マキの旅
名渕 透
モノローグ
気が付いた時、私はまっ白な世界にいた。
真っ白で、何も見えない世界。
吹き抜ける風も、踏みしめる地面も、頭上を覆う空や雲も、響く音も、漂う香りも、それを伝える大気すら感じることのない、そんな世界に私はいた。
ここはどこだろうか。
そんなことを思った。
ここはどこで、私は誰だろうか。考えてみるが、分からなかった。
記憶をたどろうにも、どうにもうまく頭が働かず、思考の枝の先がつながらない。まるで糸が切れたように、思考が進まない。頭の中が白いペンキで塗りつぶされたような、そんな感覚だった。
周りを見渡してみるが、私の眼には何も映らなかった。距離も広さもわからない。ただ、果てしない白があるだけだった。
そして、気が付いた。
私には体がある。
視界があり、視野がある。
感覚があり、意識がある。
私の周りには空間があり、私の内部には思考の移り変わりがあり、言葉があり、時間がある。
私は今、何も感じていないが、何も感じていないことが分かる。
センサーが壊れているのか、伝達路が途切れているのかは分からないが、過去にそれらが正常に働いていたことは分かる。
認識があり、判断能力があり、その判断をするだけの経験がある。
つまり、私には過去がある。しかし、私は現在それらの情報にうまくアクセスできていない。
――私は壊れている。
ただ、それだけが分かった。
「目が覚めたかい」
頭の後ろのほうから声が聞こえた。
振り向くと、数メートルほど離れた場所に一人の少年がいた。
肩まで伸びたボサボサの黒髪。アジア系だろうか、まだ幼さの残る、掘りの浅い顔立ちに、やや細い目つき、黒い半袖のシャツに黒の長ズボンを履いている。足には頑丈そうな黒いブーツを履いており、腰のあたりに灰色の小さなウエストバッグを着けている。そして、その全てがボロボロに煤け、汚れていた。
少年は色のない大きな球体のような物の上に、背を丸めて座っていた。
酷く、くたびれた様子だった。
汚れてまだら模様になったシャツの袖口から延びる腕には、爪で引っ掻いたような生々しい傷が無数にあった。よく見ると黒いシャツやズボンの端が赤みを帯びており、布地に染み込み固まった血の跡が見えた。
少年は、真っ白な世界に、まるで浮かび上がる様に存在していた。
「僕が見えるかい?」
彼は、おだやかな笑みを浮かべて言った。
私は頷き、そして気が付いた。いつの間にか、私と少年との間に、地面ができている。色は無く、変わらず白いままだが、ごつごつとした大地の凹凸がうっすらと見えた。光の加減だろうか……――つまり、明暗が生まれているということか。もしかすると地面は初めからそこにあり、私にはうまく見えていなかっただけなのかもしれない。
少年は、球体から飛び降り、私の方に歩いてきた。私と少年の間には距離があり、少年は速度を持ち、私に向かいゆっくりと歩いてきた。
私は少年より少しだけ背が低いようだった。少年の存在により、私は徐々に世界を認識していった。
「キミは、ずっとここで眠っていたんだね」
少年は私の少し手前で立ち止まり、優し気な声で言った。
私は、ここで眠っていたのだろうか?
「あなたは誰ですか?」
私は聞いた。喉頭を空気が通り、声帯が震える、不思議な感覚がした。
「キミは、僕を知っているはずだ」
少年は静かに答えた。私は思い出そうとしたが、思考の枝は途絶えたまま、何一つ思い出せるものはなかった。
しばらく、無言の時が流れた。
「……そうか、分からないのか。僕の名前はマキ。僕はずっとキミと話がしたかった」
それがきっと、僕の役割だから。少年は続けて言った。
少年を中心に、白い世界に色が広がり始めていた。少年の背後から、灰色と茶色と赤色の細い線が音もなく浮き出し、まるで輪郭をたどるように少しずつ世界を形作っていく。線の間を埋めるように、空間が色みを帯び、その線が私の足元に伸びて来たところで、私は気が付いた。
私は裸足で、足の皮膚は少年の肌の色より浅黒く、そして小さかった。そして、私は真っ白な布を纏っていた。
私は目の前の少年よりも、ひと回りは幼いようであった。
「私には、何も分かりません。私が置かれている現状も、私自身も、あなたが誰なのかも、ここはどこなのかも、何一つ、私は分かっていません」
「……そうか」
「多分、私は壊れているのでしょう。記憶が繋がらないのです。感覚はあるようですが、認識がおかしいのです。判断はできるようですが、それがどんな経験に基づいたものなのか分かりません」
私は、頭の中で言葉を整理しながら言った。少年は僅かな沈黙のあと、口を開いた。
「それなら、君は壊れてない。君はまだ、君自身をうまく扱えていないだけだ」
「扱う……ですか」
「君の意識が、君の記憶を扱えていないんだ。だから、認識と重ねることが出来ず、まるで記憶が欠落したような気分になっている。君はとても目がいいし、君はとても賢い。そして、君の中には多くの情報がある。その扱い方に、君はまだ慣れていないんだ」
「慣れていないだけ……ですか」
「寝ぼけているようなものだね。じきに慣れるさ。……だが、どうしようかな。僕は君に聞きたいことがあったんだが」
「聞きたいことですか?」
「ああ。でも今の君には聞けそうにない。……そうか。なるほど」
少年は何かに思い当たったように言った。
「どうやら、君に問うことじゃなく、君に語ることが、僕に望まれていた役割らしい」
「役割ですか?」
「そう、役割だ。筋書きがあってね、僕らには役割がある。その役割を果たさないと物事がうまく進まないように出来ているんだ。穴だらけの筋書きなんだけど、それでも、無理に進めると酷いことになる。君が記憶を失っているのも多分、きっと、そういうことなんだろう」
「では、私はその……筋書きから外れている状態なのですね」
「少し違う。君は大事な登場人物だ。ただ、出番が少しだけ早く来たんだ。それだけだよ。そして、それは多分、僕のせいなんだ」
少年は、少し困ったような顔して言った。
「キミは、僕の話を聞いてくれるかい?」
私は黙ったまま頷いた。
「ありがとう」
そう言うと、少年はその場で腰を下ろした。
「キミも座りなよ。寒いだろう。今火をつけるから」
少年は身に着けたウエストバッグから小さな棒のような物を取り出して、カチカチと鳴らした。すると棒の先から淡いオレンジ色の炎が生まれ、白い地面に丸く広がった。
私は、火を挟んで少年の向かい側に座った。地面にはまだうっすらとしか色が付いておらず、かすかにしか見えなかったが、私は出来るだけなだらかな部分を選び、小さな小石を払ってから座った。纏っていた布を挟んで、臀部の下には大地の冷たさがあった。
しばらくすると、身体の前面に、炎の優しい暖かさを感じた。どうやら、私の身体はとても冷えているようだった。
私の目の前で、炎は大地の上にへばりつく様に燃えていた。しかし、その中心となるようなものはなく、地面そのものが燃えているように見えた。
いつの間にか、世界にずいぶんと色が付き始めていた。
薄い黄色の土と砂の荒れた地面に、私と少年は座っていた。まるで枯れた湖の中心にいるように、少し離れた場所で四方の大地が捲れあがっており、私と少年を取り囲んでいた。少年の肩越しに見える空との境界線は、次第に暗い緑色に染まっていき、そこに木々があることが分かった。空は未だ真っ白なままだった。
「大切な話は、たき火の前でするのが一番なんだ。なにか燃やすものがあればもっといいんだけどね」
少年は言った。炎がゆらゆらと揺れ、少年の身体には薄い陰影が生まれていた。
きっと辺りは夜なのだろう。やがて空は暗くなり、周囲のほとんどが闇に包まれ見えなくなるのだ。私の視覚は、少しずつその機能を取り戻しているようだった。
――それなら、この少年は、真っ暗な中で私を見つけ、話しかけたのだろうか。ふと、そんなことを思った。
私は少年を見た。そして、目が合った。
少年の目の中に、揺らめく炎が映りこんでいた。
「安心していい。話が終わるまで、この火は消えない」
そう言って、少年は静かに語り始めた。
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