Dear Mom

トム

前編



『親不孝をお許しください』


 悩んだ挙げ句、一枚の便箋に書けたのは、その一言だけだった。









 玄関の扉を開けた途端、雪崩のように崩落したゴミの山を見た時は正直、背筋にぞわりと何かが奔った。部屋はゴミで溢れ、足の踏み場は見当たらず、そのゴミを踏み越えて行くしか術はない。


 靴を脱ぐこともなく部屋へと入る。ゴミは酷い悪臭を放ち、防塵マスクをしても尚、喉にせり上がってくるものが有る。窓やカーテンは締め切られ、目張りのためかサッシには全て布製のガムテープが張られている。……今すぐそのテープを引き剥がし、サッシの窓を開放して空気の入れ替えをしたい衝動に駆られるが、絶対にそれは出来ない。





「……酷いな、こりゃ。……おい、さっさと始めるぞ」


 先頭を進んでいた男がそう言うと、部屋に入った連中は揃って手に持ったビニール袋を広げ、「先ずはここにベースを作る」と言って、ゴミをかき分けていく。




 ――便利屋で社員になって半年……。


 都会と呼ばれる地方都市へ出て数年。最初に始めたバイトはコンビニ店員だったと思う……。幼い時から我慢が嫌いで、すぐにムカついては周囲と衝突ばかりしてきた。そんな俺に長く続ける事自体、無理な話だった。仕事は転々とし、定職につかず、ある程度の金が出来ては、その土地からも離れていく。


 ――根無し草。



***************************



 父は記憶に居ない。母と二つ年下の弟との三人暮らし。母は朝早くから働きに出て、夜遅くに帰ってくる。いつも疲れ果て、布団に入っている印象しか残っていない。だから学校から帰ってきて弟と二人、家事に追われる生活。弟は文句の一つも言わず、学校で陰湿なイジメに遭っていたようだが、そんな事はおくびにも出さずに、「お母さん、家のことは兄ちゃんと一緒にやるから、ゆっくり寝てていいよ」と言って、母に笑顔を見せる。兄弟仲は悪くはなかった。でもそんな弟に俺は、掃除や片付け、洗濯までも押し付けて、外で遊び呆けていた。


 やがて中学生になると、地元の悪い連中とつるむようになった俺は、家に戻ることも減り、街に出て悪さをしては悪名が目立ち、噂になっていた。中学三年になった時、弟が同じ中学に入学すると、当然教師たちは目をつけるが、あいつは俺と正反対で優等生だった。そうして周囲の信頼を一手に受けて、遂には生徒会役員に抜擢される程に。




 ――弟は優等生なのに、あんな兄貴のせいで大変だなぁ。




 いつもの様に明け方近く、友人に送ってもらい、玄関先で爆音の響くバイクから降りたと同時、見知らぬ影が玄関前で仁王立ちしている。


「誰だテメ――」


 それ以上の言葉は紡げなかった。眼前には大きな拳が迫り、次の瞬間には目の前がスパークした。メキョと言う音が聴こえ、鼻が潰れた。直後、左の耳辺りに風の音がなる。グキッと音なのか感覚なのかわからなくなっていると、思わず食いしばった奥歯が割れたと気が付いた。その衝撃で脳が揺れたのか、酷い酩酊状態になり、そのまま前後不覚となって俺の意識はそこで途切れた。



 次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。そうとう強い力で殴られたのだろう、顔中が酷く痛み、そこらじゅうが熱を持っている。包帯でグルグル巻きにされているのか目も殆ど開かない。一体誰にと思っていると、傍らで口論している声が聴こえてきた。左の耳がよく聴こえなかったので、右の耳で澄ましていると、どうやら母が誰かに怒鳴っている様子だった。


「どうして!? 優希ゆうきが大怪我をしたばかりなのに! アンタが雄哉ゆうやに大怪我させてどうするのよ!」

「……。――」

「何を今更! それに二人はなのよ! そんな事許すわけ無いわよっ!」

「――、――。――」

「どうしてそんな勝手が許されると思って居るのよ! 嫌よ! 嫌に決まって――」

「お母さん、ここは病室です! 少し声を控えて下さい。それにお子さんも――」


 母の怒鳴り声はよく聴こえたが、もう一方は声が小さく、低いようで、全く聞こえない。なにやら込み入ったことを言い合っている様だが、肝心な所で誰かの仲裁が入ったみたいで、途端その声は聞き取れなくなり、それと同時に訪れた睡魔に抗えず、俺の意識はまた沈んでいった。



***************************



「……アンタが俺の?」


 大部屋のカーテンを閉め、狭く感じる空間の中、母の隣に立つ大柄な男が、俺を見下ろしながらそう告げてきた。その言葉に少し困惑しながら母の方を見つめると、俯き加減で小さく息を吐いた後、母は申し訳無さそうな顔をして頷いた。どうやら優希が学校で喧嘩をして、大怪我を負ったらしい。そこで学校から連絡を受けた母は気が動転してしまい、俺の出迎えにこの男を呼んだらしい。



 ……正直、今更感が半端なかった。目の前に立つこの男が父親だと告げられても、全くそんな気がしない。そんな話よりも弟が喧嘩をした事の方が余程、驚愕した。虐められても、馬鹿にされても、いつも笑って済ませていたアイツが、なんで喧嘩なんてと男の方を見ることもなく母に聞く。すると、口ごもった母の代わりに答えを言ってきたのはその男の方だった。


「……お前を馬鹿にされたのが、許せなかったんだとよ。しか血は繋がっていねぇのにな」


 その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ赤になるほどブチ切れた。殆ど開かない目でソイツをめがけ、握った拳を振り抜いたが目測が合わず、それはただ虚空を彷徨った。そんな俺を見たソイツは不敵に笑い、「やっぱ、テメェは俺の息子だな」とほざく。母が止めるのも聞かずにベッドから飛び降りた途端、腹部にソイツの拳がめり込んで、そのままもんどり打ってベッドに戻されると、薄れていく意識の中でソイツは俺に告げてきた。


「テメェの面倒は俺が見る。だからもう弟のことは忘れろ」



 ◇  ◇  ◇  ◇



 事の経緯は、後から聞いた。


 弟はその有能ぶりを買われて、生徒会役員に選ばれた。そうして役員室で挨拶した時、風紀委員の3年生が零した言葉にキレたらしい。俺の事を蔑んだソイツに「貴方に兄の何が理解できるんですか?!」と食って掛かり、柔道部員でも有るその男に飛び掛かったと言う。結果、軽くあしらわれて投げ飛ばされた先に、机に置かれた筆記具立てに顔から突っ込んだそうだ。


「右眼球破裂……口唇部裂傷……よくもまぁ、死ななかったもんだ。でも、賠償金は相当貰えるらしいぜ。親孝行な奴じゃねぇか、これでアイツも楽できるってもん――っとぉ。何をお前はキレてやがんだ?」

「ソイツはどこのどいつだ! 俺が同じ目に合わせてやる! 教え――グァ!」


 コイツの話は聞いて居られなかった。右目が潰れた? こうしんぶってなんだ? 兎も角顔に酷い傷を負った事だけは理解できた。それで充分だ、やった人間にはその倍返してやろうと立ち上がった途端、容赦のない蹴りが俺の腹にめり込む。


 病院から直接ここへ、半ば強引に連れてこられた。既に住んでいた街からも遠く離れ、県すら違う。同じ病院に入院しているのは聞いたが、ICUに入っている為、見に行くことすら出来なかった。……家族であるにも関わらず、たった一人の弟なのに……。


 父と名乗った男の職業は、所謂極道と言う半端者だった。構成員の数も少なく、シノギも詐欺まがいや店のミカジメなど、殆ど微々たるものばかり。その為、解体作業などの現場作業が大半で、只の肉体労働者と大差なかった。住んでる家もその解体業者の敷地に立つプレハブで、事務所と兼用になっている。


「どうせ、学校にも行ってねぇんだろ。なら、この解体屋で働け。その分はきちんと払ってやる」


 そうして中学を卒業すると同時に、就職先が決まっていた。


 朝は午前6時頃から、その日の作業に使う道具の仕分けを行い、トラックに積み込んでいく。手持ち道具一つとっても10キロ程度は普通にある。そんな工具や道具を点検してから積み込み、出社してきたチンピラのような連中と一緒にコンビニのおにぎりを食い、班分けされて車に乗り込む。現場について積んできた道具を下ろすと、班長に付いて手元作業や片付けなどを熟して行く。ゴミ出しや、荷物整理が殆どで、畳を持った時はこんなに重いものなのかと驚いた。重機で屋根を落とす際、水道の水を掛けていると、「こっちにも掛けろ!そっちにはホコリが上がらねぇ! こっちだ!」としょっちゅう叱責が飛ぶ。風を読めと言われても、そんな事分かるわけねぇと心の中でボヤきながら、言われたとおりに水を撒く。



 そんな仕事を5年ほど続けた頃、親父が突然急死した。


 ずっと解体屋をしていた所為で忘れていたが、表は解体屋の看板だが、実際のここはヤクザの事務所。小さいながらも親父はその組の親分だった。


 霊安室で面会した親父は、身体のあちこちに小さな穴が空いていた。「銃創」と言うらしい。一緒に行った組員たちはそれを見るなり殺気立ったが、刑事たちに煩く言われ、その場で弔い合戦とは言い出さなかった。周りで大の大人たちが泣く中、俺は全く心が動かない。コイツは父親らしいことなんて、唯の一度もしてくれなかった。気に食わないことがあればすぐ殴ってきたし、しょっちゅう飲み屋の女を連れ込んできては、プレハブ小屋でうるさかった。


「……君が貴島雄哉君だね?」


 一人の刑事がそう言って、俺の顔を見つめてくる。流石は暴力団対応組織の人間、強面なんてものじゃない。四角い顔に深いシワ、眉間はこれでもかと筋が入っている。身長は170を少し越えたあたりだろうが、胸板は厚く、スーツが張り詰めてパンパンだ。話した言葉も、まるで地の底から腹に直接響いてくるようなドスの効いた声音。そして何より俺を見つめるその眼差し。鋭く、鋭利な刃物を思わせるほどに光っている。思わず後ずさりながら、ハイと応えると、彼はその声のままで問うてきた。


「お父さんからこの組の後の事を聞いているかい?」

「……いえ、俺はずっと解体屋の方しかしていなかったので、そっちの事についてはなんとも」

「そうか。……解った、では残りの話は彼らに聞くので君は帰ってもらって構わない。あぁ、何かあればすぐここに電話してくるように」


 そう言って渡された名刺には「渡辺剛」と言う名と、携帯番号だけが書かれていた。



 警察官に付き添われ、事務所に戻ってきてみると、何台もあったトラックや、機材や道具が無くなっている。何が有ったと事務所で聞くと、留守番してた連中からは、ここに有ったものは殆どがレンタル品で、親父が死んだと聞いた途端、業者が来て引き上げていったと聞かされた。


「……これじゃ、解体屋の方ももう出来ねぇな」

「大体、親父は何処の者にやられたんだ?! この辺のシマじゃ山崎んところか、扇組しか揉めてねぇだろ?」

「親父はそのどちらとも仲は良かったじゃねぇか」

「じゃぁどこが!?」

「今、探ってる! だが、目撃者が居ねぇ。親父はなんで一人であんな――」


 親父が襲われたのは、この街から離れた人の少ない場所にある、郵便局を出た所で銃撃されたと言う。この街にも郵便局など幾らでも在る筈なのに、何故そんな場所へ出向いたのか、誰も真相を知るものは居なかった。結局犯人は見つからないまま、先細りした組は親父と仲が良かった山崎組と扇組に吸収され、組員達も散り散りになっていった。そんな形で空中分解し、そのどちらにも向かわなかった俺は、一人その街を出て都会へと流れ、その日暮らしのようになっていった。



***************************




「貴島、そこのゴミ、表の奴らに渡してくれ」

「あぁ、はい。わかりました」


 ある程度分別されたゴミを纏めると、小分けにしてトラックへと渡して行く。産廃でもない限り、分別しないと業者は引き取ってくれないからだ。そうして幾度かに分けてゴミを搬出した後、本格的に部屋の掃除を始めることになる。


「……良し、じゃぁ家具の方も搬出していこうか」


 班長の言葉に返事をすると、入り口傍に有る靴箱やキッチンに置かれたテーブルなどを、皆手慣れた調子で運び出していく。「便利屋」を生業にしていると、種種雑多な依頼を受けるが、特に荷物の移動や引っ越しなど、大きな物の移動作業と言うのは比較的多い。その為、色々な人間がその時々に応じて班編成を行う。今回の依頼は「ゴミ屋敷化したマンションの清掃」だ。中にあるものは貴金属や重要書類を除き、全て処分と聞いている。なので引っ越し業務経験のある者や、清掃業務の出来る人間が集められた。俺はと言えば、解体屋の仕事で荷物の搬出経験が有る。そうして荷物をどんどん運び出して行くと、外に待ち構えた連中が荷物の中を調べ、終わった順にトラックへと積み込んでいく。


 顕になったその部屋は、1DKタイプの独身者向けのちいさな部屋だ。玄関を入ってすぐダイニングキッチン。廊下などはなく、玄関を開ければそこがその部屋という形だ。6畳程度の部屋の右手にはトイレや風呂場などの水回り。玄関から見て左側の通路沿いには流し台が付いている。小さな窓には直接換気扇が取り付けられており、その下部分に丁度コンロが置かれていた。部屋を仕切る襖は、既に壊れているのか見当たらず、隣の部屋と続きになってしまっている。その突き当りにベランダへ出るための大きなサッシ窓が見えているが、目張りがされているのでまだ開けてはいない。


「まずは、消毒から始めるぞ。そっちの――」


 部屋の中のものを全て出し、大型の機材を運び込んで部屋の消臭作業を始める。クロスや床などの大工工事は俺達のする事じゃない。それの前段階としてニオイ消しや外せない箇所の掃除をするのが今回の仕事だ。そうしてその作業を専門の奴らが始めると、俺は外に積まれた家具から書類なんかの確認作業に混ざることにした。


「……そう言えば、今回の依頼、ここの住人じゃなくて、このマンションの管理会社からでしたっけ?」


 家具を漁りながら、ふと湧いた疑問を傍に居た班長に聞いてみる。


「あぁ、何でもここに住んでた住人は、病院で亡くなったらしい。身寄りもなく、独居老人ってやつだ。……で、管理会社が片付けに来たらこの有様で、とてもじゃないが手に負えないって事でこっちに仕事として回ってきたんだ。最近、そう言うの増えてきているからな」


 ……独居老人の孤独死。都市部にそれは顕著に多いと聞く。最近テレビでも聞いたことが有る。子供や孫に看取られることもなく、そもそも子供自体がいない独身者など。そんな人達が、生活に便利な都会で誰に知られることもなく、たった独りで静かに消えていく……。何十年と生きて、様々な経験や色んな思い出を作ったのにも関わらず、誰に知られるわけでもなく、ひっそりと。そして、こんなゴミとして処理する様に片付けられていくのか……。





 ――どうしてそんな勝手が許されると思って居るのよ! 嫌よ!




 その言葉を聞いたのは、何時だ? 心の奥底の一番深い場所に沈めていたはずなのに……。どうして今更思い出す? それにあそこには優希が、優希が一緒に。




 ――右眼球破裂……口唇部裂傷……よくもまぁ、死ななかったもんだ。



 ……そうだ! 弟は大怪我をしたんだ! それが切っ掛けでアイツが現れて……。優希は今どうしているんだ? 何故、あの時すぐに俺は……。


 ――あぁ、そうだった。優希の父親と俺の親父は違うんだった。アイツの父親はアイツが産まれてすぐ事故で死んだんだ……。母はヤクザのチンピラだった親父に捨てられて、ずっと支えてくれてたその人と結婚してすぐに俺を産んだ。……お人好しなのか優しいのか。記憶に残ってはいないけれど、優希はそんな男の正真正銘の息子だ。それを知ったのは中学に入ってすぐだ。


「――い、貴島! おい!」

「……え?! はい!」

「いや、どうしたんだ急に。顔色悪いぞ、臭いにやられたのか? 少し休んでいいぞ」


 俺の顔を覗き込んだ班長が、心配そうな顔でそう言ってくる。……突然昔の事を思い出したとも言えず「すみません」と応えて、少し現場を離れてマンションの通路で手摺に凭れて息を吐く。



 ……あの刑事だ。死んだ優希の父親の友人だった、あの刑事なら、二人の今を知っているはずだ。



 ――中学に入ってすぐ、街でいざこざを起こして補導された時、面談で俺に説教しに来た、あの刑事が俺に教えてくれたんだ。


『……お前の弟、優希君は俺の親友の子供だ。お前のことも我が子として同じ様に育てると言っていたのに……実の父親に似やがって――』


 正直、ムカついた。そんなの関係ねぇ! と言いたかった。だけど……。実際はソイツの言う通りだった。泣きながら説教してくるソイツに嫌悪感しか抱かなかったが、よくよく考えてみれば、あれは、俺を嫌って言ってたんじゃなく、本気で更生させたかったのだと、歳を取ってから気が付いた。俺が街で暴れるたびに補導し、時には警察署内にある柔道場で何度もしごかれた。 


「……名前は、確か……しの……篠ざ、き? いや、篠山……」


 15年以上も前の事だ、そう簡単に名前が出てくるわけもなく。頭の中でグルグル思い返していると、もう一人の刑事の名を思い出した。「渡辺剛」それは俺の親父が死んだ時、霊安室で出会ったマル暴の刑事。あの人の連絡先なら分かる。あの時貰った名刺は何故か捨てられず、今も財布に入っていたから……。



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