第9話

健二と別れてから自宅へ帰ると、午後10時を過ぎた所だった。久しぶりに飲んだせいか全身に酔いが回っているのが分かった。簡単にシャワーを浴びてからベッドに入ると、僕はすぐに眠り込んでしまった。


どのくらいの時間が過ぎたのだろう。いずれにせよ真夜中なのは間違いない。気が付くと、誰かがしきりに僕のアパートの部屋の呼び鈴を鳴らし続けていた。僕は夢の中で、呼び鈴を無視することに決めた。こんなとんでもない時間に尋ねてくる人間の方がどうかしているのだ。しかしその誰かには諦める気配はまるでなかった。周りの部屋への迷惑も頭に無いらしい。枕に顔をうずめて耳を塞いでいたのだが、15回ほど呼び鈴が鳴らされた時に、僕はついに敗北を認めざるを得なかった。「何なんだこんな時間に。」と悪態をつきながら僕はベッドから起き上がった。クーラーをつけずに寝たせいでぐっしょりと汗をかいている。


うちわで体を扇ぎながら玄関に出てみると、どう見ても完全に酔っぱらった姉が地面に座り込んでいた。

「まったく何時だと思ってんだよ。」とため息をつきながら言うと、

「知らない。」と投げやりに姉は答えて、そこら辺に向かってオエエ~と言い始めた。

こんな所で吐かれたのでは流石にたまらない。普段からお世話になっている大家さんに大目玉を食らってしまう。僕は慌てて姉を引っ張り上げ、取り合えずトイレに押し込んだ。


姉はしばらくの間トイレでオエオエと言い続けていたが、やがてすっきりしたのか何食わぬ顔で出てくると、

「智弘、シャワー借りてもいい?」と髪をまとめながら尋ねた。

「いや、自分ち帰りなよ。大体何でこんな時間な訳?」と僕はソファーから姉を見上げて言った。

姉はくちびるを少し曲げて不機嫌そうに、

「彼氏と飲んでたんだけどケンカしちゃって。向こうが先に帰ってから一人で飲んでたら終電過ぎちゃったの。」と答えた。

「それはお気の毒だけどさ。うちに来なくてもいいじゃん。」

「あんたのアパートが近かったの思い出したの。夜のタクシー高いの知ってるでしょ?」と言いながら姉は僕の許可を待たずにシャワーへ入って行った。完全に酔っぱらっていたくせにいらんことだけは思い出すようだ。


姉がシャワーを浴びている間、僕は冷蔵庫から出したラムネを飲みながら、壁にかかった緑川さんの絵を何となく眺めていた。

それにしても綺麗な風景だ、と僕は思った。なだらかな山を背景に、高原には黄色い花が一面に咲き誇り、その中には小さな木造りの家がぽつんと建っている。


「その絵、すごく綺麗だね。霧ヶ峰高原でしょ?」と後ろから声がした。

ソファーから振り返ると、姉が長い髪をタオルでごしごしと拭いていた。

「いま、何て?」

「だから、霧ヶ峰高原。長野県の。」と言いながら姉は冷蔵庫へ行き、麦茶の入ったタッパーウェアを取り出してコップに注いだ。カチカチに冷えた氷が溶けて、コップの中できりりという音を立てた。

「な、何でそんなこと分かるんだよ?」と僕は半信半疑で尋ねた。さっきまで泥酔していた人間が、絵を一目見ただけで、描かれた場所をすぐに当てられるものだろうか?


姉は腰に手を当ててゴクゴクと麦茶を飲み干すと、「おいし~」と満足そうに言った。

タッパーウェアを冷蔵庫に戻しながら、姉は

「そんなの、見ただけでわかるよ。一応これでも大学の時山岳部だったんだからね?」と何でもなさそうに言った。


その時、僕の中で何かがつながった感触があった。

健二は、緑川さんは東京出身ではない、と言っていた。だとしたら長野県出身だったとしても、おかしくはない。もしかしたら緑川さんは、大学を辞めた後、自分の生まれ故郷に帰ったのかも知れない。亡くなったお母さんのアトリエがある、その場所に。


「あのさ、」と僕は振り返りながら言った。

「2、3日の間、ねえさんの車借りてもいい?」

「え、いいけど何で?」と姉は驚いたように言った。

「ちょっと、久しぶりに車旅してみようかと思って。」と言って、僕はまた緑川さんの絵を見つめた。

「ふーん。まあ、いいけど、来週には戻してよね?あたしも旅行行くんだから。」と言いながら、姉はまた鏡に向かって、ごしごしと髪を拭き始めた。

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