第5話

翌日は朝から雨が降りしきっていた。

僕は最寄りの駒込から山手線で新宿駅まで行き、中央線に乗り換えて国分寺へ向かった。平日の午前中ということで電車はすいていて、僕が乗っていた車両にも5人程度の乗客がいるだけだった。新宿から国分寺までは予想していたよりもずっと長くかかり、知らない間に僕は眠り込んでしまっていた。


はっと目を覚ました時には電車は既に国分寺に到着していて、ドアを閉めるベルが鳴り響いていた。僕は慌ててカバンをつかみ、ホームへと飛び出した。間一髪のところで間に合い、ふーっと息をついて額にかいた汗をぬぐった。


梅雨を思い出したように降る雨は、止む気配がなかった。

僕は国分寺からバスに乗り込み、緑川さんが通っていた美術大学を目指した。乗っているのは僕の他にはお年寄りが2人だけで、後ろの方の席に座っていた。僕が一番前の左の席に座ると、運転手はこちらをちらりと見て、バスを発車させた。ゆっくりと走るバスの中で、ワイパーは一定のリズムで雨をはじき続け、僕はまた優しい眠気におそわれた。ただ、先ほどの事を思い出して、雨の降る外の景色に意識を集中させることにした。外には、傘をさして長靴を履いた人々の姿があった。


大学の前のバス停に着くと、僕は運賃を払って外に出た。

傘をさして見上げてみると、中々立派な大きさの大学だった。総合大学だと言われても違和感がないくらいの大きさだ。

「よし。」とつぶやいて、僕はとりあえず受付に行ってみることにした。


案内の所で、

「弓木先生という方にお会いしたいのですが。」と言うと、30代くらいの受付の女性が

「教授の弓木耕造でしょうか?本学で弓木という名前の者は一名しかおりませんので。」と答えた。

「あ、その方だと思います。」と答えて、僕は弓木先生の名前に感謝した。もし先生が佐藤とか鈴木とかのたくさんいる名前だったら、この時点でゲームセットになっている所だった。


受付の女性はそのあと内線で電話をかけて何やら話していたが、やがて電話を切ると、

「申し訳ありませんが弓木は今授業中なので、お待ち頂く必要があります。昼休みの30分程度でしたら時間が取れるかも知れないとのことでした。」と言った。

まあそりゃそうだろうな、と僕は思った。普通に考えてアポイントも取らず午前中の授業がある時間帯に訪ねてくる方がどうかしている。

「全然大丈夫です。どうもありがとうございます。」と言って僕は頭を下げた。


受付の周りを少し歩いてみると、さすがは美術大学だけあって、学生が作ったと思われる絵画や彫刻があちこちに置かれていた。僕のような素人には想像もつかないような世界観に、思わず引き込まれてしまった。しかし改めて考えてみると、こんなにすごい才能を持った人たちでも、芸術で食っていけるのは一部だと考えると厳しい世界である。


昼頃になってまた案内のところへ行くと、受付の女性が面会のできる部屋を教えてくれた。受付からさほど遠くはなく、2階に上がってすぐの部屋だ。

部屋は8畳ほどの大きさで、ソファーと机が置かれているだけのこざっぱりとした作りだった。僕は窓際に立ち、雨の降りしきる大学の構内を眺めた。時折傘を持っていない学生が、フードをかぶって足早に走って行った。


しばらく経ってからドアにノックの音がした。

「はいー!」と言うとドアはぎいっと開き、初老の男性が入ってきた。この人が恐らく弓木先生なのだろう。痩せて背が高く、ウェーブした灰色の髪は少し伸びた髭によく合っていた。一見してとても姿勢が良い。先生はドアを閉めると、

「お待たせしたようですね。弓木です。」と言って右手を差し出した。握手してみると、その手は柔らかく、不思議な安心感を僕に与えてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る