第20話 名状し難い憑依者
砕け散った黒い結晶の破片が空気に溶けて消えていく。
しかし、いくら待ってども一向に魔法が発動する気配がない。本当に何も起こる様子がない。
えっと、これはどういうことだ……? 不発か?
さすがに私も動揺を隠しきれなかった。
「お、おい! なにか起きやがれェ! どうなってやがる!」
なんだ。使った本人もよくわかっていなかったようだ。
そんなわけがわからないものをぶっつけ本番で使うな、と言ってやりたい。
結局何だったのだろう。まあいい。何も起きないのなら好都合だ。さっさと終わらせてルルイエと合流しよう。
そう思った次の瞬間――私の視界にどんよりとした闇が広がる。
「なんだそれは……?」
「はァ? 何を言ってやがる?」
「それだ。貴様の手から溢れ出している闇の
「ようやく何か発動するのかっ!? って、そんなものねェじゃねェか!」
ん? もしや見えていないのか? 私の存在しない目には、確かにウィアードの左手から溢れる闇色の触手のような靄が見えるのだが……。
ソレは次第に手から腕へと伸び、ウィアードの体を包み込んでいく。
「ん……? 何だこの力はよォ……力が漲っていくぜェェエエエエエ!」
ウィアードは靄が見えないものの、力のようなものは感じ始めたらしい。
ドクンッと巨大な心臓が鼓動したような体の芯まで響く低い音が聞こえた気がした。
傷つき、穿たれていたウィアードの肉体が、シューシューと気味の悪い音を上げて治癒していく。筋肉も一段と膨れ上がる。
湧き上がる力に酔いしれながら立ち上がった彼は、再生する体にニヤリと唇を吊り上げ、
「ふんっ!」
全身に力を込めると、消失した右腕から骨が伸び、筋線維がミミズのようにのたうち、皮膚が張って、あっという間に手が再生してしまった。
まるで早送り映像を見ている気分だ。英雄戦隊では主人公や敵のパワーアップはお約束展開だが、ここまでおぞましいパワーアップを実際に現実で目の当たりすると、正直ドン引きの光景である。
再生した右手を満足そうに眺め、ウィアードは酷薄に笑う。そして、無造作に右手を軽く振った。
ま、まずいっ!
「くっ!」
身の危険を覚え、咄嗟に避ける私。しかし、反応が少し遅かったようで、宙を舞う私の左腕――。
右手をもがれたお返しなのか、『震剣』のウィアードは正確に私の骨の腕を狙って上腕から斬り飛ばした。
幸い痛みはない。むずがゆい違和感を感じるだけだ。
おいおい。剣から衝撃波を放つと聞いていたが、素手でも放てるとは聞いてないぞ……!
「ハハハハハッ! こいつはァ最高だなァ! 力が溢れてしょうがねェ! 今のオレなら何でもできそうダ!」
万能感に酔うウィアードは、周囲のものを攻撃して己の力を確かめている。腕を振るたびに破壊されていくテーブルや床、壁、そして倒れ伏す冒険者たち。
確認を終えたウィアードは、舌なめずりをしながら私を嘲笑った
「テメェをコロスことも簡単だヨォ? よくモまあ、ボクのことヲ甚振ってくれタねェ! あはッ! あははハハハハ!」
む? アクセントがところどころおかしい? 一人称も『オレ』から『ボク』に変化してないか?
違和感を覚えた私の前で、甲高く笑い狂うウィアードの体がたちまち変化していく。
ウィアードの白目が黒く汚染され、虹彩が赤く染まる。肌の色も腐った灰緑色みたいな色に変色していき、表面に鱗のような模様が浮かび上がる。
私を怯えさせようと首を傾けて凄むウィアードだが、その首は90度と人間ではありえない角度になっていることに果たして本人は気づいているだろうか……。
「グギッ! グギギギッ! カ、覚悟、して、ヨ、ネェ、ス、ススス、スケ……スケル……トン……! ボ、ボボボボボボボボ、ボク、は、オマエ……ヲォォオオオオオオオオオ!」
見る見るうちに縮んでいくウィアードの体。
ボキボキと骨が折れる不快な音。グチュグチュと圧縮していく肉体。あれほど筋骨隆々だった肉体が線が細い少年のような肉体へと変貌する。
しかも細い四肢は骨の硬さを失い、グニャグニャな軟体動物のようで――
――ズドンッ!
私は生理的嫌悪と本能的な恐怖に抗えず、無意識に魔導銃アル=アジフの引き金を引いていた。
速さに優れる光属性の魔弾がレーザー光線と化してウィアードだった存在の眉間を真っ直ぐに突き抜ける。
「…………」
キョトンとした表情を浮かべたソレは、ギョロリと目玉を上に向けて自らの額が撃ち抜かれたことを理解すると、無言でゆっくりと背後に倒れていき、そのまま床に倒れて動かなくなった。
再生する気配も変身が続行される気配もない。大男のような少年のような軟体動物のような中途半端な状態のまま身動き一つしない。生命活動が停止している。
「――しまった。変身中の相手に攻撃するのはご法度だった」
ハッと我に返って私は少し後悔。
絶対的な
だが、これは明らかに変身を完了させてはダメなやつだったと思う。本能がそう告げている。
「まあ、変身中の無防備な姿を敵の前に晒していたほうが悪いか。変身したいのなら英雄戦隊のように無敵状態になるんだな」
そうアドバイスをしてももう遅い。相手には届いていない。
――『震剣』のウィアードは死んでいる。
これでツバキの仇は討ったことになる。
しかし、あまりにあっさりと殺してしまったことで拍子抜けした気分だ。もう少し納得のできる違う復讐の結末があった気がする。せめて結晶を砕く前に殺してしまえばよかったか。
「マスター。ツバキの
「ん? おお、ルルイエか。その掌に乗っている小さな
「はい。魔力波形が一致しました。99.9999%の確率でツバキのものです」
私は数センチの小さな紫色の結晶のような
ああ、本当だ。ツバキの頭を撫でているような感覚……間違いない。これはツバキの
「左腕は大丈夫ですか?」
「ああ。痛みはない。少し油断しただけだ。私もまだまだ精進が足りん」
敬愛する幽玄提督閣下なら、これくらい無傷でやり過ごしただろう、と切断された左腕を拾いながら思う。すべて私が未熟だったゆえの結果だ。
ルルイエは額に穴が開いているウィアードの死体を一瞥し、
「マスターもツバキの敵を討ったようですね。ですがどうしましたか? まるで変身途中に攻撃してしまったらあっさりと通って倒してしまった、みたいな何とも言えない雰囲気を醸し出しているようですが」
「見ていたのか? まさしくその通りだ。呆気なさ過ぎて何も感じないのだ……」
「復讐はマイナスをゼロに戻す行為。そこに達成感や満足感があってもそれは一時的なもの。しばらく経ったらどうしようもない喪失感と虚無感に苛まれるだけです。復讐とはそういうものです」
「やけに実感の籠った言葉だな。過去に経験したことがあるのか?」
今まで同情や憐憫の優しい声音だったルルイエは、スンッと顔から感情を消して、抑揚のない無感情な声で淡々と告げる。
「――ワタシは人型魔導兵器です。人類が抱く気持ちや感情がワタシにはわかりません。復讐とは無縁です」
「これ以上詮索するなということか。了解した」
ここまで露骨だと実にわざとらしい。
私にだって他人に知られたくない過去の一つや二つは存在する。追求しないほうが賢明だろう。特に女性の過去の詮索はしないほうがいい。これは世界の真理だ。
「しかし、なんですか、あれは。まるで『名状し難い憑依者』に変化している途中だったようですね」
「『名状し難い憑依者』?」
「はい。何かの精神生命体に寄生されたかのように人格や肉体が変化していく、未だ原理が解明されていない人間の魔物化現象です。言葉にしたくない醜悪な姿となり、変異後は理性を失って破壊と殺戮と捕食を行なうだけの存在に成り下がります」
「『名状し難い憑依者』……言い得て妙だな」
白目が黒く染まり、赤くなった虹彩。灰緑色の肌。鱗の模様。縮んだ体。軟体動物のようなグニャグニャの手足。言葉遣いや一人称も変わっていた気がする。
思い返せば、別の何かに憑依されて精神や肉体が侵食されていたと言わんばかりの現象だ。おそらくこれは『名状し難い憑依者』で間違いないと思う。
「実に興味深いですね。ワタシも初めて遭遇しました」
近くでまじまじと観察するルルイエ。
その時、醜悪な姿の死体がモゾッと動いた気がした。
「ルルイエ! 下がれ!」
私は半ば無意識にルルイエを背後に庇い、ウィアードだったものの死体を睨む。
「マスター?」
素直に命令に従ったルルイエの困惑げな眼差しを背骨と後頭部に感じつつも、私は警戒を解かない。むしろ身の毛もよだつ嫌な予感が増すばかりだ。
「なにかが……出てくる……?」
死体の胸のあたりからスッと出てきたもの、それは拳大の球体だった。
真っ先に思い浮かんだものは、ヘドロに覆われたマリモだろう。嫌な臭いすら漂ってきそうな近寄りがたい塊だ。
「マスター。何が起こっているのですか?」
「ルルイエには見えていないのか?」
「はい。ワタシには何も……センサーや魔力探知にも一切反応がありません」
「となると、私だけに見えているのか。何なのだ、あれは」
「さあ?」
唯一心当たりがあるのは、ウィアードが砕いた結晶だろう。あれも気色悪く、ウィアードに靄が見えていなかった。
だが、なぜ私だけにあの球体の存在が見える? ルルイエのほうがよほど高性能なのに。
呆然と眺める前で、ヘドロのような球体はフヨフヨと宙に浮かんでいる。まるでニンゲンを品定めして取り憑く先を探しているような不自然な動き――ま、まさか、あれが『名状し難い憑依者』の本体かっ!?
フヨフヨ浮かんでいた球体が、ピクッとおぞましく震えたその直後、
世界から色が消えた――。
黒、白、灰色のモノクロと化した世界。時間が停止した錯覚に陥り、スゥーッと熱が奪われていく。
ゾワリと総毛立つ感覚に襲われ、冷たく光が届かない深海の底に沈んだみたいにねっとりと大気が重苦しい。
カタカタと鳴り響く音。それは私の体が恐怖で小刻みに震えている音だ。
「マスター、何かが来ます……」
ルルイエの囁く警告もどこか弱々しく、惑星すら破壊する彼女が警戒している。
そして、ソレは現れた。
天井と壁の境目から、建物の角から、床板の継ぎ目から、瓦礫の隙間から、倒れ伏すニンゲンの影から、ソレは音も気配もなく滲み出てくる。
色褪せたモノクロの世界の中で、唯一ソレだけが色鮮やかだった。
だがしかし、その色は輝く漆黒。鮮明に輝く深淵の如き美しき純黒である。
矛盾しているが、他に表現しようがない。本当に黒なのに輝く矛盾した物質なのだ。
どこか漠然と感じる、眠りに落ちる前の安らかな心地よさ……。
ウィアードを襲った靄とは違う、魅入ってしまうほど心惹かれる美しい闇。染み出たソレは次第に一つに集まり、人の形を模していく。
そしてソレは言葉を発する。
『ハァ……
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