98,〝影〟

 空から火の玉が何度も飛来する。

 あれは火球ヴォリーダという魔法だ。

 続けざまに爆炎が上がり、恐ろしく濃い黒煙が空に向かって伸びていく。

 最初、周囲にいた人々はみな、ぽかん――としたまま空を見上げているだけだった。

 きっと目の前の光景に現実感がなかったのだろう。

 何が起きているのかよく分からないという様子で、誰もすぐには逃げようとしなかった。

 どおん、という音が響く。

 すぐ近くだった。

 建物の外壁が吹き飛び、地上に瓦礫が飛散する。

 彼らは自分たちの頭の上に瓦礫が降りそそいできて――ようやく、これが現実の光景なのだと理解したようだった。

 一瞬で悲鳴が周囲を満たした。

「あ、あれは魔族だ! 魔族が攻撃してきてるんだ!」

「は、早く逃げろ! 殺されるぞ!」

「何で魔族が王都の上を飛んでるんだよ!? 早く撃ち落とせよ!?」

「騎士団は何やってるんだ!?」

 大勢の人が一斉に逃げよう走り出した。

 そこら中で人がぶつかり合い、押し合い、怒号が飛び交い始める。

「あ、ああ……」

 わたしはがすぐにが信じられなかった。

 足に力が入らない。

 立ち上がることもできなかった。

 わたしが見ているのは空ではない。

 むしろ、逃げ惑う人々の足元だった。

 〝黒い手〟だ。

 本当にそこら中から〝黒い手〟が涌いて出てきているのだ。

 あらゆる場所から蠢くように涌きだして、何かを探すように這い回っている。

 まるで死体に群がるウジ虫のようにも見えた。

 あまりの恐怖に、わたしは本当に足が動かなかった。

 周囲の悲鳴も、街が破壊される音も、わたしには何もかも遠く聞こえた。


【こりゃ大変なことになっちまったなぁ】


 急にすぐ近くで声がした。

 どこから聞こえてくるのか分からない残響のような声ではなく、本当にはっきりと、直ぐ側から明瞭な声が聞こえたのだ。

「……え?」

 気が付くと、わたしの隣に〝影〟が座っていた。

 それは本当に〝影〟としか言いようがなかった。人の形はしているが、人なのかどうかもよく分からない。気配はまったく無く、表情も何も無い。ただのっぺりとした影が、わたしの隣に平然とした様子で座っていたのだ。

「な、何だお前は……?」

 わたしが問いかけると、影はわたしに顔を近づけてきた。

 表情のない顔に、裂けるように嗤う口が浮かび上がった。

【別におれは何者でもない。誰でも無い。ただ意味も無く死んで、全てを失っただけの亡霊だ】

「亡霊……?」

「ああ。あそこで蠢いてる連中と似たようなもんさ。ま、あいつらよりはちょっとばかしではあるけどな」

 と、影は〝黒い手〟を指し示した。

 わたしは思わず声を荒げて訊いていた。

「あ、あの手はいったい何なんだ!?」

【何なんだ、って? おいおい、随分と無責任なこと言うじゃないか。あの連中はみんなお前のせいで死んだなんだぜ?】

「な、に……?」

【どいつもこいつもの犠牲者さ。あそこで蠢いている亡者どもは、な】

「――」

 わたしは心臓に何かが突き刺さったように感じた。

 〝影〟は口元だけますます歪める。

【可哀想な連中だ。ただ突然、光も音も奪われて、暗闇に放り込まれて、どうにかその穴の中から這い出ようとしてるのさ。だから、ああやって藁にも縋り付こうとしているわけだ。ほんの僅かな光を求めてな】

「縋り付く……? だ、だがあの〝黒い手〟はティナとダリルを殺して……」

【あの手が殺した? 何を言ってるんだ? その二人を殺したのはお前だぜ?】

「え……? わ、わたしが?」

【ああ、そうさ】

 影はますます嗤った。

【お前は〝死〟だ。あらゆる死の因果がお前にはまとわりついている。お前がいるだけで、周りの因果が全て歪む。死ぬはずのない人間も死ぬ。それは全てお前がにいるせいだ】

「……わたし、が?」

 〝影〟の言っていることがすぐには理解できない。

 わたしが半ば呆然としていると、〝影〟は肩を竦めるような動きを見せた。

【そんな馬鹿なって? くくく……まぁそう思いたいならそう思えばいい。だがな、これはどうしようもない事実だ。お前の持つ因果が本来の因果を上回った時、そいつは死ぬ。――そいつの本来持っている因果は、確実に歪む】

「……」

【お前は存在するだけで周囲の因果を歪める〝特異点〟みたいなもんだ。俺もこんなにやばいやつは見たことねえぜ。。どれほどの〝死〟を生み出せば、こんなふうになるのやら――】

 そう言われた瞬間、わたしは今度こそ心臓に穴が空いたような感覚を覚えた。

 わたしが生み出した〝死〟。

 それはつまり――あの大戦における、全ての死者ということか?

 わたしが戦争を止めてさえいれば、大戦で死んだ者たちは死なずに済んだ。

 逆に言えば……彼らが死ぬきっかけを生み出したのは、このわたし自身に他ならない。

もお前が引き寄せてるようなもんだ。あの連中の因果は、お前の因果とどうしようもなく絡み合っている。そりゃもうぐちゃぐちゃにな。ちょっとやそっとじゃ切れやしないだろう……あいつらは恨んでるんだよ、自分たちをこんなふうにしたを――な?】

「わ、わたしは――」

【わたしは何もしてない? わたしのせいじゃない? はてさて……本当にそうなのかね。? であるのならば――全ての因果を逆に辿れば、全てお前に行き着くのが必然。全てはお前の〝責任〟ということになる】

 これまで自分自身の中で抱いてきた罪を、わたしは初めて他者から突きつけられた。

 息が出来なかった。

 〝影〟が突きつけたことが、どうしようもないほどの事実だと、何よりもわたし自身が理解していたからだ。

【で、このままでいいのかな? このまま放っておいたら、そこら中にいる人間が〝あっち〟に引きずり込まれるぜ?】

「……え?」

【あの亡者どもは、お前がよほど因果を歪めない限りは、こちら側に直接的な干渉はできない。。だから基本的には死ぬことが確定しているやつしか触れることができないし、そうでなければ、そもそも知覚することもできない。逆に言えば、あいつらにってことは、限りなく〝死〟に近づいているということでもある】

「ま、また生きている者から〝何か〟を奪うつもりか!?」

【奪う? 奪うなんて人聞き悪いじゃないか。あいつらもまただ。だから――ただ、取り戻そうとしているだけだ】

「と、取り戻す……?」

【溺れていれば必死に息を吸う、腹が減って死にそうなら必死で肉を食う――それと同じだ。あいつらは凍えるような暗闇の中にただ一方的に放り込まれて、必死に藻掻いているだけでしかない。あいつらはさぞ、こう思っていることだろう】

 影の顔が、わたしの目の前に迫った。

【自分たちをこんな目に遭わせたやつを――絶対に許さない、ってな】

 のっぺりとしていた黒い顔に――ぎょろり、と剥き出しの双眸が現れた。

「うわぁ!?」

「お、おい!? お嬢ちゃん、落ち着け!?」

「――へ?」

 大きく肩を揺すられた。

 気が付くと、目の前に男の顔があった。

 一瞬、誰かと思ったが……わたしが乗っていた馬車の御者をしていた男だ。

「……あ、あれ? わたしは……?」

 呆然と周囲を見回した。

 わたしに語りかけていた影はどこにもいない。

 幻覚だったのだろうか。

 そう思ったが……すぐにそうではない、と思った。

 なぜなら、〝黒い手〟が目の前にいる男の足元にまで這い寄っていたからだ。

「お嬢ちゃん、通りが塞がっちまってるからもう馬車で移動は無理だ! 走った方が速い! 降りるぞ!」

「――」

「お嬢ちゃん、すぐに馬車を降りるぞ! 聞こえてるか!?」

 男が必死に呼びかけてくるが、わたしは足元の〝黒い手〟から視線を外すことができなかった。

 〝影〟の言葉が脳裏を過る。

 〝黒い手〟は死に近づいている人間しか知覚できない、と。

 ということは、つまり――

 パニックになった通りは、押し合う人や立ち往生した馬車によって完全に封鎖されてしまっている。

 そして――彼らの足元には、すでに〝黒い手〟が忍び寄っていた。

 それは明らかに、逃げ惑う彼らのことが様子だった。

 直後、頭上で轟音が何度も響いた。

 さきほどのように、火球ヴォリーダがわたしたちの頭上で建物の外壁を破壊したのだ。

 しかも今度はさきほどの破壊の比ではなかった。建物が丸ごと崩れ落ち、まるで土砂崩れが起きたように人々へ襲いかかろうとしたのだ。

 あれほど大量の瓦礫が一気に降りそそげば、いったいどれだけの人間が死ぬか――わたしの目の前にいる人々は、間違いなくみんな死ぬだろう。

「――」

 わたしは反射的に立ち上がり、今にも降りそそごうとする瓦礫に向かって手を伸ばした。

 使

 とっさにそう思ったのだ。

 わたしにはそれができる。

 それだけの力を、今のわたしは持っている。

 だが……一瞬、脳裏にシャノンの言葉がよぎった。


「いいか? 人前で魔法なんて使ったら問答無用で魔族だと思われるぞ? 人間に魔法は使えないからな。そんなことになったらすぐに〝異端狩り〟に遭うからな」


 人間に魔法は使えない。

 魔法が使えるのは魔族だけだ。

 こんなところで魔法なんて使ったら、わたしは自分から魔族だと周囲に示すようなものである。

 実際にそうではないとしても、そんなのは関係がない。

 人間社会に潜んでいる魔族のことを、人間たちは〝異端者〟と呼んでいる。

 〝異端者〟は外から襲ってくる魔族よりもはるかに厄介な存在だと認識されている。内側から浸透し、人知れず人間社会に害悪をもたらす――それが〝異端者〟だ。

 〝異端者〟が見つかった場合どうなるか。

 なんて、そんなことは重々承知している。

 けれど、判断に迷っている暇などなかった。

 ここでわたしが魔法を使わなければ――目の前の人たちが、みんな死んでしまう。

 複雑な複数元素魔法を練り上げているような時間はない。

 わたしは感覚を研ぎ澄ませ、手の平に魔力を集め、それを周囲に存在している単一元素に対して干渉させた。


「――〝火球ヴォリーダ〟」


 わたしは降りそそぐ瓦礫に向かって、攻撃魔法を放った。

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