荒剰の月

@banana_banana_banana

荒剰の月

「おにいちゃん、つきをみにこうよ」

 あれはいつだったか思い出せないくらい昔、肌寒くなってきたある日、金木犀の香る路上で街灯の明かりの下で段ボール机を並べてその上で黙々と二人で宿題に勤しんでいた時、ふと思いついたように右目を腫らした妹が爛れた指を空に向けながら言い出した。

「きょうはすーぱーむーんがでる日なんだって。がっこーのところのおやまのぼろ。でっかーいおつきさんがみれるよ」

 無邪気に大きく手を広げながら語る妹の願いをむげにはできない。段ボールを蹴飛ばし、ノートを引き裂き、街灯に石を投げつけていざ出発。

 目指すは学校の裏山。小さな山だ。小さなお山の小さな峠道を盗んだ軽トラックで駆け抜ける。あの時も今も無免許運転フルスロットル。

 裏山の麓にすぐ到着、アクセル全開で軽トラックを縦列駐車。

 雑踏をなぎ倒し、真っ赤な紅葉に彩られたレッドカーペットに誘われて、軽やかに車を飛び出した。

 自分より大きい無名の存在をなぎ倒す快感、赤い祝福と興奮、今も昔も変わらない、この全能感がたまらない――

 妹も同じく恍惚の表情を浮かべながら紅葉の上で軽快なステップを踏んでは、楽しそうに靴の裏を見つめる。

 ここから登山だ、駆け上がろう。

 取り出したるは杖代わりの太い枝、渡してやるはハサミを括り付けた細い枝。

非力な妹のために作ってやった手製の杖、小さな力でも深く突き刺さる。

 思えばあの時、初めて音楽を知った。だって誰からも教わらなかったから、誰からも求められなかったから。

 だからあの時、演奏ったんだ。下手くそな鼻歌に合わせて枝を踏み、折れるリズムでビートを刻み、時に並んでいる木々を殴りつけてアクセント、散らばる落ち葉をばらまいてメロディラインを奏でる原始のオーケストラ。妹は落ち葉にシャクシャクと髪の毛を振り乱しながら一心不乱に丁寧に穴を開ける、心地よいグルーブ感が森中に反響し、まるで木々たちが叫び声をあげているよう。

 鼻歌はいつしか二人の甲高い笑い声に代わり、演奏はより一層激しさを増す。

 もしかして俺は浮いてるんじゃないか。ここに来る前までは地面をはいつくばっていたが、いくつもの枝葉を折り、砕き、俺たちの道を作り、その道を闊歩している。 

 そうだ、ここはもう地面じゃない、雲の上。素足で歩いても痛くない、足が軽い。歩くのが楽しくて仕方がないから、無性に妹の手を引きたくなった。天国って行ったことはないけど、こんな感じなんだろ。羽生えた天使が俺と同じように楽しくて仕方がないって感じで微笑みながら、解放された喜びを分かち合いたくてパートナーの手を引いて雲の上を一緒にスキップするんだろ。

 妹も同じ気持ちだったのか、手を絡めてきた。やっぱりだ!俺たち兄妹は最高だ!!

 高まって熱くなった体の中心に冷たいジャイロ回転の風の塊が穴を開ける。

一気に熱を失い、芯から冷やされ崩れ落ちる体。

 森のサルどもが水を差してきやがったのだ、冷たい風の精霊を差し向けてきた。

「なんで邪魔すんだよッ!!これからなのによおッ!!!!!!」

 思わず叫ぶ。

 しかし、これから何があるんだったか、俺たちは何を邪魔されたんだったか思い出せなかった。動かない俺の体を妹は泣きながら懸命に引っ張る。

 そうだ、俺は忘れても妹は覚えてる。それでいい、俺たちはそれでいい……


 目を覚ますと、山の頂上、妹は上映が終わった何も映らない真っ暗な空のスクリーンを見つめていた。

 そうだ、思い出した。

 俺たちは月をみに来たんだ。でも、目の前に広がるは0点の虚空、俺たちはとっくにお天道様に見放されてたらしい。

 理不尽な仕打ちに涙がこぼれ、妹に謝ることしかできない自分が情けなかった。

「ごめんよ、お兄ちゃん頑張ったけどうまくいかなかった。

いつもごめんよ、約束守ってやれなくて。お前の事守ってやるって言ったのにボロボロにさせて、せめて月だけでもと思ったのに、情けないお兄ちゃんでほんまにごめん。嫌いにならないでおくれよ。

こっち向いて顔見せてくれ、もう目を開けてられそうにないから。

声を聞かせてくれ。

手を握ってくれ、冷たい…風が……」

 妹は振り返らない、何も与えないケチな夜空に向けて最後にこう叫んだ。

「なんて月だ!!!!」



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