8,ヨハン・マギル

 ……ふと気付くと、わたしは再びあの死者の世界ニヴルヘイムのような場所にいた。

 幼い姿のわたしは、どこに向かっているかも分からないまま走っている。

 でも、いくら走ったところで、死者たちの声から逃れることは決してできない。


 ――お前は絶対に許さない。

 ――おれたちがこうなったのは全部お前のせいだ。

 ――許さない。

 ――許さない。

 ――死ね。

 ――死ね。

 ――もがき苦しんで、絶望して、そして死ね。

 ――この哀れな我々と同じように。


 〝黒い手〟がどこからともなく湧きだし、蠢く。

 あれはきっとわたしのせいで死んだ死者たちの手なのだろう。

 幼いわたしは懸命に走っている。

 だが、それはあの蠢く手から逃げているわけではなかった。

 わたしは必死で追いかけていたのだ。

 少し遠くには、わたしの大事な人たちがいる。

 逃げてと叫んでも、彼らにわたしの声は届かない。

 どれだけ手を伸ばしても、わたしの手は彼らに届かない。

 わたしの声や手が届く前に、黒い手があの人たちを捕まえてしまう。

 わたしの大事な人たちはみんな黒い手が底のない暗闇へと引きずり込んでいってしまう。

 やめて。

 やめて。

 わたしはから。

 だから、わたし以外の人たちは――


 μβψ 


「ちょっと、エリカ聞いてる?」

「……え?」

 ふと我に返った。

 目の前にはアンジェリカの顔があった。いつもと違ってドレス姿でおめかししている。

 周囲の景色も、いつものカビ臭くて陰気くさいわたしの家ではない。

 ましてや、死者の世界ニヴルヘイムでもない。

 わたしは煌びやかな大広間のまっただ中にいた。

 綺麗に着飾った人間たちが楽しげに談笑したり、ゆったり流れる音楽に合わせて踊ったりしている。

 テーブルには色とりどりのお菓子がまるで芸術作品のように並べられており、人々はグラスを片手に、そのお菓子を軽くつまんだりしている。

 まさしくこれぞ貴族の世界――そういう光景がわたしの周囲には広がっていた。

 何だかぼうっとしていたわたしだったが、ようやく自分がどこで何をしていたのかを思い出してきた。

 ……そうだった。今日は王様のお誕生日会――もとい式典の日だ。

「ねえ、エリカ。ちゃんとわたしの説明聞いてた?」

 じと、とアンジェリカがわたしを睨んでいた。

 わたしはもっともらしく頷いた。

「うむ、全然聞いてなかったぞ」

「そう、だったらいいんだけど……ん? あれ? いま聞いてないって言った?」

「ああ、言ったぞ。まったく聞いてなかった」

「だったらもう少し申し訳なさそうな顔して!? なんでそんな偉そうなの!?」

「ははは」

 わたしは笑って誤魔化した。ひとまず頭からつまらないことは追い出して、なるべく考えないようにした。

「で、なんの話をしていたんだったか」

「はぁ……もうしょうがないなぁ」

 アンジェリカは溜め息を吐いてから、それとなく会場の人間たちに視線を向けていった。

「エリカはあんまりこういうところ来たことないだろうし、誰がどの家の人間か分からないだろうから、わたしが分かる範囲で教えてあげるって話よ」

「ああ、そうだったな。すまん、興味ないから完全に聞き流していた」

「エリカってわたしよりも社交終わってるわよね……」

「興味ないことは覚えられんのだ」

「まったく、そんなんじゃ成人してから困るわよ? 成人したら見習いになって仕事していかなきゃならいんだから」

「なら、その時になったらまた考えるだけのことだ」

「はあ……まぁとにかく、ここには色んな偉い人が来てるから、いつもみたいな偉そうな態度で話したりしないでよ? ちゃんと礼儀正しくね?」

「お前に礼儀うんぬんを言われるのは心外だが……そこはまぁ任せろ」

 わたしはニッコリと上品な笑みを浮かべてみせた。

 それから意識して声色を変え、なるべく上品に見えるように所作にも気をつけつつ、アンジェリカに向かって話しかける。

でよろしいのでしょう、アンジェリカ様?」

「あ、相変わらず外面だけは完璧ね……」

 アンジェリカはちょっと引きつった顔を見せた。

 普段、わたしはアンジェリカに対しては〝普通〟に接しているが、現世でこんなふうに接しているのはこいつだけだ。

 他の人間に対してはに上品に接している。それくらいの社交性はさすがに元魔族、元魔王のわたしにもあるのだ。

 アンジェリカにだけ態度が砕けているのは、まぁ子供の頃に色々とあったからだ。単純に付き合いが長い、というのもあるが。

「でも、気をつけてよね? エリカってば顔だけは本当にびっくりするぐらい抜群にいいんだから、そんなふうに愛想振りまいてたら男がひっきりなしに寄ってきちゃうわよ?」

「はて……顔だけ、というのはどういう意味でしょう?」

「自覚あるかどうか知らないけど……あんた、会場に入ってからずっと他の男に見られてるわよ?」

 わたしは一旦、取り繕った表情をやめた。愛想笑いエリカスマイルはやっぱり顔が疲れるな。

「そうか? わたしは特に何も感じないが……気のせいじゃないか?」

 アンジェリカは溜め息をついた。わたしはいったいこいつに何度溜め息を吐かれてしまうのだろうか?

「はぁ……あんたって本当にそういうところ無頓着よね、昔から。まぁそこがあんたらしいっちゃらしいんだけど……」

「あれ? もしかしてアンジェリカかい?」

 その時、後ろから声がかかった。

 振り返ると、金色の髪と青色の瞳をした長身の男が立っていた。

 いかにも貴族のお坊ちゃん、という感じの優男やさおとこだ。年齢はわたしやアンジェリカよりは年上だろう。青年と言っても良さそうな容貌だ。身長こそ高いが、顔はむしろ童顔である。

「ヨ、ヨハン様!?」

 アンジェリカは慌てたように胸に手を当てた。騎士の敬礼だ。

 彼女がヨハンと呼んだ相手は、少し目を丸くした後に苦笑した。

「アンジェリカ、ここは社交場だから敬礼はしなくてもいいよ。普通に挨拶してくれたら大丈夫だから」

「……え? あ、そ、そうでしたね……申し訳ありません……つい……」

 アンジェリカはハッとしたように顔を赤くした。わたしにはよく分からないが、いまアンジェリカは恥ずかしいことをしたらしい。

「ん? ええと、こちらの女性は? アンジェリカのお友達かい?」

 ふと男の視線がこちらに向いた。

 アンジェリカはすぐにわたしのことを紹介した。

「は、はい。こっちは友人のエリカ・エインワーズです。いちおう親戚でもあります。遠縁ではありますが」

 わたしのことを紹介してから、アンジェリカはすぐに耳打ちしてきた。

「この人はヨハン・マギル様よ。あのマギル家の長男の。マギル家って言えばさすがに分かるでしょ?」(小声)

「いや、全然分からん」(小声)

「なんでよ!? マギル家でしょ!? あの大貴族の!?」(小声)

「何となく聞いたことがあるような気はするが……」(小声)

「とにかく、マギル家って言えばこの国のすごい貴族なの。しかもヨハン様はこの王都の防衛にあたる第一中央騎士団の副団長なの。ようするにすごい大貴族の家の人で、しかもわたしの上官よ」(小声)

「なるほど、だいたい分かった」(小声)

「わたしの上官だからね?」(小声)

 2回言われた。よほど大事なことのようだ。

「ええと、どうかしたかい?」

 二人でひそひそ話していると、男――ヨハンが控え目に訊ねてきた。

 アンジェリカは慌てたように愛想笑いを浮かべた。

「い、いえ、何でもありません! ほら、エリカ。挨拶して、挨拶」

 肘で小突かれた。

 ……ふむ。わたしは世俗には疎いからよく分からないが……アンジェリカの説明を聞く限りでは、こいつはどうやらすごい家柄の男らしい。

 とりあえず挨拶くらいはちゃんとしておいたほうが良さそうだ。

「ヨハン様、お初にお目にかかります。エリカ・エインワーズと申します。よろしくお願い致します」

 わたしは貴族の礼に則って挨拶をした。

 女性の場合、スカートの裾を少しつまみ上げ、左足を後ろに下げ、そして相手に向かって頭を垂れるというものだ。

 普段、社交界に縁遠いわたしではあるが、貴族の礼に関する知識くらいはいちおう身についている。

 それに、これでもかつては魔族の王族だった身だ。多少の習慣の違いはあるとは言え、それなりに礼儀作法には自信がある。

 頭の中にあった動作を完璧にやり遂げてから、わたしは顔を上げる。

 ……まぁ相手はアンジェリカの上官らしいしな。こいつのメンツのためにも、それなりに愛想良くしておくか。

 そう思い、わたしはにこりとエリカスマイルを浮かべた。完全に外行きのための笑顔だ。

 まぁ愛想はこんなものでいいか――と思っていると、

「――」

 ふとヨハンの様子がおかしいことに気付いた。

 何やらぼけっと呆けたような顔でこちらを見ているのだ。

 ……ん? こいつ急にどうしたんだ?

 わたしは思わず小首を傾げていた。

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