なんでもないもの
時無紅音
なんでもないもの
1
目を覚ますと、外が暗かった。
スマートフォンで確認すると時刻は午前五時。床に着いたのが午前一時くらいだったから、今日は随分と眠りが浅かったらしい。
熱した牛乳のように一枚膜の張られた頭が二度寝をしろを告げていた。けれど私はそれに逆らって、無理矢理に身体を起こした。
特に意味があったわけではない。思考はぼんやりとしているし、身体も抜けきらない疲労を訴えるように重い。今日は何の予定もないのだから、気の済むまで惰眠を貪ったって構わないのだ。
だからこれは、本当に意味のない行動だった。たまには早起きして手の込んだ朝食でも作り、一日中読書に勤しもうだとか、そんなことを思えるほど私は殊勝な人間ではない。朝食はバナナの一本でも食べれば偉いと思っているし、読書は夜更かしの友だと考えている程度の人間である。
強いて理由をあげるとすれば、眠るのが怖くなったから、だろうか。
今、目を閉じてしまえば、二度と開けられないような、そんな予感。
やはりこれも、意味のない想像だが。健康とはいえないまでも、まだ不健康とも言い難い私の身体は、きっともう一度朝を迎えてくれるだろう。それにどれだけ眠るのを我慢したところで、私の身体はやがて限界を迎え、無意識にでも意識を失ってしまうはずだ。
それでも今は何故か、眠るのが怖かった。
それは死への恐怖なのかもしれないし、幼子の癇癪のような、理性で理解できる類のものではないのかもしれない。
何かをしていないと眠ってしまいそうだったから、ひとまず私はシャワーを浴びることにした。
2
クリームたっぷり生どら焼〜苺わらび餅&桜風味ホイップ〜を食べた。情報が渋滞していると思った。
この季節になると毎年、桜風味とはどんな味なのだろうと思う。これまでの人生で数多の桜風味を食してきたはずなのに、未だ彼の正体は掴めない。
一口頬張ると、もっちりとしたどら焼の食感に紛れて僅かな甘みと塩気、何かは思い出せないけれど確かに覚えのある何かが飛び込んできた。
この季節になると毎年、思い出す味だった。
期間限定の仮面がなければ二度と買わないような代物だが、その仮面がある限り私は来年も桜風味のものを買ってしまうのだろう。特別感には特別弱い、典型的な日本人である。
そういえば昔、桜の花びらを食べたことがあった。小学校低学年、木登りを趣味にしていた時分の話だ。
実家の近所にある、グラウンドも併設された大きな公園。小学校の隣にあったため、放課後のチャイムに合わせてランドセルが砂地に放り出され、絶えず騒がしかったあの公園。四つある入口のうち、もっとも人通りの少ない出入り口の付近には、大きな桜の木があった。
幼少期から人一倍友達の少なかった私は、誰にも見つからないその木の上で暇を潰すことが多々あり、一度だけ興味本位で桜の花びらを口に放り込んだのである。
なにせ昔のことなので詳しくは覚えていないが、すぐに吐き出してしまった記憶があるのできっと酷い味をしていたのだろう。
世の桜風味たちは食べられないようなものではないので、私の味覚が変化したのか、それとも「桜風味」が本来の桜とはほど遠い味なのか。そんなことを考えながら原材料の欄を見ると、そこには「桜葉エキス」と記載されていた。なるほど、どうやら花の味ではないらしい。
桜の葉であれば食用にも流通している。塩漬けされたものであるはずだけど。そこまで思い至って、私が感じた塩気の正体はこれだったのだと得心する。わざわざ塩に漬けてある以上、そうでもしないと食べられないのかもしれない。初めて桜の葉を食べようと考え、その術を見つけた人には頭が下がる。桜は日本の象徴ともいえるものだし、春先には花見で賑わう人を多く見かけるが、よくもまあその桜を食べようと思ったものだ。もしも過去未来含む全ての人類が私と同じ思考であれば、桜は永遠に眺められるだけの存在だっただろう。新たな食物を生み出せるほどの食への探究心は、私には備わっていない。牛や豚の肉を食べることも、ひょっとすればなかったかもしれない。私が私の意思で食べるものなど、人間に高度な知能が備わる前からずっと食べてきた木の実くらいのものだろう。私の身体はそれほどまでに食への執着が薄い。ご飯を食べ忘れる日など頻繁にあるし、不健康だと理解はしているけれどゼリー飲料だけで済ませる日だってある。おかげで体調を崩すことも多いけれど。薄いのは、どちらかというと生への執着かもしらなかった。
そんなことを考えていると、部屋の中になんとも間抜けな音が響いた。震源は私の中である。そういえば、今日もこのどら焼き以外何も食べていない。すでに日は沈みきっているというのに。
空腹には非常に鈍感な私だが、生物である以上、生き続けるためには食事をしなければならない。どら焼きによって胃が目を覚ましたのか、今まで気づかなかった空腹が襲ってきた。身体の真ん中に大きな穴が空いているかのようなその違和感は、瞬く間に身体の隅々まで広がっていく。
久々に感じるその穴は、紛れもなく私が生きている証拠だった。
私は冷蔵庫に冷気以外が詰まっていないことを確認してから、一つため息をついて、スーパーへと出かけた。
3
午前一時の町は、煩いほどに静寂だった。
普段から、眠れそうにない夜は散歩をすることが多い。この町に住み始めて一年になるけれど、それまでの十八年を過ごした街の夜は街灯と違法改造バイクで溢れていたから、この暗闇には未だ慣れない。
この町における灯りらしい灯りといえば、何年か前の、下手をすれば何千年も前の光を届けてくれる恒星くらいのもので、今日は分厚い雲が空を覆っているからそれすらもなかった。
どこまでも続いている、或いは一寸先すら存在しない暗闇が、そこにはあった。
ふと、この町は私の心の中だと思った。
煩くて、静かで、暗くて、広くて、狭くて、私だけの世界なのだと、思った。
そこには、誰もいない。私だけの世界には、私以外が存在しない。全てが私で、私が全ての世界。午前一時のこの町は、まさしくそういう空間だった。
そういえば『ドラえもん』にそんな話があった。消したい人間を思い浮かべながらスイッチを押すと、その人の存在がまるまる消えてしまうとか、そんな感じだった気がする。
最終的にのび太は自分以外の全人類を消してしまい、酷く後悔をしていたところで道具の効き目が切れ、現れたドラえもんにこれは独裁者を懲らしめるための道具だと説明されるのだ。
素晴らしく教育的なお話だが、あの話は自分の中に他者が存在することを前提として進行している。
私は、私以外の全人類がいなくなることで後悔できる人間だろうか。
きっと、その世界は退屈だと思う。存在ごと、世界中の記録や記憶ごと消してしまうから、小説などの娯楽も総じて消えてしまうのだろう。テレビもやっていないし、Twitterをしたって誰からの反応もない。誰かに反応できることもない。そもそも食べるものもなくなるから、明日からの生活もままならない。
同時に、その世界はどこまでも平和だろうなとも思った。一人では、誰と争うこともできないのだから。戦争から口喧嘩まで、大も小も全ての争いが一人の世界には存在しない。存在できない。人類と引き替えに、その世界には終わりなき平和が広がっているはずだ。
私はその世界を後悔できないと思う。どれだけ退屈でも、私は平和を選ぶ。人類がいない、私だけの世界を選ぶ。
私はこれまで、そうやって私だけの世界を築いてきた。友人も恋人も、誰も介入することができない私だけの世界。他の人間がいないと生きていけない己の脆さを自覚しながら、誰も超えることのできない壁が、常にそこにあった。
脳の融点を越えるほどのキスをして、どちらがどちらか判別がつかないくらいに混ざり解け合ってしまえば、或いは私も人間を名乗れたのかもしれない。
けれど、私は誰かの手を取ることすらできない。
なんでもない日に、なんでもないことを話せる人がいない。
煩さも、静かさも、暗さも、広さも、狭さも、全ては私だけのために作られたものだ。鼓膜を揺らすのは、いつだって自分の内側から聞こえてくる鼓動の音だけだ。
私はずっと、私だけの世界を生きているのだ。
4
私は夜が好きだ。
静かで、冷たくて、誰もいない私だけの世界。
けれど、偶に夜が怖くなる。
静かで、冷たくて、私以外誰もいないから。
私はどうしようもなく一人で、紛れもなく一人で、救いようがないほどに一人だ。布団を被っても、抱き枕を潰れるほど抱きしめても、逃げられない、埋められない穴がそこにはある。
穴が現れるのはいつだって突然だ。例えば嫌なことしかなかった日。例えば嬉しいことしかなかった日。どんな日でも、穴は気がつけば空いている。そして気がつけば、私は穴の中にいるのだ。
這い上がろうと手を伸ばすけれど、平均よりもかなり小さい私の背丈では、先ほどまで立っていた地面に手が届かない。何度も飛び跳ねているうちに、やっと指先だけ引っかかって、そのまま何時間、何日、何週間、何ヶ月にも渡って自分の体重を支え続け、ようやく穴から出られる日がくる。
もう二度と落ちないように、急いでその穴から遠ざかるけれど、穴はそのうちまた私の前に現れる。
その穴の埋め方を、私は知らないままでいる。
知る日がないことだけは、知っている。
けれど同時に、落ちない方法も知っているはずなのだ。
この穴は、私の心なのだから。
心を消してしまえば、穴はなくなり、落ちる日なんて来ないはずなのだ。
それでも穴に落ちてしまうのは、私が弱いからだと言わざるを得ない。
私は私が変わってしまうのを、ずっと怖がっているのだ。心をなくした私は、私だと言えるのか。それは死と同義ではないのか。
私だけの冷たい部屋で、画面のひび割れたスマートフォンを見つめる。充電が切れてしまっているから、そこに写っているのは私の顔だ。二つの目と、鼻と、口。たったそれだけのパーツが、この場において私が私である証明だった。
ベランダに出る。もうじき春だというのに、外気は容赦なく体温を奪っていく。
空には、プラネタリウムのような星空が広がっていた。何年も何千年も前の光を、今更のように届けてくれている。その光はどこか作り物じみていた。偽物のようだった。そこに彼らは、いないようだった。
星の光とは、往々にしてそういうものだ。膨大な広さを誇る宇宙の中で、彼らの放った光が私の下に届くのは、その距離の分だけ後になる。
だから、彼らは私を照らしてくれる存在であっても、私の観測者にはなり得ない。私が今の彼らを見ることができないように、彼らもまた、今の私を見てはくれない。例え私がどれほど強く光りを放ったところで、彼らに私が届くのは何年も後、何千年も後の話だ。
私が彼らを安心して見ていられるのは、それが理由だった。私に届く彼らの光には、彼らの意思が反映されない。彼らは私を咎めなどしない。ただ、無機質な光を届けてくれるだけの存在だ。
私は暇さえあればこうして夜空を眺めている。何時間でもずっと、眺めている。
今日もまた、眠れない夜が過ぎていく。
5
何を食べても「美味しい」と感じなくなったのはいつからだったか。
味は分かる。濃いとか、薄いとか、塩気が強いとか、甘さも辛さも、それらをかぎ分ける術なら私は持っている。
味気がないだけなのだ。昔は確かに美味しいと思っていた店の料理も、気がつけばそこに味があるだけで、大して美味しくはない。けれど味が変わっていないことは分かる。美味しいと感じられないのが、料理ではなく私側の問題であることは明らかだった。
もっとも、美味しい美味しくないは食事において重要ではない。いや重要なのかもしれないが、美味しかろうが不味かろうが、それはそれとして食事をする分には困りはしない。食事とは、本来嗜好品ではなく、栄養を補給するためのものだ。人間の先祖はすでに食い荒らされた動物の骨を割り、骨髄を食べることで生きてきたのだし、衛生面や味は二の次であるべきなのだ。
であれば、食事において味を優先しなくてもいい私は誰よりも人間らしいと言えるだろう。もっとも私の食生活は栄養バランスとはかけ離れたものだけど。レトルトカレーとカップ麺は人類史に残る偉大な発明である。手間もかからないし、腹にも貯まる。ありがとう人類。
私に足りないのは食への探求心ではなく、食への関心かもしれなかった。
レトルトやカップ麺、お菓子ばかりの生活では恐らく近いうちに身体を壊してしまう。それを理解しつつも、私はこの生活をやめられないでいた。
それは私が怠惰に染まっているからでもあるし、色々と悩みの尽きない世の中で、食事くらいは簡潔に済ませたいという思いからでもある。
ようするに、面倒くさいのであった。
しかしこの生活を続けることで困るのは、せいぜい私くらいのものである。私の身体が思うように動かなくなったとしても、全ては自業自得なのだから。
だから私は、きっと明日も似たような生活を続けてしまうのだろう。
6
私は誰かによって作られた人間だ。
生物学的な意味で言えば両親の営みによるものだが、私の全てが両親でできているかといえば、それはノーである。
私はこれまで私が出会ってきたもの全てによって作られている。
例えば親兄弟。
例えば学校の先生。
例えば同級生たち。
例えば数多の作家たち。
見て、触れて、知ったもの全てによって、私は私という形を作り上げてきた。
では私が誰かの形成に少しでも関わったかというと、それには否定的な答えを返すしかない。
私は両親によって作られたが、両親は私が作られる前からその形を持っている。
私は兄弟によって作られたが、兄弟は私が作られる前からその形を持っている。
私は学校の先生によって作られたが、学校の先生は私が作られる前からその形を持っている。
私を作った全ては、私がいなかったとしても、彼ら彼女らとしてその形で存在しうるものなのだ。
私は誰も作ることができない。私は誰かになることもできない。
私は、誰かの神様になりたかったのだろう。
私は、誰かの最初で最後になりたかったのだろう。
私は、誰かの全てになりたかったのだろう。
だから私は、全ての生物にとって無価値な存在なのだ。
ずっと前から、生まれた時から、存在してしまった時から、私はなんでもないものでしかなかった。
7
死にたくなったのに、大した理由はなかった。
朝、目を覚まして、何をするでもなく何時間も天井の模様と睨めっこをしていたときに、ふと、思い立ったのだ。
人生は緩やかな自殺だ。私たちは、ずっと死ぬために生きている。全ては死へと帰結するのだ。
そこにどれほどの過程が詰め込まれるかだけの違いで、最後に出る答えはどんな人でも例外なく、死である。
高校生の時、数学が得意になったきっかけである、教師の言葉を思い出す。
「どれだけ複雑な計算をしても、方法が正しい限り必ず答えは一致する」
この言葉を受けて、私は教科書には乗らない解き方や、公式を使わない方法など、様々な答えの求め方を模索し、以来数学のテストは向かうところ敵なしの状態になったという自慢話は置いておいて、私たちが人間である以上、私たちが人間のあり方を歪めない限り、私たちは必ず死へとたどり着く。
生まれてすぐ、呼吸ができなくて死ぬ人がいる。
三歳の時、遊具から転落して死ぬ人がいる。
十歳の時、道路に飛び出たボールを追いかけて車に轢かれ、死ぬ人がいる。
二十歳の時、覚えたての酒に溺れ、内蔵を悪くして死ぬ人がいる。
五十歳のとき、持病が悪化して死ぬ人がいる。
百歳の時、家族に見守られながら、身体の耐久年数を迎えて死ぬ人がいる。
どんな過程があったとしても、私たちがたどり着く答えは同じなのだ。
であれば、どんな過程がなかったとしても、私たちがたどり着く答えは、やはり同じである。
今日、満足がいくまで眠ったとしても、眠い目をこすって起きたとしても。食事をしたとしても、しなかったとしても。恋人と出かけたとしても、友人の一人もいなかったとしても。
私たちは、いついかなる時も、少しずつ死へと向かっていく。
今日死んだとしても、一ヶ月後に死んだとしても、一年後に死んだとしても、寿命まで生き続けたとしても、全ては同じことなのだ。
だから、死のうと思った。
なんとも陳腐な話だが、それだけのことだった。
幸いなことに、現代は死ぬ手段に困らない。台所には包丁があるし、私が住んでいるマンションは七階建てだ。ホームセンターだって近くにある。外を歩けば無数の鉄塊が猛スピードで走っている。浴槽だって、水を溜めれば私を殺すことができるだろう。
どんな死に方をしたとしても、どこかの誰かに迷惑はかかるだろうが、これは私が人類にかける最後の迷惑なのだから赦してほしいものだ。
さて、どうやって死ぬのがいいだろう。できるだけ痛いのがいい。私は痛みを受けるのが好きだ。痛みは感情ではなく感覚だから。そこに身体があることで始めて受けることができる、私が生きている証だから。どうせなら最期くらい、目一杯生きてから死にたい。
──そこまで考えて、やめた。
単純に、死ぬのが面倒になったのだ。
生きるのにエネルギーが必要な分、死ぬのにも相当なエネルギーが必要とする。死ぬための準備というのは、旅行前に似た面倒くささがあった。まだ読んでいない本もたくさんあるし、今まで生活費を切り詰めて買ったこれらを読んでからでなければ気持ちよくは死ねない。来月には好きな作家の新刊も出る。冷蔵庫の食品だって使いきらなければもったいないし、今日は死ぬための準備が整っていない。
死ぬのはまた今度、これらを全て消費してからにしよう。
たったそれだけのことで、私は自分の死すら取り消すことができた。スマホのガラスよりも薄い程度の命を、今日も保つことができた。
それがよほど可笑しかったのか、黒い手鏡に写る私は薄い笑みを浮かべていた。
いつか死ぬ日まで、またゆっくりと過程を積み上げていこう。
私は今日も、緩やかに死んでいく。
なんでもないもの 時無紅音 @ninnjinn1004
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