開戦前夜〈6〉
月が昇り始め、城内の人の動きも疎らになってくる時間帯。
ラグナルスは城内のある一室を訪れていた。
木戸へ拳を軽く三度打ち付けると、内からのか細い女の声が入室を許可する。
「こんばんは兄様。今日も今日とてこの貴重な時を待ち侘びておりました」
「昨日も、一昨日も会っているではないか。」
「ならば私は、日頃から黄金を手にする幸せ者に違いありません」
「それを言うならば、私こそお前から黄金にも勝るとも劣らぬ逸品を頂いている」
少しの調度品と、大量の書物が置かれた部屋の奥。
寝床から軽く身を起こしたのは背丈の小さい少女であった。名をアデライザといい、齢は十一。
ラグナルスの現在唯一の兄妹である。
ラグナルスは近くの椅子に適当に腰掛けると、伴のいない様子を見るとため息をつく。
「…従士はどうした?」
「今晩は早めに戻らせました。大祭司テウドニア帝国による尋問が近くあると聞きましたので。我等の権威が何処に由来するのか。考える暇は必要でしょう」
「………?」
アデライザは病弱の身。
大事があっては大変であると父侯は娘に側仕えを置いているのだが、居ないとあっては心配もするもの。
そうした心遣いからの問いかけであったが、妹は自身の浅慮からではないと、修辞で覆い被せた釈明をする。
ラグナルスは妹が状況から戦さごとについて述べているのは理解したものの、その修辞を理解できずに頭を悩ませる。
帝国留学の折に神学関連の著名なものは全て読み漁り暗記したが、中々頭の奥から引っ張り出せなかった。
「兄様、『使徒言行録』です」
「…!あぁ成程。そうだな…我々は人に従うよりかは神に従う身。ましてや大聖座を邪険に扱うテウドニアの
「100点満点中70点と言った所です。少し反応が遅れたのが減点対象ですね」
全く敵わないな、とラグナルスは手で自身の縮れた髪を更にくしゃくしゃにする。
お互いに物心ついた時から顔を合わせるたびに行っている神学的修辞の問答は、今日も良い成果を出せずに終わった。
兄としては教えを乞うためにやってもらっているが、未だ殆ど満足のいく回答を出せないのは歯痒い気持ちであった。
「ですが今述べたのは高位の
「私だってお前や父上に追いつきたい一心で帝国にて励んでいたのだ。少しも進歩が無ければ悲しくなる」
ラグナルスの達観したかのような物言いを聞いたアデライザは枝のように細い腕を自身の胸に当てる。
そして神妙な面持ちで冷たい息を吐くように小さく、だがはっきりと言った。
「兄様には私にも父上にも無い長所、万人に対する美徳があります」
「…だがそれしか無いのだ。私にはお前のような聖職者をも唸らせる学識の深さも、父上のような文武達者でもない。美徳というのは誰もが心に決めれば持ちうるものだ」
アデライザは突如として寝床から身を起こし立ち上がる。
病的なまでに白い肌と色素が落ち切ったような白髪は、身体があまり健康的で無いことを誰の目にも明らかにさせる。
だがそうした身体的特徴は彼女の持つ清廉さと美貌を汚すものでは無い。寧ろ儚げな雰囲気を感じさせる一つのアクセントとして機能している。
「その『心に決める』というのが難しいのです。私とて日頃よりお世話になっている侯国の民や従士の皆様には優しさを自然と振りまけましょう。ですが遍く全ての人々にそうした行いは出来ません」
「…教会で神に仕えている者たちは『人は皆平等である』と伝えている」
「彼らでさえ、奴隷や
そうかもしれないな、とラグナルスは渋々頷く。
しかしその煮え切らない表情を見て、妹は啖呵を切ったように声を浴びせる。
「私は奴隷を『必要不可欠で代替し得ない』ものであると考え、その存在を肯定しています。兄様はどうですか?」
普段のたおやかな雰囲気から一変した妹の様子は兄を大層驚かせた。
きっとこれも家族として、兄の至らない箇所を叱咤しているのだろう。
そう考えたラグナルスは自身の長く抱き続けていた考えを正直に告げる。
「…私は王国民も帝国民も
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