教卓にゆっくり両手をつくと、長い息をついた。


「まあ、あんな場面に遭遇したら大人でも動揺するわね……いいわ。今日の授業でわからないことは、気持ちが落ち着いたら聞きにいらっしゃい」


 先生はどうやら「図書館にいた」という一言だけで、何もかも察してくれていたらしい。近くにいたのか、もしくは職員の間で情報が共有されていると言ったところだろうけど。


「すみません。ありがとうございます」


「まあ、今日だけね」


 何事もなかったかのように授業が再開した。


 この学校には訳のわからない大人ばっかりだと思ってたけど、昼休みの時の市田先生といい、ちゃんと見てくれようとする人もいる。ざわついていた心が、ほんの少しだけ凪いだ気がした。


 次の六限目は訓練……だったけれど、訓練室に現れたのはなぜか担任の高畑先生だった。「相変わらずここは狭いな」と笑った先生は、目を丸くした私に向かって調子良く話し始めた。


 なんでも、星名先生は急用で早退してしまったんだとか。生徒をほっぽって帰るなんてよっぽどのことなのだろう……たぶん。そうであると信じたい。


「星名先生から代講を頼まれたんだが、俺もこれから翠川のところに行くことになってな……あと、鍵山も無断で帰ってるからそっちも……他に代わりのできる教員もいないし、今日は帰っていい。早退の手続きはもう済ませてあるからな」


「えっ!?」


――そうだ! 私は重大なことに気がついた。先生は当然、翠川くんがどこに運ばれたのか知っているのだ。


 彼は今、どこの病院にいるんですか? 容体は? 聞きたいことはたくさんあったけれど、それは高畑先生が手を打つ音に遮られた。


「ああそうだ。補講の日時は、明日以降連絡するとのことだ。まあ、そういうことだから、気をつけて帰れよ。じゃあな」


「あ、あのっ!! 先生」


 呼びかけたところで、私の言葉は聞こえていないのか、はたまた急いでいるのか立ち止まってはくれず、あっという間に廊下の向こうに消えてしまった。


 先生が何を考えているのかを知れれば……私にもテレパシーが使えればいいのにと、これほどまでに強く思ったのは初めてだった。


 帰ってもいい、と言われたので教室に戻ったものの、まだ訓練の時間なので当たり前だけど誰もいなかった。黒板には『連絡事項・なし』といつもより雑な字で書かれている。


 一応、荷物をまとめはしたけれど、自分だけ先に帰ってしまうのもなんとなく気が引けてしまった。とはいえ、学校に残っていてもやることもない。どうしようかなと制服のポケットを探ってスマホを取り出し……


『さっきは心配かけてごめん。まだ病院なんだけど、ちゃんと起きて話せるようにはなったから、大丈夫だよ』


 目に飛び込んできたのは一分前に入ったメッセージ。私は深く考えるより先に、その送り主に電話をかけていた。


「……あれ、草壁さん? もう訓練終わったの? すごく早いね」


 電話の向こうにいるのは、間違いなくいつもの翠川くんだった。声を聞いたらほっとして、すっかり真っ白になっていた頭と心に、じんわりとあたたかい翡翠色が広がっていく。嬉しいはずなのに、胸が締め付けられるように痛くなる。


 気がつくと、涙がボロボロとこぼれ落ちて止まらなくなっていた。六限目が終わるまではまだかなり時間はある。まだ教室に誰かが戻ってくる気配はないけれど、泣いているところなんて万が一にも見られたくない。染めてしまうわけにもいかない。ドアに背を向け、必死で泣き声と溢れそうになる色をおさえる。


「どうしたの? お腹痛い?」


 返事がないことを不思議に思ったのだろうけど、今まさに病院にいる人に心配されるなんて。どうしたの、といえば翠川くんのほうこそだ。私はスマホを強く握りしめた。


「私は大丈夫だけど、翠川くんこそ本当に大丈夫なの? 今日だっていきなり倒れたりして、それに前、体育はできないって言ってたし、もしかしてどこか悪いの?」


 ただの友達にすぎない私なんかが聞いちゃいけないかもしれないのは分かってるけど、こみ上げてくるものをもう抑えられなかった。


 あっ、と短い声だけが返ってきて、翠川くんはすんと黙った。矢継ぎ早に話しすぎたのが、責め立てているように聞こえたかもしれないと後悔したけれど、口から出してしまったものを引っ込めることはできない。


 そこからの無言の時間はあまりにも長かった。


「えっと……ごめんね、先生に呼ばれちゃった。明日、ちゃんと話すから。まだ学校だよね、気をつけて帰ってね」


 どれだけ待っただろう。ようやく口を開いた翠川くんは、早口でそう言うと電話を一方的に切ってしまった。


 先生に呼ばれたというのは、単なる口実だと直感した。触れてはいけないところに触れてしまったのは間違いない気がする。心配だったからとはいえ、うかつなことをしてしまったと、私はめちゃくちゃに後悔した。

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