第47話 別れと出航




 ――世界から音が消えた。



 な、なんだこれは……? 何の音も聞こえない……?

 ルルイエに問いかけようとして、私は声が出ないことに気づく。

 いや違う。声はおろか口が開かない。首も手も足も体も何もかもが動かないのだ。そして、視界に映るすべてが灰色に染まり、凍り付いたように動きを止めている。



 まるで世界の時間が止まったかのように――。



 私の思考が高速化して世界の時間が止まっているように感じられるのか、それとも私の意識はそのままで本当に世界の時間が止まっているのか――どちらなのか私にはわからない。どちらでもないかもしれない。


 私にはこの状況を理解する術がないのだ。


 唯一心当たりがあるとするならば、それは『神の権能』だ。世界の代行者たる神に時間を停止させる力があってもおかしくない。


 しかし、これは亡者の神モルディギアンの仕業なのだろうか? モルディギアンならば、時間を停止させずとも冥界の神として即死攻撃を放ってきそうだが……。一向に何もしてこないのもおかしい。

 何がどうなっている……?



 ――チリンチリン!



 私の意識に、ふと澄んだ鈴の音が聞こえた気がした。そして、私の真後ろ、首に吐息が吹きかかりそうな至近距離で、悪戯っぽくナニカが囁く。




『ふふっ……にゃーん』




 猫の声……?

 次の瞬間、再び雑音ノイズの波が濁流の如く押し寄せ、立ち眩みに似た眩暈とともに世界に色と音が戻る。時間が再び動き出す。


「な、なんだ今のは……」


 強烈な不快感が込み上げてきて、自分の口から声が出たことにも気づかなかった。

 処理能力を超える情報量に襲われて頭がひっ迫する気持ち悪さ。全く関係ないシーンを無理やり繋げた映像を観ていたような得も言われぬ拒否感。意識の間隙に無理やり別の記憶をねじ込まれたような猛烈な違和感。意識の連続性がところどころ途切れている。


「マスター? どうかしましたか?」

「ルルイエ……お主は感じたか? 今の不自然な時間の流れを」

「不自然な時間の流れ? ワタシの記憶ログにはそんなものは何も――」


 よろけた私をルルイエは心配そうに支え、ツバキやアッハンも心配と困惑の表情を浮かべている。


 その反応から察するに、皆に意識はなかったのか。つまり体験したのは私だけ……。


 あの停止した時間の間にクティーラが奪われたのかと思いきや、彼女はしっかりとツバキと手を繋いで佇んでいる。何ら変わったところはない。


「亡者の神モルディギアンよ。一体何をしたのだ?」


『……去れ』


「は?」


 黒い円柱から放たれる強い拒絶感に思わず面食らう。

 クティーラを奪われることにあれほど苛立っていたモルディギアンが、今は驚くほど心を鎮めている。

 モルディギアンの心境に何があったというのだ。あまりの変化についていけない。


『その亡骸はくれてやる。即刻立ち去れ、生と死の狭間で生きる者よ』

「良いのか?」

『今回だけだ。次は許さん』


 あんなにも厳格な神があっさりと手のひら返しをするのは違和感しかなくて、何か裏があるのではないかと疑ってしまうが、亡者の神モルディギアンの気が変わらぬ前に立ち去っておくのが賢明か。

 しかしモルディギアンのほうが先に退く気配があった。



『……気をつけよ。混沌はいつもお前を見ている』



 意味深な忠告を残して、黒い円柱から輝きが失われる。

『いつも見ているから、似たようなことをしてみろ。次はわかってるよな?』という脅しと認識していいのだろうか。

 超越存在オーバーロードである神は、人とは違う基準で物事を判断し、行動しているから、言い回しがよくわからん。


「モルディギアンが何をしたかったのかわからんが、ひとまず何事もなく終わったようだな。では、今度こそ帰るとしよう」


 これ以上この地下空間に居たくなかったのか、誰からも反対意見が出ることはなく、私たちは亡者の神の祭壇たる儀式場を後にするのだった。




 ■■■




 誰もいなくなって静まり返る地下墳墓カタコンベ――。

 血臭と腐敗臭が染みつく厳かな『死』で満たされた空間内で、突如闇が深まる。

 するとどこからともなく迷い込んだ一匹の黒猫がしなやかに歩き、首輪の鈴を小気味よく鳴らした。


 チリンチリン……!


『ふふっ……にゃーん』


 可憐な鈴の音と猫の鳴き声に反応したのか、部屋の中央に鎮座している黒い円柱に薄らと小さな光が宿る。


『……なぜ邪魔をした?』


 不機嫌さを隠そうとしない神モルディギアンの声。

 誰にともなく呟かれたその声に答えたのは、とても意外な存在だった。


『彼、面白いと思わないかい?』


 のらりくらりと尻尾を揺らしながら、少年のような、あるいは少女のような、よくわからない中性的な声音で流暢に言葉を話し出した。悪戯っぽい響きがあり、それでいて純粋無垢な悪意を孕んだ声だ。


『ふふっ。久しぶりにいい子を見つけちゃったよ。これだから世界は面白いね』

『質問に答えよ。なぜ邪魔をした?』


 静かな声とは裏腹に、現世の生物では決して耐えられない神性を帯びた圧力が轟々と吹き荒れる。

 しかし、黒猫はそよ風のごとく神の怒りを受け流し、


『感謝してよね。ボクは君を助けてあげたんだから』

『助けるだと? あれは我が祭壇に捧げられた死者の亡骸だったのだぞ。それを持ち出すなど、死者を司る神として見過ごすわけにはいかん! なのになぜ間に割り込み、生と死の狭間で生きる者に味方をした!? 我が質問に答えよ、――!』


 亡者の神の純粋かつ苛烈な怒鳴り声に黒猫、いや混沌を司る神ニャルラトホテプは、燃え上がる第三の眼を額に開眼させ、妙に人間臭い仕草で前足を振る。


『はぁ、これだから生真面目な君は……。安穏たる死者の眠りを妨げないよう護ってあげる優しい君の意見は、理解できないけど尊重するよ。でもね、頭が固すぎる。あれが『死者の亡骸』? いいや、違うね。あれは『ただの人形』だ。『人の形をした肉塊』と言ってもいい。ボクはそう判断する』

『…………』


 小柄な黒猫の体から放たれる有無を言わせぬ静かな圧力に、神モルディギアンが押し黙った。


『『死者』とは魂が冥界に送られた者のことだ。ならば元々魂が宿っていなかった者は『死者』になり得ない。そもそも世界は、アレを人間はおろか生物と定義しない』


 神ニャルラトホテプは煽るようにニヤリと笑いながら、モルディギアンを上回る圧倒的な力をもって威圧的に告げる。




『で、モルディギアン? ボクが逆に質問しよう。世界の理に則ってよく考えて答えるんだ――アレは死者の亡骸であるか、否か?』




 モルディギアンよりも上位に君臨する神からの威圧は、黒い円柱を通してではなく、冥界に座する彼を直接襲っていた。

 ニャルラトホテプはさらに高位の世界の代行者権限を利用して尋ねている。神すら裁くことができる権能だ。返答を誤れば神モルディギアンでもただでは済まない。

 ゴクリと喉を動かし、少し震える声でモルディギアンが答える。


『……否だ。アレは死者の亡骸に該当しない。最初から魂が宿っていないのであれば、死者の亡骸とは確かに言えん……』

『それはよかった』


 その瞬間、モルディギアンを襲っていた重厚な威圧感が霧散した。幻だったかのように何事もなく消え失せている。

 黒猫の表情もニコニコと悪戯っぽいものに戻っていた。


『あのまま頑固に死者の亡骸と言い張ろうものなら、ボクは上位存在として君をお仕置きしなくちゃならなかったよ。理解してくれたようでなによりだ。ほら、ボクが介入して君の越権行為を未然に防いであげたんだから、感謝してくれてもいいんだよ! いいや、感謝すべきだ!』


 ふふんっ、と得意に背筋を伸ばして座る黒猫は、到底神だとは思えない姿だ。


『……介入してきた件は納得した。だが、生と死の狭間で生きる者を巻き込む必要はなかったのではないか?』

『あぁー、あれね。そのほうが面白いでしょ? 引き延ばされた時間の中で色々考えていたのは笑ったよ。彼、君の仕業だと思っていたよ』

『……あのような権能は持ち合わせていない』

『似たようなことはできるでしょ。まあ、現世こっちでは制限がかかるけど』


 神ニャルラトホテプは何かを思い出して、ふふっ、と笑い声を漏らす。チリンチリンと小気味良い鈴の音が鳴り響いた。


『いいよね、彼。あんなに弱いのに神に向かって啖呵きっちゃってさ。いずれ世界に混沌を振り撒いてくれると思わないかい? あの魔導兵器のティクビちゃん……いや、今はルルイエちゃんか。あの子の封印も解いちゃったみたいだしさ。荒れに荒れて惑星をいくつも滅ぼし、破壊神よりも破壊神してたあの子がまさかあんなにも懐くなんてねぇ。見せつけるように手を繋いでイチャイチャしちゃってさ、ホント可愛くなったよね。恋かな? 恋なのかなっ!?』

『……興味ない』

『出た出た。君のその興味のなさ。興味があること以外はホント見向きもしないよね。それで神生じんせい楽しい?』

『…………』


 あまりに興味がなさすぎて返答するのも億劫なモルディギアンは、ため息に似た無言を貫き、


『……生と死の狭間で生きる者も不憫だな。混沌の神ニャルラトホテプに目をつけられるとは。同情を禁じえん』

『それはどういう意味かなぁー? ほらほら、上位存在であるボクにはっきり言ってごらん?』

『……パワハラという言葉を知っているか?』

『知っているからこうしてパワハラをやっているんじゃないか』

『…………』


 面倒な上位存在だ、と神モルディギアンは思う。これでいて全宇宙の上位5柱に入る偉大な神だというから手に負えない。


『ま、自覚はあるけどね。死者の安らかな眠りを見守る優しい神である君に対して、ボクは秩序を乱し、人類に混乱と争いという試練を与えることで世界の発展と進化を促す混沌の神――あれだよあれ、好きな子にちょっかいを出すのがボクの存在理由ってことさ!』

『……だからこそ生と死の狭間で生きる者に同情している。これからちょっかいを出すのだろう?』

『もちろんさ! 困難を乗り越えて強くなってもらわないと! 期待している分たくさんね。これも愛の鞭ってやつだよ。ふふっ、楽しみだ……』


 新しく手に入れたオモチャを破壊したくて堪らなそうに、ニタリと悪辣な笑みを浮かべるニャルラトホテプ。額に開眼する瞳が煌々と燃えている。

 チリンチリンと首輪の鈴が鳴り、黒猫が黒い円柱に背を向けた。のらりくらりと尻尾を揺らす。


『ボクはそろそろ行くよ。言いたいことは言ったし、彼らの出航を見送りたいからね』

『……そうか』

『またね、モルディギアン。良き混沌を!』


 姿を現したときと同じように、ヒョイッと軽やかな動きで駆け出した混沌の神ニャルラトホテプは、前足が地面に触れたかと思うと闇に溶け込んで姿を消した。澄んだ鈴の音だけが残される。


『……良き死者の眠りを』


 それから間もなく黒い円柱の輝きが失せ、亡者の神モルディギアンの気配も消える。

 二柱の神が邂逅し、そして立ち去った廃棄コロニーの地下墳墓カタコンベ

 今度こそ静かなる『死』で満たされる。




 ■■■




「――本当にここに残るのか?」


 ”混沌の玉座ケイオス・レガリア号”が停泊している廃棄コロニー『コーンウォール』の第13番ゲート。

 私の問いに女商人のアッハンが、鬱陶しいほど次々にセクシーポーズを炸裂させながら頷く。


「はい。そのほうが良いと商人の勘が言っておりますの。アハーン! イヤーン! ウッフーン!」

「そ、そうか……」


 誘拐を経験して変態性や鬱陶しさが増した気がする。

 アッハンのセクシーポーズの前では、死神すらドン引きして退いていきそうだ。


「緊急の救難信号は出しておいてやる。ここに残るのならば救助を待つがいい」

「感謝申し上げますわ、骸骨のセンチョーさん。おそらくセントセレファイス神星国に所属する宇宙船が救助に来てくれるでしょう。ちょうど神星国に向かっていた途中だったので好都合ですわ」

「あの船は神星国行きだったか」

「はい。今年は新しく聖女が列聖されるそうで、その式典に参加したほうが良い気がしますの」

「それも商人の勘か」

「はい、商人の勘でございます」


 今回の事件を一人だけ生き残ったアッハンのことだ。また何かの事件に巻き込まれ、そしてしぶとく生還しそうな気がする。

 彼女は殺しても死なないし、死んでも死なない――これは私の勘だ。


「骸骨のセンチョーさんとは、またどこかでお会いできそうですわぁ!」

「それも商人の勘か?」

「いいえ。これは乙女の勘ですの」


 乙女……? いや、これ以上考えるのは止めておこう。なにやら悪寒がする。これは勘というよりも本能が危機を訴えている。


「では、私たちはそろそろ行くぞ」

「はい……最後にセンチョーさんのお名前を教えていただけませんか?」


 ん? そういえば教えていなかったか。

 これもなにかの縁。名乗っておいたほうがいいだろう。

 私は幽玄提督閣下のように威厳を纏ってアッハンに告げる。


「私はランドルフ。船長ランドルフ・ラヴクラフト。アッハン・モンモンローよ、我が名を恐怖とともに全宇宙へと広めるがいい――!」



 ■■■



 アッハンと別れた私は、”混沌の玉座ケイオス・レガリア号”の操縦室の玉座のような船長席に座り、出航の準備が着々と進んでいく様子を悠然と眺める。


 ルルイエは高速で制御盤コンソールを操作し、ツバキは新しく船員クルーに仲間入りした妹分のクティーラを甲斐甲斐しく世話している。

 縮退魔導炉が活性化し、船全体に動力が行き渡っていく。


「システムオールグリーン。いつでも出航できます」

「うむ」


 ルルイエの報告に私は横柄に頷く。

 ふと私は思い返す。宇宙船の救難信号を受信したことから始まった一連の事件を――。


 宙賊を撃退して拠点も潰し、アンデッドが蔓延る廃棄コロニーに辿り着いた。そこでは第一級魔導犯罪者が死者蘇生の儀式を執り行おうとしていて、戦闘になって、神まで現れるとは全く想像していなかったぞ。


 いろいろあったものの、おかげでクティーラという新たな船員クルーが増え、アッハンという商人と縁を結ぶことができた。


 私自身も少し成長し、また一歩幽玄提督閣下に近づいたのではないだろうか。


 ルルイエもツバキもクティーラも全員席についている。画面モニターの中では、私たちを見送るアッハンが華麗なセクシーポーズを披露している。

 出航の準備は整った。あとは船長たる私が号令をかけるだけ。


「念のため言っておくが、今回は下ネタのような返答をするでないぞ? 『ブ・ラジャー』と言うんじゃないぞ? 絶対だぞ?」

「わかっていますよ!」

『ゴブゴブ!』

「…………」

「変なフリとかじゃないからな! バラエティーのノリとか要らぬからな! ……そのニヤニヤ笑顔と意味深なサムズアップをやめいっ!」


 本当に分かっているのだろうか? 実に不安だ。特にルルイエ。

 いつも無表情を貫くくせに、こういう時はすべてを理解したという笑顔を浮かべるのだ。全く信用ならない。


 私は格好良く出航したいだけなのだ! お願いだから真面目にしてくれ!


 コホンと咳払いをすると、船員クルーたちが背筋を伸ばす。

 そして私は立ち上がり、威厳を漂わせて前方を見据えると、真剣な表情で待つ彼女たちに傲然と命令する。


「”混沌の玉座ケイオス・レガリア号”! 出航せよ!」

「ラジャー!」

『ゴブー!』

「…………」



「だからブは――って、言わんのかーい!」



 私のツッコミが操縦室に虚しく響き渡り、”混沌の玉座ケイオス・レガリア号”は大いなる星の海へと乗り出すのだった。





『第2章 狂った死霊術師 編』 <完結>


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