万華鏡

朱珠

第1話

 朦朧とする意識の中で誰かの話し声が聞こえる。


「この子は儂が預かろう」


 奇跡でも目の当たりにしたような顔で僕のことを抱きあげた。

 お爺さん、そんな顔されたら僕はどんな顔すればいいんだい。


 何も言い出せないまま、僕は知らないお爺さんにひきとられた。


 お爺さんは僕のためになんでもしてくれた。つまらなそうにしていれば本を読んで聞かせてくれたし、お菓子を買って帰ってきてくれることもあった。


 僕がお爺さんにしてあげられることなんて何もなかった。

 だからお爺さんは僕のことも、僕の名前も知らない。


 名乗る名前を僕は持ち合わせていなかったのだ。だからお爺さんはおい、お前さん、なんて呼び方をしていた。


 お爺さんの名前も僕は知らなかったし、そっちの方が都合が良かった。


 僕はお爺さんにひきとられる前になにをしていたのだろう。

 あのとき周りにはたくさん人がいて、すすり泣く声や、怒鳴り声、焦った声、たんたんと告げる声、感情が入り乱れていた。


 辺りには盛りあがったブルーシート、破損した車のパーツが転がっていた。


「お爺さんと会ったとこに行きたい」

「ああ、いいよ。だがその前に昼食をとるとしよう」


 僕がお爺さんに自分の意見を言ったのはこれが初めてだった。お爺さんはいつもと変わらない様子でそう言って椅子から腰をあげた。


 昼食をとったあと、お爺さんの後ろをついて歩き、あの場所に帰ってきた。


 ブルーシートは消えて、花がたくさん添えられていた。

 多分そういうことだろう。


「辛かったら、泣いてもいいんだよ」


 お爺さんは言った。僕は問うた。理解ができなかったから。


「なんで僕が辛いの?」


 だって僕は生きてる。助かったのなら、なにも失ってない。

 それどころかこんなにもお爺さんによくしてもらってる。


「ああ、いいや、いいんだ。お前さんはそのままでいいんだよ」


 聞きたかった答えは返ってこなかった。理由は簡単だ。

 お爺さんは僕に答えを知って欲しくなかったからだ。


 お爺さんと暮らし始めて数年が経った。お爺さんは病気を患ってベッドの上で過ごす時間が増えた。


 口数もずっと減って、最近はすっと消えてしまいそうな気すらする。

 夜中に僕は目が覚めた。嫌な夢を見たからだ。


 僕は焦った。焦って走って汗をたっぷり垂らしながらお爺さんの寝室に向かった。ぽたぽたと木製の床に水滴が落ちた。


「どうしたんだい? 眠れないのか」

「嫌な夢を見たんだ」

「どんな夢を見たんだい?」

「それはその……っお爺さんがもう目覚めない夢だよ」

「ははは、大丈夫だ。こっちにおいで。今日は久しぶりに一緒に寝よう」


 お爺さんの腕の中で目を閉じた。静かな部屋の中で時計の針の音と、心臓の鼓動だけが聞こえる。安心した僕はそのまま深い眠りへと落ちていった。


 朝の光が射し込んで、徐々に意識が覚醒していく。すると天井からなにか上へと向かっていくモヤのようなものが見えた。


 いつもならお爺さんが先に起きていて、お気に入りの椅子に腰掛けたまま僕の方を見て、おはようと言ってくれるのに。


 今日に限って眠ったままだった。起こそうと考えたが、あまりにも幸せそうな顔で眠っているものだからそのままにして代わりに朝食の支度をした。


 昼になっても起きてこないのでからだを揺すってみた。

 お爺さんのからだは冷たくて、僕はようやくお爺さんが亡くなっているのだと気付いた。


 涙は流さなかった。だってお爺さんはあまりにも幸せそうな顔をして逝ったから。


 それを見送る僕が泣いていたんじゃ、お爺さんは困ってしまうじゃないか。


「辛かったら、泣いてもいいんだよ」


 突然あのときの言葉がフラッシュバックした。途端に隙をついて涙が溢れだした。溢れだしてとまらない。


 何度も拭った。何度拭っても、伝えきれない感謝の代わりに涙は流れ続けた。


 乾燥しだした朝食をかじりながら、お爺さんの部屋にあったものを物色した。


 お爺さんが亡くなった今でも僕はお爺さんのことをなにも知らない。お爺さんだって僕のことをなにも知らないんだ。


 赤の他人と変わらないじゃないか、このままじゃ一丁前に泣くことすら変な気がしたから、お爺さんのことをもっと知りたいと思った。


 古いモノクロの写真がでてきた。埃を被っていてずいぶんと昔のものに見える。


 お爺さんの奥さんだろうか。でも部屋に立てかけてあるわけでも大事に保管されてるわけでもなかった。


 捨てたくても捨てられないでいる。といった表現がしっくりくるようなしまい方だ。


 次にお爺さんの部屋で見つけたのは使い古されて黄ばんだノートだった。

 適当な頁を開いた。日付が書いてあり、数十年も昔の日記だとわかった。


 〇△〇×年××日

 おれが愛した女が死んだ。おれにはもうなにも残っていない。彼女がみんなみんな一緒に連れて行ってしまったのだ。しかしおれが本当に失いたくなかったのは彼女ひとりだけだった。


 衝撃的な内容に動揺しつつ、前の数頁を遡る。


 〇△〇×年×△日

 はたらいていた喫茶店で出会った女に恋をした。

 病を患って目が見えないらしい。


 〇△〇×年×〇日

 弟が死んだ。


 〇△〇×年×■日

 姉が死んだ。


 〇△〇×年■×日

 母と父が死んだ。


 たんたんと綴られている展開が急過ぎて理解が追いつかない。

 夢中でめくった次の頁が最初に開いた頁だった。


 〇△〇×年××日

 おれが愛した女が死んだ。おれにはもうなにも残っていない。女がみんなみんな一緒に連れていってしまったのだ。しかしおれが本当に失いたくなかったのは彼女ひとりだけだった。


 今度はその文よりも先を読み進めていくことにした。


 〇△〇×年〇×日

 ようやくこころの整理ができてきた。これからこの日記にそれを記そうと思う。


 女と恋に落ちてから、すぐに女はおれの家族たちと仲良くなった。


 暫くして弟が病を患った。

はじめはただの風邪だったのに、病状が次第に酷くなっていった。まちの医者も匙を投げてついに弟が死んでしまった。


 女はおれの弟のことで酷く悩んでいた。話を聞くと、前にも似たようなことがあったのだという。それも一度や二度ではない。


 このままではまた同じような悲劇が起こる。だから距離を置こうと言われた。

 女の話を無視して強引に一緒に居ようと引き留めてしまった。


 今のおれは、このときのおれがどうしてもゆるせない。

 もし、このとき女と別れていたら。そう、いまでも考えてしまう。


 女の忠告ともいえる話をただの偶然と決めつけていた。

 悲劇はすぐに連続した。たった、たったの二日で姉と父と母が死んだのだ。


 おれは後悔した。あれは偶然なんかじゃなかった。

 女は自分の責任だと毎晩泣いていた。おれは彼女のせいだと確信していた。


 でもそんなこと言えないじゃないか、おれが呼びとめたんだから。

 たしかに混在する疑心と怒り、それはだれに対するものだったのか。


 女の気持ちすらも理解してあげられなかった。おれの愚かさは簡単に償えるものではない。


 おれの体調はどんどん悪化し、からだに力が入らくなっていた。

 ついにおれの番が来たか。そう覚悟していた。


 それとはべつに治ることのないと言われた女の目に回復の兆しが見えだしたのだ。

 女が初めて目にしたおれはひどくやつれて見るに堪えない姿をしていた。


 そんな奇跡にでも縋らないと立ち直ることなんてできないと思った。だから無理に繕った笑みで女を祝福した。女は乾いた笑みで愛想笑いを返すのみだった。


 次の日女はナイフを持っておれの部屋に入ってくると、自らの腹にそれを突き立てた。

 女は命が尽きるまでに残ったちからで二言だけ言葉をこぼした。


 おれから何かを奪うのはもう耐えられない。


 愛してくれてありがとう。


 ただそれだけだった。


 彼女は死神だ。死神はだれかと一緒には生きられない。だれかを犠牲にしなければ生きられない。


 でもそんなの寂しいじゃないか。おれが死ぬまで一緒に居てやれればよかった。


 やつれたからだや、衰えた筋力は女の死を境にみるみる回復した。


 しかし、女の死はおれのこころに大きな風穴をあけたまま。

 女が残したこの空虚が唯一女と別れても癒えなかった後遺症だ。


 日記はそれで終わっていた。

読み終えた僕は酷い頭痛に襲われていた。


 暫く続いた痛みの後で僕はあの日のことを思いだした。

 乗っていたバスが崖から転落したのだ。

一瞬の悲鳴の後には僕以外に残っているものなんてなかった。


 思いだした。僕に両親はいない。十歳のときに母親が死んだ。


 父親はおれを置いてどこかへ逃げた。行き場もなく、気まぐれで乗ったバスがどこ行きだったのかすら知らない。


 ただ僕が乗り合わせただけで全員を殺した。そういうことなんだよな、お爺さん。


 じゃあなんで。なんでお爺さんは僕をひきとって育ててくれたんだ。きっとお爺さんは僕が日記の女と同じ類だって気付いてたのに。


 僕の勝手な推測だ。間違ってても許してくれ。僕のことを聞かなかったのは僕が僕を思いださないでいる為だ。


 お爺さんが自分の話をしなかったのは、赤の他人であればたとえ死んでも悲しまないでいてくれると思ったからだ。


 僕は知ってる。夜中に何度もお爺さんが僕の部屋を訪れていたことを。


 薄く目をあけると、お爺さんは手を震わせながらナイフを持ち上げては、首を振って部屋を出ていくんだ。


 殺さなければ自分が死ぬとわかっていても、お爺さんは僕と一緒に生きて死ぬことを選んだ。


 残されたお爺さんが必要のない責任感で育てた罪悪が理由なら、過去の過ちを僕で償おうとしたのなら、少しだけ寂しいけれどしょうがない。


 最後に僕が納得できる形でお爺さんのことをわかってあげられたならそれでいい。


 僕は居合わせるだけで人の命を吸って生きてる死神なんだ。だからこれからはひとりで生きていかなくちゃならない。


 これからの辛くて長い人生の中で、何度も挫けそうになるだろう。

 でも寂しくなんかない。


 だって共に過ごした数年間は、火傷するほどあったかい、お爺さんと離れても消えないであろう後遺症だから。

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万華鏡 朱珠 @syushu

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