☆
132,分岐点
ふと気が付くと、彼はよく分からない場所にいた。
(……なんだ? どこだ、ここは?)
まるで水の中にいるみたいに、身体が思うように動かない。
それでも何とか首だけ動かして周囲を確認した。
何も無いところだった。
ただぼんやりと白い風景がどこまでも続いている。
目印となるものがないから、距離感もよく分からない。どこまでも続いているようにも見えるし、とても小さな部屋のようにも見える。不思議なところだ。
(……そうか、ここは夢なんだな)
そう思った。
すると、
「そうね。ここは夢みたいなものね」
と、急に声がした。
驚いて、慌ててそちらに目を向けると――小さな女の子が立っていた。
と言っても、顔はよく見えない。見えているはずなのに、はっきりと目で捉えられなかった。まるで蜃気楼でも見ているかのようだ。
彼の目には、その女の子はまるで〝影〟のように見えていた。真っ白な空間に、ぼんやりと浮かび上がる黒い影だ。まるで影絵のようだった。
「……なんだ、お前?」
問いかけると、女の子はくすくすと笑った。表情はうまく見えないが、声はちゃんと聞き取れることが出来た。
「なんだ、とはご挨拶じゃないの、お兄さん。せっかくあなたのこと助けてあげたのに」
「助けた……? 何の話だ?」
「まぁ気にしないでいいわ。あの時も夢の中だったしね。夢は覚めれば消えるもの。わたしのことは大して記憶には残らないでしょうし」
「……すまん。何のことだかさっぱりなんだが」
「わたしのことはどうでもいいのよ。それより、お兄さんは大丈夫なの? 随分と胸に大きな穴が空いているけれど」
「え?」
女の子に指摘されて、彼はようやく気付いた。確かに、胸にぽっかりと穴が空いている。
何だこれは――そう思った時、彼は思い出していた。
「……そうだ。オレは確か、ミオに刺されて、それで――」
「思い出したみたいね」
「ミオはどうなったんだ!?」
彼は慌てたが、女の子はまるですっとぼけるように答えた。
「さぁ? わたしには分からないわね」
「くそ、早くあいつを助けに行かないと――どうすれば
「どうしてあの女のことを助けに行くの?」
「どうしてもクソもあるか。こうしている間にも、ミオのやつが大変な目に遭ってるかもしれないんだぞ。オレが助けないと……」
「あの女はあなたのことを裏切ったのよ? 昔みたいに、あなたのことを背中から刺した。なのに、どうしてそんな女のことを助けようとするの?」
「ブルーノの時とは違う。あいつは、オレを助けるためにオレを刺したんだ」
「なにそれ? 矛盾してない?」
「……あいつは、自分だけが悪者になるつもりなんだ」
意識を失う直前の残響がはっきりと今も聞こえる。
――すまん、ヴァージル。
あの悲しそうな声を聞いた時に、彼は全てを察したのだ。
彼女が自分一人で全ての罪を背負おうとしていることに。
「……オレを刺したのは、オレを巻き込まないようにするためだ。こうすれば、オレは被害者になる。誰も協力者だとは思わないだろう」
「ふうん? 随分と信用しているのね、あの女のことを。でも、本当にそうなの?」
「……なに?」
「だって、あなたは昔、あの女のことを殺したじゃない。その時の恨みで刺されたのかもしれないわよ?」
「それは……」
一瞬、彼の顔が歪んだ。
苦しげに呻き、思わず胸を押さえようとした。
けれど、そこにはぽっかりと穴が空いていて、手が触れることはなかった。
「……確かにそうだ。オレは前世であいつを殺した」
「なら、さぞあの女には恨まれていることでしょうね」
「かもしれない……でも」
「でも?」
「それでもいい。それでもいいんだ。例えミオが、本当はオレを許していなかったとしても……今度こそ、オレが助けるんだ。何があっても。あいつがかつて、オレをたくさん助けてくれたみたいに」
〝昔〟のことを思い出す。
すると、ぽっかりと空いた胸の穴に、じんわりとした温かさが生まれ始めた。
その温かさは、徐々に胸の穴を塞いでいく。
でも、完全に塞がれることはなかった。
穴はまだ、少しだけ残っている。
彼には欲しているものがある。
〝それ〟を手に入れた時、本当の意味で穴は完全に塞がるだろう。
そして――彼はもう、自分自身が何を欲しているのか、それを知っている。
これまでずっと、何をしても埋まらなかった胸の穴。
掃いて捨てるほどの金があっても、誰もがひれ伏す地位があっても、それを埋めることはできなかった。
この胸の穴を塞ぐ最後の〝何か〟は、本来決して手が届かないはずのものだった。
なぜなら、それは遠い時間の向こう側にしか存在しなかったからだ。
……だが、今は違う。
どうして自分たちが生まれ変わったのか、理由は分からない。
でも、そんなのどうだっていい。
大事なのは、いまそこに、手を伸ばせば届くところに〝彼女〟が存在しているという事実だけだ。
であれば、やるべきことは一つしかなかった。
「こんな奇跡、もう二度とない。生まれ変わって、こうしてまたミオにこうして巡り会うなんて……そんなこと、もう二度とあり得ないんだ。だから、オレは今度こそ間違えない。間違えてたまるもんか。今度こそ、オレは絶対にミオを守ってみせる」
「その心意気は実に素晴らしいと思うけれど、果たして本当にそれでいいのかしら」
「……なんだ? 何が言いたい?」
「例えばあの女が生きていることによって、この先、また大きな災厄が起こるのだとしても……あなたは、あの女を助けるの?」
「災厄?」
「あの女の存在は、とんでもない数の死の因果と結びついているわ。今となっては、あの女そのものが死の〝特異点〟のようなもの……今回のことだって、本当のところはあの女が招いた事態と言っても過言ではないのよ?」
「ミオがあの事件の首謀者だとでも言いたいのか? それはミオの嘘だ。あいつは何も関係ない。嘘を吐いて自分を悪者にしようとしているだけだ」
「いいえ、違う。そうじゃない。わたしが言っているのは因果のこと――そうね、言わば〝運命〟ってやつの話よ」
「……運命?」
「かつて、この世界では本当にとんでもない災厄が起こった。それで失われた命は本当に膨大な数に上る……それだけの死の因果が、全てあの女の存在と絡み合っている。それはもうぐちゃぐちゃにね。今さら何をどうしようもないくらいに」
「それは人魔大戦のことを言っているのか? だとしたら、あれは別にあいつのせいじゃない。戦争を起こしたのは人間側だ。何がどうあっても、あいつがどう足掻いたところで、大戦は防ぎようが無かった。あいつのせいじゃない。あいつは何も悪くない」
「いいえ、それは違うわ。結果的に、全てはあの女の〝責任〟なのよ」
「……なんだと?」
「まぁそう怖い顔しないでよ。わたしはただ真実を述べているだけなんだから」
女の子は妖しく笑う気配を見せた。
彼から見ると、相手は本当に〝影〟のようだ。表情も何も無い。ただ、感情が気配となって伝わってくるだけだ。
その気配は、まるで楽しむように嗤っていた。
「確かに、あの戦争を裏で画策していた連中はいたかもしれない。それが要因の一つではあるかもしれない。けれど……結果だけ述べれば、あの女が戦争を止められなかったことが全ての原因なのよ。それによって戦争が起こったのだから」
「だから、戦争を起こしたのは人間側で――」
「それは〝決定的な因果〟ではないわ。あの戦争が起こるかどうか――その決定的な因果は、最終的に全てあの女の決断に
「ちょっと待て。それはどういうことだ?」
「どうもこうもない。あの女は、たまたまその決断をしなければならない運命の分岐点に立っていたのよ。ただ、それだけ」
「……は? たまたま?」
「そう、たまたま」
「なら、そんなの余計にあいつのせいでも何でもないだろう!?」
「いいえ、あの女が悪いのよ。それが結果なの」
「な、何だよそれ……そんなの、あいつだって被害者みたいなもんじゃないか」
「そうね。でも、世界ってのは誰かが貧乏くじを引かなければならないように出来ているのよ。そのことは、あなた自身がよく分かっているんじゃない?」
「それは……」
「どこかに生じた〝責任〟は、誰かが背負うまで決して消えたりしない。勝手になくなったりしない。誰かが川に捨てたゴミは、誰かが拾うまで川に浮かんだままでしょ? やがて、川はゴミで溢れかえることでしょうね。そうして、流れ着いた先で川をせき止める。そうなって初めて、誰かがこれを片付けなければならないという話になる。そう、誰かが――ね。ゴミを捨てた人間たちは、自分たちがゴミを捨てたことさえ忘れているでしょうけれど……運の悪い誰かさんが、そのツケを全て払うことになるの」
「……それが、たまたまあいつだったってことか?」
「そういうことね」
女の子は肩を竦めた。
「あの戦争を起こそうと色々やっていた連中は、そのきっかけをたくさん生み出しただけに過ぎない。そいつら自身は何の〝責任〟も負っていない。ただ無責任に自分たちの欲望を満たそうとしただけ。自分たちだけ美味しい物食べて、ゴミは全部川に捨てた。そのゴミはやがて、全てあの女のいる場所に流れ着いた。戦争が起こるかどうかは、全てがあの女の判断に委ねられた。そして――結果として、戦争は起こった。これって誰のせいだと思う? 答えはあの女のせい、よ」
「ふ、ふざけるな!? そんな理屈があるかよ!?」
「悪いけど、わたしは人間の理屈の話はしてないの。運命という大きな流れで見れば、それが〝結果〟なのよ。まぁ確かに偶然ではあったかもしれない。責任を負うのが、あの女である必要はなかった。あの女は、ただ本当に、たまたまその決断をする場所にいたというだけでしかない……でも、結果こそが全て。あの女が戦争を止められなかったのは、どうしようもない事実。だから、あの女には膨大な死の因果が絡みついてしまうことになった」
「……さっき、特異点がどうとか言ってたな。それはどういう意味なんだ?」
「単純なことよ。いまのあの女は、そこにいるだけで〝死〟を引き寄せるのよ。相手の因果に干渉すればするほど、本来の因果を歪めてしまう。近しい人間なら尚のことでしょうね。だから、あの女はなるべく他人には心を開かないようにしていたようね。表向きは愛想良くしておいて、でも心の中では誰も受け入れなかった。自分が干渉した相手が不幸になることを、あの女自身も何となく察していたんでしょうね。まぁでも、一応そのおかげで、一時的に外部への因果的干渉は最低限の範囲で収まっていたわ。でも――あなたがあの女の目の前に現れてしまった」
「……」
「あの女はあなたに心を開いてしまったわ。だから、抑えられていたはずの因果的干渉が一気に起こってしまった。本来の因果をねじ曲げて、大勢の命が奪われる運命が発生してしまった。幸いだったのは、あの女の近しい人間たちの因果が干渉に勝ったこと。不幸だったのは、あの女の因果に飲み込まれた可哀想な被害者たち。まぁ今回はあの程度で済んだけど……あの女が存在する限り、いずれまた歪みが大きな災厄を引き寄せることになるでしょうね。それこそ、いずれ二度目の大戦が起こっても不思議じゃないと思うわ。魔族はもうほとんどいないから、今度は人間同士が世界中で殺し合うことになるかもね?」
女の子はじっと彼のことを見ていた。
表情は見えない。
でも、確かに視線を感じた。
それは相手の心の中まで見透かそうとするような、そういう居心地の悪い視線だった。
「一度目は偶然だったかもしれない。でも、二度目に起こるとすれば、それは必然よ。あの女が死なない限り、特異点は残る。つまりあなたがあの女を救えば、その代わりに今度こそ世界が滅ぶかもしれない。それでも――あなたは、あの女を助けるの?」
「そんなの決まってるだろ! オレは――」
彼は、迷わず答えようとした。
「シャノン」
「え?」
けれど、その前に、背後から呼びかける声があった。
振り返る。
すると、そこには――彼のよく知っている者たちの姿があった。
みんなが少し遠くから、こっちを見ている。
……彼らの顔を見た途端、彼の決心にわずかな揺らぎが生まれた。
「あなたが〝今〟を選ぶのか、それとも〝昔〟を選ぶのか――それは自由よ。でも、その決断がこの先の世界を大きく変えることになるでしょうね」
「え?」
再び女の子を振り返る。
すると、すでにその姿は先程よりずっと遠くにあった。
「いまのところ、道は二つしかない。そして、今その分岐点にあなたは立っている」
「……なんだ、今度はオレが貧乏くじを引く番だって言いたいのか?」
「いいえ。決断する立場にあるのは、今回もあの女よ」
「……ミオが?」
「そう。そして、あなたもまた同じ立場にある。でも……あの女とあなたとで違うところはね、そこに立っているのが自分の意志かどうか、というところよ。あの女は再び運命に翻弄されているだけ。けれど、あなたは違うわ。あなたは今、自分の意志でそこに立っているのだから。あなたが自分で言っていた〝奇跡〟とやらは、全てあなた自身の意志が生み出したもの。だとすれば、あなたがあなたの望みを叶えるためには、もう一度、奇跡を起こす必要がある」
「待て、何の話だ?」
「ま、せいぜい頑張ってね、〝勇者〟のお兄さん」
女の子の姿が遠くなる。
目覚めていく、という感覚が強くなって、そして――
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