トリトンの磯笛

そうざ

Breathing Method like the Whistling at Triton

 夜空は闇と同義だった。地球から望む月よりも幾らか大きく映る海王星だけが、写真撮影用暗視スコープの中で僅かに自己主張をしている。

「やっぱりここに居たのね」

 声を掛けて来たのは、探査団唯一の女性研究者だった。お互い無線越しのざらついた声やフェイスシールド越しの青白い顔にもすっかり慣れている。

 僕達は今、水や窒素、アンモニアやメタンで形作られた荒涼な氷原に佇んでいる。

「出発までまだあるんでしょう?」

「えぇ、にお別れを言うくらいの時間はね」

 視線を移したおよそ3マイル先、氷面から姿を現した〔AMAアマ〕のシルエットがスコープ越しにぼんやりと見える。氷の下に海が存在する事は、今回の調査で判明したばかりだ。

〔Aquatic Mysterious Animal=水生の神秘的な動物〕――名付け親は僕だが、今は不用意に名付けるのではなかったと後悔している。人は名付けたそれに愛着を抱いてしまうからだ。


 ヒューイッ……。


 風のうねりに混じって断続期に音色が聴こえて来る。増幅型集音器を用いて抽出しなければ、判別は難しい。

「相変わらず人を感傷的センチメンタルにさせる音ね」

 地表温度が華氏マイナス400度に近いこの過酷な環境に生命が棲息し得るのならば、あの音色は鳴き声ではないのだろうか。

 この宇宙全体に共通する感覚があり、そこに『切なさ』が含有されているとしたら、この闇の何処いずこかに、僕達に共鳴してくれる存在が居るかも知れない。


 僕の家系は代々写真家を生業にしている。始祖は小さな町で写真館を営んでいたらしい。その後、報道写真、商業写真、ピンナップを専門にする者等、携わり方は様々あれど、僕の代に至り、遂にその被写体を地球外に求めるようになった。

 と言っても、ほぼ無名の写真家が私財を投じたところで、月への片道切符が関の山だ。そこで僕は国際学術研究探査団の記録撮影要員に名乗りを上げ、その業務の傍ら今回のテーマに据えた氷火山アイス・ヴォルケーノの撮影を行う機会を得たのだった。

 木星の衛星エウロパやガニメデを皮切りに、土星の衛星エンケラドゥス、タイタン、天王星の衛星ミランダを巡り、そして今、海王星最大の衛星トリトンでの撮影を無事に終える事が出来た。

 探査団の成果は上々だった。僕の成果も先ず先ずだった。

 その最中、僕は宇宙開発史に燦然と輝くであろう出会いを果たしてしまった。

 研究者が言う。

「トリトンは元々カイパーベルトの二重惑星だったという説が有力だけど……」

「カイパーベルト?」

「短周期彗星の供給源にもなっている星周円盤の事よ」

「二重惑星は?」

「互いの周囲をくるくると回る二つの星の事ね」

「それは、つまり……」

「海王星は二重惑星の一方、トリトンだけを掴まえて自らの衛星にしてしまったって事」

「それじゃ、には仲間や兄弟や、恋人が居たかも知れないのか……」

「彼女?」

「望郷、鎮魂、恋慕の鳴き声……」

「写真家って、皆そんなに夢想家ロマンティックなの?」


 ヒューイッ……。


 そう言えば、何代か前の先祖が残した作品に、海に生きる女達に肉迫した写真集があった。先細る文化を活写した貴重な仕事は、出世作にして唯一の代表作になったと聞いている。

 モノクロ写真にも拘わらず、空のあおや海のあお、そして女達の日に焼けた肌の色までが生き生きと再現されていて、自分もいつかこんな仕事が出来ればと奮い立ったものだ。

 写真集のタイトルは『磯笛いそぶえ』だった。その字面じづらはずっと頭の片隅にあるのに、忙しさにかまけて未だその意味を解さない僕が居る。

「そろそろタイムオーバーよ。撮影しておかなくて良いの?」

「僕は動物写真家じゃないから」

「そうね……証拠写真なんて無粋ね」

 研究者の口調には柔らかな笑みが含まれていた。


 ヒューイッ……。


 予定通り、探査団は次の調査地である冥王星の衛星カロンへ向けて出立した。

「皆に黙っていてくれてありがとう」

「どうせ誰も信じはしないわ……私も含めてね」

 遠ざかる広大な極冠に、暗い縞模様が幾筋も見える。氷火山が間欠泉のように吐き出した塵の跡だ。そこにはもう〔AMA〕――いやの影はなかった。

 トリトンは自らの潮汐力に依って海王星との関係に狂いを生じさせ、やがて消滅する運命だという。

 僕の脳裏でまた磯笛が切なく鳴いた。

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